世界初のコンピュータが軍事目的から誕生したものであり、また現在に続く様々なコンピュータ技術の主なものの多くが軍事的必要性から誕生したものであり、さらにインターネットもそうであることはすでによく知られています。


世界初の電子式コンピュータENIACの開発は1946年だったわけですが、この前年にすでに第二次世界大戦は終了しています。さらにいうなら、申し上げるまでもなく原爆の開発もすでに完了しています。
ではせっかく造ったENIACは無用の長物となってしまったのか?
違います。それは水素爆弾の開発に利用されたのです。原爆よりもはるかに威力が強大な水素爆弾の開発には非常に多くの計算処理が求められ、実際にENIACはそのための処理計算プログラムの実行に活用されました。


全世界を網羅する「インターネット」は、台風や地震による大規模自然災害や、戦争・紛争地帯においても、必要最小限の通信端末とネットワーク設備を利用することによって様々な情報のやり取りが可能な極めて有益な通信手段です。Windows95以降のパソコンの一般への普及と平行してインターネットの民間利用の活発化によって今日では日常的に広く利用されるところです。インターネットの開発当初の研究目的であった「非常時における通信網の確保」という機能は十分に発揮されているといえるでしょう。


ところでインターネットの起源はアメリカの国防総省に設けられた高等研究計画局(ARPA)が1960年代後半に情報通信の研究のために遠隔地にあるコンピュータ同士を相互接続したことが発端とされます。
その後、CSNET(コンピュータ科学研究ネットワーク)と相互接続することによって規模が拡大され、ここに現在に至るインターネットの原型が構築されたといえます。さらに、科学・工学に関する基礎研究および教育を支援する連邦機関NSF(全米科学財団)に吸収されることとなり、それまで別個に存在していたその他のネットワークも次々と接続されていき、結果的に全世界規模のネットワークに成長してきました。


ソ連が1957年、人工衛星を世界で最初に打ち上げ、その「スプートニク」という名称は世界に轟きました。
またこの成功に続いて1961年、宇宙飛行士ガガーリンによる有人宇宙飛行をこれまた世界ではじめて実現したのです。

「すでに核兵器を保有するソ連はこの宇宙ロケット技術と核の小型化技術とを組み合わせることによって、アメリカに対し宇宙からの核攻撃が可能になった!」と、アメリカの国防総省は愕然としました。
1950年のソ連の核実験成功によって、第二次世界大戦当時から米国が独占していた核兵器およびその製造技術をソ連も保有していることが判明した上に、さらに宇宙技術の分野における成功が続いたというわけです。


これらの一連の出来事によって、アメリカは核搭載ロケットもしくは核兵器を搭載した爆撃機が、ソ連から北極圏を越えて自国へ明確な侵略の目的のもとにいつ飛来してくるのか?!という恐怖を実感としてはじめて感じたのです。
さらに1961年、まるで追い討ちをかけるようにユタ州にある複数の電話中継基地がテロリストによって次々と爆破される事件が発生しました。

その結果、5つの州にもまたがる非常に広大な地域において通信機能が麻痺したのです。国の治安を司る軍や警察にとって、通信回線の確保は生命線ともいえます。それが一気に分断され、しばらく使い物にならなくなってしまうという事態に陥ってしまったのです。アメリカ本土の通信機能がこんなにも脆い実態にあるということを身をもって体験することとなり、アメリカはあらためて強い衝撃を受けたといいます。


しかしそれで黙っているアメリカではありません。早速、アメリカ空軍のシンクタンク「RAND研究所」に「大規模核攻撃によっても分断されることのない強力な通信システム」の開発を指示しました。
それから3年、RAND研究所はその指示に従って行われた研究の成果をアメリカ軍当局へ回答しました。それが現在のインターネットの基盤技術となる「分散型通信(パケット通信)」だったのです。
研究の過程はこうでした。従来の電話回線網による通信はすべて交換機に集約される構造であったために、交換機そのものに攻撃が加えられた場合に素早い復旧が難しいということ、つまり一番のウィークポイントになるということが分かった、そうならば回線の結節点となる交換機を使用せずに何らかの方法で通信網を実現しなくてはならない…。そこで出されたアイディアは斬新でした。


アメリカ全土に網の目のように巡らされた電信局間で通信電文を宛先ごとに分類し、最終的な宛先により近接する電信局へと転送。これを目的地にたどり着くまで何度も繰り返すことによって通信が可能となる。
さらに電文が長い場合は誰か一人の通信のためにその他の者の利用が制限されてしまうことになるため、送られる電文をある一定の長さで分割することによって送信すると決定されたのです。まさにここにIPによって定義されている今日のインターネットの基本であるパケット通信の発想が誕生したのです。


しかし現在のインターネットには、このように米軍の研究対象であった時代とは異なり、管理・運営を行う会社などは存在していません。世界中の色々な組織や団体がお互いに協力してこの巨大なコンピュータネットワークを維持しているのです。


ここで少し半導体の過去の歴史を振り返ってみたいと思います。


特に日本が強力な国際競争力を持つに至った半導体産業における日本製LSIの品質の向上とその信頼性の獲得に大きく貢献したとされる歴史的な出来事を一つご紹介しましょう。このエピソードは、極小精密分野における日本人の特性とその努力による成果が遺憾なく発揮された好例だと思うからです。

それは1969年に運用が開始された、電電公社(現:東西NTT)が装備する「電子交換機DEX2計画」です。


DEXとはDendenkosha Electric Exchangeの略で、旧式の機械式クロスバ交換機に取って代わった国産の電子式交換機の略称です。すでに1964年にはDEX1号の開発が行われ、そこで得られた貴重な経験と知識の蓄積をより本格的な電子式交換機DEX2号に活かすこととなったのです。


電話をはじめとする通信回線網というものは現代社会における大動脈であり、それが予告もなく不通となる事態は決してあってはなりません。電話のネットワークが故障によって大規模に不通となる事態に陥ると、現代社会はパニックになってしまうことは容易に想像できます。そういった事態を回避するためには、やはり故障が少なく信頼性の高い交換機を装備して日常のメンテナンスを十分に施す必要があります。


電電公社はその新型交換機DEX2に搭載されるICに対して、入札に参加する各メーカーに対して徹底的な性能要求を行いました。参加メーカーは、日立製作所、三菱電機、富士通、日本電気、東芝という「電電ファミリー」とも呼ばれた大手5社。そこで彼らはDEX2に搭載するCPUに使用するICの試作を行ったのです。
実は高度な信頼性を求める電電公社は参加メーカーに対して、アメリカの国防総省におけるMIL規格(米国防総省規格)やNASA(航空宇宙局)における規格よりもはるかに厳しい過酷な強制劣化試験を課し、その難関をくぐり抜けることを要求したのです。


例えば、高速に回転する遠心力によって強烈なG(重力)が与えられたり、半導体回路を沸騰した湯の中に投入したりという常軌を逸した異常な状態であっても耐え得ることが出来る能力試験が課されたのです。
果ては床に叩きつけられ、ヘリウムガスに晒すなど、考えられる限り過酷な状況が与えられても、それでも何事もないかのように正常に動作し続ける性能…。
当時のNASAの基準では地球重力の7倍のGが設定されていました。これは人間が耐えられる限界とされる基準でしたが、電電公社ではこれを何倍も超過するGを与え続けることによって、世界で最も高度な信頼性を持つICを求めていたのです。


そして参加メーカーは電電公社の要求するそのとんでもない性能のハードルを言後に絶する苦労を重ねて見事にクリアし、プロジェクトは無事完了することとなったのです。
これによって参加各社の試作する日本製LSIの性能と信頼性が急激に向上しました。また、ちょうど同じ時代、日本では国家を挙げての巨大プロジェクトがいくつも進行しており、例えば新幹線の自動運行システム、列車の座席予約システムなどが次々と実現していくこととなるのです。


今日の日本の超高度に発展した最先端半導体技術は決して一朝一夕に手に入れたものではなく、そこにはこのような各メーカーの血を吐くような努力の末に達成された事実があったことはいうまでもありません。これは日本経済が急激に息を吹き返した今日、決して忘れてはならない事実です。


現在もそうであるように、アメリカは当時東南アジアに半導体製造の組み立て工場を本国から次々と移転していました。現地では低賃金であり、なおかつ世界最大の消費国日本にも至近であるという大きな理由があったからです。量産化に成功し、そのためにLSIの価格はあっというまに下落していきました。また同時に日本のLSIメーカーはこの事態に恐怖しました。つまり、近代産業のコメとまで言われるLSIが突然まったく利益の出せない商品に転じてしまったからです。


しかし天は日本を見放しませんでした。
東南アジアで製造されたアメリカ製ICは、確かに価格は下げることができましたが、反面、現地においてQCの意識を徹底することができずに品質が大幅に下落することとなり、さらに大量の不良品を出荷してしまうという失態が連発することによって、その信頼性が一気に失われてしまったのです。


この事態は、先のDEX2開発によって高度な信頼性を備えることを達成した日本のLSIは、ここぞとばかりに一気に電卓を中心として市場を席巻し、それまでアメリカが持っていた市場を瞬く間に奪還する契機となったのです。
また同時に安価な東南アジア製ICに対抗するために、それまで人手に頼っていた半導体製造のほとんど全ての自動化を急激に推し進め、結果的に当時で50倍以上もの生産性の向上を実現したといいます。そしてその後は価格に勝り、飛躍的に性能が向上した日本製ICが全世界を長く席巻する時代が続きました。


このエピソードは、谷底へ叩き落とされたような逆境を転じて大いに飛躍するきっかけを掴むことのできる日本人の持つ真面目さと勤勉さ、精緻な技術に長けた国民性の成果の典型例だといえます。


現在社会ではありとあらゆる機器や場所でコンピュータが組み込まれて利用され、それを使う私たちが好むと好まざるとにかかわらず日常の生活のなかで深い係わり合いを持っています。

これらのコンピュータはそれぞれ異なる用途や目的として作られていることから、当然その仕様は機器ごとに大きく異なっています。そして同時にその操作方法もまったく異なり、それぞれが持つ優れた点を単体でしか活かせないという状態にあります。
しかし、今後もますます大きな進展を続けることが予想されるコンピュータの未来に対して、このままそれらの機器をずっと異なる仕様として放置していいのか、という考えが坂村氏にありました。


あらゆる用途に利用されているコンピュータを一定の標準的な仕様を策定することによって、これらをうまく連携動作させることができれば、機器ごとの特性を活かした相乗効果によって格段に便利な機能を利用者である人間に提供することができるようになるのではないか?

それこそがより理想的な未来の電脳社会=「どこでもコンピュータ」の描く未来像であり、「どこでもコンピュータ」を実現するために不可欠な要素であると考えたのです。
これまでには家電製品を中心に様々な機器を連携させようという考え方がいくつも生まれ、また複数の機器を相互にネットワーク化するためのいくつかの技術仕様が策定されてきましたが、広く社会に普及するまでには至っていません。


一方、坂村氏の提示する「どこでもコンピュータ」は家電製品に限定するものではなく、私たちの日常生活を取り巻くあらゆる機器、設備、道具にマイクロコンピュータが内蔵されると予想し、さらにパソコンや組み込み機器にすら留まることなく、「物理的に存在するあらゆる『モノ』や、あらゆる『場所(道路や建物など)』」に現代科学における最先端技術の結晶である超小型マイクロプロセッサを埋め込み、それらを有機的に連携動作させることによって実現する未来社会を想定している点で大きく異なります。


TRONプロジェクトの初期段階においては、当時いよいよ普及してきた産業機械や産業用ロボットの制御用として組み込みOSを開発するプロジェクトであると残念ながら坂村氏の意に反して世間では受けとめられていました。
しかしその後、機器組み込み用OS仕様のITRON、人間とコンピュータとのインタフェース(HMI)を研究対象とするBTRON、サーバ用OS仕様であるCTRONに加えて、それらを統括的にコントロールするための分散制御システムであるMTRONという、当時「I・C・B・M」と総称されたそれぞれのTRONからなるシリーズ化の概念であることが知られるようになり、実はTRONプロジェクトとはそれまでのコンピュータの全体系をまったく新たな概念をもって根本から作り直す巨大プロジェクトであることが明らかになったのです。


とくにTRONの大きな特長は、それまでのコンピュータではコンピュータにとって外部である私たちの現実世界=外界世界と、コンピュータ内部の仮想世界とが隔絶していたことに鑑み、この両者のかかわりを重視して設計がなされていることです。

そのために次々刻々と変化する外界世界の情報に対して、コンピュータがリアルタイム(即時)に反応するための仕組みをすべてのTRONに共通する要素として備えることを基本とした体系として構築されました。


こういった経緯から、TRONプロジェクトがかかわることとなるステージは広大であり、必然的に研究の対象となるテーマも膨大なものとなるために、これらを全部まとめてひとくくりにして「TRON」と呼んでしまうとそれぞれが備えている明確な特徴や目的がぼやけてしまって全体が見えなくなってしまうことになりかねません。
そのためにTRONプロジェクトでは、これらの研究対象となるテーマごとに「サブプロジェクト」としてチームを分け、サブプロジェクトごとに独立してそれぞれの目的を達成するために活動を行うこととしたのです。


TRONプロジェクトのスタート(1984年)に先立って、1982年当時、東京大学助手であった坂村氏がまず作ったものはOSの「仕様書」でした。


すでにその時点において坂村氏は、近未来にはありとあらゆる場所でコンピュータが利用される時代の到来を確信していたことから、当時脚光を浴び始めたパソコンのためだけにではなく、様々な形態のコンピュータのすべてに適応できる仕様として作り上げたのです。

そのために、当時業界が抱えていたコンピュータの機種間における互換性の問題や、コンピュータを構成するCPUやメモリの性能などの制約から解放されるための方法論として、それらは「近未来(1990年代)には解決する問題」と仮定し、あくまで理想的なコンピュータとしての仕様を作り上げることに重点を置いたのです。

そして仕様書を無償で公開することを原則とし、プロダクトとしてのOSやそれを使った製品の開発や生産は、仕様書を利用することを希望する各メーカーに委ねました。ここがTRONプロジェクトの原点となります。


そのため勘違いされることがよくあるのですが、TRONプロジェクトはOSそのものを作り出すプロジェクトではないということです。現在でもTRONプロジェクトではコンピュータとそれをとりまく各種の関連技術、そしてOSの「仕様」の研究開発とその策定を行っており、生み出され続ける成果は「仕様書」として全世界に無償で公開され、その仕様に基づく製品をつくることを誰に対しても広く認めているのです。


優れた性能と画期的なシステム構成によって汎用コンピュータの一時代を築き上げた「システム360」は坂村氏のTRONプロジェクトの発想の原点のルーツでもあります。

そしてこのシステム360に関連する日米のコンピュータ摩擦が、後にTRONプロジェクトを大きく揺るがす大事件へと発展していくこととなるのです。


日本の政府機関や大企業において大型コンピュータの本格的な導入が進んだのは1960年代後半から1970年代にかけてでしたが、その直接のきっかけとなりその後の大型コンピュータの標準仕様ともなった名機が、1964年に米IBM社が発表した「システム360(System/360)」です。

バランスの取れた機能と優れた性能、さらに小さなシステムから大きなシステムへと段階的に規模を拡張できる発展可能なシリーズ構成とともに、世界ではじめてアーキテクチャと実装を明確に区別するコンピュータとして登場し、あっという間にそれまで大型コンピュータを駆逐するほどの勢いで世界中に普及していきました。


「アーキテクチャと実装を明確に区別する」ことのメリットは、今となってはあまりに当たり前のことですが、要するに1台のコンピュータに様々なソフトウェアを入れ替える事によって、多様な業務に対応できる能力があるという意味です。


実はシステム360以前のコンピュータは、基本的に特定業務専用のコンピュータとして設計・製造されており、複数の用途に対応できるものではありませんでした。
そのためにこのシステム360の命名に当たっては「360度、つまり円を一周するように、オールラウンドな業務にも対応が可能」ということから名づけられています。それだからこそ、このシステム360が世界初の「汎用」コンピュータとも呼ばれるのです。


システム360は米IBM社が巨費を投じて開発した、まさに社運をかけたプロジェクトでしたが結果として大成功を収め、1960年代後半にはアメリカの大型コンピュータの70%以上のシェアを米IBM社が確保し、コンピュータ界の巨大メーカーへと一気に飛躍する契機ともなったのです。


その後の世界市場では、「PCM(Plug Compatible Machine)」と呼ばれるこの米IBM社のシステム360と同等のアーキテクチャを持つコンピュータ(互換機)が溢れかえることになりました。

資本力をもつメーカーはこぞってこの互換機を製造し、そして世界市場はこの互換機を受け入れるところとなりさらに普及していったのです。またこれは日本国内においても同じ状況でした。


もちろん「互換機」とは純正機に準じた仕様によって同等もしくはそれ以上の性能をもつ別のメーカーが製造した製品のことです。しかしそうすると、互換機を製造する各メーカーは一体どこで独自色を出すのかという点が重要となってきます。


機能は同じで、性能面で純正機や他社の互換機に差をつけるという戦略も確かに有効ですが、それよりもっと単純で分かりやすい手段はなんと言っても「価格で勝負」することが効果的です。


つまり設計は米IBM社のシステム360仕様として、製造を日本で行うことによってシステム360と同等の性能と機能を保有した互換機を安価に製造販売する戦略がとられることとなったのです。

そしてこれは決して特定のメーカーが一社で判断したことではなく、当時の日本政府からの徹底した行政指導もあったことから、国家を挙げての経済振興策の一環として実施されました。


そして、この優れた世界初の汎用コンピュータの互換機を製造することに当時の日本のコンピュータ業界が力を注ぎ込んでいたとき、その後に起こる大事件の予兆を感じた人は誰もいなかったのかもしれません。


パーソナルメディア株式会社は、TRONプロジェクトの発足当初よりBTRON仕様OSの開発に携わっており、1991年にはTRONの成果として初めて一般市販されたBTRON仕様のノートパソコン「1B/note」を発売しています。

その後もパソコン向けのBTRON仕様OS「超漢字」のほか、組み込み向けの開発支援ツール「PMC T-Kernel」など、いずれもTRONベースのOSや関連するソフトウェアを自社製品として商品化しているメーカーであり、TRONプロジェクトの成果を活かしたソフトウェアの開発に幅広く取り組んでいます。


さらに唯一のTRON情報専門誌である「TRONWARE」は1990年1月から定期的に刊行されており、現在すでに通算120号に達しています。(2009年12月現在)


またT-Engineの活動の中心となるのはもちろんT-Engineフォーラムですが、T-Engineフォーラムはあくまで標準化団体であり、直接的なビジネスをする団体ではないため、ビジネスベースでのT-Engineの問合せ窓口としての機能もパーソナルメディアが担っており、同時にTRONやT-Engine全般における技術教育や積極的な情報提供を行っていることから、実質的にTRONのポータル的な役割を果たしている企業です。


YRPユビキタスネットワーキング研究所(YRP UNL)は、2002年、身の回りのあらゆる「モノ」や「場所」に通信能力を有するマイクロコンピュータやセンサー、アクチュエータ(作動装置)などが埋め込まれ、それらが相互に情報交換を行いながら協調動作することによって人間生活をより高度にサポートするユビキタス・コンピューティング環境を構築することと、さらにその基盤となる次世代通信プロトコル(規約)を確立することを目的として設立された研究所です。

「モノ」や「場所」に128ビットの識別番号であるucode(ユーコード)を付け、そのucodeを端末で読み取ることによって、モノや場所に関連する様々な情報を表示するユビキタスID技術基盤を研究開発しています。


現在YRPユビキタスネットワーキング研究所では、所長の坂村氏のもと、基盤システム研究室、基盤プロトコル研究室、セキュアネットワーキング研究室が設置され、それぞれの目的のもと研究開発が行われています。


「YRPユビキタスネットワーキング研究所」Webサイト
http://www.ubin.jp/


ユビキタスIDセンターはT-Engineフォーラム内に設置されており、コンピュータが「モノ」や「場所」を自動的に認識するための基盤技術の確立と普及、さらに最終的にはユビキタス・コンピューティングの実現を目標に活動しています。ユビキタスID技術の研究開発・実験・運用、ucodeの構築、ucodeを利用するための基盤技術の確立、ユビキタスID空間の割り当て、ucode解決データベースの運用、eTRON認証局の運用などがその主な活動内容です。


「ubiquitous ID Center」Webサイト
http://www.uidcenter.org/japanese.html