坂村博士がTRONプロジェクトの一環としてTRONチップの開発を始めた際、本来の技術開発以外の部分で非常に無駄な時間を浪費してしまったと慨嘆しています。それは特許の問題に関するものでした。
特許の持つ恐ろしさ、技術開発にまつわるネック、障壁というものに大変手間がかかったといいます。TRONチップはその設計に着手してから2年間、特許のチェック以外に何もすることができなかったといいます。
つまり、完全にオリジナルであるTRONプロジェクトを推進していく以上、仕様を公開するためにすでに先行して開発されているCPUのアーキテクチャを徹底調査し、特許によるライセンスの取得の有無を調べ上げることによって、他社から許諾を得る必要なく製品化を可能としていたのです。
つまりどんな特許があるのかを徹底的に調べるためにそれだけの時間を要し、予想外の時間と手間がかかってしまったとのことです。
あらゆる特許をクリアする必要があるということからそれだけの期間を要したわけですが、もちろんそこには他の開発の場面では見られない特別の原因がありました。
それは、TRONはコンピュータにまつわる既存のものを全否定するところから開始されたものであり、どこかの誰かのアイディアに便乗するだけではそこからは何ら新しいものは生まれないという考えから構築された発想だからなのです。
モノによっては非常にくだらないレベルの技術(とはとても呼べないもの)まで特許を取得し、メーカーや技術者同士がお互いに特許でがんじがらめとなっている状態を坂村博士は非常に憂いていました。
坂村博士はこのことを「電子の壁」と呼んで嘆いています。
コンピュータ技術開発の道のりには、もちろん技術開発の難しさや法律・社会がもつさまざまな障壁があるでしょうが、そこに立ちはだかる大きな壁のひとつがこの特許の壁だったのです。
そしてTRONチップそのものは決してTRON専用のCPUではなく、TRON以外の他のOSも実装できるCPUアーキテクチャとして設計されました。
もちろんその仕様は公開され、どのメーカーであっても公開された仕様に基づいてCPUを製作することが認められており、実際に三菱電機のM32、富士通のF32、日立製作所のH32などが共通のGmicroシリーズとして、さらに松下電器のMN10400、東芝のTLCS-90000/TX(TX1、TX2)、沖電気のO32などもありました。
しかし、TRONプロジェクトに対する外圧によって、各メーカーによる商品化は、結果的に製品段階において普及に至るまでに到達することはありませんでした。
TRONチップは、CISC※アーキテクチャとして設計されながらもすでに汎用命令と別に縮小命令セット(使用頻度の高い固定長の命令群)を装備していたことから、RISC※の特徴も兼ね備えていたのです。
さらにメーカーによってはパイプライン制御※によって高速化を実現したものもあり、かつGUI処理をCPU自身の処理能力に依存する仕様であることからビットマップ転送命令までを備えており、当時としては先進的かつ画期的なマイクロコンピュータであったことは間違いありません。
※CISC(Complex Instruction Set Computer・複合命令セットコンピュータ)
RISCよりも多くの種類の命令と複雑なメモリ管理機構を持ち、1つの命令で高度な処理を実行できるタイプであり、主にパソコンの分野で圧倒的に多く利用。
※パイプライン制御
複数の命令を平行して同時に処理する仕組み。
※RISC(Reduced Instruction Set Computer・縮小命令セットコンピュータ)
厳選した命令を単純化(縮小命令セット)して持ち、やSIMD(Single Instruction Multiple Data・複数のデータを同時に処理できる方式)の採用、多数のレジスタの内蔵など、処理を高速化する技術を盛り込んだタイプで、主に組み込みコンピュータの分野で広く利用。