嘘つきと丘 -4ページ目

トモダチ(05/01/28)

 と聞くとケツメイシの曲を思い出す。リリースされた頃はステレオでMDに録音して何度も何度も聞いていた。懐かしい。
 歌はほれたはれたが多く歌詞もどこかで聞いたようなものが多いので最近は食あたり気味だが、過去の歌はとても素晴らしいと思う。なごり雪、夢の中へ、思い出がいっぱい、チェリー、アメリカ、明日に架ける橋。サイモンとガーファンクルは大好きなのである。

 つい先日は小論文テストで「友達の存在意義」を書いた。わたしは「わたしに興味、関心を持ってくれる時点で、友達は必要不可欠な存在であり、大切である」という訳のわからないことを書いた。いざ書けと言われても正直言葉に詰まる。頭の悪さを無駄に露呈してしまったような気がする。
 学校の近くのファミレスに、久しぶりにマイと連れ添って行った。マイは一年生のときに一緒のクラスになって、妙に馬があってそれから割と気が向けば遊びもするが、かと思えば数ヶ月メールすらしないときもある。棟が分かれているのでマイとはあまり接点がないのだった。
 わたしもマイも性格が似ているのだ。束縛が嫌いで、自由が好きだ。面倒なことが嫌いで、面白いことが好きだ。
 マイは頭がいいくせに専門に行くと言う。面倒くさいのが嫌いな性質だから、勉強するのが嫌になったのか或いは、大学に行くことに意味を見出せなくなったのだろうと思う。マイの母親は小学校で教師をしている。わたしの知らないマイの過去の中で、少なからず勉強を押し付けられたこともあるだろうと思うので、わたしはそれもいいと思う。
 わたしが大学に行きたいと考えるのは歴史(東洋史か国史)に興味があるからだし、今のわたしに自分の両足だけで立てるような職種に就けるとはどうしても思いがたい。幸い両親も大学に行くことは賛同してくれているので、その内また来年の今頃来る受験のために塾にも入らなければならない。頭の悪さの関係で私立に行くのも已む無しだが、それでも出してくれると言ってくれているからご好意に甘えて行ってこようと思う。
 お金がかかったぶんも、この子を産んで良かったと思ってもらえる子供になりたい。それがわたしなりの親孝行だとも漠然と考えている。そしてそれで自分を律し、戒めている。

 「大人の人がいい」
 というわたしの発言に、マイは当初首をかしげただけだった。わたしの周りでは最近急激に彼氏率が上がるということが起こっていた。
 その中の一人のすすめでメールを一通見せてもらった。ものすごく罪悪感を感じながら、申し訳ないと思いながら読んだ。恋人に宛てたメールなんか赤の他人に読ませたくないし、わたしだったら絶対嫌だ。そして読んでから後悔した。
 好きだの、お前に会えてよかっただの、それはもうこちらが赤くなってしまうほど強烈だった。わたしにとっては。
 もう以降読むまいと決めた。
 「なんていうかね、例えば元々友達と約束してた日に、急に彼氏から遊ぼうって誘われたら、その日友達と約束してたからまた今度って言っても怒らない人がいい。同い年の子は割と怒るじゃない」
「ああ、それすごく判る」
マイは笑って頷いた。それから、
「男がいつでも一番って訳じゃないんだよね」
と言った。まったくそのとおりなのであった。
 前にも言ったような気がするが、わたしの中の一番は常に変動する。例えば食べ物でも、本でも、音楽でも、人間でも。それでも好きなことは変わりないのだが。
 「束縛しない人がいいよね。されたくもないししたくもない」
その後、わたしが下記の「浮気」にて書いたことと殆ど同じことを言った。その後わたしは思わず、
「なんだ、気が合うなあ」
と言ってしまった。
 愛してるとか、お前が世界で一番だとか、そういうのは決め時までとっとこうよ、と思うのだ。いつも暮らしている中で、いつも常に彼氏のことばかり考えていられないのだ。それはやっぱりわたしの許容範囲が狭いだけなのかもしれないけれども。
 だから、とても薄っぺらいように感じる。わたしたちの気持ちはたった一言で表せるような感情はない。言葉にならないというのはあると思うけれど。そうでなければ感情を文字にするのを職業とする人が頭を抱えるわけがない。
 社交辞令やお世辞が言えないので、わたしはいつも割と直球で勝負する。相手にもそれを求めるので時折こっそり傷つくこともあるが、致し方ない。傷つかない生き方なんて今のわたしには見つからないし、そもそもあるかどうかすら怪しい。

 小論文については正直本当に書き直したい。できればもっと長い文章で。言いたいことはたくさんある。
 誰かとこの感情を共有したいのだ。それがぽっかりと開いた夜の満月のような空洞を満たしてくれるような気さえしてしまう。でも、今はとりあえずそれでもいいと思う。ぼちぼち考えていこうと思っている。わたしなりにわたしの答えを見つけられるように日々精進しながら。
 マイは将来岐阜に行くと言っている。わたしの目標は京都だ。確実にあと一年もすれば分かたれてしまう。
 彼女と、変わらぬように手を繋いでいることはできないものかと思う。彼女だけではなく、今まで会ってきた、わたしが素敵だと思ってきた人の全てにも。
 どれだけの努力と労力が必要だろうと思って鬱屈するが、そこまで来るとやりがいすら見えてくる気がする。

午睡(05/01/23)

 わたしはよくありえない夢を見る。それは例えば自身が鳥となって空を飛んだりだとか、全然まったく見たこともない場所を電車(汽車かもしれない)で走っているとか。
 デジャヴというのをよく体験するのだが、それは以前その風景を見たことがあるのを忘れているんだろうなと思う。だってわたしには第六感的なものは何もなかったのだ。虫の知らせすら受け取れない女だ。

 今日見た夢は、わたしの家の道路を隔てた向こう側の横の原っぱに狐がやってきた夢だった。黄色い狐が二匹と、白い狐が二匹。どれも尾が分かれていた。
 わたしは狐たちに餌というかなんというか、何かを与えていた。その代わりわたしが何かを失ったわけではなかったから、やはり食べ物らしいものだと考える方が妥当だろう。二階の北向きの窓から、彼らに向かって放り投げてやったのだ。そのとき彼らがどんな顔をしたか、覚えていない。
 わたしがなぜそんなことをしたかといえば、彼らの大黒柱だろう白い大きな狐が一匹、何らかの形で死んでしまったのを見ていたからだった。これで狐の数は黄色二匹に白一匹の三匹となった。
 白い狐が(比較的小さい方)がその白い狐に取り縋って泣いていたのが印象的だった。泣いていたのだった、まるで人間のように。大きな白い狐の毛皮は血で汚れていた。黄色い狐たちも悄然と項垂れていた。
 同族によって殺されたのではないとわたしは直感していた。人間が殺したのだ、と思った。彼ら以外に狐を見かけなかったし、第一猛々しい彼らはたとえ同族であっても打ち倒せはしないだろう。血まみれで、温度を失っていく白い身体を遠くから見ていた。見覚えがあった。

 次の場面では、姉が外を窺って眉をしかめていた。外は雨が降っているようだった。姉はカーテンを閉めている。どうして閉めるのかと問えば、
 「狐たちに家の中を覗かれると困るからだよ。目が合っただけで怖いことになるんだから」
 と忌々しそうに言った。
 その時わたしの家では昔からの言い伝えなのかわからないが、黄色い狐は大丈夫で、白い狐はだめ、というように言われていたらしい。黄色い狐は尾が何本分かれていようがまだ人を狂わせる能力はない。だが、白い狐はたとえ尾が一本だろうが、忌むべきものだったのだ。
 そして、姉は家中のカーテンを全て閉めてくるようにわたしに言った。
 わたしは恐怖に駆られ、二階の、あの彼らの悲しい場面を見た場所の障子を閉めに行った。窓には雨滴が侘しく、冷たそうに筋をつけていた。
 だが、障子は立て付けが悪く、というか明らかにサイズが違ってしまっていて、閉めても窓が覆い隠されないのだ。白い障子の向こう側に青くよどんだ空が広がっていた。夜が来ようとしていたのだろうか。

 あのまま夢が続いていたらどうなっていただろうか。光が差し込まない家で、誰も訪れないまま、外出できずにただテレビに齧り付くしかなかっただろうか。
 彼らは本当にひとに害成すものだったろうか。それはわたしたち人間が危害を加えたからではなかっただろうか。
 わたしは彼らと知らずに接点を持ってしまったことを恐れていた。実際私の身にはなにも起こりはしなかったのに。

 一家全滅の夢を見たこともあった。何かの病で一家次々に感染し、今わの際に父がわたしの手を握った。その時父が何を言ったかもう定かではないが、それを聞いてわたしは涙が堪えきれなかった。
 夢の中で空を飛ぶときは、強く願わなければ飛べなかった。一心に上昇するように強く思った。まるで何かから逃げ、落ち延びるように。

 起きると外では雨が降っていた。夢の中でもわたしは何かから逃げることはできなかった。そういうことが大切でもあり、重荷だと思ったりもした。

漫ろ歩き(05/01/21)


 学校帰りになるのはいつも空が暗くなった後だった。それでも昨今は近くに大きな大会や発表会がないので学校側も比較的に早く帰してくれる。学校の周りでは変質者が出ていると聞く。ことを弾いているがために硬くなった左手の人差し指と中指を親指で無意識に撫でながら、バスの中で暗闇に沈む山並みをぼんやりと見つめている。
 その時大抵、わたしは考えても仕方のないことを考えている。とりとめもないことばかりだ。例えば、生き物が生まれて死んでそれで全てが失われてしまうのかとか、いのちはどこからきたのだろうか、とか。宇宙のルーツは。本当は巨大な箱庭なのではないか、とか。ひとはディープインパクトのように一瞬にして全滅できるのだろうかとか。
 バスの振動が心地よくわたしの警戒心や緊張を解きほぐし、耳から入る馴染みの音楽はまるで風のようにわたしの心に吹き溜まり、そしてまた何事もなかったかのように過ぎ去っていく。

 わたしが死というものを掌で感じ取ったのは、小学校2年のときで、その日は秋のお祭りで、屋台を引き回していた。夜の闇を照らす橙がかった提灯の光、金糸で細工された垂れ幕の獅子、法被、雪駄の音、お囃子の音。営まれてきたものがたしかにそこにあった。そしてそこに直に触れていたのだった。
 白い業務用のワゴン車が、屋台から離れた白熱灯の街頭の下に止まった。わたしと姉はそんなことも露知らずに屋台の明かりに引き寄せられた羽虫のように、屋台の綱を引っ張ったり、屋台の上に乗ったりしていた。そして、誰か大人の手だったように思う。肩を叩かれて振り向くと、そこには沈痛な面持ちをした母の姿があった。
「じいじがね、ちょっと具合が悪くなったみたいだから、病院にいこう」
 わたしと姉はわけもわからぬまま屋台から引き離され、暗く静かな車の中に押し込められた。そして滑るように車が走り出していた。

 あの時も同じように、窓の外の闇を見ていたように思う。わたしの姉は乗り物酔いのするひとだったので、いつも後部座席に乗るのはわたし一人きりだった。運転席の二人はいつも決まって楽しそうにおしゃべりをしている。わたしは何となく疎外感を感じて、半ばふてくされて窓の外を見ているのだけれど、その日はいつまで経っても母は口を開かなかったし、姉も母が口数の少ないのを知ると不意に黙ってしまった。
 車の中はとても静かだった。

 祖父は古くは先の大戦にて、インドネシアまで遠征をしに行った人だった。祖父はそのときのことを話してくれたときがあった。その日、祖父が共に行くはずだった軍隊は祖父一人を置いて出撃していった。祖父は疫病におかされていたのだという。赤痢か、マラリアか、もう本当のことをしるすべはないが、それで宿舎で寝込んでいたらしいのだった。そして、祖父の所属する軍の艦隊は敵艦によって沈められたのだと聞く。
 当時はそれでも十分怖く、じいじ、帰って来れて良かったね、というようなことを言ったのを覚えている。そのときの祖父の顔を、もう覚えてはいない。
 遠藤周作の深い河を読んで、改めて戦争の恐ろしさと考えの甘さを痛感した。大岡昇平の俘虜記を読んだときも、祖父がどんな場所にいたのかわかって、思わず震えてしまった。

 祖父は癌で死んだ。とても低い確率でかかる癌だったらしい。病院嫌いだった祖父は、結局入院が決まったときにはもう時既に遅く、体中に転移してしまって手をつけられない状態だったと聞く。
 祖父は呼吸器の中から苦しそうにみんなの名前を読んだ。わたしと姉はお祭りの格好をしたままだったし、生まれたばかりの弟は父の腕の中できょとんと目を丸くしていた。呼吸器が祖父の弱弱しい息にあわせて曇り、また晴れて、曇ったりを繰り返していたのを鮮明に覚えている。
 祖父はその日の未明に、妻(わたしには祖母に当たる)と息子に見守られて逝った。決して美しくなく、静かでもなく、ただ苦しく、今までのことが泡のように消えていく恐怖に祖父は耐えかねていたのだろうと今になって思う。
 碌にさよならも言わせてくれなかったのだ、祖父の癌は。
 葬式の時、火葬場で炉の中に運ばれていく祖父の姿を見て感じたことと言えば途方もない喪失感、と今は言えるだろう。けれども、その当時わたしが全身で感じたことと言えば、死んでしまったら、もうこれ以降わたしが何年生きても、どんなにいいことをしても、祖父と同じ人は現れないのだ、もう二度とけして会えないのだ、ということだった。
 祖父には手紙を書いた。辛かったね、とか、おつかれさま、とかそういうものを書いたように記憶している。そういうことを書いてあげなさいと母にいわれたような気もするが、あまり覚えていない。
 ただ嘘をついた。本当に言いたかったのは、さよならでなく、どうして死んでしまったのか、ということだった。もっと一緒にいたかった。子供らしい無垢さと残酷さで、祖父の早世を恨んだのだった。
 葬式の前、そのとき夜だったか朝だったか覚えていない。冷たくなってしまった祖父の枕辺に一人で行った。触れられなかった。怖かった。ただ無性に怖かったのだった。
 枕元には割り箸の先に脱脂綿をつけて、さらにガーゼで覆って輪ゴムでしばったものが小さな白い皿の上に、透明な水と共に湛えられていた。わたしはそれを握って、祖父の唇の上をそっと撫でた。透明な水が、祖父の固く閉じられた唇から一筋零れて、真っ白い枕カバーに落ちていった。かつてわたしを諌め、わたしのために子守唄を歌い、昔語りをしてくれた祖父の唇だった。

 繰り返しリピートしている曲は、時折飽きて違う曲にしてしまう。だが結局そこにまた戻ってきてしまって、いつの間にかまたリピートして聞いている。
 結局繰り返すのかもしれない、とよく考える。
 あれからもう一人、曽祖父を見送った。彼は激動の一世紀を行きぬいたひとの一人であった。そして息子に先立たれた老人であった。
 彼の部屋には、絵筆や絵の具が揃えられていた。壁には自作の絵すら飾られていた。北欧、或いはカナダやニュージーランドを思わせるような碧水を湛えた川が、白樺と広葉樹に彩られた秋の林の中を下っていく、美しく静かな絵だった。
 この家に嫁いだ母から、彼についてはあまりいい噂は聞かなかった。だから多少近づかないようにしていた。曽祖父の部屋は、母屋から少し隔たれた離れにあった。
 それでも、食事時に呼びに行くと褒めてくれた。呼びに行くだけなのに、褒めてくれた。特に足腰の弱った曽祖父の足がかりをしたとか、曽祖父の分のご飯をよそったとか、そんなことした記憶はない。けれど彼は決まって言うのだ。Hはいい子だ、と。にこにこと上機嫌で。

 なんて暖かく甘い、無償の愛の中に沈んでいたのだろうと思う。あのときのわたしは、母がどう感じ、そしてまた祖母がどう考えていたか、この家の流れを汲まない女性がどう感じていたのかも知らなかった。ただあまやかな、ともすれば毒のような優しさの中にいた。

 来年、というか今年はもう受験生となる。もうすぐこの地を離れる。春の桜やつつじやうぐいすの声、露のあじさいとかたつむり、夏の入道雲とひまわりと、夏休みの宿題だった朝顔の観察日記と、蝉の声。蛍の尾を引く閃光、花火、秋にはとんぼと梨とぶどうと、裏の山にはあけびがなった。冬の空風、一年に一度降るか降らないかのごく稀な雪、南天の赤い実、山茶花と椿に、スノードロップ。そういったものの全てに、ゆっくりとお別れをしていかなければならないのだと、どこか焦燥感を感じている。
 大人になるにつれて見落としてきたもの、売り払ってきたもの、捨ててきたものの全てがここにあるのだと疑わない。願ってやまない。

 最近、近所の畑の脇に携帯電話用のうずたかい鉄塔が建てられた。冬の色に染まった西山に、その新しく鋭い銀色の針は、一向に馴染む気配も見せずに今日も頭上たかくに誰よりも近く星を頂いている。