「日本人の生き方」と言うと、どうしても「近代自我の確立」がメインになってしまう。黒船が太平の惰眠を貪る日本にやって来た。「大変だ!大変だ!」と言う訳である。また、やって来たのは近代資本主義だけではなく、その批判者としての社会主義・共産主義でもあったから、「生き方」は社会変を担う「主体性の確立」としても設定された。
日本人は自らの生き方をどう考えて来たのだろう。内容に立ち入らないとすれば、漢文か和文かであり、漢学か国学か、であった筈だ。大和言葉だけでも家族生活は出来る。地域社会も営めるだろう。だが、都市や都や国家は隋や唐から学ぶ事なく成立はしない。こうして漢学と国学の対立と対話が「日本人の生き方」のメインストリームだったし、その時々の外来語を加えたその時々の現代国語が新たな第三局だった。卓越した代表的日本人は「漢詩」も読み、「和歌」も詠む。

太平洋戦争時、敵国語は使わない方針でアメリカと対峙し、敗戦の色濃くなると、漢語・漢字を使わない精神で中国大陸から退却し、大和心・大和魂によって桜が散るように散ったのか。数百万の日本人は。

漢文・古文・現代国語をしっかり学ぶ事で「日本人の生き方」は学べるし、それは普遍的な「人間の生き方」にも通ずる。 
明雄はアルバイトにも慣れ、夏休み前には教習所に払う費用が工面できそうな見通しになった。免許を取ったら「足利・江戸・鎌倉」にドライブする計画を立てた。国語科の漢文・古文・現代国語に数学と英語も加えようとも思ったが、英語・数学は別枠にして直接現実的な問題とは絡めない事にした。数学は生き方と絡める事も可能だ。例えば複素数、この虚数をフィクションと考え、実数を現実と考えれば、複素空間こそ、現実空想入り混じったこころの世界になぞらえる事もできる。統計は、概念的・観念的でない、数値による現実の把握が可能になる。悩みも、問題も数値化できれば、解決の入り口には立った事になる。英語だってきっと生き方と絡める事が可能な筈だ。明雄が国語に生き方を求めているのは、漢学と国学の対立・対話が千何百年にも渡る、日本人の主なる自己形成のテーマであったからだと思うからだ。江戸時代でさえ朱子学・国学・蘭学の構造はあった訳だから、漢学と国学だけに絞るのは歴史を無視しているようにも思える。外国語・数学・その他は現代国語にまとめて、漢文・古文・現代国語に生き方を求めている。理解していただけるだろうか?