エジプトの旅行会社 トライウェイズトラベルです![]()
今月、11月から入場料金が値上げになりました。
その料金表には、これまでは入れなったところの入場料も記載されていていました![]()
バロンパレス
公開は、あと1ヶ月先だと言われました![]()
サッカラの階段ピラミッド内部
インスペクターに確認すると、まだ工事中だそうです![]()
そして、残すは、ムハンマド・アリーパレス![]()
ムハンマド・アリ―パレスは、もうひとつ、マニュアル地区にあり、
エジプト人でも区別がつかないひとがいますが、
子孫の宮殿にあたります。
ショブラにあるムハンマド・アリーパレスは、
ムハンマド・アリ―モスクを作らせたご本人のパレスになります。
1808年建築着工、1年で完成。
実行力が高いムハンマド・アリーだから!?1年で完成させることができたのかな?
宮殿が建てられたのは、ムハンマド・アリーが非常に成功した暁だったようです( ..)φメモメモ
ナポレオン戦争の渦中にあったイギリスにはエジプト情勢に深く介入する余裕がなかった。イギリス軍は1807年3月から4月にかけてエジプト上陸を試みたものの、ムハンマド・アリーによって撃退された(1807年のアレキサンドリア遠征)。4月にロゼッタ近郊のアル・ハーミドで行われた戦闘(アル・ハーミドの戦い)でイギリス軍が喫した敗北(総兵力4000人中2000人が死傷)は、「第一次アフガン対戦」と並んで英国が東洋で喫した最大の敗退の一つ」といわれる。ムハンマド・アリーはイギリス軍を積極的に攻撃することを避け、最終的には協定により撤退させた。その後も交渉と協調がムハンマド・アリーの対英政策の基調をなしていく。オスマン帝国も1807年から1808年にかけてセリ無3世とムスタファ4世が相次いで廃位されるなど政情が混乱し、ムハンマド・アリーに対応する余裕はなかった。ムハンマド・アリーはこうしたオスマン帝国やイギリスの苦境に乗じて政治基盤の強化に乗り出し、敵対するマムルークや宗教勢力を排除または懐柔することに成功した
(ウキペディアより)
ムハンマド・アリーが、宮殿を建てるのに、なぜ、カイロの中心地を選ばなかったのか![]()
ムハンマド・アリーは、エジプト人からすると外国人のため、
土地の所有者であるエジプト人の反感を買いたくなかった(ここは当時、空き地だったそう)
ためと、敵対するマムルークの陰謀から離れた静かな場所へ移りたかったようです。
ムハンマド・アリーが静かな場所と選んだショブラは、現在はにぎやかな街になりましたが、
宮殿周辺は、今なお静かでした。
地の利がないショブラは、遥々来た感があって![]()
やっと着いた入口は、閉まっていました。
本当に公開する予定はありますか!?と言いたくなるほど、さびれた外観です![]()
先日、訪れたバロンパレスは(休みにあたる)金曜だったけど、
大急ぎで頑張っています!というような様子でしたが、こちらは、閑散としていました![]()
いつ開きますか![]()
入口のバッワーブに確認するも、
天を仰ぎ、
『神のみぞ知る』
と聞いたときには、一気にヘトヘトになりました![]()
11月からの料金表に載っていたから、
てっきり開くものだと思っていたのですが、
甘かった![]()
すべて、準備中
コンプリート![]()
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裏切られた感はまったくなく、エジプトらしいことなのですが、
ムハンマド・アリーパレスは、以前開いていたこともあり、
8割入れると思って来たので、本当にがっかりしました![]()
とはいうものの、楽しみが先延ばしになったということで、よしとします![]()






