山陰の暴れん坊・倉吉北は1978年夏初出場で早実を撃破。
1979年選抜では矢田投手を擁して8強に入った。
その時は普通の高校だった。
野球留学生は二人のみ。
しかし1979年春に、関西方面から多くの球児を迎い入れたことが転機となった。
1年生男子約170人のうち41人が大阪、兵庫等から入学。しかも、そのうち37人が野球部へ。
ついては野球部員全体約170人のうち県外生約130人、地元出身約40人となる。
その時に入った坂本昇投手をエースとして1980年夏出場。そして1981年春ついに4強に入る。
坂本昇は兵庫の上甲子園中出身。174センチ、64キロと大柄ではないが、低めに伸びる直球、カーブが武器であり、マウンド度胸もあった。少年野球の夙川チームのエースであり、1978年夏の関西選手権では準優勝という実績を誇っていた。なぜ報徳や神港、東洋大姫路など地元の強豪校、もしくは大阪の強豪校に行かなかったのかというと、本人曰く「鳥取はチームも少ないし甲子園にすぐに行けるから」。言い得て妙である。
まあ、確かに鳥取代表、あるいは中国地区代表として甲子園に何度も出られたが、その時のチームがすごかったのだ。
剃りこみ、眉剃り、インタビューにはダルそうに答え、整列時には相手チームを威嚇、一塁ベース上で威嚇、スライディングはスパイクの刃を相手野手に向ける、本塁突入は殺人タックル、ビーンボールを投げる。
やりたい放題である。
上尾高校、川口工業でもこんなじゃなかった。
興国、建国、南京都、日生学園、八日市南でもだ。
そして、あきらかに坂本の影響で、他の選手にも相当パンチが効いているのが、ちらほらいたと思う。
もう個人じゃなくチーム全体として柄が悪いレベルである。高校野球チームじゃなく「関西志賀勝組」である。
とにかくすごかった。
あまりのガラの悪さに、流石に高野連も注意したようだ。
その後も多くの野球留学生を入れ野球部を強化。
しかし度重なる不祥事で出場辞退や対外試合禁止処分が相次ぎ、野球部は弱体化。
かつて南海ホークスからドラフト1位で指名された加藤伸一投手など、3年間での公式戦登板数は数試合だったとのこと。
ところで、監督、部長は何をしていたんだろうか。
当時の倉吉北の田中野球部長はこういっていたとある。
「県内の生徒でチームが組めればそれに越したことはない、と私たちも思っている。県内生には絶対にレギュラーになって甲子園に出ろっとハッパをかけている。でも県外生といっても同じ北高の生徒だから区別はできない。それに、野球をやる以上、甲子園を目標にするのは当然だが、甲子園に行ければ、それでいい、とは考えていない。もしそんな風に考えていたら、レギュラー以外の多くの部員を指導していくなんてこと、できないでしょう」。
難しい問題なのであろう。
最後に悪太郎・坂本昇はこうも言っているが、このことは、かなり、注目に値すると思うのだ。
「鳥取県は確かにチームが少なくて甲子園には出やすいけど、それは他の県と比べてで、県内ではどのチームもチャンスは同じでしょう?やってみると簡単には勝てないし・・・。いやな野次も飛ばされるけど、例えば『外人部隊帰れっ!!』なんて言われて嫌だけど、気にしないようにしています。ファンのためじゃなくて、自分のためにやってるんだから」。
これを読む限り、坂本昇は、実は中田英寿のような選手だったのかもしれないなと思うわけである。
昭和54(1979)年秋、米子港山球場の中国大会での一コマ。
審判の判定をめぐってスタンドから汚いヤジが浴びせられた。
中国大会では、かつてなかったという。
衝撃を受けた大会関係者が調べると、騒いだのは倉吉北のスタンドで、その中には大阪から「野球留学」させている父母も交じっていたという。
ステージ・ママならぬスタンド・ママが大勢いるのも確か(子供をプロ野球選手に仕立てて金儲けをさせようというさもしい根性の持ち主ではないのだろうが)なのだが、どう見ても勝負だけにこだわり過ぎている、と関係者には映ったという。
「勝つことだけしか考えない、となればラフなプレー、汚いプレーもやるだろう。スタンドから汚いヤジを飛ばす父母も出てくるだろう。正々堂々と戦い、相手のファインプレーには大きな拍手を送る。これが高校野球です。それが失われたらいけんのです。」
倉吉北は高校野球にすごく深い課題を投げかけ、去っていったといえよう。
というのも、城北なんかが台頭している昨今、もう倉吉北が甲子園に出ることは、しばらくはないと思うからである。