しおんパパtalltreeです。
以前予告しておりました「私の帝塚山物語」を書き始めようと思います。ストックはありません。適当に書き下ろしますので、お時間の許す限り、よろしくご贔屓(ひいき)のほどを…。
今回は序章のつもりです。
何の脈絡もない唐突な話だが、みなさんは普通の三ツ矢サイダーが、以前二種類販売されていたことをご記憶だろうか。
最近のグレープ風味とか、レモン味とかではない。
あのいわゆるサイダー味が二種類、かつて「全糖」と「並」があって、人工甘味料を用いない「全糖」は、価格も「並」より高かった。
ウィキペディアにも「1952(昭和27)年全糖三ツ矢シャンパンサイダー発売」の記述があるから、確かに「全糖」を冠したサイダーは発売されていた。
ビールの小瓶に似た形の、透明の瓶の首の部分に赤地に白文字で「全糖」と書かれたラベルが貼ってあった。このラベルのないものは「並」である。この画像は孫引きになるが勝手に拝借。リンク元はこちら
そして母はきわめて神経質、関西で言うところの「癇症病(かんしょうや)み」である。
母はサイダーといえば、この「全糖」しか認めていなかった。
もちろん商売だから「並」も売ったが、どこかその商品を軽蔑するような趣があった。
いわゆる「ジュース(果汁入り飲料)」も、バヤリースだけが「ジュース」であり、後に「キリンオレンジ」も発売されたが、母に言わせれば「あんな水臭いものは『ジュース』ではない」のだった。
当時のバヤリースは、かなり濃かった。恐らく果汁30%程度ではなかったか。
私はあっさりしたキリンを飲みたかったが、あれはウチから四軒隣りの「すみれや」が売っているからと、置いてもらえなかった。
また、タケダの「プラッシー」も独特の甘みが好きだったが、これは150mほど電停寄りにあるお米屋さんが扱う商品だった。
(フォントが判別しづらいですが、商品名はビタミンCをプラスした「ふ○らっしー」です。懐かしの噛みつき魔ではありません。念のため)
幼稚園のお誕生会には「プラッシー」が出る。私は誕生会が楽しみでならなかった。
同じ飲料、食料品を扱うにしても、近隣に同業者がいればお互いの領分・棲み分けを考える。中には同じ商品を並べて全面対決する店もあったが、一つの町としての共同体的な、暗黙のルールがそこには存在していた。
私が生まれ育った大阪市内のはずれ、帝塚山も、かつてはそんな小規模な小売店が、路面電車をはさんだ通りに居並ぶ町だった。
実家のある一角も、奥に小さな民家が数軒並んでいたが、すぐ隣りが洗濯屋、一軒おいてパーマ屋、前述の「すみれや」という菓子・パン・文房具の店、そして角には八百屋があった。
電車道の向こうは古いアパートと布団屋、タバコ屋が並び、細い通りを隔てて散髪店、数軒の民家、額縁屋、自動車店があった。 帝塚山の「電車通り」と私。昭和33年ころかと思われる
井上ひさし氏が「ナイン」の中で、かつての東京下町の新道商店街には「生活」があり、街が「自活」していた、と書いているが、まさに帝塚山にも「生活」があったと思う。
私は何かを成したわけでもないし、また古い写真などを所持しているわけでもないが、遠い記憶をたどりつつ、私なりの「帝塚山物語」を記したくなった。
以後数回に分けて書いて行くつもりだが、繰り言的な断片追想にお付き合い願えれば、幸いである。
ひと言コメントいだけると、とてもうれしいです…。

