第44回ここが変だよ統一原理/摂理的同時性⑤破綻その4
第六節メシヤ降臨準備時代400年前回からだいぶ期間があいてしまいました、今回が摂理的同時性の最後、メシア降臨準備時代です。文氏は、旧約聖書に書かれたメシアに関する記述を覆い隠しています。過去のブログと重複する部分がありますが、再び書きました。預言者マラキからイエス様までの400年、一般的にこの時期は「中間時代」と言います。第三節復帰摂理時代を形成する各時代とその年数(六)メシヤ降臨準備時代四〇〇年ユダヤ民族が、バビロンで解放され、カナンの地に帰郷したのち、神殿と城壁を再建して、預言者マラキの預言により、メシヤを迎えるべき民族として立ってから、イエスが誕生なさるまでの四〇〇年期間を、メシヤ降臨準備時代というのである。サウル王は、彼の神殿理想を完成して、モーセを中心としたイスラエル民族が、第三次カナン復帰路程で費やした荒野四十年期間を、横的に蕩減復帰させようとしたのである。しかし、サウル王の不信によって、これが失敗したので、再び、この期間を縦からなる横的な蕩減期間として復帰するため立てたのが、メシヤ降臨準備時代の四〇〇年期間であった。この時代は、象徴的同時性の時代のうち、ヤコブがハランの地からカナンへ復帰したのち、売られていったヨセフを訪ねて、エジプトへ入るまでの四十年間を、形象的な同時性として、蕩減復帰する時代であったのである。ヤコブがハランの地からカナンへ復帰したのち、ヨセフを訪ねてエジプトへ入るまでの期間は32年、従って400年ではなく320年でなくてはならないでしょう。この期間は、ヤコブの失敗を、レアの子ユダとラケルの子ヨセフが中心となって取り戻した期間で、ヤコブとは別の摂理です。仕えにやってきたエサウの護衛を避けたことや、目的地へは向かわず油断した結果、娘ディナのレイプ事件に繋ることから見ても、ヤコブの失敗は明らか。ヤボク川での格闘勝利を最大の焦点とし、イスラエルの名を与えられたことが、大勝利の祝福としていますが、これはエサウを恐れるヤコブへの叱咤激励、尻叩きです。彼に恐れを植え付けたのはリベカ、ヤコブの狼狽ぶりがそれを物語っています。これが母子協助???、それは嘘でしょう。「アブラハム・イサク・ヤコブの神」とは「アブラハム契約の神」ヤボク川での格闘は仮の祝福(創世記32:29)。本祝福(契約)はベテル帰還後(創世記35:9~12)にて、アブラハム契約が三代で完了しました。「アブラハム・イサク・ヤコブの神」とは「アブラハム契約の神」の意味、この三代を通して、全人類を代表する選びの民族としての契約が完了したということです。契約完了の後、摂理はヤコブから次の世代に移ります。つまり摂理的にはアブラハム・イサク・ヤコブ・ヨセフの四世代となります。従って、縦からなる横的な蕩減復帰の期間などではありません。ヨセフの摂理はとても重要です。原理がヨセフの解説にどれくらいの量を割いているのかを、「第三節アブラハム家庭を中心とする復帰摂理」から見てみましょう。ヨセフ第三節アブラハムの家庭を中心とする復帰摂理(三)メシヤのための基台しかしアブラハムの時代には、既に、堕落人間たちがサタンを中心とする民族を形成してアブラハムの家庭と対決していたので、そのとき「メシヤのための家庭的な基台」がつくられたとしても、その基台の上にすぐにメシヤが降臨なさるわけにはいかない。すなわち、この基台が、サタン世界と対決できる民族的な版図の上に立てられたのち、初めてメシヤを迎えることができるのである。したがって、アブラハムが「象徴献祭」に失敗せず、「実体献祭」に成功して、「メシヤのための家庭的な基台」がつくられたとしても、その基台を中心としてその子孫がカナンの地で繁殖して、「メシヤのための民族的な基台」を造成するところまで行かないと、メシヤを迎えることはできなかったのである。原理の解説では、既に民族を成しているサタンに対抗するには、神側も家庭的基台から民族的基台に造成しなければならない、ということですから、ヨセフ路程は別摂理でしょう。ヨセフ路程はアブラハム契約には含まれていないので、三代とは別枠設定になります。ヤコブの家庭においても、ヤコブの天の側の妻ラケルが生んだ子ヨセフが、先に、エジプトへ入り、その蕩減路程を歩んで、アベルの立場を確立しなければならなかったのである。ゆえに、ヨセフは彼の兄たちによって、エジプトに売られ、三十歳でエジプトの総理大臣になったのち、彼が幼いとき、天から夢で予示されたとおりになった(創三七・5~11)。というのは、まずヤコブのサタン側の妻レアが生んだ腹違いの兄たちが、彼のところに行って屈伏することにより、子女が先に入って、エジプト路程を歩み、つぎに、彼の父母が同じく、この路程の方に導かれた。このようにして、ヤコブの家庭は、将来、メシヤを迎えるための民族的蕩減路程を出発したのである。原理講論における、ヨセフについての記載はこの程度、あまりにも少なすぎです。無理に辻褄を合わせた結果、その皺寄せで弾かれたヨセフの摂理は、オマケ程度の扱いにし惑わさざるをえなくなりました。アブラハムの生涯 創世記11:27~25:11ヤコブの生涯 創世記25:19~35:29ヨセフの生涯 創世記37:2~50:26ヨセフの生涯は、アブラハムやヤコブの生涯と比較しても、全く引けをとりません、一番多いでしょう。アブラハムからヤコブにかけて綿密にの解説されているに対し、原理のヨセフの解説は、あまりにも稚拙、少な過ぎる。聖書は文氏を示していません。彼は、イエス様の雛型となっている、旧約聖書の記述を覆い隠しています。ヨセフは主イエスの雛型ユダ(兄弟の代表)に銀貨20枚で売られたヨセフユダに銀貨30枚で売られたイエス無実で牢へ入れられた後、パロに認められその右に座し、全権を掌握した。無実で極刑に処せられ、復活の後神から認められその右に座し、全権を掌握した。ヤコブは、ヨセフが死んだ思っていたが、ヨセフは生きていた。イエスは死んだが、復活してよみがえった。イスラエルはヨセフを通して、エジプトへ入った。クリスチャンはイエスを通して、御国に入った。福音の雛型出エジプトにおける、エジプト10の災いは、終わりの時の大患難時代の雛型。イスラエルの民は、家の門柱に塗った子羊の血により、災いは過越しましたが、エジプト人の長子は命を奪われました。神の子羊の十字架の血潮、福音を信じることにより義と認められ、聖霊の承認の印が押され、患難から逃れることができます。消去されたアブラハム出発準備期間75年 創世記12:4 アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。アブラハムの出発準備期間は75年です。鳥を裂かなかった失敗を補うために、ヤコブまでの三代を横的一括りにしているわけですから、後の同時性期間にあたる「統一王国時代」や「キリスト王国時代」には、アブラハム出発前の準備期間75年が、延長期間(120+40+21+40年)に含まれていなければいけません。75年を含んだ期間(75+120+40+21+40)になっていなければ、蕩減復帰にはなりません。けれども「統一王国時代」や「キリスト王国時代」の前には、75年に相対する期間はありません。この75年間を歴史から消したのは何故でしょう。まさか今さら、320年に75年を足して、ほぼ400年なんて言えないでしょう。3.4.12.21.40.この数字を組み合わせれば、数字なんて、幾らでもどうにでもなるでしょう、これが原理数のカラクリです。原理では、120(統一王国)+400(分裂)+210(捕囚と帰還)+400(メシア降臨準備)聖書では、115(統一王国)+360(分裂)+70(捕囚)+490(メシア初臨、ダニエル70週)内容が変わります。形象的な同時性ヤコブがハランの地からカナンへ復帰したのち、売られていったヨセフを訪ねて、エジプトへ入るまでの四十年間を、形象的な同時性として、蕩減復帰する時代であったのである。これは嘘、形象的な同時性にはなっていません。マラキ後400年間のイスラエルは、ペルシャ、ギリシャ、ローマと迫害され続け、神殿は荒らされゼウス像が建てられました。エジプトに売られたヨセフのこの間の経緯と、中間時代のそれとでは、期間も内容も全く違います。第四章摂理的同時性から見た復帰摂理時代と復帰摂理延長時代第六節メシヤ降臨準備時代とメシヤ再降臨準備時代また、異邦人たちに対しては、これとほとんど同時代に、インドの釈迦牟尼(前五六五~四八五)によって印度教を発展せしめ、仏道の新しい土台を開拓するように道を運ばれたし、ギリシャでは、ソクラテス(前四七〇~三九九)の手でギリシャ文化時代を開拓せしめ、また、東洋においては、孔子(前五五二~四七九)によって儒教をもって人倫道徳を立てるようにされるなど、各々、その地方とその民族に適応する文化と宗教を立てられ、将来来られるメシヤを迎えるために必要な、心霊的準備をするように摂理されたのである。それゆえに、イエスはこのように準備された基台の上に来られ、キリスト教を中心としてユダヤ教(Hebraism)を整理し、ギリシャ文化(Hellenism)、および、仏教(Buddhism)と儒教(Confucianism)などの宗教を包摂することによって、その宗教と文化の全域を、一つのキリスト教文化圏内に統合しようとされたのである。初臨再臨も含めたこの歴史観。面白いとは思いますが、聖書的ではありません。文氏がメシアであるなら、過去にダニエルを通して示された、バビロン捕囚以降のイスラエルの歴史、メド・ペルシャ、ギリシャ、ローマ、ネブカデネザル王が見た巨像、四頭の獣の幻、「荒らす憎むべき者」等について触れなくてはいけません。これらの史実には全く触れずに、仏教や儒教へと話をすり替え、原理歴史観に書き変えてしまいました。異邦人の時 ルカ21:24 人々は剣の刃に倒れ、捕虜となって、あらゆる国の人々のところに連れて行かれ、異邦人の時が満ちるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。聖書の歴史観は、神の選びの民と異邦人に二分されます。イスラエル民族が国を失ってから後、すなはちバビロン捕囚以降を「異邦人の時」と言い、今現在も継続中です。この時が満ちると、終わりの時がやってきます。韓国は異邦人、選びの民はイスラエルです。ダニエル70週預言7週と62週の合計69週は初臨で完了しました。1週(7年)が未完了で残されています。この最後の1週(7年)を記したのが「ヨハネの黙示録」。異邦人の時が満ちると、最後の一週間(7年)がスタートします。福音書の中でも、主イエスは述べておられますが、最後の7年、人類史上最も困難な時になります。 マタイ24:21 そのときには、世の始まりから今に至るまでなかったような、また今後も決してないような、大きな苦難があるからです。これが「大患難の時代」地に投げ落とされたサタンが、激しく怒り狂い最後に大暴れするのが、後半の三年半です。これらは聖書に記された、これから起こる事実です。千二百六十日(黙示録12:6)一時二時半時(黙示録12:14)四十二ヶ月(黙示録13:5)主イエスの再臨は、この一週が完了した時。(黙示録19:11)文氏がメシアであるなら、過去に神が示されたことや、主イエスが述べられたことの意味を解説しておかなければいけません。ところが彼は、神が決めておられる歴史を覆い隠し、原理史観に置き換えてしまいました。第三節アブラハムの家庭を中心とする復帰摂理アブラハムが鳩を裂かずにささげたことは、サタンのものをそのままささげた結果となり、結局、それはサタンの所有物であることを、再び、確認してやったと同様の結果をもたらしてしまったのである。全く意味が違います、動物を裂いてその間を通ることが、契約の方法です。違反した者は、動物を裂いたように切り裂かれるという意味です。 創世記15:11 猛禽がそれらの死体の上に降りて来た。アブラムはそれらを追い払った。 創世記15:12 日が沈みかけたころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして、見よ、大いなる暗闇の恐怖が彼を襲った。 創世記15:17 日が沈んで暗くなったとき、見よ、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、切り裂かれた物の間を通り過ぎた。 創世記15:18 「その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで、猛禽が死体の上に降りてきましたが、アブラハムは追い払って阻止しました。サタンが侵入したわけではありません。「日が沈むころアブラハムは深い眠りにつき、暗闇の恐怖が襲った」これは、鳥を裂かなかった失敗から来る恐怖ではありません。契約の阻止及び、選びの民の抹殺を企てるサタンから、今後執拗に狙われることや、神との契約に対する不安です。「煙の立つかまど」「燃えるたいまつ」は神の栄光。切り裂いた動物の間を通り過ぎたことが、神が契約にサインしたということです。アブラハムは寝てしまい、契約にサインしていないません。15:18「その日、主はアブラハムと契約を結んで言われた」と記されたとおりです。つまり神の一方的な片務契約、全責任は神が負うという契約、従って、アブラハム(人)が失敗しても影響は無いということです。イサク献祭アブラハムが雄羊を「象徴献祭」にささげたといっても、み旨から見れば彼と一体となって、彼の使命を継承したイサク自身が、献祭をした結果となるのである。このように、イサクは、アブラハムの使命を受け継いで、彼の身代わりの立場で、「象徴献祭」に成功して、「信仰基台」を蕩減復帰したのである。鳥を裂かなかったことが失敗でもなければ、アブラハムとイサクが一体になったわけでもありません。イサク献祭は、イサクは屠られて死に、死からよみがえったことを意味します。これは、イエス十字架の死と復活の雛型となりました。イサク献祭が行われたモリヤの山は特別な場所です。後にダビデとソロモンが神殿を建設し、契約の箱が安置されると、神の栄光シャカイナグローリーが降りてきました。ここは御国への門です。祭司は神殿で、傷の無い動物を屠り、血の供え物を用いて礼拝が行われ、その最終形が神子の十字架、主イエスの清い血により全ての罪が清算され、神殿の垂れ幕が裂け、御国への門が開通しました。主イエスの十字架により、救いの全ては完了しました。 ヨハネの黙示録11:1 それから、杖のような測り竿が私に与えられて、こう告げられた。「立って、神の神殿と祭壇と、そこで礼拝している人々を測りなさい。終わりの時には再びここに神殿が建設され、礼拝が行われています。文氏は、十字架の奥義をことごとく覆い隠します。アブラハム~イサク~ヤコブ~ユダ~ヨセフの聖書に記された解釈を曲界し、人々を福音から遠ざけています。聖書の神は契約の神、蕩減復帰の神ではありません。人がエデンで失ったのは永遠の命、得たのは永遠の死。十字架の死からの復活とは、失った永遠の命の完全回復です。死は完全に葬られました。よって霊肉共に救いは、主イエスの十字架の復活により成し遂げられました。復活では無く霊だったと思っているようでは、十字架の贖いの意味などわからないでしょうね。原理の人々は、二千年かけて伝えられてきた、福音の意味を履き違えています。「我々は、イエス様を否定しているわけではありません。」と言いますが、否定していることに全く気がついていません。復活の否定は福音の完全否定、永遠の死です。否定していないと言うのなら、失敗したなどとは言えないし、十字架の福音をベースに原理が展開されなければならないでしょう。事もあろうに、文氏は十字架を墓に葬りました。それは、主イエスが開いた御国への永遠の命の門をぶち壊し葬り去る行為。御国への道を閉ざし、入れないようにしようとしています。晩年の彼が認知症を患っていたことは、配信動画で誰の目にも明らかです。泡を食った側近の鶴子氏は、方向転換し論理を変更してしまいました。これに子女が母と敵対し、協会は分裂、最早三団体の三つ巴の争い、崩壊は決定的でしょう。キリスト教の歴史に移ります(一)ローマ帝国迫害時代四〇〇年イエスは、信仰の祖であるアブラハムの目的を完成なさるために来られた方である。ゆえに、アブラハムが「象徴献祭」に失敗したことが原因となって成就できなかった「信仰基台」を、民族的に蕩減復帰するため、イスラエル民族にエジプト苦役四〇〇年のサタン分立期間があったように、ユダヤ民族が、イエスを生きた供え物としてささげる献祭において、失敗したために成し遂げられなかった「信仰基台」を蕩減復帰するために、キリスト教信徒たちにも、エジプト苦役時代のような時代がくるようになったのである。この時代がすなわち、ローマ帝国迫害時代の四〇〇年であったのである。ローマ帝国の過酷な迫害が終わって、コンスタンチヌス大帝がキリスト教を公認したのが西暦三一三年であり、テオドシウス一世がキリスト教を国教として定めたのが西暦三九二年であった。それゆえに、この時代は形象的同時性の時代のうち、イスラエル民族のエジプト苦役時代の四〇〇年を、実体的な同時性として蕩減復帰する時代に相当するのである。ローマ帝国迫害時代という玉虫色的表現、キリスト教のスタートはAD30年そもそもローマ帝国迫害とは、誰に対しての迫害のことなのでしょう。キリスト教のスタートはペンテコステのAD30年。国教392年で計算しても362年、400にはなりません。 使徒行伝 2:1-4 口語訳 「五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。」聖霊降臨、ペンテコステ、ここからキリスト教はスタートしました。それ以前は律法の時代、キリスト教は存在しません。十字架による新しい契約がスタートし、律法は主イエスにより成就しました。ローマのイスラエルに対する迫害はBC63年から。イスラエル民族は、捕囚以降バビロン、メド・ペルシャ、ギリシャと迫害され続けて来ました。ひいき目に見て、主イエスの公生涯スタートAD27年頃で計算しても。AD27年~勅令313年=286年頃AD27年~国教392年=365年頃残念ながら、どう計算しても400にはなりません。主イエス誕生BC6~4年から国教認定AD392年までの400年という数字で、それらしく見せているだけでしょうね。キリスト教会時代は新しい契約の時代 エレミヤ31:31~40 主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。わたしは彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの契約を破ったと主は言われる。しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。神は、モーセ契約に代わる新しい契約を、エレミヤを通して約束されました。イスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。「エジプトの地から導き出した日に立てたようなもの」とはモーセ契約、律法です。律法は神とイスラエル民族との間の契約、異邦人には適応されません。エレミヤ預言に記された新しい契約十字架と復活を信じる人の心に刻み込まれる契約。1)我々の罪のために死なれた。2)死んで墓に葬られた。3)三日目によみがえり、天に昇られた。上記の福音三要件を信じることで義と認められ、聖霊が心に宿ります。モーセ契約は、石の板に記されてましたが、この契約は心に記される新しい契約。信じていない人の信仰は枯れてしまいます、救われてはいなかったということです。聖霊原理では聖霊を女性としていますが、それは珍説です。海外の聖書では、男性名詞HeやHimで記されてます。神には、男女両方の性質が内包されています。最後の晩餐の後、ゲッセマネへ向かう途中に、主ご自身が地上を去られた後、不安になった弟子たちに、主の身代わりの聖霊を各々に遣わすことをお約束になりました。そして、ペンテコステにて、各人に聖霊がくだりました。父なる神=創り主子なる神=救い主聖 霊 =助け主聖霊降臨 使徒の働き2:1~4 五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。 すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。 また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。 すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。この時からキリスト教がスタートしました。聖霊=He ヨハネによる福音書 14:26 新共同訳 しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。 John 14:26 AMPC But the Comforter (Counselor, Helper, Intercessor, Advocate, Strengthener, Standby), the Holy Spirit, Whom the Father will send in My name[in My place, to represent Me and act on My behalf], He will teach you all things. And He will cause you to recall (will remind you of, bring to your remembrance) everything I have told you. ヨハネによる福音書 15:26 新共同訳 わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。 John 15:26 AMPC But when the Comforter (Counselor, Helper, Advocate, Intercessor, Strengthener, Standby) comes, Whom I will send to you from the Father, the Spirit of Truth Who comes (proceeds) from the Father, He[Himself]will testify regarding Me.残念なことに、サンヘドリンが主イエスを受け入れなかったことにより、先の者(イスラエル民族)は後になり、後の者(異邦人クリスチャン)が先になりました。よって、ユダとイスラエルの家との契約は、終わりの時まで持ち越されることになります。キリストの血の贖い、神が約束された最後の完全なる契約。ギリシャ正教会、カトリック教会、プロテスタント教会、全ての共通認識で、これを信じていない教派は、キリスト教ではありません。韓定食様のブログを見て、なるほどなぁ~と思いました。http://kanteishoku008.blogspot.com/2008/01/1920.html400+400+120+400+210+400=1930年この数式は、文氏の出生年1920年ありきで作られています。歴史の事例を都合良く組み合わせ、無理矢理合わせているのがカラクリ、歴史のプロが検証すれば、この同時性は欠陥だらけでしょうね。そもそも聖書に記録された年数やユダヤ暦は、グレゴリオ暦とは違います。年数を合わせても意味がありません。