摂理的同時性
原理が創造した図面に、聖書の歴史を嵌め込んだ偏向史観
400+400+120+400+210+400=1930
この公式は1920年ありき。
原理数に合わせ込んだ聖書解釈にしなければならないのは、当然の流れでしょう。
そもそも、各区分での誤差を考慮すれば、2000年スパンで見た場合の、トータル誤差10年って胡散臭い。
通常の解釈であればこんな数字にはならないし、時代区分も違います。
今日のネット時代、もう説得力はありません。
あたかも「三代120年」であるかのような「統一王国時代120年」。
400を示したいがための「南北王朝分立時代400年」
前回に続き纏めてみました。
「統一王国時代」
「三代120年」が成り立つのは、サウル王が良い王のままで、ダビデを婿養子に迎えた場合です。
実際には、サウルの不信仰から、ダビデ家との争いに発展し、統一とは言い難い状況になってしまいました。
この時代の区分
「統一王国準備期42年」/サウル40年、イシュ・ポシェト2年
「統一王国73年」ダビデの33年、ソロモン40年、レハベアム1月
に分かれます。
「南北王朝分立時代400年」
この時代の区分
1)「南北王朝分立時代」210年
次の時代もまとめて400年にしていますが。
王朝がが分立していたのは、北滅亡前210年間。
それ以降は、南ユダ王国単独ですから、分立にはなりません。
2)「存亡猶予時代」150年
この時代は、北の悪政から、主を求める信仰者たちが神殿のあるエルサレムへ移住し、イスラエル12部族が南ユダに揃った時代。
信仰を守るか滅ぶかを選択する、王国存亡の危機、執行猶予150年。
内容が違いますから、合わせることには無理があるでしょう。
合わせても350~60年くらい、400年にはなりません。
とても似ているパターン
「エサウとヤコブ嗣業争い40年」→「サウルとダビデの霊的王位争い40年」
「ヤコブ、ハランへ逃亡」→「ダビデ、サウルから逃亡、洞窟~敵国ペリシテへ」
「ヤコブ、ラバンから結婚詐欺」→「ダビデ、サウルから結婚詐欺」
「エサウとヤコブの和解」→「サウルとダビデの和解」
「ヤコブ家族はカナンで共に暮らす」→「12部族の統一王国」
「ヨセフvsユダ(兄たち)の争い」→「北イスラエル(ヨセフ)vs南ユダ」
人の所業とその結末は、いつの世でも似たようなもの。
同じような現象がおこります。
どこにでもある、罪人たちの栄枯盛衰のパターン。
探せば、いくらでもあるでしょう。
これに、数字と解釈を都合よくあわせば、摂理的同時性の出来上がり。
第三章 摂理歴史の各時代とその年数の形成
第三節 復帰摂理時代を形成する各時代とその年数
(四)南北王朝分立時代四〇〇年
サウル王は、その四十年の在位期間に、神殿建設の理想を成し遂げることによって、み言(石板)の復帰のための、モーセの断食四十日期間を横的に蕩減復帰させようとしたのであった。しかし、彼の不信のゆえに、この期間を再び、縦からなる横的蕩減期間として、復帰しなければならなかったのであるが、これがすなわち、統一王国時代が、北朝イスラエルと南朝ユダに分立されたのち、ユダヤ民族がバビロンへ捕虜として捕らわれていくまでの、四〇〇年の南北王朝分立時代であったのである。
この時代は、象徴的同時性の時代のうち、ヤコブがエサウからパンとレンズ豆のあつもので、長子の嗣業を奪う条件を立てたのち、再びイサクの祝福と、神の祝福を受けて(創二八・13)、ハランの地に入るまでの四十年間を、形象的な同時性として蕩減復帰する時代であった。
第四章 摂理的同時性から見た復帰摂理時代と復帰摂理延長時代
第三節 統一王国時代とキリスト王国時代
あたかも、アブラハムの目的が、イサクを経て、ヤコブのときに成就されたように、アブラハムの立場にあったサウル王の神殿建設の目的は、ダビデ王を経て、ソロモン王のときに成就されたのである。
「神殿建設」というキーワードを使って、惑わしてはいけませんよ。
サウル王には、神殿に対する思い入れなどありません。
どこにそんな事が書かれているのでしょうね?
サウルは仮の王、神に反抗し退けられた王です。
神殿はダビデが資材調達し、ソロモン王のとき神殿建設が成就しました。
サウル王は関係無し。
サウル王の神殿建設の目的は、ダビデ王を経て、ソロモン王のときに成就されたのである。
サウルの目的はダビデを殺すこと、執拗に追い回すその姿は病的。
サウルに神殿建設の目的などありませんし、ダビデを経ません。
神殿建設はダビデの願い、彼は主に祈り求めました。
主は、多くの血を流したダビデが行うことを禁じ、ソロモンが建設するよう命じます。
資材の準備はダビデ、建設はソロモンが担当しました。
神殿はサウルとは無関係。
列王記の、全ての王の記録には、サウル王だけがありません。
使徒7:45~47ステパノの証言においても、ダビデとソロモンの言及はありますが、サウルの名はありません。
サウル王在位40年間
サウルとダビデの争い
サウルとダビデには、エサウとヤコブと思える内容があります。
サウルは時期尚早の王
サウルは油注がれ王となった
サムエル記上10:1
「サムエルは油の壺を取り、サウルの頭に油を注ぎ、彼に口づけして、言った。「主があなたに油を注ぎ、御自分の嗣業の民の指導者とされたのです。」
サウルは民衆の要望により、機が熟してない時選ばれた王です。
最初は従順でしたが、神に反抗するようになりました。
アマレク人を聖絶しなかったことや、自ら祭司業を行い王位を剥奪され、退けられてしまいます。
霊的王位がサウルからダビデに移行
サムエル記上 16:13
「サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼(ダビデ)に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。」
霊的王位は、サウルからダビデに移りました。
けれども、この世の王位はサウル。
油注がれ、神が共にいるダビデはゴリアテに勝利し、快進撃を開始します。
戦争に勝利したダビデに喜ぶ民の声「サウルは千を討ち ダビデは万を討った。」
サウルはこれを聞いて激怒し、悔しがりました。(サムエル上18:7~9)
この日以来、サウルはダビデをねたみの目で見るようになり、命を執拗につけ狙うようになります。
結婚詐欺(サムエル記上18:17~27、19:11~12、25:44)
結納金が無いダビデと、花嫁料の無いヤコブは、同じ立場です。
1).サウルはペリシテ人を殺し手柄を立てれば、長女メラブをダビデに与えると約束し、ダビデの戦死を画策した。
ところが、娘は別人へ与えダビデを騙した。
2).メラブの妹ミカルが、ダビデに恋したことを利用する。
ミカルを嫁に与える代わりに、ペリシテ人100人殺せと命じてダビデ戦死を画策した。
けれども、ダビデは倍の200人の成果を上げ、ミカルとの結婚を勝ち取ります。
ところが、サウルはダビデ抹殺に送り込んだ刺客から、ダビデの逃亡が始まります。
その逃亡期間中に、サウルはダビデの妻ミカルを、他の男へ嫁がせてしまいます。
逃亡
ダビデはサウルから逃亡、洞穴を転々とし、敵国ペリシテのガテの王アキシュのところに逃れますが、敵王の信頼までも勝ち得てしまいました。
和解1
サムエル記上 24:17-18, 21
「ダビデがサウルに対するこれらの言葉を言い終えると、サウルは言った。「わが子ダビデよ、これはお前の声か。」サウルは声をあげて泣き、 ダビデに言った。「お前はわたしより正しい。お前はわたしに善意をもって対し、わたしはお前に悪意をもって対した。
今わたしは悟った。お前は必ず王となり、イスラエル王国はお前の手によって確立される。」
エサウとヤコブ同様、サウルとダビデも和解しました。
自分の命を取らなかったダビデに、謝罪するサウル。
和解2
サムエル記上26:21
「サウルは言った。「わたしが誤っていた。わが子ダビデよ、帰って来なさい。この日わたしの命を尊んでくれたお前に、わたしは二度と危害を加えようとはしない。わたしは愚かであった。大きな過ちを犯した。」」
和解したはずでしたが、またもやダビデを追いかけ回すのでした。
「主に油注がれた方を殺してはいけない」と再び殺すのを拒んだダビデ。
驚いたサウルの謝罪、ダビデと再度和解します。
王位継承
最早サウル家とダビデ家の争いになってしまいました。
司令官アブネルは、サウルの息子イシュ・ポシェトをイスラエルの王としてしまいます。
サムエル記下 2:8-10
「サウルの軍の司令官、ネルの子アブネルは、サウルの子イシュ・ボシェトを擁立してマハナイムに移り、 彼をギレアド、アシュル人、イズレエル、エフライム、ベニヤミン、すなわち全イスラエルの王とした。 サウルの子イシュ・ボシェトは四十歳でイスラエルの王となり、二年間王位にあった。だが、ユダの家はダビデに従った。」
イシュ・ポシェトは2年間継ぎますが、結局は暗殺されてしまいました。
サムエル記下5:3~5
「イスラエルの長老たちは全員、ヘブロンの王のもとに来た。ダビデ王はヘブロンで主の御前に彼らと契約を結んだ。長老たちはダビデに油を注ぎ、イスラエルの王とした。 ダビデは三十歳で王となり、四十年間王位にあった。 七年六か月の間ヘブロンでユダを、三十三年の間エルサレムでイスラエルとユダの全土を統治した。」
これが、機の熟さぬ時に、民衆が王を選んだ顛末です。
もう少し忍耐していたなら。
霊的王位
ダビデは統一王として、33年間統治します。
ダビデの霊的即位は、油注がれた10代からですから、王位の期間は50年以上、サウルは10年以上は短いでしょう。
この世の王位
この世的サウル治世40年、イシュ・ポシェト治世2年。
7年6ヶ月の間は王が2人おり、まだ統一ができていなかったということです。
もう少し忍耐していたなら、結果は違っていたでしょうね。
時代区分
I.統一王国準備期間42年」II.統一王国時代73年」に分かれます
1)統一王国準備期間42年(サウルとダビデの王位争い)
エサウとヤコブ長子権争い40年」の蕩減復帰。
まだ王国の統一できていません。
2)統一王国時代73年は12部族が一つの国になった時代
ヤコブと家族がカナンに帰り、共に暮らした「カナン時代10年」の蕩減復帰。
東西分立王朝時代
「ユダ(兄たち)vsヨセフ」時代の蕩減復帰
カナンに帰還し、共に暮らしていたヤコブ家族。
10年後息子たち「ユダ(兄たち)とヨセフ」の間で争いが始まりました。
ヤコブの愛妻ラケルの子「夢見るヨセフ」を妬んだ兄たち。
ユダがヨセフをエジプトへ売ろうと言った張本人。
そのユダとヨセフの和解によって、エジプトへ隔離されました。
統一王国12部族も、ユダとヨセフの子孫が、南ユダと北イスラエルに分裂しました。
北王の悪政に、主を求める信仰者たちは、南の招きにより、エルサレムへ移住しました。
そして北は滅亡します。
従って、南北王朝分立王時代は210年。
その後の南単独時代は、イスラエル12部族が信仰を守れるからどうかの査定される期間、執行猶予150年といったところです。
※キリスト教に蕩減復帰の概念はありません
「南北王朝分立時代」は2つに区分されます。
1).南北王朝分立時代210年
2).存亡猶予時代150年
王国の分裂
①北王国=イスラエル(10部族)
初代王は、エフライム族のヤロブアム
ヨセフの子孫、ラケル。
エフライム族は長子の権利。
②南王国=ユダ(ユダとベニヤミンの2部族)
初代王は、ユダ族のレハブアム
ユダの子孫、レア。
ユダ部族は、王権、メシアの家系。
エジプトへ入る時和解した、ユダとヨセフの子孫が再び分裂します。
レハブアム王の失敗
ソロモンの死後、王位を継いだのは息子のレハブアム
その期間は極々短期間、ひと月くらいでしょうか?。
彼には王国を、主に立ち返させるチャンスが与えられていました。
長老たちのアドバイス「重税と重労働をやめる」に従っていたなら、統一王国は継続していたでしょう。
けれども、彼は若い友人たちのアドバイス(更に重い措置)を採用します。
これが北部の反発を招き、ソロモンに反発しエジプトへ逃亡していたレハブアムを王として担ぎ出し、分裂へ繋がります。
北王ヤロブアムの背神と滅亡
エルサレム神殿はエルサレムにある
エルサレムの神殿礼拝が、民の南回帰への心変わりを危惧した北のヤロブアム王は、こともあろうに、北部のダンと南部のベテルに金の子牛を安置。
これをエジプトから導き出した神だとし、高台には神殿を建て、エルサレム神殿礼拝を禁止してしまいました。
律法規定の祭司をクビにし、勝手にこれを任命し、自らも生贄を捧げました。
これは背神行為です。
イスラエルの男子は、年に三度の巡礼祭にエルサレムへ上らなければなりません。
信仰者たちは、南へ移住していきました。
北は下克上の悪王しか現れず、エリアやエリシャを遣わすも、背教が進み滅亡へ真っしぐら。
アッシリヤ捕囚。
※エサウとヤコブが和解し、実体基台が立った。
ところが北が先に滅んでしまい、和解する術が無くなり、南北の実体基台はどうなるのでしょう?これでは蕩減復帰できず摂理的に終わってしまいます。
どう解説されているのでしょうね?私の勘違いかな?
失われてはいなかった、北イスラエル10部族
北が滅ぼされ、10部族は歴史から消えてしまった。
南の残り2部族が、捕囚から帰還したと言われています。
12部族が揃っていなければ、メシアの来臨はありません。
残ったユダとベニヤミンの2部族だけではイスラエルにはなりません。
ルカ2:36
「その日、女預言者アンナも神殿にいました。彼女はアセル族のパヌエルの娘で、非常に年をとっていました。
ルカ書に登場する女預言者アンナはアセル族
北イスラエルの人が登場します。
歴代誌下 11:13-16
「イスラエル中の祭司とレビ人は、そのすべての領土からレハブアムのもとに集まって来た。 レビ人が自分の牧草地と所有物を捨ててユダとエルサレムに来たのは、ヤロブアムとその子らが彼らを遠ざけ、主の祭司であることをやめさせたからである。 ヤロブアムは、聖なる高台、山羊の魔神、自ら造った子牛に仕える祭司を自分のために立てた。 またレビ人に続いて、イスラエルのすべての部族の中から、イスラエルの神、主を求めようと心を定めた者たちが、エルサレムに出て来て、先祖の神、主にいけにえをささげた。
北王ヤロブアムは背神の王です。
エルサレム神殿礼拝の禁止、律法を無視した祭司の認定、彼は自らも生贄をささげました。
南北の戦争が始まろうとする頃、北王ヤロブアムに危惧し、信仰を求める全部族の人々が、北イスラエルの全土から、父祖の神を礼拝することができるエルサレムに移住して来ました。
10部族は戻ってきました。
歴代誌下 15:9-13
「こうして彼はユダとベニヤミンのすべての者およびエフライム、マナセ、シメオンから彼らのもとに身を寄せている寄留者たちを集めた。彼の神、主が彼と共におられるのを見て、イスラエルから多くの者が彼のもとに投降した。 アサの治世第十五年の第三の月に、彼らはエルサレムに集まった。 その日彼らは、分捕って引いて来た雄牛七百頭、羊七千匹を屠って主にささげた。 そして彼らは、心を尽くし、魂を尽くして先祖の神、主を求め、 子供も大人も、男も女も、イスラエルの神、主を求めない者はだれでも死刑に処せられるという契約を結んだ。」
南ユダ三代目アサ王、良い王で、統治40年の安定政権
北イスラエルから多くの人たちが移住してきました。
エフライム、マナセ、シメオン(北の全土を表す)から移住して来た人々はみなエルサレムに集まり、 戦利品の一部である牛七百頭と羊七千頭をいけにえとして主にささげました。
そして彼らは、父祖の神【主】だけを礼拝するという契約を結び、 違反者はだれでも、老若男女の別なく殺されても良いと誓いました。
歴代誌下 30:10-11
「急使はエフライムとマナセの地を町から町へと巡り、ゼブルンまで行ったが、人々は彼らを冷笑し、嘲った。
ただアシェル、マナセ、ゼブルンから、ある人々が謙虚になってエルサレムに来た。」
13代目ヒゼキア王の時代、在位29年、良い王。
北イスラエルがアッシリアにより滅ぼされた数年後のできごと。
捕囚で連れて行かれたのはエリート層、一般大衆は残っていた。
ヒゼキア王は、北の全土を見回り、残った人たちを過越の祭りに招待しました。
北から移住してきた人々を、南王が受け入れ和解が成立しました。
統一王国の復活といっても良いかもしれません。
この後が、民の信仰を見極める期間
「存亡猶予時代」
ここで駄目なら、バビロンでの更なる訓練が待っています。
南ユダ王国の失敗と滅亡
単一王朝で、20人の王が出現、8人が善王である。
民が主から離れ、偶像を礼拝するようになったことが、滅びの原因。
最初は秘密裏に行われた。
後に神殿では主を礼拝しながら、同時に偶像も礼拝するようになる。
そして堂々と主を離れ、敵の神々をおがむようになった。
偶像礼拝は最大の罪
前 586 年神殿崩壊、エルサレム滅亡、南王国はバビロン捕囚になる。
善王が好影響をもたらしても、真の霊的覚醒にはつながらなかった。
12部族民はバビロンに入ります。
エジプト入りの場合は、増え広がりでしたが、バビロンの捕囚は、信仰者と反抗者たちの選別、取り去ることが目的です。
BC722年アッシリア捕囚
136年後のBC586年バビロン捕囚、
北が210年で滅び、南はその136年後の346年で滅んだ。
400年には届きません。
バビロンがアッシリアを滅ぼし、アッシリア捕囚の民とバビロン捕囚の民が合流し、南北全土の捕囚の民はバビロンの管理下に置かれた。
ですので、捕囚10部族が失われたわけではありません。
捕囚から帰還神殿が再建された時の様子
エズラ記 6:15-17
「この神殿は、ダレイオス王の治世第六年のアダルの月の二十三日に完成した。 イスラエルの人々、祭司、レビ人、残りの捕囚の子らは、喜び祝いつつその神殿の奉献を行った。」
「この神殿の奉献のために雄牛百頭、雄羊二百匹、小羊四百匹をささげ、また全イスラエルのために贖罪の献げ物としてイスラエルの部族の数に従って雄山羊十二匹をささげた。」
BC516年(ダレイオス王の治世第六年)神殿再建完了した。
全イスラエル部族(12部族)の献げものを神殿にささげた。
BC586年(神殿崩壊)~BC516年(神殿再建)ちょうど70年。
アッシリアはバビロンに滅ぼされ、捕囚された北の10部族は南ユダ部族と合流し、共に帰還しています、滅んではいません。
南北王朝分立時代の期間
南ユダ国、各王在位期間合計が393年6ヶ月、原理はこれを根拠に400年を主張します。
けれども、即位元年を考慮してないので、おそらくは350年くらいでしょう。
400年には届きません。
ユダヤ式カウント法は、ユダヤ教の人に聞いてみなければわからないです。
北が無いから、分立になりません。
ユダヤ暦
グレゴリオ暦とは異なる。
新年は秋から始まり、1カ月が30日、閏月がある。
1日の始まりは夕方6時、夕方6時に日付けがかわります。
これを、現代の暦に当て嵌めるのは、いかがなものでしょうね。
そもそも、聖書の年代を、現代グレゴリオ暦に適応させることには、無理があるでしょうに。
次回は最後まで行きます。