吹奏楽部のみなさん、レッスンに通っていたりしますか。または、学校にその楽器の先生が来てくれたりしますか。顧問の先生や指導者の先生、生徒さんがよそにレッスンに行くことをどう思われますか。
こんばんは。
トロンボーン吹きで作編曲家、吹奏楽指導者の福見吉朗です。
ご指摘
以前、こんなことがありました。
ある、指導していた学校バンドの合奏で、あるときコントラバスの生徒に、
「もっと弓を使って!」と指導したことがあるのです。
ところが、その子が個人レッスンについている先生から、
『それは違うよ』というご指摘を受けてしまったのでした(詳しくは割愛します)。
こういうこと、ぼくはとてもありがたいと思うのです。
その子のためにもなるし、バンドのためにもなるし、ぼくも勉強になる。3鳥です。
レッスン
ぼくはそんなふうに思ったのですが…
(その先生が以前から懇意だったということもありますが…)
指導に行った学校で、生徒が誰かのレッスンについているということは少なくありません。
でも、世の中には…
自分のところの生徒がよそにレッスンに行くのを快く思わない指導者もいるのですね。
そんな話を聞いて、えっ!? と思ってしまったのでした。
なぜなのでしょうか。とても残念なことのように思えます。
閉鎖性?
レッスンに行くことを快く思わない…
そういう先生、どれくらいおられるのでしょうか。そして、
それってなぜなのでしょうか。考えてみました。
- 自分が教えたことと反することを教えられると、やりにくい?
- ちがう流派が入ってくると、合奏が合わなくなる?
- 子どもたちの中で進度に差が出来ると、和が乱れる?
- 生徒には、自分の言うことだけを聞いてほしい?
- 生徒から自分への信頼が揺らいでは大変だ?
どれであったとしても、ちょっとおかしな理由であるように思うのですよ。
なかには、「プロのレッスンは必要ない、プロとは接触させない」
なんていう先生や地域性もあるのだとか…
あるいは、SNSは禁止だとか、これ以外の演奏は聴いちゃダメだとか、ほんとうに呆れます。
こんなことでは、『吹奏楽部は閉鎖的だ』と見られても仕方がないように思いますよ。
先生は決して完璧な存在ではない
自分が教えたことと反することを教えられてはたまらない?
『先生』とは決して、完璧な存在ではありません。ここ、忘れてはならないところです。
間違うこともあるし知らないことだってたくさんある。
それを正してもらえれば、生徒のためにもなるし自分も勉強になる、そう思うのですが…
ちがう流派が入ってくると…?
そんなレベルなんですかね? それって、よほど高次元な音楽をしている場合の話ですよ。
そして、子どもたちはみんな同じ進度で上達成長するわけではないです。
だって、ひとりひとり個性があるのですからね。決して、良い悪いではなく。
それに、うまくなった生徒に刺激されてほかの子も伸びると思うのです。
生徒には自分の言うことだけを聞いてほしい? 自分への信頼が揺らいだら大変?
それではただのわがまま、だだっ子です。
いったい何のためにやっているのでしょうか。
ともに成長する
先生と生徒って、少なくとも一方的なものではないと思うのです。
ともに成長する、その過程にいる存在です。お互いに。
でも、自分の外にあること、自分の知らないことを否定、排除するようでは、
成長をやめた、成長する姿勢がないと言われても仕方がありません。
そんな人に、子どもたちの前に立ってほしくはないと、ぼくなら思います。
人を導く人は自らも、成長を欲している人でなければならないと思うのです。
そして、そういう素晴らしい指導者さんもたくさんおられる。これもまた事実です。
音楽って唯一の正解はないものなのかもしれません。
そういうものだからこそ、敬意を持って接したり対応したりすべきだと思うのです。
そして、ちゃんと伝えられる人間でありたいと、あらためて思うのです。
音楽に、ゴールはありません。
さて、あなたの吹奏楽部の先生は、自由にレッスンに通わせてくれる先生ですか。