マーダー・ライド・ショー
『マーダー・ライド・ショー』 (‘03/アメリカ)
監督:ロブ・ゾンビ
元ホワイト・ゾンビのフロントマン、ロブ・ゾンビが万を辞してとった長編デビュー作『マーダー・ライド・ショー』。
今までやりたかったことを全部詰め込んでみました、的な往年名作にリスペクトしまくりのホラーだ。
原題は『HOUSE OF 1000 CORPSES』。1000の死体のある家って言う意味。
タイトルが示すとおり、もう殺しのオンパレード。スプラッター描写も盛りだくさんのお祭り騒ぎで進んでいく。
こういう、血と暴力にまみれたホラーって、ここんとこすっかりご無沙汰だったんで存分に楽しめた。
若者4人がドライブ中に拾ったヒッチハイカー。彼女を送り届けた家ですべての惨劇が始まる。
ここの一家、さっきまで笑ってたのに、いきなりキレて暴れまくるような全員ぶち切れのサイコども。
ぜったいに夕食に招かれてもお断り願いたいご家族なわけだ。
しょっちゅう人をさらって来ては、殺戮の限りを繰り返しているこのサイコ一家。
一人一人がそれぞれお近づきになりたくないヤバさだ。もうね、プロットだけ見るとまんま『悪魔のいけにえ』。チェーンソー振り回して追いかけてくる奴は出てこないけどな。
ただ、『悪魔のいけにえ』はBGMには頼らずに恐怖を演出することに成功した傑作だったが、
この映画の監督ロブ・ゾンビはもともとミュージシャンだし、音楽もインダストリアル系だったりで
どことなくPVを見てるような、シリアス一辺倒にはしない撮りかたが面白い。
また、ホラー映画というのは大概が主人公=被害者という設定。殺人鬼やら化け物やらから逃げ惑い、
一人また一人と殺されていき、最後にヒロインが生き残ってメデタシメデタシ、なんてのはよくある。
この映画の視点はあくまでもこのサイコ一家なわけで、被害者に感じる恐怖を一緒になって感情移入しながらハラハラする、というよりは単純にこの一家と一緒になって「いたずら」を楽しむってスタンスだ。
そんなわけで、中でも面白いのがヒッチハイカーだったこの一家のイッチャッテル女。
この映画でやられちゃう女の子は、どっちかって言うと、田舎くさい地味な雰囲気に対して、
セクシーですごいかわいいんだな、これが。
いつもの馴染みのホラーだと、ひどい目にあう若者たちって、女の子はみんなセックスシンボル的な
セクシーな子で、殺人者はみるからに・・・ ってパターンが多いけど、
(『蝋人形の館』のパリス・ヒルトンや『テキサス・チェーンソー』のジェシカ・ビールなんてまさにそう)
でもこの作品はそれが逆なんだよね。これってやっぱり狙ったのかね。
何しろ主人公はこの一家だからな。そういう意味じゃ、この女こそがヒロインってことだし。
多少謎解き的なところもあるんだけど、そんなことはあまり深く考えず、
身も心もどっぷり、スプラッターと残虐描写を楽しむ方がいい。
『悪魔のいけにえ』同様、一家全員ブチ切れてるから何をするかわからない怖さも存分に楽しめる。
この『マーダー・ライド・ショー』、2000年にはすでに取り終えていたらしいけど、公開は2003年。
配給元が、そのあまりにも過激な残虐描写にしり込みしてたのが理由で3年も公開が延びたらしい。
結果は大好評で、すでに続編『The Devil's Rejects 』も公開されている。
やっぱ、みんなこういうの好きなのね。オイラも大好きさ!
奇人たちの晩餐会
『奇人たちの晩餐会』 (‘98/フランス)
監督:フランシス・ヴェベール
とてつもないタイトルだ。B級ホラーとかパゾリーニの作品みたいな、そうとう悪趣味な映画を想像する人もいるんじゃないだろうか。でもこの作品はれっきとしたコメディだ。それも、それこそ三谷幸喜なんかが喜んでパクってしまいそうな上質の密室劇だ。
主人公の男ブロシャンは、週に1回、バカを客として連れてきてはそのバカさ加減を競うという晩餐会の常連。
毎回「こいつこそ!」という選りすぐりのバカを持ち寄ってみんなで楽しんでるやつだ。
そんなブロシャンが運命ともいうべき偶然にみつけた今回の目玉バカがピニョン。晩餐会の参加の前に一度会ってみたいとブロシャンが家に呼んではみたものの、筋金入りのバカなもんだからさぁ大変。
こんな感じでストーリーが始まっていく。観る前に想像していたのは、タイトルどおり変な奴がたくさん出てきて、そいつらを晩餐会の参加者と同様に小バカにしつつ見ていくって感じだったけど晩餐会の様子はほぼなく、家の中という密室だけでストーリーが進行するドタバタコメディだ。
主演のこの二人のやりとりがボケとツッコミのコントのように展開していって、観ているこっちも同じようにピニョンにツッコミを入れたくなってくる。はっきりいって笑えます。ほんとバカだし。でも、鼻で笑うような小バカにしてみるっていうんじゃなく、どことなくほのぼのして優しい感じがした。
特に主演のピニョンを演じたジャック・ヴィルレのバカさ加減はバカにしておくにはもったいないくらいのすっとぼけたバカ演技で最高に面白い。
ラストはちょっとハートウォーミングな感じで終わるかな?って思ったらオチもやっぱりバカでした。
筋金入りのバカは家には入れないほうがいいでしょう。だってバカですから。
ハリウッドのコメディとはまた一味違う、フランス映画のコメディというのは
あまり観たことがなかったけど、なかなかどうして密室劇でここまで笑わせてくれれば大満足だった。
ブラックユーモア満載の80分ととても短い作品なので、さくっと笑いたいときにはオススメです。
※ピニョンを演じたジャック・ヴィルレは2005年1月28日に53歳の若さで亡くなったそうです。
バカバカ言ってごめんなさい。安らかに・・・
MAY
『MAY』 (‘02/アメリカ)
監督:ラッキー・マッキー
幼いころから内気で友達が出来ずに、孤独に暮らしてきたこの作品のヒロインがタイトルのメイ。そんな彼女の唯一の友達が、子供のころに母親が作ってくれた人形のスージー。きれいなガラスの箱から決して出さずにいるスージーはいつもメイと一緒。メイはいつも友達のスージーがいる部屋に閉じこもり、一人趣味の裁縫に没頭する毎日を送っていた。
子供のころからずっと友達が出来なかったメイだけど、やっぱり本当の友達が欲しいし恋もしたい。だけど、ずっと人と向き合ってこなかったメイにはそんなこともやっぱりうまくいかない。偶然出会った青年に恋をし、同僚の女の子とも友達になりたいと歩み寄ってみたもののやっぱりうまくいかない。
一見すると、恋や友達との関係に悩む、ありがちなティーン向けの映画のように思えるけど、ところがこれがホラー映画、しかもスプラッター要素の強いゴアムービーだから驚きだ。展開が進むにつれ、ただの内気な女の子に見えたメイがだんだんジェイソンのように次々と獲物を狙う殺人鬼のようになっていく。もちろん映像も、後半はかなりの血が飛び交う有様だ。
友達は「作る」ものではなく、「造る」もの。そう割り切ったメイは気になる周りの人を次々殺し、手や首などそれぞれの気に入ったパーツを寄せ集めて、得意の裁縫で完璧な友達(第2のスージー)を作ろうとする。この発想はなかなかすばらしい。ただ、ホラー要素だけみるとそれはもちろん目を覆いたくなるものも多いんだけど、このメイがなぜそうせざるを得ないのか、という点からみるととても孤独でもの悲しい。そこには、同世代の人間に対する嫉妬、そしてそこからくる逆恨みとも言うべき怒りが感じられる。人間って、根本には支配欲や嫉妬心だらけ。そんな自分を満足させられるのは、彼女にとってはやっぱり人形だけなんだろうか。作風はまったく違うけど、乱歩の『人でなしの恋』を少し思い出したね。
それにしてもまた面白い監督が出てきたと思う。新人とは思えない、映像のセンスと撮り方は余裕すら感じさせるほど。ただ人間を無差別に殺しまくってバラバラにしてみせる、なんていう映画はそれこそ星の数こそあるけど、そこにティーン特有の悶々とした雰囲気を取り入れたのはもしかしたらあまりなかったんじゃないか。
ジャンルに入れるのであればホラーではあるんだけど、ショッキングなシーンばかりが先行しているその他の映画とはまた違った印象を持つ作品なので、残酷描写があるからといって敬遠するのは少しもったいないかもしれない。くだらないティーン向け青春映画よりはよっぽど良く出来た作品だ。『チアーズ』や『アメリカン・パイ』もいいけどね。
ドッグヴィル
『ドッグヴィル』 (‘03/デンマーク)
監督:ラース・フォン・トリアー
この監督は徹底的に人間を奈落の底に突き落とすことをむしろ楽しんでいるようにさえ思える。ラース・フォン・トリアー監督の「アメリカ3部作」の1作と言われている作品のこの『ドッグヴィル』はプロローグと9つのエピソードからつづられる。舞台はロッキー山脈のふもとの小さな村ドッグヴィル。この映画は倉庫のような場所に、床にチョークで区分けしただけの恐ろしいほどに簡潔なセットで展開される。それはさながら舞台劇でも見ているかのような錯覚に陥るほどだ。
そんな、およそ映画とは程遠い恐ろしく簡潔なセットで描かれるのは、更に恐ろしい、人間の醜悪で汚れた側面-おそらく誰もが持ち併せている-をすべてさらけ出したかのような、全編を通して非常にストレス度の高い作品になっている。人間というのは、犬以下だ。とトリアーが感じているのであろう、この村の名前が表しているかのように、この『ドッグヴィル』では、個々がおそらく本来持っている人間の小汚い本質をみせつけられる。
公開時のコピーは、「美しき逃亡者があらわれ、一つの村が消えた」。
その環境から閉塞された村ドッグヴィルに、突然現れた女性グレース。その風貌からもどの村人とも違う彼女に対し、最初は警戒していた彼らも徐々に心を開いていくのだが。この映画で語られるのは、その村人たちとグレースとの心の交流を描く感動のストーリー。などではなく、最初は笑顔で迎えていたはずの村人たちが徐々に人間の持つ「汚い」感情を露わにしていき、思わず目を背けたくなるような行動を起こすことになる。この醜悪な村人たちの中にいる主演の二コール・キッドマンは、彼女が出演したどの作品よりも美しく見えるほどだ。
トリアーは大のアメリカ嫌いで有名(渡米経験はないらしいが・・・)。この作品もアメリカを風刺しているかのようにも見える。自分たちに利益をもたらすであろう、都合のいいときはニコニコと笑顔で歩み寄ってくるが、ひとたび用がなくなると、手のひらを返したかのように蔑視し敵対心を露わにする。この『ドッグヴィル』で描かれる村人たちは、そう考えるとまさしくアメリカそのもの。劇中にグレースが下す決断は、トリアー監督からアメリカに向けてのメッセージとして観ると、それはそれで面白い。さらに、どうせアメリカ人には意味がわからないだろうからいいや、位の蔑視も込めて。※エンドクレジットで流れるのはデビッド・ボウイの『ヤング・アメリカン』(笑
そんな深読みはともかく。そういう風刺ということを抜きにしてもラストはあまりにも残酷で心にがっつりとトラウマが残ること受けあい。ちなみに、この「アメリカ三部作」の2作目はカンヌでもやはり大反響だったようだ。『マンダレイ』という作品名のこの映画、今度は奴隷制の話らしい。トリアー監督、また徹底的にやるようだ。