セシル・B/ザ・シネマ・ウォーズ
『セシル・B/ザ・シネマ・ウォーズ』 (‘00/アメリカ)
監督:ジョン・ウォーターズ
商業映画には死を、ディメンテッド、フォーエバー!!!
ていうか、なんともセンスのない邦題だな。配給のプレノンアッシュの仕業か?そのまんまというかなんというか・・・
原題は『CECIL B. DEMENTED』。まぁ、日本では受けなそうな原題だが。
この作品は、個人的な独断によるフェイバリットムービーベスト10に余裕で入る名作『シリアル・ママ』も撮った、低俗映画界の巨匠、ジョン・ウォーターズによるアンチハリウッド的映画テロリストコメディ(激ブラック)だ。
パッチアダムス完全版を上映しているシネコンに乗り込み撮影と称し鉄拳制裁。フォレストガンプの続編の撮影現場に乱入し銃を片手に襲撃、などなどひたすら商業映画をぶっつぶすセシルとゆかいな仲間たちスプロケットホールズ。
究極のリアリティ、予算ゼロを追求した本物の映画を目指すセシルと彼が率いる映画テロ集団スプロケットホールズらがやや落ち目のハリウッド女優ハニー・ホィットロックを拉致、監禁し、彼らの映画への出演を銃をコメカミに突きつけオファー、というより強制。
セシルらはゲリラ的に街に繰り出し、リアルと映画の垣根を越えたテロ撮影を敢行する。もちろん映画の撮影なのに完全武装してね。空砲といいつつ、しっかり実弾も装填されてます。
お下劣、悪趣味映画を撮らせたらおそらく右に出るものはいないウォーターズ監督なだけに、モラルを完全に無視したブラックユーモアの連発。両親は映画の敵だと言い放つその姿勢はすばらしい。やれ、残酷だ、下品だと子供の想像力を意味不明のモラルで押さえつけるバカ親どもはやっぱり敵だよ。じゃ、『アニー』でも観てろってのか!というね。ましてや、上映中におしゃべりをする親など言語道断だ!究極の映画人というかただのバカというか。とにかくウォーターズ流のやり方で、全編映画への愛に溢れてます。
ただ、『ピンク・フラミンゴ』とか『フィメール・トラブル』の頃よりはかなり大衆向けだ。ウォーターズも年をとったのか。丸くなんなよ。
そうはいってもウォーターズの作品。他の監督の映画に比べるとやっぱりお下品にキレがあっていい。思わずニヤリとする場面では、となりにママがいないことをよく確認したほうが良いでしょう。例えば、スプロケット・ホールズのメンバーで元ポルノ女優チェリッシュの、「ジングルボール、ジングルボールって歌いながらイブの夜に家族みんなにレイプされた」件とかね。こういう映画って笑えない人には笑えないし、むしろ絶対に忌み嫌われるよな、やっぱり。
オイラもこの作品を観た後に、『いま、会いにゆきます』を泣きながら鑑賞できるような分別のある大人になりたいと思いますが、たぶん無理。
ちなみに、主演のメラニー・グリフィスは2000年のラジー賞ワースト主演女優賞にノミネートされた。惜しくも受賞はマドンナの手に渡ったけどね。勝てないよな、マドンナには・・・
スクール・オブ・ロック
『スクール・オブ・ロック』(‘03/アメリカ)
監督:リチャード・リンクレイター
コメディ俳優ジャック・ブラックの真骨頂といった『スクール・オブ・ロック』。
単純に心から楽しめる、ロックバカによる優等生向けロックコメディに仕上がっている。
バンドを首になり、居候している家からも家賃滞納で追い出されそうになっている土壇場の男デューイ。
そんな彼が、ひょんとことから成りすましで名門小学校の臨時教師になることに。
最初はただの金欲しさにやる気なくやっていたが、音楽の授業を見て、ピンとひらめき子供たちにロックの授業を始める。
算数?社会?そんな教科書は机にしまってよし!オレが本当の音楽を教えちゃる!そんな感じ。
だけど進学校の子供たちは、勉強ばっかで当然ロックなんて興味ゼロ。
「どんなバンドにする?」と聞けば、「クリスティーナ・アギレラ!」 「パフ・ダディ」、「ライザ・ミネリ」・・・
「歌いたい人!」と聞けば、指された女の子はアニーのトゥモローを歌いだす始末だ。
はぁ・・・ちがーう、ロックだ!!ロッケンロール!AC/DC、ツェッペリン、モーターヘッドだ!!
てな具合で、子供たちにロックの精神を根っこからアツく叩き込んでいく。
最初はしら~としてた子供たちもだんだんやる気になって、来たるバンド大会に向けて、
教室で校長にばれないように、コソコソ練習をスタートさせていく。
バンドの練習以外にも、当然ロックについてもお勉強。午前中はロック史とロック理論、午後は実技だ!
宿題は、往年のロックCDのご鑑賞だ!しっかり予習してくるように!てな具合だ。
もうね、ジャック・ブラックがとにかくいい!最高ですよ、先生。
子供たちのハートをがっちりつかむキャラだ。だいいち、子供たち以上に楽しそうだし。
『いまを生きる』と『ミュージック・オブ・ハート』なんかをジャック・ブラックが
ロックでグツグツに煮込んだ学園コメディといった感じか。
子供たちもみんな生き生きとしてて楽しそう。こんなクラスもあってもいいんじゃない?なんて思ったりした。
結局、偽者教師ってことがばれて保護者に攻め立てられるんだけど、
デューイは、「偽者だが、心から生徒たちと触れ合った」、なんて言うもんだから親は騒然。
いや、そういう意味じゃなくて・・・ ちょっとニヤリとしましたが。
そんな堅物な校長や親たちも、止めるはずで行ったバンド会場ではノリノリ。
子供たちの楽しげで新鮮な表情に、すっかり親たちも気持ちが変わっていって・・・
最後はこんな感じで、こういうコメディにありがちのハートウォーミングっぽく
丸く収まっちゃうラストなんだけど、ホロっときていっぱい笑える、久しぶりに
上出来なハリウッドのコメディで大満足だった。
子供たちはほぼオーディションで選ばれた子達だそうだけど、こういう映画に出られたのは
とてもいい経験になったと思うし、それこそ最高の課外授業だったんじゃないかな。
しばらくしたら、この子達の何人かが、すっかり大人っぽくなって
またスクリーンで見られるかも。特に「サマー」役の女の子は、travis的に気になったな。
シティ・オブ・ゴッド
『シティ・オブ・ゴッド』 (‘02/ブラジル)
監督:フェルナンド・メイレレス

1960年代、リオデジャネイロのある街は「City of God」と呼ばれていた。
すさまじい貧困のため、街にはまだ幼い子供たちもが犯罪に手を染め、
やがてそれはストリートギャングとして組織化され、
ギャング同士の抗争へ発展するなど、負の連鎖が続いていた。
強盗や殺人などは日常茶飯事で、子供たちですらドラッグに手を染めていく。
ニッポンでぬくぬくと育ってきた側から見ると、とてつもなくすさまじい。
まだ小学生ほどの子供が、銃を片手にギャングの一員となり生きていかなければいけない事実。
ギャングになって成り上がれば、この貧困から脱出できて地位も金も思いのまま。
そんなモラルが蔓延している世界。おおよそ、オレたちにはまったく想像もつかない世界だろう。
「あいつは気に入らないから殺しちゃおう」とか「次はあの店を襲おう」なんてことを子供たちが笑いながら言ってる。
だけど、これも世界のどこかにある紛れもない現実なんだ。
この作品に比べれば中学生が殺しあうというセンセーショナルなストーリーが、
政界の先生方の非難の的となったあの『バトル・ロワイアル』なんて単なる学芸会のお遊戯レベル。
あんな映画でゴチャゴチャ言ってるニッポンってやっぱり生ぬるいよ。
ストーリーは主人公ブスカペの視点で語られていく。
彼はこの貧民街で育ちながらも、ギャングという道ではなくカメラマンを志しいてた。
そんな彼が幼少のころを振り返る形で語り部となり、City of Godを二分することになる
ギャング団の発展から、衰退までをチャプター仕立てで追っていく。
結局は成り上がりのギャングたち。国の権力の力にはどうすることもできないし、ましてや抗争からは
失くすものはあっても、得られるものなんて何もないんだと問いかけられているような思いになる。
しかし、衰退するギャングたちの後にはもう次のトップを狙う世代が育っている。
この悲しい連鎖には終わりはないように感じたるラストは現実を浮き彫りにしているようだ。
そんな現実にあったであろう重いテーマを扱ってるけど、作品自体は別に説教じみてもいなくて、
陽気なBGMと青春ドラマ的な要素も相まって、わりとポップな感じに仕上がっている。
しかし、国によってこんなにも子供たちの育つ環境って違うんだなと改めて実感。
生と死がいつも側にあって、昨日まで友達だった奴も一度状況が変われば銃を向ける相手になる。
最初は子供たちは生きるために銃を手にし、強盗を働き、徐々に一目置かれたいと、
地位と名誉をその世界で得たくなるんだ。
この映画の原作はまさしくCity of God出身のパウロ・リンスという小説家が
1997年に発表したノンフィクション小説「神の街(Cidade de Deus)」。
実体験に基づいた原作ということで、この映画自体のリアルな描写も納得の一言だ。
2003年のアカデミー賞監督賞に外国映画でありながらノミネートされた『シティ・オブ・ゴッド』。
メイレレス監督、ハリウッドに染まらなければいいが・・・
ブラウン・バニー
『ブラウン・バニー』(‘03/アメリカ・日本)
監督:ヴィンセント・ギャロ
ヴィンセント・ギャロの吹っ切れない弱さが全編漂ってます。
突発的に失ってしまった愛を、どうしても失ったものだと認められずに
失くした愛に囚われてもがいている男の話。
うん、またまたギャロにぴったりです。
バイクレーサーで各地を回っている男バドが、失くした愛を受け止められずに
なんとかして、現実と対峙し、答えを求めようとしている。
後半まではほとんどロードムービー的に、バドの心のもがきと葛藤の旅に付き合わされる。
旅の途中に突然、元恋人デイジーの実家に行って彼女が飼っていた
茶色いウサギ(BROWN BUNNY)のことを母親と話していたり、
ガススタンドの女の子を誘ってみたり、街娼に声をかけてみるものの、
何もせずに金を渡して追い払ったりと、「こいつはいったいなにがやりたいわけ?」
という??が沸き起こるが、それは後半になってすべてクリアになる。
ストーリー後半に差し掛かって、ようやく元恋人のデイジーが登場し、セリフらしいセリフも出始める。
前半のバドの行動の心理が、後半になって感じ取れた時はラストはとても切なくなった。
果たしてバドは現実と向き合うことができたんだろうか?
ギャロはこういう、悩みに悩んでる男の役が似合う。
情けないんだけど、travis的にはやっぱり共感してしまうとこがあるんだよな。
また、この作品で最も話題になったのが、後半のギャロとクロエ・セヴィニーのカラミ。
もうね、ぼかし入ってますから。
どんなカラミかは、TOPの画像からご推察ください。
前半部分の?が衝撃的な種明かしで解消されると同時に、
このぼかしまじりのセクシャルな描写で観客に圧倒的な印象を植え付けてくる。
そりゃ、カンヌでバッシングも受けるわな。好きだけどね、個人的には。
この『ブラウン・バニー』、監督・主演、撮影や編集まですべてギャロが手がけたそう。
ギャロは他の監督に比べて、芸術家肌がとても強い印象を受けるけど、
芸術家というものは、どこか孤独で鬱屈した自身のフラストレーションを
作品にぶつけるものなんでしょうかね。ギャロの作品を見ると、そういう思いがします。
ファニーゲーム
『ファニーゲーム』(‘97/オーストリア)
監督:ミヒャエル・ハネケ
世の中で最も怖いのは、まったく理由がなく、いわれのない暴力を受けたときだろう。
相手を憎んだり恨んだり、とネガティブな理由があって成立する暴力ならまだわかる。
この作品で描かれる暴力にはまったく意味=理由がない。
ただ、「暴力」がしたいだけ。ゲーム感覚で楽しんでいるだけだ。
そう、例えるなら例の「コロンバイン高校」で起こった事件。
トレンチコートマフィアと自らを称した主犯の少年たちには特に人殺しに対しての理由などはなく、
ビデオゲームの主人公になったかのようにただ人間という標的を撃ち殺していただけだ。
ある別荘にバカンスを楽しみにきた3人の家族。
別荘についてしばらくすると、見ず知らずの若者2人が訪ねてくる。
最初はとても礼儀正しかった彼らだが、突然人が変わったかのようになり
主人のひざを、玄関においてあったゴルフクラブでいきなり叩き割る。
「さぁ、ゲーム開始だ。」、こう告げ、彼らのファニーゲームが何の前触れもなくはじまる。
人はしばしば、ある突然の出来事が起こるとしばらく状況を飲み込めずパニックに陥る。
この作品でも、被害にあう家族はまったく状況を飲み込めず、
自分たちがなぜこんな目にあるのか、こいつらは誰でいったい何が目的なのかを必死で探ろうとする。
そう、人はハプニングに遭遇したとき、
まず「理由」を考え、それを見つけることでたとえ少しでも平静を保つものだ。
だけど、この2人の若者にはその理由がまったくない。ただ暴力を振るう的を探していて、
「たまたま」この家族がその標的になった、ただそれだけだ。
こういう状況が一番怖い。
とても短い映画だか、とにかく衝撃的にストレス度の高い作品。
彼らのファニーゲームは標的が生きている限りは淡々と続けられる理不尽なゲーム。
もちろんハッピーエンドなどあるはずもなく、観終わった後もしばらくはストーリーを飲み込めなかった。
この作品の監督、ミヒャエル・ハネケが「暴力の怖さを改めて認識してもらいたかった」
と語っている通り、心底不快な気分にさせてくれる。
かなり覚悟を決めて観ないと、観たことをぜったいに後悔します。
オススメできない一本です。ご家族や恋人との鑑賞はお控えください。
受賞こそ逃したが、この『ファニーゲーム』は1997年のカンヌ映画祭でパルム・ドールにノミネートされた作品。
ちなみにこの年のパルム・ドールは今村昌平監督の『うなぎ』でした。どうでもいいか。