ホテル・ルワンダ
『ホテル・ルワンダ』 (‘04/イギリス・イタリア・南アフリカ)
監督:テリー・ジョージ
ようやく日本で公開されたこの『ホテル・ルワンダ』。
1994年、アフリカに位置するルワンダの首都キガリで起こった事実を基にした作品だ。
原作は、フィリップ・ゴーレイヴィッチ が著したルポ「ジェノサイドの丘」。
内戦後、微妙な均衡を保っていた二つの民族フツ族とツチ族だったが、
フツ族大統領が何者かに暗殺されたことを契機に、燻っていたものが一気に爆発し、
フツ族の人々がツチ族の市民を襲撃し始める。 結果的に数百万人の虐殺が行われた、
小さい国で起きた悲劇である。
主演のドン・チードルが演じるのは、ミル・コリン・ホテルの支配人をしているポール。
フツ族の彼だが、妻はツチ族。家族を守るため、ホテルに匿ううち、成り行きで結果的に1200人もの
ツチ族を助けた彼は、ルワンダのシンドラーと呼ばれたようだ。
この成り行きというのがポイント。決して彼はヒーローでもなんでもなく、ごくごく一般市民の一人であり、
最初は家族や自分が助かればいいと思っている。
人間であればこれは当然だろう。死が目の前で起こっている最中、家族を犠牲にしてまで隣人を助ける
者がいるわけがない。
つい昨日までは、民族の違いはあれど微妙な調和を保ち暮らしていた者たちが、
突然、堰を切ったように殺しあう。隣の家には銃やなたで武装した連中が、なんのためらいもなく殺しにくる。
街中では、逃げ惑う人々。それを何のためらいもなく撃ち続ける人々。
ラジオのDJは「ツチ族の連中はゴキブリだから皆殺しにしろ」と扇動している。そのいずれも、同じ人間。
しかも、見た目はまったくわからないほどで、どちらの民族なのかをIDで確認するほどだ。
一家団欒の食事中に、テレビに映る遠い異国の事件や事故、
そして、飢餓や内戦などのスクープ映像の数々。それをみても、おそらく大多数が、
「怖いなぁ」「かわいそう・・・」と瞬間的に思っても、目の前のステーキに笑いながら喰らいつくんだ。
例え同じ国内であっても、遠い場所で起こるそれらの映像は、ブラウン管を通して見れば、
ドラマやら映画を観ているのとほとんど変わらないスタンスで観ているのではないか。
自分たちに降りかからない火の粉は文字通り対岸の火事でしかない。
まさに、この映画で語られるのもそこ。遠い異国アフリカの内戦などに国連は興味がない。
ほっとけば鎮静化するだろう、そんなスタンスで手を差し伸べはしないんだ。
その結果として、数百万人が犠牲になったのだ。
しかし、この映画で語られるストーリーは僕らと同じ人間たちの間で起こった紛れもない事実だ。
何もできることはないかもしれない。ただ「怖い」「かわいそう」と見てみぬ振りをするか、
それとも例え遠いアフリカの国で起こったことであっても、しっかりと現実に起こったことを個々に受け止め、
少しでも何かを感じとることができるか。
後者の考えの人が少しでも多ければ、そもそもこういった悲劇はもっと早く終息したのかもしれない。
受賞こそ逃したが、アカデミー賞にもノミネートされた、決して派手さはない主演のドン・チードルは、
家族を精一杯助けようと形振りかまわず必死で奔走するポールをとても自然に演じていた。
監督・脚本はこれが映画初監督となるテリー・ジョージ。
製作当時、映画会社もドン・チードルでは売れない、との理由でウィル・スミスやウェズリー・スナイプス
などが主演の候補に挙がっていたそうだ。
・・・ぜんぜん感情移入できなかったろうな。地球救っちゃうような人だし。
9.11
オリバー・ストーンがあの題材を扱った映画を撮ったそうだ。
『World Trade Center 』 。タイトルはいうまでもなく、あの9.11の舞台となった場所だ。
主演はニコラス・ケイジで、全米公開は2006年の8月を予定しているようだ。
いったいどんな作品なのかは、現在ではあまりよくわからないが、
あれから数年が経ち、アメリカ国民がようやく冷静にあの出来事と対峙できるようになった、ということか。
ただ、監督が個人的にあまり好きではないオリバー・ストーンというところが少し気になるところではあるが・・・
『アレクサンダー』は結果的に散々だったし。もう「過去の」監督なんじゃないかと思ってしまうんだよな。
そして、もう1本この9.11を題材にした作品が同じく公開される。
タイトルは『FLIGHT 93 』。ハイジャックされ悲劇の最期を遂げた、ある1機の飛行機中での
出来事を描いた映画のようだ。監督は、『ボーン・スプレマシー』などのポール・グリーングラス。
※その後、タイトルが変更され『UNITED93』と改題されたようだ。(2006/3/24 追記)
いずれの作品も日本公開予定は不明だが、アメリカ国民がこの映画をどう捉えるかは、
遠い日本からでもやはり気になるところだ。
バス男
監督:ジャレッド・ヘス
『バス男』。・・・ この邦題は、配給も泣く泣くつけたんでしょう、おそらく。
原題は『NAPOLEON DYNAMITE』。この映画の主人公の名前だ。
この映画は残念ながら日本ではビデオスルー。大体、日本でこの映画が受ける要素はほとんどないだろうし。
監督も出演者も地味。おまけに映画の舞台もジャガイモだけが取り柄のど田舎、アイダホときた。
ただ、そんなことは抜きにしても十分に魅力的な映画だった。この際、『バス男』という邦題は忘れてもらいたい。
映画は特に、劇的な盛り上がりもなく全編主人公を囲む変なやつらを中心にだらだらと進んでいく。
爆笑するほどのコメディでもないけど、なんとなくこっちも脱力感たっぷりに見入ってしまう映画だ。
とにかくキャラがたってる。主人公のナポレオン・ダイナマイト(!)。まず名前からしてキテます。
だってダイナマイトよ。しかもナポレオンって・・・
名前だけは迫力のあるやつだが、いってみればただのボンクラ。
アメリカの高校生のもてない典型がスクールバスでの通学なんだそうで。
で、こいつももちろんバス通学。ただそれだけで邦題の『バス男』・・・。
このナポレオンが、もてない高校生を形にしたようなダサさ。
なんか、ファッションもジーンズにTシャツ(もちろんTシャツはズボンの中にしっかり入れてます)。
おばさんのような馬鹿でかいめがねに、決してソウルフルではない爆発アフロヘア。
おまけに、なんかいつも口がだらしなく半開きで目もうつろ。
うん、もてる要素ゼロです。逆にここまで徹底するのは難しいくらいに、かっこいいほどダサい。
だからといって、勉強ができるわけでもなく、授業中も空想の動物の落書きを描いてる始末。
しかもそれが恐ろしく下手。
学校での唯一の友達は、転校生のよくわからないメキシコ人のペドロだけ。
ナポレオンと同居している連中もなんだかやばい。兄貴のキップは30過ぎても引きこもりで、チャットに夢中。
転がり込んできた伯父さんのリコも、どうみてもズラにしか見えないヘアスタイルとあやしげなひげを蓄え、
これまたなにやら怪しげな商品を訪問販売している日々。
普通、この手の映画ってダサい高校生が、一目ぼれした女の子の目を向かせるため一念発起し、
ファッションを変え、体を鍛えたりして、なんとか意中の子をゲット!二人仲良くハッピーエンド。
なんていうストーリーが浮かぶもんだけど、この映画はそんな話は一切なし。
ナポレオンは、最初に見たまま最後までダサいボンクラのままだ。
アメリカの高校生の一大イベント、プロムナイトでも微妙なスーツで決め、女の子を誘うが
会場でいつの間にかバックれられる始末で。
そんなボンクラな日々に、少しでも変化が訪れるのが生徒会長選挙だ。
親友のペドロが、ただ女の子にもてたい、それだけの邪な想いから立候補を決意。
「僕にできることは何でもするよ。」というナポレオンだが、彼にできることは特には、ない。
はっきりいって、何の取り柄もないナポレオンだが、なぜか特訓していたダンスでそのペドロに
当選をもたらすんだからびっくりだ。
ステージで、ひとりダンスを披露するナポレオン。BGMはジャミロクワイだ(微妙)。
この映画終盤のナポレオンのダンスシーンは、マニアの間では大受けらしい。
この情けない映画の中で、唯一彼が輝いている(?)瞬間だ。
そんな輝けるナポレオンのダンスシーンを見たい方は、このFlashサイト を今すぐチェック。
これからダンスを学びたい方。このサイトでナポレオンダンスを身につけ、気になるあの子をゲットだ!
ナポレオンの名セリフを生で聞けるのはこのサイト 。これであの子のハートに止めを刺せ!GOSH!
よくあるコメディ映画のように、随所にネタをちりばめている、といった感じでは決してないこの『バス男』。
言うなれば、平日昼にやってる民放映画(もちろん吹替)をなんとなくぼーっと観ているスタンスで楽しめる。
なにも期待せず、なんとなく身を任せてみてほしい。そんな包容力のある映画だ。・・・ほんとか?
ちなみに、エンドロール後もちょっとしたオチがあるんで最後まで見逃すな!
本国アメリカではなぜか爆発的な大ヒットを記録し、
製作費わずか400万円ほどの超インディーズ作品ながら、40億円以上を稼ぐ大ヒットとなった。
しかもこの年のMTVムービーアワードでは見事作品賞を受賞したほどだ。
↑ナポレオンを演じたジョン・ヘダーのMTV授賞式でのひとコマ。じつは普通にいい男だったりする。
ボーイズ・ドント・クライ
『ボーイズ・ドント・クライ』(‘99/アメリカ)
監督:キンバリー・ピアーズ
衝撃的に辛い作品だった。
この『ボーイズ・ドント・クライ』は1993年ネブラスカ州フォールズ・シティという町で
実際に起こった実話を基にした作品だ。
性同一性障害という、たびたび映画の題材に使われるこのテーマを扱ったものは、
過去にはどんな作品があったか。
最近だと、『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』。ロックミュージカルのテイストを加えて、
心と体の葛藤をある種スタイリッシュに描いた秀作だった。
それに、『フィラデルフィア』という作品もあった。いわゆるゲイのため、
性交渉の末エイズとなり、不当に職場を解雇された末の裁判を描いた作品だった。
いずれの映画も、性同一性障害を背負い、決して大手を振って認められない
社会の中で、それでも認められたい、あるいはただ愛する人が欲しい、
という人間の本質にテーマを絞った傑作だった。
ただこの『ボーイズ・ドント・クライ』の中では、性同一性障害を持った者の心の葛藤、
というものはあまり描かれていない。
それよりも、性別とは、たまたま体がそうであるだけという下、一人の人間を愛することの真摯さ、
そしていわゆる同性愛といったセクシャル・マイノリティをやはり認めない、
社会の厳しい現実を描いているように思えた。
この『ボーイズ・ドント・クライ』では、保守的ないわゆる、周りとは違う存在を徹底的に
排他しようとする社会の醜さが、後半は目も当てられないほど辛く描かれる。
性同一性障害によって間違った肉体の中に閉じこめられてしまったブランドン。
女性でありながら、心は男性であり、いつかは性転換を行い体も男性になりたいと思っている。
ブランドンは生まれ育った町リンカーンから、期待を胸にフォールズ・シティという町にたどり着く。
この町で、男性として振る舞い、友人や恋人といった仲間もできていく。
周りの人間は、ブランドンを男性だと信じ接していくが、やがてその偽りが剥がれたときに悲劇が起こる。
ブランドンが一目ぼれをし、互いに愛し合うようになる恋人ラナは、しかしブランドンが女性であると
わかっても、すべてを理解し彼女を愛し続けることを決める。だが、保守的な小さな町でのできごと。
周囲に人間にはいわゆる「変人」と写るブランドンはスケープゴートのごとく排他の対象となってしまう。
男性として接してきた周囲が、ブランドンが女性であるとわかってからの態度の急変さは
それだけで見ていられないほど苦しい。まるで、汚物でも見るかのような蔑んだ目。本当に恐ろしい。
彼らには、もうブランドンは人間には写っていない。
そして、そういう状況の中で人間がとる行動は時に徹底的に残酷だ。
周囲は、「嘘をつかれた」「裏切られた」とさも、自分たちを正当化し非難するが、
その実はただ単に「気味の悪い」モノ、理解できないモノを排除したいというだけだ。
それも人間の汚く残酷な部分を徹底的に曝け出した方法で。
そのなかで、恋人のラナだけは性別という枠ではなく、一人の人間としてブランドンを愛した。
この映画の中では、観客同様ブランドンにとって、彼女だけが唯一の希望であり光だ。
「障害」という名称がついている、まさにそのものが偏見が決して消えることのない表れだと感じる。
前半の青春グラフィティ風な話しとは一点、暗く目も当てられない状況となっていく実話を元に作られた
この映画の中には、この重いテーマに対する解決策やメッセージといった「救い」をあえて盛り込んではいない。
主演のブランドンを演じたのはヒラリー・スワンク。この映画で見事オスカーを勝ち取った彼女の演技は、
本当に脱帽だった。ハリウッドの女優はおそらくオファーが来ても嫌がるであろう、難しいこの役を
文字通りすべてを曝け出す体当たりで演じきった。
また、恋人ラナを演じたクロエ・セヴィニーもすばらしかった。
(クロエは特に、売れっ子女優が嫌がりそうな役を率先してやりそうなタイプに見えるな。)
ハリウッド女優の中でも、この2人はそれこそ役を選ばない貴重な女優であると思う。
ヒラリー・スワンクについては、この作品と『ミリオンダラー・ベイビー』だけみてみても、
大げさかもしれないが、個人的には目の離せない女優だ。『ザ・コア』とか出演してる場合じゃないな。
この映画を観て、自分や周囲のことを考えてみた。
自分が、または恋人や友人が、こういった状況になった場合いったいどう周囲との関係が変わっていくのか。
この映画のように、とまではいかないまでも、少なからず偏見や誤解といったもので、
周囲とのバランスが今までどおり保てるかはやはり難しいのではないか。
そういったテーマを少しでも考えるきっかけになる作品だった。
オープン・ウォーター
『オープン・ウォーター』 (‘03/アメリカ)
監督:クリス・ケンティス
海を舞台にした密室劇とも呼べる作品。とにかく恐い。
この話は実話をベースに作られた作品だ。かなりの低予算で、しかもたった79分というとても短い作品ながら、
観客は、おそらく主人公2人と同様に時間が経つに連れて事の重大さを認識し、パニックに陥るほどの恐怖を感じるはずだ。
仕事に追われる毎日から開放され、ようやく休暇をとることができた一組の夫婦ダニエルとスーザン。
2人はバカンスを楽しむためカリブ海のリゾート地へ向かう。そこで、スキューバを楽しんでいた2人に悲劇が待っていた。見渡す限りの海。そのど真ん中に置き去りにされてしまった2人。
海という、ある意味開放的なシチュエーションの象徴とも呼べる場所が、際限のない密室として描かれている。
映画冒頭では、カリブ海の美しい海が、明るい太陽に照らされて心踊らされる画だが、
置き去りにされてしまった2人に襲い掛かる海は恐ろしく姿を変え、時として残酷に2人に襲い掛かる。
海は、空に照らされて幾重にもその姿を変える。明るい太陽の下では、さんさんと照りつける光に満ちるすばらしい光景だが、夜になれば、辺りは少しの月明かりが照らすだけの闇の世界だ。
この対照的な海の見せ方がストーリーの恐さをより描くカギになっていた。
置き去りにされた2人は、その理由についてお互いを責め合うが、互いになんとかしてこの状況から抜け出そうとする。しかし、どうあがいても助けは来ない。
ましてや足の着かない海、絶えず揺られ続ける波の中、心身ともに極限の状態に陥っていく。
さらに、2人の周りには腹をすかせたサメが集まってくる。生きたままサメのえさになる、という現実ではありえない恐怖。こういった恐さは計り知れないだろう。
自然という中では人間がどれほどちっぽけで、もろい生き物なのかを痛感するラストは悲劇的だ。
どうしても助かりようがない、となったときに人間はどういう行動をとるか。誰もが知っている、もっとも簡単な
最後の手段をとるかもしれない。
広い海を密室として描いたこの作品は、単純なストーリーではあるが、
だからこそ決して大げさではない恐怖をまざまざと見せ付けられる79分だった。
低予算だから良い作品が作れない、ということは映画においては「言い訳」にはならないんだと
改めて感じる恐ろしい映画だ。