その後1937年7月7日、盧溝橋で軍事演習をしていた日本に中国国民党軍から発砲される。この盧溝橋事件自体は4日間で収束するものの、近衛文麿首相はこの時中国へ3個師団を派兵、華北の侵攻が進んでいく。この時に一度、蒋介石と会談をする準備があったのだが近衛はこれを拒否、上海へと侵攻をしていき第2次上海事変が起こる。さらには松井岩根の主張で南京攻略が目標とされ、正式な補給も装備もないまま兵士たちは400kmの道のりを進む事になる。この際、日本軍は「徴発」と称して食糧、燃料、資材、牛馬等を略奪して行く。
南京は首都と見られていたが、実際には国民党政府は重慶に移動しており、蒋介石も王兆銘もいなかった。それにもかかわらず日本は南京攻略を目標とし、さらにはここで2度目の蒋介石との会談のチャンスを近衛が拒否し棒に振る。近衛は1938年1月16日に「爾後国民政府を対手とせず」との声明をだし、日中戦争は泥沼になって行く。
新たな同盟国を探していた日本は、ドイツに接近をする。ソ連への牽制と海軍技術を手に入れようとした。この時ドイツは、1933年にヒトラーが首相になり、米英と対立する可能性が高かったことから反対する動きもあったが、世論がこれを後押ししたこともあり日独防共協定を結ぶ。
ドイツはその後領土拡大の方針をとるが、ベルサイユ条約が厳しすぎた事から、最初はイギリスもフランスもドイツに対して同情的であった。1938年には、ミュンヘン会議でズデーデン地方の割譲を認める。しかしドイツに対して譲歩的だったのはここまでで、ドイツがポーランドの自由都市ダンツィヒ(グダニスク)への自由交通を要求しただけで、イギリスの首相チェンバレンはポーランドと同盟を結び、ドイツがこれ以上要求する場合は先端を開くと言ってきたのである。
これに対してドイツはポーランドに対して利害が一致するソ連と1939年8月23日、独ソ不可侵条約を結び、その9日後にポーランドに侵攻を開始する。これに対して英仏は宣戦布告をし、第二次世界大戦がはじまる。
日本も日中戦争に対して、国力の全てを戦争に使うために国家総動員法が施行、政党も大政翼賛会に結集される。この大政翼賛会は近衛文麿が新たに一つに団結した政党をつくるのが目的であったが、各政党が解党して一つとなったため、権力争いが起こることとなり失敗するのだが、これにより日本は戦争の準備を整える。
ドイツと結びついている事から米英と対立した日本は、石油を奪いにインドネシアを目指す、南進論を展開する。山本五十六等の反対もあったが、世論の後押しもあり日独伊3国軍事同盟を結び、南を目指す。さらに最も大きな障害となるソ連については、1941年4月に日ソ中立条約を結ぶ。アメリカはこれに憤慨し、日本に対して鉄くずの輸出を禁止、イギリス、オランダもこれに続いた。
ドイツの快進撃によりフランスは無条件降伏し、日本はフランス領インドシナに進駐する。軍部の暴走にたいしてなんとかアメリカとの会談を求めていた近衛首相は、アメリカの求める様に強硬派の松岡洋右を辞任させ、ルーズベルトに諒解案を提出するなどする。しかし南ベトナムまで進駐したのを見てアメリカは日本に対して強硬案を展開、会談は受け入れられなくなってしまった。近衛は辞職、東條英機が新たに首相となった。
日本はアメリカと戦争しても勝てる見込みはなかった。しかしアメリカに奇襲をかけ、戦意をなくしてしまえば、そのうちに石油を確保し、なんとかなると考えていた。そこから生まれたのが真珠湾攻撃である。軍本部は反対であったが、山本五十六が自分の首をこの作戦にかけたため、行う事になってしまった。12月8日に行った真珠湾攻撃は大成功を収めるが、山本五十六は魚雷兵器を得意としていなかったため、南雲忠一がその場を指揮していた。ところが国際法に則り宣戦布告をするはずが、駐米日本大使の事務上の遅れから攻撃の1時間後になってしまった。これにより「リメンバー・パールハーバー」の標語と共にアメリカの戦意を高揚させてしまったのである。
それから1942年5月までは、日本の快進撃が続いた。白人優位の神話を打ち破ったとして、インドネシアのスカルノや、ビルマのアウンサン将軍、インドのガンジーなどに希望も与えた。しかし1942年、日本が本土爆撃をされた事から、その基地であるミッドウェーを叩くため、日本は大部隊を派遣する。しかしこのミッドウェー海戦で日本は大敗を喫し、ここから劣勢に追い込まれる。その後は1943年にガダルカナル島を失い、5月にはアッツ島守備隊が全滅。その後は千島、小笠原、マリアナ、カロリン諸島を結んだ「絶対国防圏」を敷くも1944年6月にマリアナ沖海戦の敗北とサイパン島陥落で破られる。以後はサイパンから飛び立ったB29による本土爆撃が激しくなり、10月にはレイテ沖海戦で連合艦隊はほとんどの艦船を失い、1945年2月には硫黄島の戦いで玉砕、4月にはアメリカ軍が沖縄に上陸してくる。
ヨーロッパ戦線でも、1943年2月にドイツがスターリングラードでソ連に降伏して以来、劣勢が続いていた。9月にはイタリアが無条件降伏をしていた。1945年にはいると2月4日~11日にヤルタ会談で米英ソが戦後処理を話しあっており、戦争の終着点も見えてきた。この中には、ドイツ降伏後3カ月以内にソ連が日本へ宣戦布告をする、という条項が密約で加わっていた。
4月30日にヒトラーは自殺、5月7日に無条件降伏を行った。日本はなんとか戦争を終結させようと、ソ連に連絡を取ろうとするが、ソ連はこの働きかけに応じなかった。この後7月17日にはポツダム宣言が発表された。
この頃、本来はもうソ連の力を必要としていなかった上、領土問題等からアメリカはソ連に日本への介入をされたくないと考えていたが、ソ連は千島列島、樺太南部、満州の権益のために8月8日に満州を攻撃、60万人の日本人を抑留した。そして同時期には、アメリカのマンハッタン計画=原爆製造が完了しており、長崎、広島に原爆が投下される。これはソ連へアメリカの力を見せつける意味合いが強かったと考えら得る。
8月9日に原爆が投下されてすぐ、御前会議にて降伏する事が決定され、玉音放送により国民に敗戦を告げる。日本は9月2日にアメリカ軍艦ミズーリで調印を行い、戦争は終結を迎えた。