日本の近代(下) まとめ1 | 怠け者のつぶやき

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今更だけど本でも読もうか、ってことで色々と
本を読んだりニュースを気にしたりしてつぶやいてます。

第一次世界大戦後の日本は、明治から目指していた列強と肩を並べる地位にまでやってきた。これは、第一次世界大戦終結時のパリ講和会議に英米仏伊と並ぶ五大国として参加する事により目に見える形で達成している。しかし五大国として初めてのこの会議で日本はほとんど発言ができず、「サイレント・パートナー」と揶揄されてしまう有様であった。

第一次世界大戦時の成長は、日本を準工業国へも押し上げた。これにより社会の流動性は高まり、様々な価値観があふれるようになった。これに対応するように、安く本を手に入れられるようになる事で大衆が読書をできるようになったり、日本初のラジオが1925(大正14)に始まったりする。

この頃の日本は生活も不安定であった。戦争景気が終わる1920年頃には不況へと移り変わり、1923年の関東大震災が発生するなど、時代の移り変わりも激しくなっていく。今よりも失業率はずっと高く保険もなかった時代でもあり、人々は不安を抱えていた。当時前衛的に考えられていた社会主義運動は少しずつ活発になって行き、1922年には第一次日本共産党が結成される。共産党は労働者の味方の様な運動を行っていたため、多くの人々が共産党員として活動を行っていき、1925年の第1回普通選挙では8名の当選者を出した。最終的には君主論を廃止する事を掲げている事から、三・一五事件で田中義一が大検挙を行い1500名以上の逮捕者を出すなど弾圧により表舞台からは姿を消してしまうが、共産党員は世界と繋がっていると言う自負と責任感があった。

政治も大きな権力と思想の激しいぶつかりあいがあり、結果として迷走をしてしまっていた。第一次世界大戦後に国際連盟を発足、ワシントン講和会議、ロンドン海軍軍縮会議など、世界はこれまでの軍事力による領土の取り合いをやめ、国際協調を行って行く方向を模索していたのに対し、日本はこれまで通りの理屈で領土拡大を行おうとしていた。

この時代、不満を持った国民、軍人は実力行使へと出ることも多かった。当時国民感情はアメリカに対して良く思っていない中、英米協調外交を進めようとした原敬は、同時に政党政治を成熟させることにも尽力していたが、ワシントン講和会議の直前に暗殺され、日本の経済を復活させようとして金本位制を導入した浜口雄幸は世界恐慌に巻き込まれた事から東京駅で国粋主義者に襲われ銃殺される。軍部が主導を握らなければならないと蹶起した将校たちは、五・一五事件で犬養毅を銃殺、二・二六事件では高橋是清蔵相ら要人を殺害している。

1925年に普通選挙が施行される事を気に、国民に寄り添った政治が求められるようになってくる。政党政治により、政治家、財界人、役人など組織が分かれて来る事によって大衆の事が分からなくなる中、徴兵を行っていた軍部のみが大衆の心をつかむ事ができていた。そのため軍部が少しずつ台頭してくることとなり、ここから多くの戦争が起き始める。

この頃の最も大きな問題は満州を軸にした領土の拡大を行うかどうかであった。米英協調路線とする幣原喜重郎に対して、石原莞爾や永田鉄山などは満州の権益を守るためには強硬策も辞さない考えで会った。これをまとめた田中義一と森恪(つとむ)は強硬策も辞さない覚悟は認めるも、列強の機会均等も守るという中途半端な策となってしまった。

 1928624日、奉天近くで鉄道を爆破する張作霖爆殺事件を起こす。実行部隊のリーダーである河本大作は、張作霖という俗物に満州を守らせる事が、国益に適っていないという話しをしているが、軍部がどの程度関わっているかは分かっていない。事件後は政府が押さえつけた事により事件は沈静化するのであった。

 張作霖爆殺事件については落ち着いたものの、満州の権益を守る事を考えていた。そこで今度は張作霖の息子張学良との決戦を目論むが、張学良軍の方が兵力が多く、直接の衝突は避けたかった。軍部は1931918日、奉天郊外の柳条湖にて満州鉄道の線路を爆破、これが中国の破壊工作であると言う事を大義名分として張学良軍に宣戦布告をする。日本軍は迅速に兵站も連絡、移動経路も全て断つ電撃作戦を行い、わずか600人の兵力で15千人の張学良軍を破り、さらに張学良軍は兵器もその場に置いて行かせるのであった。

 これを受けた若槻礼次郎内閣は、すぐに不拡大方針を発表するものの、ここでやめては張作霖爆殺事件の二の舞か、もしくは満州の権益がなくなると考えた現地の石原莞爾はこれを無視して戦禍を拡大、さらには林銑十郎朝鮮軍司令官も独断で手薄になった奉天に進駐を行う。

さらにこれに続くように満州国として建国する事を考えていたが、軍中央部に反対され方向転換を余儀なくされる。そこで、他に目を向けさせているうちに行ってしまおうと考え、1932118日に第1次上海事変を起こす。第1次上海事変は、買収した中国人に上海で日本人を襲わせ、これを口実に上海へ侵攻すると言うものであった。これは5月までもつれる事になるが、その最中の3月に軍部は満州国の建国を宣言する。

 奇しくもこの時日本には満州事変の件でリットン調査団がやってきていた。ところがリットン調査団は日本への悪い印象をぬぐい去れないまでも、中国に対する不信感の方が強かったためか、満州国を認めないものの日本に対して有利な報告を行う。しかしこれは日本も非を認めなければいけない部分があり、大義名分が亡くなってしまう事を恐れたため、1933年の国際連盟特別総会で松岡洋右が反論をする。それでも日本の主張は受け入れられず、外相内田康哉の指示もあり、日本は国際連盟から脱退する。