無人の家で発見されなかった手記 -17ページ目

無人の家で発見されなかった手記

──ある素人小説家の陳述

                                      9

「霜月君、キャンプ場へ行ってくれないか。キャンプファイアの跡というのを調べてみてくれ。そこで見つけたものの特徴をできるだけ詳しく教えてほしいんだ」
「ちょ、ちょっと待て利御」
「時間がもったいない。質問は受けつけないよ。こうしている間にも証拠が逃げていってしまう可能性がある」
「どこに逃げるっていうんだよ」
「警察の手に」
「おい」
「何も警察を出し抜こうっていうんじゃないよ。何かを見つけたら、君は素直に警察に知らせればいい。ただその前に、じっくりと観察してほしいだけだ」
「何があるんだ? 具体的に言ってくれ」
「探せば判るよ。――まあ、言っておこうか。ブラウスだね、たぶん」
「ブラウス?」
「そう、夏物のブラウスだ。それと、凶器のナイフに指紋があったかどうかも警察の人に訊いてきてくれ。さらに、遺体に動かされた跡がないかどうかも」
「そんな、簡単に言うけどな」
「君はフリーライターだろう? お手のものじゃないか」
 わたしを新聞記者か何かと勘違いしているらしい。確かに警察に話を聞くこともたまにはあるが……あまり気乗りしない。
「それでは頑張ってくれたまえ。期待しているよ」
 うむを言わさずロッジを追い出されてしまった。
 どうしてわたしが――とぼやきながらも、彼の自信に満ちた態度に逆らう気にもなれず、こうしてキャンプ場まで来てしまった。
 まずはキャンプファイヤーの燃え残りから見てみようかと思ったが、途中で刑事に出会ったので予定を変更することにした。今朝の事情聴取の際に一条警部補の後ろでメモを取っていた刑事だ。彼はキャンプ客たちから聞き込みをしているところだった。
「あの、刑事さん」
「はい? ああ、今朝の――」
 蚊の鳴くような声である。
「ちょっとお話があるんですけど、いいですか?」
「え? ええ、いいですよ構いませんよ」
 出世しないタイプだなと思った。出世するから人間として優れているというわけでもないが。刑事は小紫(こむらさき)と名乗った。
「ちょっと思ったんですけど――」
 何か気づいたことがあったら言ってくれと、一条警部補が言っていた。
「はい、なんでしょう?」
「凶器のナイフなんですけど、指紋って、もう調べました?」
「え? どうしてですか?」
「いえ、気になったものですから。ひょっとしたら、わたしの考えが正しいかもしれないなぁと」
 適当な台詞である。気を持たせて様子を窺おう。
「どんな考えでしょう」
「指紋があるかどうかで違ってくるのですが」
「ああ、そうですか。……指紋はありませんでしたよ」
「もう調べたんですか」
「ええ、たったいま連絡が入りまして。遅いくらいですよ」
「誰の指紋もないんですか?」
「そうです」
「犯人が拭き取った――?」
「でしょうね」
「それと――」
「まだ何か?」
 小紫がわたしの顔を覗き込む。
「黄腰さんは――遺体は――動かされたような跡って、あるんですか?」
「どうしてそれを?」
「! ――あるんですね?」
「い、いや、ええと」
 解りやすい刑事だ。
「教えてください。他言はしません」
「……確かに、死後動かされた痕跡はあるようですよ」
「どんなふうにです?」
「硬直が始まってまもないくらいに、両腕を動かされたみたいですが。これ以上はちょっと――」
 これ以上は言えないのか、それとも知らないのか判っていないのか。
「そうですか、どうもありがとうございました」
 わたしは立ち去ろうとした。小紫が慌てて止める。
「あ、あの、あなたの考えっていうのは――」
「ああ、どうやら思いすごしのようです。すみません、お手間を取らせてしまいまして」
 今度こそ立ち去った。

 次はキャンプファイヤーの石組みである。一辺が一メートルほどの直方体だ。当然、井戸のように上部は口を開けている。相当年季が入っており、全体が黒く煤けてしまっている。
 近くに人はいない。ここはキャンプ場のほぼ中心部になるのだが、キャンプファイヤーの場所を確保するため、付近にテントを張ることは禁止されているのだ。わたしは中を覗き込んだ。
 木材の燃え残りがいくつも積み重なっている。黒以外の色が見当たらない。利御はブラウスとか言っていたっけ。黒のブラウスだったら、見つけにくいことこのうえない。
 何か掻き回す道具がほしいなと周りを見回すと、石組みの脇に、おあつらえ向きな火箸が立てかけてあった。持ったこちらの手が黒く汚れてしまいそうなほど古びた火箸で、実際わたしの手は汚くなった。
 長い火箸の先で、手近の大きな木ぎれをどけた。すると、いきなり何か白いものが見えた。見つけた。あまりのあっけなさに笑い出したくなるくらいだ。
 それは、丸められた白いブラウスだった。長袖だが、通気性に優れた薄い生地が使われている。長袖で日焼けを防止しつつも着心地が涼しいという、特に夏向けのブラウスだ。ところどころ、煤で黒く汚れている。わたしはそれを、手に取って広げてみた。
「えっ――!」
 黒い汚れだけではなかった。ブラウスには、赤黒い染みもついていたのだ。しかも大量に。
 これは間違いなく血痕である。ちょうどお腹のあたりに大量に付着している。わたしは目眩を覚えた。
 よく見れば人の手形のような染みである。誰かが血まみれの手のひらを押しつけたような。ブラウスを着用している人が自分の腹を押さえたら、こうなるだろうか。だが少し不自然な形にも見える。ただ単に押さえただけではない。まるで自分の胴体に腕を巻きつけようとしたかのような。自らの身体を抱え込むような。
 左の脇腹には切れ込みが入っている。胸のあたりもよく調べてみたが、こちらには見当たらなかった。血痕はあったのだが。その血痕も、腹部のものと比べると控えめに思えた。念のため背中も確かめてみる。切れ込みはない。血の染みもそれどほない。
 なんてことだ。なんということだ。
 利御の言ったとおりになった。これはいったい、なんなのだ。
 わたしは周囲を見渡した。今のわたしは明らかに不信人物であろう。
 誰かと目が合った。グレイのスラックスに白のワイシャツ。さっきの小紫刑事だ。近づいてくる。
「――あ、あなた。ええと、霜月さん」
「は、はい」
「どうかしましたか。――それは?」
「あ、あの、その」
「そ、それは――血ですか!」
 小紫が奇妙な顔をした。驚きで目を見開いているつもりなのだと解るのに、五秒ほどかかった。
「霜月さん、それって――」
「いや、なんとなく、何か手がかりになるものでもないかと探っていたら、その、偶然見つけまして」
 しどろもどろになりながらも、なんとか説得を続けた。相手が気弱な刑事ひとりきりなのが幸いした。一条警部補でもいようものなら、包み隠さず何もかも喋ってしまっていたかもしれない。
「――まあ、それはこちらでお預かりします。あとであなたの指紋も採らせていただくことになりますけど」
「ああ、それは構いません。いつでもどうぞ」
 利御の言ったとおり、証拠品は警察に渡した。見つけたいきさつも誤魔化した。じっくりと観察することもできた。
 わたしは急いでロッジへ向かった。昨日から何度この道を往復したことか。

「なんだ、電話をくれればよかったのに」
 ロッジ村入口の自販機で買ったであろうコーヒーを飲みつつ、涼しげな顔で利御は言った。
「直接会わなければ報告できないのかい。まあそれならそれでいい。君の8の字ダンスを見せてくれ」
 得意の皮肉も、意味不明のジョークも、今のわたしには通じない。興奮に満ちたていで、わたしは調査の報告をまくしたてた。
 すべてを話し終え、目の前の男の反応を待った。
 利御はコーヒーの最後の一滴まで啜ると、ことん、と缶をテーブルに置いた。
「完璧だよ。もう解決したも同然だ」
「嘘だろ」
「嘘なものか」
「だって、何を根拠に」
「あのねえ、霜月君」
 心から見くだしている、といったふうだ。
「君が見聞きしたこと、ならびに僕の言ったことだけでも、充分すぎるほどの情報が揃っているんだよ。あとはちょっと考えれば解るじゃないか」
 まったく見当がつかない。やはり、まだいい加減なことを言っているのではないか?
「さてそれじゃあ、犯人をここまで呼んできてくれないか、霜月君。直接話しておきたいことがあるんだ」
「誰だよ、いったい」
「君の後輩だよ。ほら、あの人」
 そして利御は、その人物の名前を口にした。

 

第10回

 

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                                      8

「酷い、酷いぞ。酷すぎる!」
「いいじゃないか。ああでもしなければ、僕が無事に逃げられなかった」
「だからって――」
「それに、君へのアドバイスは適切だったよ。君は刺されず、僕も逃げ延びる。最高じゃないか」
 わたしをスズメバチへの人身御供に捧げて自分だけ逃げだした我が親友への殺意は、ひとまず横に置いておくことにした。いつか見ていろ。
 そんなことよりも、大切なことがある。
「黄腰さんが――殺されたんだ」
 わたしはロッジへの道すがら、利御に事件のことを話して聞かせた。発見の様子から皆の昨夜の行動、鼻持ちならない警部補について、三井寺の語った〝精神的な密室〟のことも。
 利御は哀しむことも驚くことも怒ることもせず、ただ淡泊に、
「そうか」
 と言ったのみであった。
「利御、昨日の夜、黄腰さんのロッジへ行ったよな」
「ああ」
「彼女に変わった様子はなかったか?」
「さて。昨夜が初対面だったし、普段と違っているところなんて僕には判らない。まあ、別段異常と思えるところはなかったんじゃないかな」
「何を話した?」
「話をしたとは限らないだろう。まあ、話したけど」
「だから何を」
「夕べに言ったじゃないか。誤解を解いてきただけだよ。それと少々助言もしたかな」
「なんの?」
「人生の」
 ふざけるな。こっちは真剣なんだ。
「何時に戻ってきた?」
「九時過ぎだったと思うけど」
「そのあと何をしていた?」
「昼間に撮影した写真の整理だよ。君が帰ってきて眠りについたあともね」
「何もしていないよな?」
「何が?」
「だから、彼女に何もしていないよな?」
 わたしは言葉を強めた。利御は眼鏡を押し上げ、
「話をしたね。――これは尋問かい?」
「茶化さないでくれ。いいかい、君は生きている黄腰さんを最後に見た人間かもしれないんだよ。これは重要なことだ」
「僕の次に誰が見たかは知らないが、最終的には犯人が見ているだろう」
 君が犯人じゃなければな――言おうとして、呑み込んだ。
「質問は終わりかな」
「いいか利御、君にはアリバイがない。昨夜一緒にいた時間があるうえ、ロッジはすぐ隣だ。殺害の機会もあるということだよ」
「僕が殺したと?」
「そうは言ってない。言ってないけど……そう疑われる可能性が大ということだよ」
「ふん。素敵だね」
 穏やかに吐き捨てた。
「ということは、潔白である僕が警察に――その一条という警部補に――拘束されるかもしれないというわけだね」
「ああ。逮捕とまではいかなくても、それなりの事情聴取はされるだろうよ。もしかしたら任意同行もあるかもしれない」
「任意同行ね。強制連行と同義語だ」
「どうする」
「どうしようね。それは困る。撮影が進捗しない」
 そして我々はロッジに到着した。

 本来であればまともな食事を取りたいところであったが、それは我慢した。利御が持参したサプリメントを、無理矢理ミネラルウォーターで流し込む。何も食べないよりは遙かにましだ。
 つましい昼食がすむと、利御はテーブルに肘をつき、顎を支えて気怠げに窓の外を見ていた。喜怒哀楽が抜け落ちてしまったかのような表情である。微かな溜息をついた。たぶん本人も気づいていないであろうほどの溜息を。
 カメラは無造作に置いてある。ノートパソコンも開かずに。
「そのうち、刑事が来るぞ」
 わたしは利御の横顔に話しかけた。
「ああ、そうだね」
 声に生気がない。
「なんなら、こっちから行こうか」
「いや、それは厭だよ。こちらから進んであの警部補に協力するっていうのは」
「そんなに嫌いかい」
「ああ」
 利御が苦笑した。
「本当なら、さっさとカメラのメモリーを吐き出して、午後の撮影に出かけたいところなんだけどね」
「勝手な行動してると、余計に怪しまれるぞ」
「そうだね、それは面倒だ」
 言って利御は眼鏡を外し、ハンカチで拭きだした。裸眼でわたしを見据える。
「霜月君」
「なんだ」
「もう一度詳しく聞かせてくれないか。――黄腰さんはキャンプ場の北で殺されていたんだね?」
「そうだよ」
「森の入口で」
 わたしは頷く。
「ナイフで刺されていた。そのナイフは君の後輩が持ち込み――」
「三井寺庚」
「そう、三井寺君。そしてそのあとは誰がいつ洗ったか判然としない」
「まあ、そうだね」
「刺された箇所は?」
「さっきも言ったとおり二箇所だけど――」
 ここまで言ってわたしは、はたと気づいた。急にやたらと質問をしてくる利御。これは、まさか――。
「おい利御、まさか、事件の推理をしてみようとかいうつもりじゃないだろうな」
「なかなか冴えてるじゃないか霜月君」
 利御は眼鏡をかけた。
「少しでも早く事件が解決してくれないことには、僕も困るからね」
「だけどな、素人の我々が――」
「確かに僕は素人だし、プロの警察に任せておけばいい問題だろうさ。日本の警察は優秀だからね。だけどこの事件は――ひょっとしたら僕が解決を早める役に立てるかもしれない」
「本当かよ」
「嘘ではないよ。やってみないと判らないけど」
 無理だろう、きっと。利御は、ただここでじっとしていることに耐えられないだけなのだ。だからこうして無駄なあがきをしてみる。
「じゃあ訊くが、利御には例の〝精神的な密室〟の謎が解けるのかい?」
「ああ、それね」
 利御は次に意外なことを言った。
「謎でもなんでもないよ、そんなのは」
「おい、本当か!」
「ああ。何も不思議なことはない。――それにしても、密室なんて随分と大仰だね。部屋じゃないのに」
「どうして彼女はあそこまで行けたんだ? 教えてくれよ。犯人に運ばれたのか? それとも――」
「霜月君」
 あきれたように言う。
「黄腰さんには二本の脚があるじゃないか。歩いて行ったに決まってるだろう」
「だから、どうして」
「行きたかったんだろう」
「答えになってない! ――ははあ、さては、でたらめだな。本当は判っていないんだろう?」
「君がそう信じるのなら、それが君の真実だよ」
「ふん、まあいいよ。つきあってやろう」
 わたしは乗り出しかけていた身を引いた。結局はこういうことなのだ。ただ単に話をしていたいだけ。
「で、なんだっけ?」
「傷口だよ」
「ああ、そうか。――左の脇腹と胸だったそうだよ。傷口を直接見たわけじゃないけど」
「どちらが致命傷?」
「胸だって言ってたな。ナイフが肋骨の間にうまいこと潜り込んで、ちょっとやそっとじゃ抜けないらしい」
「ナイフの柄に血はついていた?」
「ついてたよ」
「出血多量だって言ってたね。君の見たままでいいんだが、どんな感じだった? まさに血まみれかい?」
「いや、そうでもなかったかな」
 わたしは今朝の忌まわしい記憶を呼び覚ます。
「ああ、でも、大量に出ていたんだろうね。一見それほどでもないような気はするけど」
「どうして?」
「地面は日陰の湿った土で、もともと黒かったし。黄腰さんの服装もそうだったし」
 利御が目を細めた。
「ちょっと待て。黄腰さんの服も黒かったのかい?」
「そうだよ。昨日の夜――に彼女がどんな格好だったかは知らないけど、夕方に、ほら、クマバチに刺されたところを利御が治療してくれたとき」
「うん」
「あのときに見た彼女と同じ格好だよ。黒のTシャツに黒のジーンズ。昨日は一日中あの服装だったんだろう」
「Tシャツというと半袖?」
 やけに食いついてくる。
「利御は見ていないのか? 夜に」
「黄腰さんの部屋に行ったとき、確かに彼女はその格好だったよ」
「ならいいじゃないか」
「そうか、半袖か……」
「そういえば」
「なんだい?」
「ひとつだけ、昨日と違ったのがあったな」
 わたしは自分の頭を指差した。
「帽子を被っていたよ。つばのある白い帽子。以前にも彼女が被っていたのを見たことがあるけど」
 鋭く細められていた利御の目が、愕然と見開かれた。そして低く叫ぶ。
「――なんだって!」
「急にどうした」
「それですべてかい? 間違いないね? 黒の上下、半袖、白の帽子だね」
「あ、ああ、そうだよ。間違いない。今朝見たときはそうだった」
 利御は黙り、何度も頷いている。目はすでにわたしのほうを見ていない。
 そしてやおら立ち上がり、しばらく窓の外を見ていた。風邪に揺れる木々を見、蝉の声を聞いている。
「霜月君――」
 黒い背中が言った。にわかには信じがたい台詞を。
「犯人は判ったから、証拠固めをしようか。机上の空論で糾弾しても失礼だからね」

 

第9回

 

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                                      7

 検討しておきます、と一条警部補は言っていたが、本当に検討するつもりなのかどうかは判然としない。
 三井寺の指摘は当を得ている。確かに由美枝がキャンプ場を訪れたとは考えにくい。
 考えてみれば、警部補の言っていた時間帯に由美枝が森の入口で殺されたという理由が解らない。殺された理由はもちろんだが、彼女がそのときそこにいたという理由が。
「ひょっとしたら」
 三井寺が何か思いついたようだった。
 管理小屋の西側、陽の当たらないところで、わたしは三井寺と煙草を吸っていた。マルボロではない。三井寺から分けてもらったホープである。
「ひょっとしたら、黄腰さんは他の場所――ロッジで殺されて、犯人にこっちまで運ばれてきたのかも。だとしたら犯人は男――それも力のある。いや、黄腰さんスレンダーだから霜月さんでも大丈夫かな」
 なるほど、わたしでも犯行可能という意見は除外するとして、殺害後に運ばれたとすれば、蜂恐怖症の疑問点は解消される。その疑問点のみについては。
 だが、そのアイデアには無理がないか?
「殺害現場の偽装は何かと大変なんじゃないのかい? それなりに血は流れていただろうし、キャンプ場に来るまでの間にたくさんの血痕が地面に残ってしまうよ。それに人目につく」
「先輩にしてはまともなこと言うね。――だったら、何かに包んで運んだっていうのはどう? ビニールシートとか、シュラフとか。夜中だから誰かに見られる可能性は低いだろうし、見られてもなんとか誤魔化せない?」
「どうだろうな」
「それにみんなキャンプファイヤーの周りで乱痴気騒ぎだったでしょ。犯人はそれを見越して――」
 物理的には可能かもしれない。ロッジからここまで、痩せ形の女性とはいえ、人ひとりの死体を運ぶという作業は重労働であろうが、工夫次第では可能だろう。だが、わざわざ骨を折ってまでそんなことをする理由が判らない。そのことを指摘すると、三井寺は紫煙を吐きつつ、
「そう、それが問題だね」
 と言って黙り込んでしまった。
 そうしてしばらく、ふたりで煙草を吹かしていた。会話がなくなると、途端に哀しみが込み上げてくる。陳腐な言い回しだが、まさに、胸にポッカリと穿たれた穴。
 キャンプ場を見やると、昨夜のキャンプファイヤーの石組みが目に入った。また次の夜になればあそこに新たな木材を入れて、何回か続けて使用するのだと聞いている。昨夜のようなイベントは、頻繁におこなわれているのだろう。毎晩か、少なくとも数日おきには。煤や灰に関しては、何回分かまとめて片づけをしたほうが経済的だし、何より楽だ。
「犯人は森の中を通ったのかもしれないな」
 唐突に三井寺が呟く。
「そうすれば誰にも見咎められない」
「夜の森だぞ。真っ暗で何も見えないと思うぜ。しかも道は曲がりくねっているし」
「それはライトをつければ――目立つか。暗視ゴーグルは?」
「問題外だね」
「だったら、目をつぶっても歩けるくらい、森に熟達した人」
「ここの管理員かい?」
 いくらなんでも飛躍しすぎというものだろう。キャンプ場のことを熟知しているとはいえ、そこまでの芸当ができる人物などいるものだろうか。
 わたしがそう言い返すと、「そうだよな」と三井寺は溜息をついた。勤労に疲れ果てたサラリーマンみたいな吐息だった。
 時計を見ると、午前十時を過ぎたところだった。朝食を取っていなかったことに気づく。しかし腹はすいていない。いや空腹ではあるのだろうが、空腹感はまるでない。
 警察たちはロッジ村へも向かったようだ。由美枝の部屋を調べるのだろう。
「あ――!」
 このときわたしは、すっかり失念していたある事柄に気づき、口から煙草を落としてしまうほどに取り乱した。
「どしたの?」
 いぶかしがる三井寺への返事もそこそこに、わたしは走りだした。彼をその場に残し、ロッジへ向けて。
 利御だ。なんてことだ。利御がいたじゃないか。
 昨夜、由美枝の部屋を訪問した利御。あいつが、由美枝を最後に目撃した――あまつさえ、会話もした――唯一の人間ではないか。
 つまり、重要な証人であるとともに……。
 わたしは駆けながら、頭の中を必死に整理していた。由美枝が亡くなったのは昨夜八時半から十時半の間。利御が由美枝と会ったのは八時半。わたしが帰ってきたのは九時半過ぎ。利御はすでに戻ってきていた。そして、由美枝のロッジは暗かった。このとき彼女は部屋にいたのか、それとも――死んでいたのか――?
 つまり、利御は重要な証人であるとともに、容疑者ともなりうるということではないのか?
 そんなはずがない。あの男が殺人だなんて。しかも昨夜が初対面の相手を。いや本当に初対面なのか。ああもちろんそうだ。そうに決まっている。動機など発生するはずがない。本当か。わたしは由美枝の何を知っているというのだ。わたしは利御の何を知っているというのだ。ふたりの間に何かがあったのか、何もなかったのか、そんなことは判るはずもない。
 わたしは懸命に走った。走ったところでどうなるものでもないが、走った。急いで戻ったところでロッジに利御がいるとは限らないし、いたとしても何ができるというのか。だが一刻も早く会わなければならない。会って問いただすのだ。利御、お前は何もしちゃいないよな。
 予想に違わず由美枝のロッジは何人もの捜査員によって占拠されていた。入口には制服の警官が突っ立っている。わたしが自分の小屋に向かうと、じろりと見つめられた。
 当然ドアには鍵がかかっていた。それを開けて中に入る。昼に利御が帰ってくるのを待とう。
 煙草でも吸おうかと思ったが、思っていた以上に自分の息が乱れているので、やめた。ちょっと走っただけでこれだ。吸いすぎはよくない。
 利御の携帯に電話をかけてみた。電源を切っているのか、電波が届かない森の奥地にいるのか、つながらない。一応、留守番電話には「早く戻ってこい」とだけ吹き込んでおいた。
 正午を過ぎるまで、ただじっとしていた。蝉の鳴き声を聞きながら。隣からは捜査員たちの話し声が断片的に響いてくるが、意味が掴めるほどはっきりとした音声にはなっていない。
 とっくに昼を過ぎたというのに、利御は戻ってこない。漠然とした不安が広がってくる。
 再び電話をかけても通じない。待ち続ける。時間が経つのが遅い。一分が五分にも十分にも感じられる。
 わたしは立ち上がると、ロッジを出て、森の中へ飛び込んでいった。

 ロッジ村とキャンプ場は、森の通路でもつながっている。この小径にはいくつもの枝道が存在し、神霧山のさらに奥へと足を踏み入れることもできる。不慣れなキャンプ客が不用意にそちらへ行くことのないよう、もちろん立て札による道案内はされている。
 わたしは森の奥へと向かった。木々に陽差しが遮られ、森の中は随分と涼しい。だが、焦燥に苛まれているわたしの身体からは、始終汗が滲み出ていた。
 どのくらい歩いたか見当もつかない。時計を見る気にもなれない。第一、わたしは歩いていたのか走っていたのか。
 それは偶然だとしたらよほどの僥倖と言えるだろう。だがもしかしたら、山道を適当に歩いていれば誰もが辿り着ける場所であったのかもしれない。ともかく、わたしは利御を見つけた。
 黒いスーツの後ろ姿。道から外れた草陰に潜んでいる。カメラを覗き込み、彫像のように動かない。レンズは彼の前方やや下のあたりを狙っている。被写体がなんなのかは不明だ。
「利御!」
 掠れた叫び声だった。言葉が続かない。自分がこれほどまでに疲れていたとは驚きだ。
 利御は動かない。声もしない。
「利御っ」
「静かにしたまえ霜月君」
 まったく顔を上げることなく、かろうじて聞き取れる程度に言った。
「何やってるんだ利御。昼をとっくに過ぎてるぞ」
「ああ、そうか。先ほどクロシジミを見つけてね、それを追いかけるのに時間がかかった。東の猫臥山(ねこふせやま)に棲息しているのは知っていたが、こっちにもいたとはね」
「クロシジミ?」
「蝶だよ。希少種の」
「毒あるのか?」
「ないよ」
「関係ないだろ、今回の撮影とは」
「ああ。だけど撮っておかないと」
「撮ったのか」
 無言で頷く。微かに顎を引いただけなので、見のがしてしまいそうになった。
「じゃあさっさと帰ろう。今、大変なんだ」
「まだ帰れないな。――あれを撮らないと」
 カメラの向けられた先は、比較的大きな樹木の根元だ。今気づいたが、レンズは大きく本体から飛び出している。ズームの限界に挑むかのように。何度かシャッターが切られる。
 ここからの距離は十メートル強。そこで、何かが飛行していた。ここからでもはっきりと羽音が聞こえる。やたら大きな昆虫だ。鮮やかな橙色の……。
「……なんだい?」
「オオスズメバチ。あの木の根元、地中に巣がある」
「じゃあな」
 わたしはきびすを返そうとした。犠牲は少ないほうがいい。
「待ちたまえ霜月君。どうやら君の姿を認められたみたいだよ」
「……どなたに?」
「働き蜂」
「こちらから手出ししなければ大丈夫、だろう?」
「まあ一応は」
「どういう意味だよ」
「彼女ら、相当気が立っているみたいだ。さっきから巣の周りを飛び回って警戒している」
 ご機嫌が斜めであるらしい。
「あれはたぶん、誰かが巣にいたずらをしたな。石でも投げたか」
「誰が? いつ?」
「おそらくキャンプ客か登山客。つい数時間前かもしれないし、数週間前かもしれない」
「そんなに幅があるのか?」
 逃げることも忘れて訊き返してしまった。
「スズメバチは執念深いよ。場合によっては、ひと月ちかく警戒態勢を解かずに――」
 何かが一匹、わたしたちに向かって飛んできた。わたしには蜂に見える。明瞭な縞模様のついた。
「――近づいた人間を攻撃する」
 わたしは逃げ――。
「落ちつきたまえ霜月君。蜂と競走して勝てると思っているのかい?」
「そんなこと言っても」
「とりあえず身を伏せろ。ぼけっと突っ立っていると攻撃対象と目されるよ」
 ぼけっとしていたわけではないが、彼に従いしゃがみ込んだ。
「地面に身を伏せるんだ。そして、とにかく蜂が遠ざかるのを待つしかない。蜂は黒いものを攻撃する。幸い、霜月君は白い服だね。半袖なのが頼りないけど。――だから、髪の毛と眼球にさえ気をつけていれば大丈夫だよ」
「利御は?」
 地に伏せながらわたしは問うた。この男は黒服だ。狙ってくださいと言っているようなものではないか。
「ああ、僕のほうが優先して狙われる。だから君は安心して伏せていればいい。もっと安心したければ、髪の毛を隠して目を閉じるんだ。頭や眼球を刺される恐れが減少する」
 言うとおりにした。瞼を閉じ、両手で頭を隠すように抱え込む。視界がなくなると不安になる。心なしか、羽音が近くで聞こえるような気がする。
「僕が蜂を引きつける」
 横で利御が立ち上がる気配。
「いいかい? 完全に羽音が遠ざかってから逃げるんだよ。ゆっくりとね。絶対に焦ったり急いだりしてはいけない。少しでも蜂を刺激するような行動は避けるんだ」
「あ、ああ」
 わたしは生返事をした。
 利御が移動する。いつになく力強い足音だ。それはすぐに聞こえなくなった。
 しばらく羽音が続く。冷や汗がだらだらと流れる。
 耳のそばを蜂が通過した。心臓が跳ね上がる。声を出しそうになる。
 蜂はすぐに遠ざかった。だがしつこく付近を飛び回っているらしい。
「利御」
 こらえきれずに声を出した。
「おい、利御」
 彼は答えない。
「まだなのか? もう大丈夫じゃないのか?」
 気配がしない。まるでしない。まったくしない。
 この場に存在していないかのように。
「おい――」
 僅かに身を起こし、目を開けた。振り向く。
 遙か後方に、全速力で森の小径を駆けてゆく庵利御の背中が見えた。

 

第8回

 

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 連載小説が続いておりますが、無事に殺人事件も起きたことだし、ここいらで小休止がてら、当時買い集めていた文献資料について触れてみたいと思います。
 虫に関する書籍ですね。
 このころは、虫について、ネットよりも本で調べることが多かったです。本のほうが詳しいような気がしたし、欲しい情報がすぐ見つけられたり、文章を読んでいて楽しかったりと、そんな理由からです。あまりネットを使いこなせていなかった、というのもあるかもしれませんが。

 とりあえず、本棚の一角をご紹介。




 奥にあるのも全部、虫や自然に関する文献──のはずです(UMA関連もあるかも(笑))。背表紙に「死体」ってあるやつはなんだ? と思われるかもしれませんが、『死体につく虫が犯人を告げる』という本です。でもこれは、昆虫ミステリよりもスプラッタ・ホラーの執筆に影響したような気がする(笑)。
 

 小説のテーマと決めた虫についての資料が欲しくて購入したものもあれば、たんに面白そうだから、虫の知識を広げたいから、という理由で買ったものもあります。

 手前に並んでいる岩波文庫の『ファーブル昆虫記』は、まさにそんな感じ。凄く面白いのでお勧めです。それまで子供向けの昆虫記にしか触れていなかったので、ファーブルに対するイメージが、がらりと変わりました。
 ……ただ、これ買い揃えたあとで、豪華な完訳版が出てるんですよねえ。読んでないので内容は知りませんが。お金持ちになれたら全巻購入しましょう。

 あと特にお気に入りのやつは、奥側の分厚い『図説 ハエ全書』ですね。これ、めっちゃ面白い。蠅好きには堪らんものがあります。読むとますます蠅が好きになります。ちょっといいお値段しますが、みんなも蠅や蛆はお好きでしょうから、買って損はないですよ。

 と、まあ、こんなふうに、素人の手慰みとはいえ、ある程度は資料を買い揃えていたわけですよ。しかしながら、本だけを読んで、特に取材活動などはあまり行わず、頭の中だけで書いていたという駄目な一面もあります。しいて言うなら、子供のころに虫と戯れていた記憶が、取材みたいなものかもしれません。違うかもしれません。たぶん違う。

 

 

 

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                                      6

 日本海溝並みに深い眠りであった。夢など見た覚えはない。気づけば部屋には朝日が射し込み、気の早い蝉たちの声が染み入っていた。いい目覚まし時計代わりではある。
 寝返りをうつように身体を横に向け、下のベッドを覗き込んだ。考えてみれば、利御の寝顔は見たことがない。
 ベッドはもぬけの殻だった。まるで最初から誰も横になった形跡がないように、シーツには皺ひとつ見当たらない。利御のことだから、起床後に丁寧に整えておいたのだろう。
 梯子を下りて椅子に座り、寝覚めの一服とばかりにマルボロを銜えると、テーブルの上にガラス製の灰皿が置かれているのに気づいた。こんなもの、どこにあったのだろう。部屋の隅に小さな戸棚が設置されているのだが、きっとそこから利御が見つけだしたのだろう。ありがたく使わせてもらうことにする。
 灰皿の横にメモ用紙が一枚置いてあった。見れば繊細な文字で『昼に戻る。鍵をよろしく』とある。ロッジの鍵はひとつしかないわけだから、利御が戻ってくるときにはわたしがここにいなければならない。面倒だが、致し方ない。
 腕時計を見ると朝の六時。こんなに早くから、利御は出かけてしまったものと見える。デジカメが見当たらない。仕事熱心なことだ。きっと、日の出前に出発したに違いない。
 火をつけようとしたら、ブレードランナーが流れた。朝っぱらから誰だよと思いつつ画面を見てみれば、三井寺からである。この着信音を作ってくれたのは彼だった。ヴァンゲリスとかいう人の曲らしいが、この映画音楽以外にどんな曲を作った人なのかは知らない。
「もしもし?」
「俺です」
「何?」
 いかにも不機嫌そうに訊ねた。
「あ、あの、大変です」
 いやに焦った様子だ。三井寺らしくもない。わたしに対して丁寧語まで使っている。
「何が」
「落ちついて聞いてくださいよ」
「お前が落ちつけ」
「あのですね、えーと」
 今にも泣きそうな声だった。ただごとじゃないと察することは誰にだってできる。わたしは幾分深刻なトーンで、
「何かあったのか」
「ええ、それが、その」
 焦燥感がひしひしと伝わってくる。三井寺のしかめっ面が見えてくるようだ。
「黄腰さんが――」
「うん」
「――死んで、います」
 いったい、なんの冗談だろう。
「殺されて――刺されて――その――死んでるんですよ」

 キャンプ場の真北には、森の中へと続く狭い通路がある。自然散策コースと名づけられた、細く長く曲がりくねった道は、森の中を舐め回すように辿ったあげく、ロッジ村付近の出入口とつながっている。
 第一発見者は、我々とまったく面識のない他のキャンプ客であった。この男性は、今から十五分ほど前に、早朝の誰もいない森を散歩しようと起き出し、北の入口へとやってきた。
 そして森へ入ってすぐ、そこに横たわっている彼女を発見したのだ。
 冷たくなっている黄腰由美枝を。
 身体を折り曲げるようにして、横向きで倒れていた。黒のTシャツとジーンズ。昨夕見たときと同じ服装だ。頭に白い帽子を被っているのが昨日とは異なる。陽差しの強い夏場になると、たまに彼女が被ることのある帽子である。帽子の下の長い髪は乱れ、艶を失い、彼女の顔を隠していた。由美枝の美しさを際立たせていたはずの黒髪は、今や遺体をいっそう不気味で近寄りがたいものに見せるための飾りだ。倒れた拍子に帽子がずれたのだろう、つばが目のあたりを隠しているのがせめてもの救いである。
 ほどよく盛り上がった胸の左側――そこに、異物が生えていた。
 ナイフの柄である。
 白いプラスティックには乾いた血液がこびりついているが、その赤黒い染みの合間に見えるのは、アゲハチョウの絵柄である。ああ、これは――昨晩、三井寺の手の中に見た、わたしが食べるリンゴを剥くために使われた、あの果物ナイフに相違なかった。
 木陰の地面は焦げ茶色の土で、由美枝が身につけている衣服も真っ黒であったため、彼女から流れ出た血液は、さほど目立たない。それでも、剥き出しの手首は赤く染まっていた。
 由美枝の周りには、当然のごとく人垣ができていた。我々創作研究会のメンバーである。そしてさらにその周辺に、遠巻きにではあるが遠慮などとは無縁の態度で、他のキャンプ客たちが。もう少し時間が経過すれば、間違いなく野次馬どもは数を増すだろう。忌々しい。忌々しい。ヒソヒソと、ときにはあからさまに死体と我々のことを噂し囁き合う彼らに、どうしようもない憤りを感じてしまう。
 そこここで嗚咽が漏れていた。ソーケンのメンバーが身を寄せ合い、悲しみを分かち合っている。こうして彼らの身体で壁をつくってやることにより、他の者たちの視線から由美枝の亡骸を防ぐことができる。
 朱夏が泣いていた。それは慟哭と呼ぶに相応しい声であった。彼女は左右から他の学生に支えられ、なんとか立つことができているという状態だった。俯せの顔は窺えないが、表情を染め上げているであろう最大級の悲哀の色を確認したところで、朱夏の精神が沈静化するわけでもあるまい。
 茫然自失という言葉は、このときの轡のためにあるようなものであった。由美枝のすぐ隣で、ぺたりと地面に正座するような格好で、表情なく、ただいつまでも、彼女のことを見下ろしていた。新たな恋人との早すぎる別れを実感できないでいるのだろうか、由美枝の剥き出しの手首を握り締めていた。冷たさを確かめるように。本来なら、殺人事件の現場を荒らすようなことなどしてはならないのだが、誰も注意する者などいなかった。
 殺人事件。そう、殺人事件なのである。誰かが由美枝を殺したのだ。ではいったい誰が。
 混乱収拾のために、キャンプ場管理の係員たちが総出で動いていた。もちろん、警察が到着するまでに現場を保存しておく必要がある。じきに轡の手は離され、遺体から遠ざけられた。
 夏だというのに由美枝の身体は冷えきっていて、どの程度かは判らないが、硬直もしているようであった。つまり、死後しばらく経っているということである。ということは、亡くなったのは昨夜ということになる。
「霜月さん……」
 係員たちの手によってわたしたちも強引に遠ざけられ、そのとき初めて三井寺が声をかけてきた。
「轡さんがあんな調子だから、俺が電話したんだけど」
 轡は佇み、無言で由美枝を見ている。微動だにしない。
「まさか――どうして、由美枝さんが――」
 このときようやく、由美枝はもういないのだと、実感が込み上げてきた。胸が締めつけられるように苦しくなる。
 三十分ほど、無駄な時間が流れた。その間、この場にいる誰もが、どうすることもできないでいた。
 陽が完全に昇り、蝉の鳴き声が耳障りになりはじめたころ、ようやく警察が到着した。南の駐車場を通過し、キャンプ場まで何台ものパトカーが乗り入れてきた。彼らの動きは機械的で無駄がなく、あっというまに空色のビニールシートで由美枝の姿を隠してしまった。
 ややあって事情聴取が開始された。第一発見者をはじめとして、管理員、キャンプ客、とにかくこの場にいる者すべてに、簡単ではあるが発見時の様子と今にいたるまでの経緯とを確認していた。そして被害者の身元が判明すると、当然の帰結として、我々ソーケン関係者への重点的な事情聴取へと移行したのである。
「――なるほど、ことのあらましは理解しました」
 一条(いちじょう)と名乗った警部補は、我々の昨日からの行動を聞き終えると、穏やかな相好を崩さぬまま、ひとり合点がいったように頷いた。
 管理舎の応接室を借りて、急ごしらえの取調室としている。固いソファにぎゅうぎゅう詰めで座らされ、あぶれた者たちはその後ろに立ちん坊だ。年功序列の法則に従い、一年生は席を譲っている。わたしもOBという微妙な立場なので遠慮した。三井寺と寄り添うように、部屋の隅にいた。
 おろしたてのように皺ひとつないモスグリーンのスーツに、プレスの利いたワイシャツ、オールバックにもまったく乱れがなく、体系までもすらりとして理想的。一分の隙もない、明らかにナルシストの警部補だ。歳のころは三十代半ばに見える。彼の横では、さらに若い刑事が熱心に手帳に書き込みを続けていた。
「被害者の黄腰由美枝さんだけがあなたたちと離れ、おひとりでロッジに宿泊されていた。昨日はこちらに到着してから黄腰さんと別れ、その後ずっと会われてはいない、と。そして今朝になって遺体となって発見された――」
 抑揚に欠けた声だが、思わず聞き入ってしまう魅力を備えている。特殊な周波数なのではないのかと想像してしまうほどに。
「凶器のナイフは、先ほどそちらの――霜月さんが指摘され、皆様もご確認いただいたように、皆様が持ち込まれた果物ナイフ。昨日の夕方六時ごろにリンゴを剥くために使用されたものに間違いないということですね。ナイフの持ち主、および使用された方は、そちらの三井寺さん」
 一条警部補の視線がこちらに向けられた。威圧するような種類のものではないが、見透かされている印象を受ける。
「ナイフを使用したあとは、いかがされましたか?」
「鍋に放り込んでおきましたよ。レトルトを温めた鍋に」
 三井寺が答える。
「洗い物はまとめてそこに入れておいたんです」
「なるほど。それで、そのあとは? どなたが洗いに行かれたのですか?」
 朱夏と、あとふたりが、おずおずと手を挙げた。一条警部補は三人を順に見ていく。
「どなたが例のナイフを?」
 三人は顔を見合わせ、口ごもる。少しして、朱夏が口を開いた。
「あのう、判りません」
「判らない?」
「ええ、ナイフは他にもありましたし、ナイフだけじゃなく、鉄串とかスプーンとかフォークもありましたし、まとめて洗いましたから、いちいち覚えていないんです」
「特徴のあるナイフでしたよ」
「ええ、ですけど――。たぶん私か里佳(りか)だと思いますけど。幸二(こうじ)君は焼き網とかの大きいやつ担当でしたから」
 言うまでもなく里佳と幸二とは、挙手をした残りのふたりのことである。
 一条は軽く息を吐くと、
「洗ったのはいつですか?」
「えーと、七時ごろに一度流し場まで行ったんですけど、混んでいて――」
 他のふたりも同意する。
「――それで、そのあと八時半からのキャンプファイヤーで、流し場がすいたころに改めて行きましたけど……」
「正確な時刻は?」
「判りま――せん。三人とも別々でしたし、お酒呑んでいて酔っていましたし、時計なんて見てませんでしたし」
「そうですか。……昨夜のキャンプファイア中の行動に関しては、先ほどもお話しされていたとおり、やはりどなたも、お互いの正確な行動に関しては把握されていないのですね?」
 何人かが頷いた。
「困りましたね。開始直後の八時半から十五分間程度はともかく、それ以降はほとんど不明ですか」
「あの――」
 轡が声をあげた。ショックからは立ち直ったように見える。サークル会長という責任感に後押しされているのだろう。
「それって、重要なことなんですか?」
「ええ、そうですよ、最重要項目のひとつです」
 白い手袋に包まれた人差し指を立てる。
「鑑識からの正式な報告が出るのはまだですけれどね、検死官のとりあえずの所見では、死後硬直や気温、湿度等から鑑みて、おおよその死亡推定時刻は昨夜の八時半から十時半ごろではないか、ということなんです」
「それって、つまり――」
「そうですよ。黄腰由美枝さんをよくご存じの皆様、ありていに言ってしまえば、彼女に対して殺害の動機を持ちうる皆様は、現場不在証明いわゆるアリバイをお持ちではないと、こういうことになるのですよ」
「そんな……」
 一瞬、皆の顔が凍りついた。
「どうして――!」
 朱夏がわめく。
「どうして、私たちが容疑者扱いされなきゃならないのよ!」
「黄腰さんのジーンズのポケットには財布が入っていましたし、特に価値のある貴金属を身につけていたという証言もありませんね。つまり、物取りではないということです。そして乱暴の痕跡も認められないことから、ゆきずりの変質者の犯行であるという可能性も薄れてきます。ゆえに、我々としましては、被害者の顔見知りであるあなたがたを真っ先に取り調べさせていただくことが定石と言えます。――納得してもらえましたか?」
 返す言葉もなく朱夏は脱力した。このとき、わたしは一条という男を心底嫌悪した。
「被害者は左の脇腹と左の胸を刺されています。凶器のナイフは胸に食い込んだまま放置されていました。死因はおそらく出血多量。脇腹はともかく、胸が致命傷でしたね。見事に肋骨の合間をぬって心臓付近まで到達しているようです。よほど熟練した者の仕業か、あるいは単なる偶然か。――これに関しては、私見ですが後者でしょう。刺されたあともしばらくは息があったものと考えられます。大動脈を切断されているようですが、ナイフが栓の代わりになっていたため、血液が一度に激しく噴出することはなかった様子で――」
「もう、やめてください――!」
 堪えきれずに轡が言った。女性が何人か耳を塞いでいる。
「ああ、これは失礼」
 言いつつも、一条に悪びれた様子はない。
「情報は詳細なほうがいいと思いましてね」
 この男には感情が欠落しているのか。まるで機械のような――いや、昆虫のような人間だ。顔の表情も声の抑揚も、まったく変化がない。
「さてそれでは、このあとは必要に応じて個人的にお話を伺うことがあるかと思いますので、皆さんにはキャンプ場の中で待機していただくこととなります。くれぐれも、勝手にお帰りになることのないよう、お願いいたしますよ」
 一条がそう切り上げると、皆は緊張を解いた。
「ああそうそう、これまでのことで、何かお気づきになった点などはございませんか? 疑問点でも、どんなことでも結構ですよ」
 誰も何も喋らない。空気が沈んでいた。事件のことを考えるなんて余裕はなかったし、第一、この男にこの場で話しかけるような気分ではなかった。
 だが、ひとりだけ、
「あのさ、ちょっといい?」
 わたしの横で声を上げたのは三井寺である。全員の視線が集中した。
「なんでしょうか――三井寺さん?」
「思ったんだけど、黄腰さんがあそこで死んでいたっていうのは、ちょっとおかしいというか、ありえないんじゃないのかな」
「と言いますと?」
 三井寺は幾分緊張気味に唇を舐めると、
「黄腰さんひとりだけがロッジに行った理由を、まだ刑事さんには話してなかったと思うけど、あの人、蜂恐怖症だったんだ」
 そして黄腰由美枝とキャンプ場のジガバチの巣穴について、簡単に説明した。
「――だから黄腰さんはキャンプ場には近づけなかったんだ」
「ほう、それは興味深いですね」
「ああ。黄腰さんが自分の意志でこっちまで歩いてくるわけがない。ロッジからこちらに出てこられるわけがないんだから。あんなところで死んでいたなんて、ありえない状況だよ」
「しかし現に死亡していた。つまり――」
 一条が言葉を切り、三井寺に先を促す。三井寺は力強く頷くと、警部補の視線を正面で受け止め、こう言った。
「――つまりこれは、蜂によってつくられた、いわば精神的な密室状況と呼べるんじゃないの?」

 

第7回

 

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