無人の家で発見されなかった手記 -16ページ目

無人の家で発見されなかった手記

──ある素人小説家の陳述

 僕の中では初執筆の本格推理長篇『百足御殿の密室』について。続き。

 初の長篇なのだから、今までの短篇のようなマイナーな虫ではなく、もっとメジャーなやつを使おう! ということで、選んだ素材はムカデでした。国内では一番デカい、トビズムカデです。
 タイトルはシンプルかつインパクト大を目指して、ひと目でミステリだと判るように「~の密室」にしようと決めて、舞台となる建物名は「百足館」とか「百足屋敷」とか候補を出したのですが、あまり使われていない名詞で「御殿」にしました。

 ストーリーは、短篇で活躍してきた三人組(探偵+語り手+イケメン)が、多足類博物館+管理者の家屋である通称「百足御殿」にやってきて、そこで殺人事件に巻きこまれる、といったもの。ムカデの特徴をトリックに使ったり、地虫の中では最強とも言われる存在感をテーマに盛りこんだりと、ムカデづくしの一作としました。
 事件の真相は、結構深刻というか、暗い感じのものでした。割と後味悪いかも。でも当時は、そういうのが好きだったんですよねー。エンタメ、しかもシリーズものを目指すなら、そこは何かしらのカタルシスを得られるものでないと……と、今なら思うんですが。

 そして、この作品も〈メフィスト賞〉へ送ってみたわけですが……。
 ちょっと今回は短めです。
 続く。

 

 

 

 ……こんな調子で、当時の僕は、次々と昆虫ミステリを書いていきました。ジガバチ+ダイイング・メッセージの次は、蝶+足跡密室、蛍+??トリック、ウデムシ+謎の状況、てな具合に、毎回毎回、テーマとなる虫と、核となるトリックの分類を変えて。
 そして短篇が6作溜まったところで、まとめて出版社に送ってみたんですね。これまた無謀にも。


 どれか1作を表題作とするのではなく、全体をひっくるめて『蟲籠の中の殺人』というタイトルをつけました。「虫」じゃなく「蟲」にするのが中二病っぽいですね。
 送付した先は、講談社さんの〈メフィスト賞〉。通常は長篇を受けつけているはずなのですが、短篇集(しかも連作というわけではない)を送りつける神経の図太さを、皆さんも見習ってはいけません。賞のカラーを見極めたうえで、応募するか否かを慎重に決めましょう。

 そして、その後発売された『メフィスト』を購入して座談会を読んでみたところ、ありましたよ。欄外に(笑)。
(どうでもいい作品は欄外に、そこそこ見込みのある作品は編集者さんの座談会で取り上げる、という習わし)


 

 あれ? なんか、悪くないんじゃない? 編集者さんが後回しにしなければ、もしかして上に載ったんじゃね? などと思ってしまったわけです。勘違いしたわけですよ、ええ、それはもう。

 そして、初の長篇「本格」ミステリを執筆するに至りました。その名も『百足御殿の密室』。原稿用紙換算456枚。
 当時の記録を見ると、第6短篇を書いたあと、8ヶ月で書き上げてますね。早いんだか遅いんだか判りませんが。いや、早くはないか。
 実際は、ひと通り書き終えたあと、時間をかけて推敲はしているわけです。他の人に読んでもらったりしてね。それを含めての8ヶ月、だったはず。

 完成させた作品をまた講談社さんへ送ったわけですが、その顛末は、また次回に──。

 

 

 

 さて、17年以上前に書いた小説を長々と連載してみましたが、いかがでしたでしょうか。だいぶ若書きだったり、ミステリとしては甘いところもあったり、無駄に長かったりと、至らない点が多々あるかと思いますが、少しでもお楽しみいただけたら幸いです。
 もし今書くとしたら、主人公たちの年齢をもうちょっと上げますね。二十代は若すぎなんじゃなかろうか。でも二十代のほうが、大学生と自然に絡ませやすいのかな。2作目以降も、何かと学生と絡む話が多いし。

 初めて「本格」を意識して書いてみたミステリの題材が、密室でもアリバイでもなくダイイング・メッセージというのが、なんか、へそ曲がりですね。当時のことを思い返してみると、確かこのときは、ダイイング・メッセージに対して色々と思うところがあったような気がします。それを作品に反映してみたのでしょう、きっと。
 ダイイング・メッセージって、ミステリに出てきても、あまり本気になって考えようとは思わないですよね。どうせ考えて判るようなものでもないだろうし。そもそもこれが読み解けたからといって、証拠になるわけでもないし。
 このテーマで当時印象深かった作品は、麻耶雄嵩さんの「氷山の一角」とか、有栖川有栖さんの「あるYの悲劇」とか、霧舎巧さんの『ラグナロク洞』とかがあります。どれかから影響を受けているかも?

 また折を見て、2作目の連載もしてみようかと考えております。

 

 

 

 

 

                                      11

 わたしが背をもたれていたドアがノックされ、こちらの返事も待たずに外側へ開かれたものだから、よろめいて倒れてしまうところだった。
「失礼。おや、あなたでしたか――霜月さん」
 抑揚のない声で言ったのは一条警部補だ。後ろに小紫刑事も控えている。
「昨夜のことをお訊きしようと思いましてね。なんでもこちらのロッジは、昨夜ずっと明かりがついていたそうじゃないですか。他のロッジの宿泊客が証言されています」
「ああ、あなたが鼻持ちならない一条警部補さんですね! 霜月君から聞いています」
 奥から利御が声をあげた。なんてことを言うのだ、こいつは。
 一条が利御と朱夏を、続いてわたしをじっと見た。何も言わないところが恐ろしい。
「はじめまして、一条と言います」
 何ごともなかったように、利御に向かって自己紹介をする。
「早速ですが、昨夜の――」
「そのことでしたら、こちらの女性から重大なお話があるそうですよ」
 利御は朱夏を紹介する。一条は、
「白帯さんでしたね、確か。――なんでしょうか」
 朱夏は立ち上がる。力強い、決意に満ちた表情であった。
「警部補さん。私が殺しました」
「はあ?」
 と驚いたのは小紫である。一条はまるで態度を変えない。そのことに、わたしのほうが驚いてしまった。
「ですから、私が黄腰さんを殺したんです」
 しばし、妙な沈黙が続く。
「……解りました。ゆっくりお話を伺いましょう」
 そして一条警部補は、朱夏を連れていった。
 去りぎわに朱夏が振り向き、わたしに会釈をした。わたしはただ呆然と見送るのみであった。
「庵さん――でしたよね」
 せっかちにもノートパソコンを開きカメラを接続している利御に向けて、朱夏が朗らかに話しかけた。
「私の友達が言ってたこと、本当でした」
 利御のファンだとかいう人のことだ。
「――でも、私はあなたのこと大っ嫌いです」
「ああそう」
 利御が顔も上げずにそう応じると、朱夏は肩の荷が下りたような様子で、軽い足取りで刑事たちとともに消えた。

「ブラウスに指紋があったなんて、嘘だろう」
「嘘かもしれない。本当かもしれない」
 利御は液晶モニターに集中したままで答える。
「しかし、たとえ指紋がなかったとしても、彼女自身が自供しているわけだし、現代の科学調査を舐めてはいけない。物的証拠なんていくらでも見つかるよ。犯行現場や被害者の身体に、白帯さんの頭髪が抜け落ちていないと断言できるかい? 白帯さんの衣類に一滴も被害者の血液が付着していないと言い切れるかい?」
 わたしはポケットからマルボロを取り出した。火をつける。ああ、考えてみればこれを買ってから丸一日が経過しようとしている。ようやく味わうことができた。
 利御が手を止める。
「マルボロかい、それ」
「ああ」
「一本くれないか」
「吸うのか?」
「他に何に使う?」
 箱を差し出すと、器用そうな指が一本引き抜いた。
「吸わないんじゃなかったのか」
 火をつけてやる。
「今はね。滅多なことでは」
「昔は?」
「愛煙家だったよ」
 大学生時代も含めて、利御が煙を吐いているところは見たことがない。
「高校卒業と同時にやめた」
「……とんだ不良生徒だったんだな」
「くだらないことを言うね。霜月君、少年こそ煙草を吸わなければいけないよ。大人になったら潔くやめるべきだ」
「やめてないじゃないか」
「まあね」
 利御が笑った。
「なあ利御」
「なんだい」
「もしも朱夏が、ブラウスを始末していなかったら――どうするつもりだったんだ?」
 そうすると、朱夏を追い込む材料がなくなってしまうのではないか。
「朱夏がダイイング・メッセージに気づかないでいたら――」
「意味のない仮定だね。現実ではブラウスは脱がされている。それで充分じゃないか。それにさっきも言ったが、日本の警察は優秀だ。多少時間はかかるだろうが、証拠なんていくらでも出てくる」
「そうか。――それと」
「まだ何かあるのかい」
 もうひとつだけ、訊いておきたいことがあった。
「利御――もし昨日の夜に、君が黄腰さんのロッジを訪れなかったら――彼女にジガバチのことを話さなかったら――この事件は」
 起こらなかったのではないのか? 黄腰由美枝は死なずに済んだのではないのか?
 訊かずにおこうかとも思ったのだが、友達だからこそできる質問というものはある。
「霜月君」
 利御は煙草を灰皿に押しつけた。まだ全然吸っていない。
「僕がこれ以上、彼女のために何ができると言うんだい」

 白帯朱夏は、素直に自供したという。
 犯行時刻、犯行方法、証拠隠滅のあらまし。こと細かに、あますところなく。
 しかし、動機に関しては口を閉ざしているという。
 不便なもので、動機というものを無理矢理にでも定めておかなければ、捜査というものは進展しないらしい。
 わたしは彼女の心の内を明かそうとは思わないし、明かしてほしくもない。この先、朱夏がなんらかの動機を口にしたとしても、それはたぶん真実ではないだろう。たったひとつやふたつの理由だけで殺人をする者など存在しない。また、誰もが納得する理由で殺人をする者もしかり。
 事実のみを挙げよう。
 以下の事柄のいくつかは、後日わたしが得た情報である。
 白帯朱夏は、約ひと月前まで、轡大作と交際していた。恋人同士であった。肉体関係もあった。そして別れた。本人同士は後腐れがない別れ方だったと述べている。周囲の身近な者たちから見ても、そう思われた。だが、ふたりの間に何があったのかは知るよしもない。
 一方、黄腰由美枝は約ひと月前、轡とつきあいだした。朱夏と轡が別れた直後と言っていい。ふたりの詳細な関係については、同様に不明である。
 そして、黄腰由美枝は妊娠していた。
 父親は轡大作である。
 まもなく四ヶ月だったという。
 このことを知っていたのは由美枝自身と轡、そして朱夏のみであった。
 これらのことから、いわゆる殺害の動機というものを推察することはたやすい。どうやら警察でもそのように結論づける方向で取り調べを続けているらしい。
 もしかしたら……そう、もしかしたら、由美枝が最期にとっていた不自然な体勢――自分の腹を両手で庇っているかのような姿勢――これは、胎児への母の思いやりがそうさせた結果なのではないだろうか。
 それが、はからずもダイイング・メッセージのように見えてしまったのではないのか。
 こんな考えを抱くわたしは、ロマンティストなのだろう。
 今となっては真実は闇の中である。
 由美枝の気持ちなんて、わたしには解らない。
 朱夏の気持ちも解らない。
 そういうものなのだ。

 利御はパソコンを閉じると、カメラのバッテリーを交換していた。
 わたしは席を立ち、窓へ寄る。網戸を開けた。心地よい風だ。
 蜂が飛んできた。形も飛び方もジガバチのそれであったが、模様が違う。
 一瞬、警戒色に見えた。だが少し違う。体の大部分は黒だが、脚の一部と、例のくびれた胴――そこだけが黄色。
「これは?」
 利御に訊ねた。
 彼は振り返ると、
「それもジガバチの仲間だよ」
 そして少し微笑み、
「仲間というのは面白い言葉だね。蜂は蜂でも、種類は異なるのに」
「そうか。――刺さないよな」
「ああ」
 わたしは戯れに右手を伸ばしてみた。ガーゼはもう取れている。傷跡ひとつない。
 蜂が手のひらに留まった。急に、愛おしくなる。
 だが。
「痛ッ!」
 刺されてしまった。蜂は飛び立つ。
「おい利御」
「なんだい」
「刺さないって言ったじゃないか」
 すると利御は立ち上がり、カメラを持ってドアに向かった。ロッジを出る。
 振り返りざま、彼はこう言った。
「虫の気持ちなんて、解らないよ」



                                                                          (了)

                                                    2001.06 原稿用紙換算158枚

参考文献
 今森光彦『野山の昆虫』(山と渓谷社)
 出嶋利明『昆虫の科学』(ナツメ社)
 唐木英明『暮らしのなかの死に至る毒物・毒虫』(講談社)
 今泉忠明『猛毒動物の百科』(データハウス)
 安富和男『すごい虫のゆかいな戦略』(講談社ブルーバックス)
 田仲義弘・鈴木信夫『校庭の昆虫』(全国農村教育協会)
 

 

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                                      10

「手短に言いましょう。――自首してください」
「は?」
「そうすれば皆の時間が節約できます。時間は何よりも貴いものですからね」
「おっしゃってる意味が、よく解りません」
「本当に?」
「はい」
 利御の指定した人物をわたしはロッジまで連れてきた。そして今、その人物はテーブルを挟んで利御と向かい合わせに座っている。
 ――本当にこの人が犯人なのか?
 わたしは一歩身を引き、立ったままドアに背を預けていた。部屋の空気がピリピリと肌を刺激する。ときおり窓から吹き込む涼風が滑稽に感じられる。
「あなたが殺したのでしょう?」
「面白い人ですね」
「よく言われます。自覚はありませんが」
「どうしてそう思われたのです?」
「情報を集めて検討したからです」
「帰ってもいいですか?」
「その足で警察に自首してくださるなら」
「厭です」
「困りましたね」
「困ってるのはこっちです」
 わたしのほうに、救いを求めるような目線を送ってきた。わたしは、
「おい、利御。どうするんだよ」
 と呼びかけたが無視された。こちらを見ようともしない。
「時間の無駄になりますが、お聞かせしましょうか」
「何を?」
「昨夜の犯行の模様を。ある程度、僕の想像で補うことになるでしょうが、大枠は合っているはずです」
「時間の無駄ですよ」
「ええ、そう思います。――あなたが一番よく知っていることですから」
「気に障る言い方ですね」
「わざとそうしています」
「本当に面白い人ですね」
 そして、あきれたような溜息。そこには僅かに諦観の意も含まれていたかもしれない。
「……せっかくだから聞きましょうか」
「ありがとうございます。退屈な時間でしょうけれど、我慢してください。――白帯さん」
 白帯朱夏の険しい表情に、いつもの愛嬌はなかった。

 時刻は午後三時を回ろうとしていた。暑い。
「昨夜八時半ごろ、僕は黄腰さんの部屋を訪れました。話をするためです。彼女が大きな誤解を抱いているようでしたので」
 昨夕の、あのことだ。利御はそれを伝えるために訪問したという。
「三十分ほど話をし、彼女が納得されたようでしたので僕は辞去しました。九時ごろのことです」
「証人はいるの?」
 朱夏が噛みつく。利御は平然と受け止め、
「いません。残念ながら。しかしそれはあなたも同じことでしょう。とりあえず、質問はあとにしていただけますか」
 朱夏はしぶしぶ口を閉じた。
「さてその後、九時半過ぎに霜月君が帰ってきたときには、黄腰さんのロッジの明かりは消えていたということです。眠ってしまったのでしょうか? 少々早い気もしますね。彼女の亡くなった場所ならびに死亡推定時刻から察して、このときすでに彼女は部屋を出て、キャンプ場にいたと仮定するのが合理的です」
「どうして――」
「まだ話は終わっていません。霜月君は帰ってくるときに誰ともすれ違わなかった。ですので、それ以前に黄腰さんはキャンプ場にいました。――そう、キャンプファイアの最中あるいは終わった直後には、黄腰さんはあそこにいたのです」
「だからどうして!」
 思わずわたしが訊いてしまった。
「彼女はキャンプ場に行くのが厭だったから、わざわざロッジを借りていたんだぞ。それがどうして、自分の意志であそこまで行けるんだ」
「それは簡単ですよ」
 利御は、相変わらずわたしのほうを見ない。朱夏にだけ語りかけている。
「黄腰さんは蜂が恐かった。キャンプ場にはジガバチの巣がたくさんあった。ゆえに、黄腰さんはキャンプ場に行かなかったし、行けなかった。証明終わり。――そう言いたいのでしょう?」
 無言で朱夏が頷く。
「その証明式は条件に誤りがあります。端的に述べましょう。まず黄腰さんは蜂が恐かったのではない。蜂に刺されることが恐かったのです」
「同じじゃないか」
 わたしがケチをつける。
「同じではないのです。次の条件を聞けば解りますよ。これはすでに霜月君には話してありますが――ジガバチは人を攻撃しません。こちらから手を出さない限り、しかもあからさまな攻撃を加えない限り、ジガバチは身を守るために毒針を使うということはしないのです」
 だからなんだと言うのだろう。
「だから黄腰さんにはジガバチを恐れる必要はまったくなかったのですよ。ゆえに、彼女はキャンプ場に行くことができたし、行きたかった。なぜならそこには恋人の轡さんがいるから。なぜならそこは真夏の夜のキャンプ場、見上げれば満天の星、そして満月。若い恋人同士でなくたって、こんなシチュエーションには憧れてしまうことでしょう」
「つまり――つまり、黄腰さんは轡に会いに、あそこまで行ったというのか」
 眼鏡を押し上げ利御が首肯した。
「でも――」
 朱夏が疑問点を挙げた。
「それでは証明になっていませんよ。条件が揃っていません。黄腰先輩はその蜂――ジガバチを恐がっていましたよ。昨日の昼間に見ました。みんなが見ています。それともあれは演技だったとでも?」
「いえ、本当に恐れていたのでしょうね。しかし、昨夜のうちにその恐怖感を払拭する出来事が起きた場合は?」
「利御、まさか」
 昨夜の出来事。利御は由美枝と会話をした。
「まさか、誤解を解くっていうのは――」
「そうだよ、霜月君」
 やっとわたしのほうに視線を向けてくれた。
「僕は黄腰さんに、蜂の――特にジガバチの生態について、懇切丁寧に解説してさしあげた。彼女は聡明な女性だね。非常に呑み込みが早かった」
「それじゃあ、我々の誤解については――」
「そんなこと話しても時間の無駄だろう」
 利御は顔を朱夏に向けなおした。
「黄腰さんは蜂に対する誤解を解いてくれました。彼女が理屈を重んじる方でよかった。でなければ、口べたな僕では納得してもらうことができなかったでしょうから」
 昨日の昼、この部屋で利御はジガバチを腕に留まらせて、わたしに蜂の講義をしてくれた。おかげで蜂に対する恐怖感――それは一般的な人間ならば誰もが抱いている感情だ――は、完全ではないかもしれないが拭い去られた。その後キャンプ場へ行ったとき、蜂であるというだけでジガバチを恐がる後輩たちが微笑ましく思えた。
 由美枝もそうなのだ。この男に正しい知識を与えられ、誤った思い込みを取り去られたのだ。しかも、わたしより時間をかけて丁寧に。
「僕は黄腰さんをさらに安心させるため、服装に関するアドバイスもしました。黒の上下というのは紫外線のカットという意味あいでは非常に有効ですが、虫刺され対策としては心もとありません。蜂は黒いものを優先して攻撃します。しかも半袖というのはよくない。ですので――」
 由美枝の服装にこだわっていた利御が思い出される。
「白の長袖と帽子を勧めました。幸い、そのいずれもお持ちになっていたようです。愛用の帽子と――ブラウス」
 心なしか、朱夏の身体がぴくりと震えたような気がした。
「蜂は昼行性ですから、夜間に出歩くのであれば不必要なんですけれどね。しかし少しでも駄目押しをして安堵感を得たいのであればと、そう言っておきました」
「そうですか」
 朱夏が力なく相槌を打つ。不必要な相槌である。
「しかしここでひとつ、おかしなことが生じています。発見された黄腰さんの遺体は、帽子こそ被っていましたが、ブラウスは着ていませんでした。黒の上下、しかも半袖です。おかしいとは思いませんか?」
「さあ……」
「あなたが脱がせたのでしょう? ブラウスを」
「おい利御」
 横槍を入れた。
「彼女は帽子だけ被って外出したのかもしれないじゃないか」
「君は莫迦かい?」
 これ以上ないというくらいの侮蔑的な表情をわたしに見せた。
「ブラウスを見つけてくれたのは君だろう」
 わたしが何も言えなくなると、再び朱夏を見、
「白帯さん、あのブラウスは先ほど発見されました。キャンプファイアの焚き火の跡から。あそこ以上にうまい隠し場所は見当たりませんからね。森の中や管理舎の屑籠では、すぐに発見される恐れがありますが、皆の視線に曝されているあそこならば盲点となりますし、何より、次のキャンプファイアのとき自動的に焼却処分されますね。あなたは夜の間に黄腰さんからブラウスを脱がせ、キャンプファイアの終了後、あの中にブラウスを放り込んだのです。多少は木ぎれを上に被せたかもしれませんが」
 朱夏は何も言わない。真正面から利御の視線を受け止める表情が痛々しい。
「話を少し戻しましょうか。昨夜、キャンプファイアの最中にあなたは流し場へと向かいました。洗い物を済ませてしまうために。その中には例のナイフもあった。そしてその途上、森の入口付近で偶然にも見つけてしまったのです。黄腰由美枝さんを」
「見てきたように言いますね」
「黄腰さんはおそらく、轡さんや皆さんを驚かせようと思っていたのでしょう。蜂を恐れていた自分がいきなり現れることによって。彼女はキャンプ場の中央に集まる人々の中から、サークルの仲間たちを探していた。下手に近づいて先に見つけられては興ざめですから、遠目にね。――しかしそこであなたに見つかった」
「あなたに何が解るっていうんですか?」
「白帯さん、あなたも最初は驚いたでしょう。来るはずのない黄腰さんが来ているのだから。しかもひとりで。しかも他に人目のないところに。しかも、あなたはナイフを持っていた」
「何が言いたいの?」
「殺害の前に何か会話がなされたのか、それともいきなり襲いかかったのか、それは僕の知るところではありませんが、ともかくあなたはまず、黄腰さんの左の脇腹を刺しました」
 朱夏の奥歯が噛み締められているのが判る。
「ブラウスとTシャツを貫通し、身体に刺さりましたが、それ自体は致命傷になりませんでした。あなたはナイフを抜き、今度は胸に突き立てました。一度肉を貫く感覚を覚えていたせいでしょうか、それとも踏ん切りがついたからでしょうか、思い切って押し込んだナイフは、不幸なことにすんなりと黄腰さんの胸に食い込んでしまいました。そして黄腰さんは倒れます」
「どうして刺したのが私じゃないといけないのかしら。全員にアリバイがないんじゃありませんでした?」
「黄腰さんを刺し殺したことにより恐くなったあなたは、急いでその場を離れます。流し場へ行き、洗い物を片づけると同時に、自分の手についてしまった返り血を流します。脇腹の傷は大したものではありませんでしたし、胸のそれもナイフが栓の役割を果たしていましたから出血は酷くなかったはずです。ですので、たとえ返り血があったとはいえ、あなたの衣類が汚れてしまうほどのものではなかったと推測することが可能です。――実際そうでしたよね」
「思わず頷いてしまうと思われました?」
「だとしたら儲けものだなと思いました」
 ふたりは笑った。空恐ろしい乾いた笑いだ。
「――現場を離れ、何くわぬ顔で洗い物をテントに持ち帰ったあなたでしたが、そこであることに気づきました。そうです、指紋です。ナイフの柄についているあなたの指紋。それを拭き取らないことには、どうしようもありません。せっかく、蜂嫌いの黄腰さんがキャンプ場にいるという不可能状況がつくられているのに、決定的な証拠が残っていては元も子もありません。霜月君が得てきた情報によると、死後硬直が始まるころに遺体の腕が動かされた痕跡があるということですから、キャンプファイアの終了後、夜陰に乗じて遺体のもとへ行ったのでしょう。誰かに自分の姿を見られることを危惧して、真っ暗になるまで遺体を放置しておいた度胸には恐れ入ります」
「それはどうも。私も恐かったです。――これ、もちろんジョークですよ。面白いからつきあってあげてるだけです」
「承知してます。さて再び犯行現場を訪れたあなたですが、そこでもう一度驚くことになります。――なぜなら、黄腰さんの体勢が、最初に倒れたときと変わっていたからです」
 明らかに、朱夏が息を飲んだ。
「血を流して地面に横たわっていたのはいいのですが、彼女の両手は、なぜか自分の腹部を押さえていました。まるで、自身を抱えるかのごとく――両腕を胴体に巻きつけようとしているがごとく」
 目を見開いている朱夏。
「これはおかしな状況ですね。刺されたら普通は傷口を押さえようとするでしょう。確かにこうすれば脇腹を押さえることにはなります。ですが、両手を使う意味がありません。それに、致命傷となった胸の傷には手も触れていない」
 彼女の顔色が悪い。
「あなたはいぶかしく思ったはずです。そしてすぐに、ある可能性に思いいたった。恐るべき可能性に。結果、あなたは慌てて黄腰さんのブラウスを脱がすこととなる。これを処分してしまわなければならない、と判断して」
 朱夏は、もはや利御を見ていなかった。目は伏せられ、ぼんやりと卓上の灰皿を眺めている。
「ブラウスを脱がせたあなたは、それを使ってナイフの柄を拭いました。このとき、ナイフを回収して凶器と指紋の両方を隠滅してしまうという選択肢は、ありえませんでした。深くしっかりと食い込んだナイフは、ちょっとやそっとでは抜き取ることが不可能となっていましたから。
 さて、指紋はなくなりましたが、黄腰さんの血液は完全に凝固してはいなかったため、まだ胸の傷口からナイフを伝って流れ落ちてきていました。そのために発見当時、柄は血で汚れていたのです」
「どうして――」
 弱々しい声で朱夏が反駁を試みた。
「どうして、私が黄腰先輩のブラウスを処分しないといけないの?」
「僕の口から言うのですか? あなたがよくご存じのはずですが」
「言ってください」
 利御は眼鏡を押さえつけると、
「それはもちろん、ダイイング・メッセージだったからです」
「ダイイング・メッセージだって!」
 わたしは叫んだ。
「どういうことだ利御」
「黄腰さんも白帯さんも、ミステリ小説をお書きになるということでしたね。ダイイング・メッセージなるものの知識は充分にあったものと考えられます。そしてあなたは、黄腰さんの不可解なポーズを、彼女が残したダイイング・メッセージであると解釈しました」
「どうして!」
 押し黙る朱夏に代わって、わたしが問う。
「いったい何がメッセージになってると言うんだ!」
 俯いた朱夏を、利御はねめつけた。
「最も重要なのは色です。白いブラウスに赤い血液の染み。しかも、わざと不自然な箇所に血の染みをつけようという黄腰さんの努力が窺える状況です」
「それが?」
「それだけでも充分でしたが、さらに、黄腰さんの細長い腕は、まるでベルトのように自分の胴体に巻きついていました。ブラウスにつけられた血痕から、それは明らかです。彼女は血にまみれた自分の手と腕を、胴に巻くような格好で倒れていたのです。そしてもうひとつ、着ていたブラウスは長袖ではありましたが、特に通気性に重点が置かれている、夏物の製品だったのです」
「だからそれがいったい――」
「まだ判らないのかい霜月君」
 厳しい声だった。
「ブラウスの白。ベルトのように――帯のように自身を抱いた被害者の腕。血液の赤、いや朱色。夏物の生地。……そしてこれは黄腰さんの残したメッセージだ。犯人の名前を指摘するための」
 白いブラウス、帯のごとき腕の位置、朱色の血液、夏物の服。
 白、帯、朱、夏――。
「馬鹿な!」
 わたしは喚いた。
「そんな、そんなことが」
「起こったんだよ、実際に」
「それで証拠の隠滅を――」
「少し違うね」
「どういうことだ?」
 すると朱夏が口を開けた。
「証拠には――ならないでしょう? そんなものは。それに、黄腰先輩がミステリ好きだからって、都合よくそんなもの残そうと思うわけないじゃないですか。死に瀕しているんですよ? とっても苦しいんですよ?」
「そう、そのとおりです。しかしあなたは自分の名前をそこに見出してしまった。大切なのはこれです。黄腰さんがメッセージを送信したことではなく、あなたがメッセージを受信してしまったことなのです。――ひょっとしたらこれは、単なる偶然であったかもしれません。あるいは黄腰さんの体勢は、まったく違った意味を持っていたのかもしれません。ですがあなたは、これが黄腰さんの残したダイイング・メッセージ――あなたへの告発であると受け止めた」
 ふたりはソーケンの二大クリスティと言われていた。しかも、会誌の最新号は、折しも「ダイイング・メッセージ競作」――。決して頭の鈍くない朱夏が、これらの要素を結びつけて考えないわけがなかった。
「自分の名前を連想させるものが現場にあるなんて、しかも被害者が着用しているなんてことは、あなたに耐えられるはずもなかった。だから脱がせて処分したのです。これは状況から推察したにすぎませんが――ブラウスのボタンは、されていなかったのではないですか? だから脱がせやすかった」
「……どうして、そう思うんです?」
「ブラウスの脇腹のところには切り込みがありましたが、胸にはありませんでした。つまり、胸を刺したとき、そこにはブラウスがなかったということです。ゆえに前のボタンは留めていなかった。この結果、ナイフを抜き取ることなくブラウスを脱がせることが可能だった」
「ブラウスが脱がされていることが、私が犯人であることを指し示していると、どうしてもそう結論づけたいみたいですね」
「そうです」
「犯人は――」
 朱夏は語気を強めて言い返す。
「自分の指紋を――血で汚れた手で触って、それでついてしまった指紋を隠すために、ブラウスを脱がしたんじゃないんですか? そんな、ダイイング・メッセージなんかよりも蓋然性が高くありません?」
「それはないですね」
 あっさりと利御にひっくり返される。
「ブラウスを脱がし、それを始末しなければならないという、大きなリスクを犯すほどの理由とは考えられません」
「でも」
「指紋がついたことに気づいたのならば、その上からさらに血液を付着させれば済むことでしょう? 簡単に指紋は消えてしまいます」
「でも――やっぱり証拠にはならないわ、そんなの」
「何を言っているんですか。ブラウスは発見されましたよ。今ごろ鑑識に回されているでしょうね。そして当然のことながら、じきに指紋の持ち主が判明することでしょう
 指紋だって? ブラウスにそんなものがついていたような覚えはない。第一、利御にそんなことは報告していない。
 わたしが疑問を口にしようとすると、利御に、もの凄い目つきで睨まれてしまった。
 代わりに朱夏が喋った。
「指紋って――」
「おや、ご存じないんですか? あなたの指摘したことは、決して的外れではないのですよ。血のついた指でブラウスを扱ったのでしょうね、犯人は。そう、ブラウスには指紋がついていたのですよ。赤黒い指紋が。――白帯さん、暗闇の中で何かと大変だったでしょうけれど、大きな見落としでしたね。あなたがブラウスを脱がせたときか、はたまたナイフの柄を拭き取ったときか、まだ乾ききっていなかった血液があなたの指に付着し、その指で触れられたブラウスには、当然のことながらはっきりと――」
「もう、いいです」
 搾り出すような声音で、朱夏が、すべてを認めた。

 

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