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夕食にはまだ早いが、陽が落ちればキャンプ場は闇に包まれてしまうため、明るいうちに早めに取っておいたほうが合理的であるということは自明の理である。暗い中で明かりでも灯そうものなら、蚊や蛾、その他さまざまの羽虫を引き寄せてしまうこととなり厄介だ。そんな状況を喜ぶ変人は、わたしの友人に一名いるだけである。
その友人は、すでにひとりで森の中へと入っていってしまった。わたしはといえば、荷物を置いたロッジを施錠し、可愛い後輩たちに会うためキャンプ場へ向かおうとしていたところであった。轡たちの計画では、陽が沈んでしまう前にバーベキューパーティーをやるということだった。
「霜月先輩」
背後からわたしを呼び止める透き通った声の主は、思考を巡らすまでもなく黄腰(きごし)由美枝と判る。振り向けば、ストレートのロングヘアをそよ風に揺らしている由美枝嬢が隣のロッジから出てきたところだった。色白でスレンダーな美人である。多少、目つきがきつい印象を与えないこともないのだが、それが彼女の魅力の一端であると思う。Tシャツもジーンズも素っ気ない黒一色であるが、それがよく似合っている。本人もそれを自覚しているのか、日ごろから黒系統の服装が多い。社会学部三年生、ソーケンの一員である。
「やあ、君もロッジ?」
「ええ、最初はテントのつもりだったんですけど、ちょっと事情があって」
言葉を濁し、それ以上の理由は述べない。そういえば轡が教えてくれたっけ。調子が悪いとかなんとか。多少、気にはなったが、特に詮索することもしなかった。
由美枝は飴玉を舐めているようだった。ときどき言葉がどもる。
「何しゃぶってんの?」
「梅干しドロップです」
「なんだい、それは」
「おいしいですよ。あげましょうか」
「遠慮しておこう」
甘くない飴など邪道である。わたしは話題を変えた。
「――黄腰さんも行くの?」
キャンプ場の方向を指差しつつ訊いた。
由美枝は首を左右に振り、
「私はいいんです。あんまり体調よくなくって」
「大丈夫かい? 変わりなく見えるけど」
「ええ、たいしたことはないんですけど」
言葉どおり、体調不良には見えない。いつもの溌剌とした様子である。
黄腰由美枝は、わたしが四年生のときに新入生としてソーケンにやってきた。得意分野はミステリであり、ならば活動内容が曖昧模糊とした創作研究会などではなく、ミステリ研究会へ行けばいいと思うのだが、彼女曰く、視野の狭いマニアの中に埋没したくはないとのことであった。手厳しい意見だが、このひとことだけで由美枝に好感を持った。何を隠そう、わたしもミステリ好きでありながらミス研を蹴ってソーケンへ身を委ねたひとりであったからだ。自他ともに認めるミステリマニアならばともかく、わたし程度の中途半端なミステリファンには、ミス研は少々荷が重い。
折からのミステリブームで、皮肉なことにソーケン内部でもミステリが主流となりつつある。由美枝はそんな中でもとりわけ輝ける逸材であり、彼女の作品を目にしたミス研メンバーから引き抜きの声がかかったほどであった。ソーケンのクリスティなどと褒めそやされたが、ミステリを書く女性は皆クリスティと呼ばれてしまう状況は、いささか滑稽である。
「そういえば、さっき森のほうに入っていった人って、こないだ先輩が話してた写真家さんですか?」
「ん? ああ、そうだけど。見てたの?」
「ええ。窓から見えたんです。黒いスーツの人」
「見てるだけで暑くなるでしょ」
「ええ。私も黒ですけどね」
白い歯を見せて微笑む。
「先輩はこれから宴会ですか?」
笑顔とともに由美枝が問うた。わたしは愛想よく首肯する。
「君も来ればいいのに。たいしたことないんでしょ?」
「私はお留守番です」
おどけた調子で言いつつ、「それじゃあ、いつぞやのコンパみたいに潰れないでくだいね」とつけ加え、由美枝はロッジに引っ込んだ。バイバイ、と手を振られたのでこちらも振り返した。
由美枝は何をしに出てきたのだろう。きっとわたしの姿をロッジの窓から認め、挨拶をしに来てくれたに違いない。これは決してわたしが特別慕われているがゆえとか、わたしの自惚れが呼び起こした勘違いとか、そういったものではない。
黄腰由美枝とは、そんな女性なのだ。
わたしはひとりでキャンプ場へ向かった。
そして今、わいのわいのとはしゃぎつつ、皆でバーベキューの準備に勤しんでいるところであった。皆で、と言ってもわたしは何も準備はしてこなかったため、後輩たちの手際を眺めながら時折茶々を入れるという、非常に建設的な役割を担っていた。もちろん、つまみ食いをしながらビールを空けさせてもらっている。立場的にはOBであり賓客であり、このキャンプ場を紹介した功績もあるわけであるから、断じてわたしが怠け者というわけではない。いわば当然の待遇である。
「先輩も少しは手伝ってよ」
困ったように言ってきたのは、工学部一年生の三井寺庚(みいでら こう)だ。華奢な身体つきで、そのへんにいる女性よりも滑らかな肌をしており、しかも人好きのする美形ときたものだから、男色趣味のないわたしでも間違いを起こしてしまいそうな男である。引っ込み思案で人見知りするらしいが、わたしには懐いている。
「ビールばっかり飲んでないで。ほら、枝豆そんなに食っちゃって」
「何を手伝えばいい?」
「とりあえず邪魔しないでよ。それが一番ありがたい」
酒が入って陽気なのをいいことに、ずけずけとそんなことを言うものだから、わたしは彼のことがとても可愛く思えてきて抱き締めたくなってしまい、本気でヘッドロックをかけてやった。邪魔はエスカレートする一方である。酔っているのだから仕方がない。
「まあまあ、霜月先輩」
子供でもあやすように入ってきたのは、経済学部二年生の白帯朱夏(しろおび しゅか)である。ほのかな栗色に染められたショートの髪が似合いの女性で、ソーケンでは由美枝に次ぐ第二のクリスティなどとも囁かれている、才女と言っていいだろう。愛嬌のある顔つきが好ましい。轡とつきあっていると聞いた。端から見て悪くないカップルだと思う。
「あまりコーちゃんいじめないでくださいね」
包容力がある声、とでも言うのだろうか。彼女の言葉には人を懐柔させる何かがあるような気がしてならない。
「あいよ。朱夏ちゃんが言うなら、もうひと締めしたら解放してやる」
三井寺庚の悲鳴がこだました。激しくわたしの腕をタップするが、黙殺する。厄介な酔っ払いだ。救いようがない。
やがて宴が始まったころには、午後の五時になろうかとしていた。夏だから、まだ充分に明るい。日没は七時半くらいだろう。
肉の焼ける音はいつ聞いても心地いい。そこに重なる匂いも、また。これらに関しては、他のどんな食物よりも肉が優れている。人間は本能的に他の動物を喰らうことを欲しているのだ。だてに食物連鎖の頂点には達していない。
総勢十六人で焼き網を囲んでの立食パーティーである。もともと十六人だった中から由美枝が抜け、代わりというわけではないがわたしが混ざり、プラマイゼロというわけである。十七名でないのが残念だ。
セルフサービスで各自好きな食材を串で貫き、各々の責任で火を通し、タレをつける。焦がすのも生焼きにするのも自由だ。肉ばかり串刺しにするわたしに「ブロッコリーを食えブロッコリーを」と三井寺が命令するので、串で彼の目を突いてやろうかと思ったが、朱夏に止められたのでやめておいた。
一応、わたし自身の名誉のために述べておくならば、これら食材費は皆の割り勘ではあるのだが、最も多額の出費をしたのはわたしである。誰よりも肉を喰らう権利はあるのだ。――と三井寺に諭しておこうかと思ったがやめた。みみっちいやつと思われてしまう。
ところで先刻から気になっていたのだが、キャンプ場にはジガバチが多く飛んでいる。肉を囓り取るわたしの鼻先を突然掠めていき、驚いた拍子に串を落としそうになり、慌てて両手で押さえた。結果、わたしの手のひらはタレにまみれてベトベトになってしまった。忌々しい虫である。
「巣がいっぱいあるんですよ」
わたしの様子を見て取った轡が、焼きトウモロコシを咀嚼しつつ教えてくれた。
「地面にたくさん穴が空いてるでしょう?」
身を屈めて探してみると、ほどなく見つかった。細かな石ころが点在する乾いた地面に、ぽつり、ぽつりと小指の先ほどの穴が。利御の話では餌に卵を産みつけたあとで小石による蓋をするということだったから、それがどかされてしまったものだろう。人間たちが自由奔放にテントを張るキャンプ場に巣作りをしてしまうとは、お互い、はた迷惑な話である。人が巣を荒らし、蜂が人を脅かす。
「こっちらか手出ししなければ刺されないって、キャンプ場の人は言うんですけどね」
朱夏が言葉を重ねた。
「でも、いつ刺されるか判らないから、ちょっと恐いと言えば恐いですよ。私もさっき虫よけスプレーたっぷり使っておきましたし」
「こいつらがいるから黄腰さん、こっちに来られないんだ」
三井寺が言う。
「あの人、蜂恐怖症だから」
それは知らなかった。
「なんだっけ、確か、子供のとき蜂に刺されて病院送りになって以来、駄目だそうだよ」
なるほど、それが由美枝のロッジ宿泊の〝事情〟というやつか。刺される可能性を朱夏が恐れていたように、蜂イコール危険と誰もが思い込んでいる。たとえそれがジガバチであっても。たぶん、この場にいるメンバーの中で、ジガバチの安全性を知っている者はいないだろう。わたしだって人のことは言えないが。つい数時間前まで知らなかったのだから。
「子供じゃあるまいし、そんなに恐がらなくてもねぇ」
朱夏がそんなことを言うと三井寺も同調したが、些細なものであれ陰口を叩いている人間の姿はいいものではない。しかし説教は嫌いなので黙っておいた。
バーベキューの残りが少なくなってくると、まだ食い足りない者たちのためにレトルトのカレーがふるまわれた。わたしはそこまで大食らいではないが、若い男どもはガツガツと胃に収めていく。キャンプといえばカレーだろ、などと訳の解らぬことを皆で言いながら。
わたしはデザートにリンゴを剥いてもらって食していた。なぜか――という表現は不適切かもしれないが――なぜか朱夏ではなく、三井寺が丁寧に果物ナイフで皮を剥き、「はい」と手渡しでくれた。それをムシャムシャ頬張る。まあ、普通に旨い。
器用なもので、三井寺は片手で素早くナイフを一回転させて見せた。プラスティックの白い柄に色鮮やかなアゲハチョウが描かれているのが特徴的だった。それがくるりと舞う。
やがて宴もたけなわ、ここで予定されていたイベントのひとつが実施されることとなった。すなわち、会誌『嚆矢』最新号に掲載された各作品の寸評会である。それぞれの作品の感想、批評を皆で話し合い、次作に活かすという趣旨ではあるが、まあ、ひとことで言ってテーマの決められた雑談である。酒の勢いも手伝って、忌憚なき意見が交わされる。
ソーケンでは毎回テーマ競作がおこなわれ、同一のお題のもとに希望者数人が参加して作品を発表し合う。今回のテーマは「ダイイング・メッセージ」であった。言わずと知れた死に際の伝言というやつである。殺人事件の被害者が、死に直面した最期の瞬間に犯人を示す手がかりを残しておくという。死に瀕した者が本当にそんな気の利いた仕掛けを思いつくのかという疑問はさておき、ミステリの定番アイテムではある。
ソーケンの二大クリスティであるところの由美枝と朱夏はもちろん、轡も、そしてなんと三井寺も競作に参加している。三井寺は詩歌専門と言ってよく、ミステリ小説なんて書かないと思われていたため、これには誰もが意表を突かれた。そして発表された彼の作品を見て、いま一度意表を突かれることとなった。ダイイング・メッセージを主題とした長い散文詩で勝負をかけてきたのである。しかも、単純なものではあるがしっかりとミステリ的なギミックが施されている。評価に関しては賛否両論あったが、わたしは大いに買っていた。
その他の作品に関しては、おおむね可もなく不可もなくといったところだろうか。由美枝がさすがに良質なミステリを発表していたが、普段の力はあまり発揮できていなかったように思う。朱夏に関してもまた然り。彼女はいつだって由美枝を超せない。いつまでもナンバーツーの位置に甘んじている。いやもちろんナンバーワンになろうなどという意志は見せていないが、まったく意識していないというわけでもあるまい。
誰かの携帯電話が鳴った。最近流行の曲だが、曲名は忘れてしまった。立ち上がって輪を離れたのは轡である。ポケットから携帯電話を取り出し、話している。彼の大きな声がこちらまで響いてきて、嬉しそうに会話をしているのが判った。――「ん? 今? お前の小説の悪口言ってたところだよ」「そうそう、今からでも来いよ」「大丈夫だって、そんなの。気合入れれば刺されないから」――。
どうやら由美枝らしいが、以前に比べて随分とフランクな調子で話している。由美枝にはどこか世俗から乖離したような雰囲気があり、そのため誰もが幾分遠慮気味に接している。あの轡にいたってもそれは例外じゃなかったはずだ。
「彼女からだね」
わたしの隣にいた三井寺が、小声で囁いた。
「どういうこと?」
「だから、愛しの黄腰さん」
「えっ? 轡君、朱夏ちゃんとつきあってるんじゃなかったの?」
焼き網を挟んで正面にいる彼女を見ながら、わたしも小声になった。
「あれ、先輩知らなかったの? 別れたよ」
「いつ」
「一ヶ月前」
「知らない」
「で、即座に黄腰さんへ」
「あれま」
「みんな知ってるよ」
朱夏の様子を窺うと、轡のほうをじっと見ている。彼女も電話の相手が誰なのか判っているだろうが、特に不機嫌そうな様子はない。
「まあ、後腐れのない別れ方だったらしいけど。朱夏さんが言うには」
それはそうだろう。でなければどちらかがサークルを去っている可能性が高いだろうし、今までの親しげな会話はありえない。轡と朱夏の間にピリピリとした空気は一切感じられなかった。当然、彼らを囲む他のメンバーの間にも。
男と女の間には色々あるものだと、常套的な文句でわたしは自らを納得させた。男のほうが轡大作であったから深刻な事態にはならなかったのだろう。ここまでカラッとした、五月晴れのような性質の男だから。
「やっぱ来れないって。情けない。嘆かわしい」
ケラケラと笑いながら、轡が戻ってきた。
七時になると空は藍色に染まり、夜が姿を見せ始める。バーベキューパーティーはお開きとなり、わたしはキャンプ場の北西にある流し場へと赴いた。森に面した一角にコンクリの細長い流し台が設えてあり、水道の蛇口がいくつも並んでいる。ここで飲料水を補給したり、食器や手を洗うことができる。わたしの手にはバーベキューのタレがついたままで、ティッシュで拭ってはあるのだが、やはり綺麗さっぱり洗っておきたい。それに暑さのせいもあり、顔の汗と脂も気になる。
だが流し場は思いのほか混み合っていた。他のキャンプ客たちも一斉に飯ごうやらスプーンやら鍋やらを洗いに来ているのである。わたしと同様、手や顔を洗おうとしている者も少なくなさそうだ。どの蛇口にも行列ができていて、順番が回ってくるのはまだだいぶ先の話だ。
一緒に来ていた〝洗い物係〟三名の中には朱夏もいたのだが、彼女は両手に持った洗い物を見つめながら、
「あとにしようかな」
と呟いていた。彼女の言うとおり、すいてからまた来ればいい。三人は諦めて引き返した。わたしもそうすることにした。
ロッジに戻る前にヤニを補充しておこうと思い立ち、キャンプ場南の管理舎へと向かった。ジュースやビールの自販機と並んで、煙草のそれも置いてあったからだ。
キャンプ場は大雑把に言えば円形をしており、周囲を森で囲まれている。北西に先ほどの流し場、南に管理小屋があり、その先は駐車場、麓へ続く道となっている。東には森の中を真っ直ぐに突き抜ける幅広い道がつくられており、その先がロッジ村だ。森の中にもロッジ村とキャンプ場とをつなぐ道があるが、こちらは人がやっとすれ違うことができるほどの狭い道で、曲がりくねっており、足場もあまりよくはない。夜中に歩いたら、さぞや恐ろしい体験ができるに違いない。
『自然を大切に。空き缶はくずかごに。吸い殻は灰皿に』と書かれた古い看板を横目に煙草を買う。本当に自然を愛する者ならキャンプ地で煙草は吸わないだろうが、需要があるゆえにこうして供給しているのだろう。
重たいやつを吸いたい気分だった。三十円高いがマルボロを購入する。マルボロはわたしが最も好きなパッケージの煙草である。
管理小屋の隣には公衆トイレもあるので、そこで用を足してゆく。ここの水道で手を洗うことはできたが、さすがに顔まで洗う気にはなれない。
トイレを出て東へと足を向けたとき、ロッジ村にも流し場があったことを思い出した。シャワー施設も整っていたはずだ。ならばこちらを使わせてもらえばいい。わたしはまだ明るい道をロッジへ急いだ。
第4回