無人の家で発見されなかった手記 -18ページ目

無人の家で発見されなかった手記

──ある素人小説家の陳述

                                      5

 すっかり闇が降りた森の中の道を歩く。見上げれば、木々の合間に、まるで誰かがあつらえたような満月が見えた。ちかちかと瞬く星。なんて綺麗なんだ! ――そう素直に感動できる。男のひとり歩きなのが悔やまれるが、利御と一緒であるよりはましというものである。
 わたしの顔には笑みが貼りついていた。なんだ、利御だって由美枝の目を気にしていたんじゃないか。あいつも年頃の美人には弱いのだ。由美枝みたいなのが好みなのかもしれない。
 都市部と違って、陽が沈めば途端に涼しくなる。足元がアスファルトやコンクリートでないから、熱が逃げやすいのだ。クーラーなどという無粋な機械もここにはない。昼間以上に空気がおいしい。そういえば煙草を吸っていないことに気づいた。クマバチに邪魔されて機会を逸してしまった。だがそれもいい。
 微風が流れてきた。わたしの身体を通り抜けるような心地よい風だ。僅かに身震いする。半袖のシャツ一枚では、少々寒いかもしれない。長袖でもよいくらいだ。せめて中にTシャツでも着てくればよかっただろうか。しかし今から引き返す気にもなれない。それに、キャンプファイヤーの炎にあたれば暖かくもなるだろう。
 夜の虫が鳴く声が、左右の森から厳かに響いてくる。それに誘われるようにして、わたしはキャンプ場へ辿り着いた。
 折よく火が灯されたところだった。井戸のようにも見える石組みの中に、たくさんの木材が入れられてある。そこに火を投じ、豪勢な焚き火を起こすのだ。おそらくキャンプ場の人間すべてが、煌々と燃えさからんとする炎を囲んでいる。ロッジの客も、管理舎の係員も参加しているに違いない。
 人は唯一火を使う動物だが、同時に火そのものを愛する生き物でもある。赤々と輝き、天高く揺らめき、圧倒的な熱量で周囲を威圧する火炎。人の心というものは、いつだってそこに引き寄せられる。
「先輩、こっちこっち!」
 顔を紅く照らされた轡が手を振っていた。幾分興奮気味である。
「お待たせ」
「はい、とりあえず一杯」
 朱夏が冷たい缶ビールを渡してくれた。わたしは受け取ると、利御の言葉を思い出して右手の甲にあてがった。ガーゼの上からだが、冷たくて気持ちがいい。
「何してんの?」
 三井寺が訊ねた。
「見て解らんか。冷やしてる」
「なんでまた」
「刺されたの。蜂に」
 三井寺が嗤笑した。
 先輩に殴られる後輩を朱夏が庇いつつ、
「係員の人にしてもらったんですか、それ」
「いや、利御――連れの昆虫写真家に」
「ああ、庵さんですね。友達にひとりファンがいるんですよ。サイン貰ってきちゃおうかな」
 ファンだと? ファンがいるというのか、あの男に!
「それはまた、奇特な……」
「そうなんですか? 『日本の蟲』の著者近影、クールでセクシーでかっこいいって言ってましたよ、その子。私は見てないですけど」
 クールだと? セクシーだと? かっこいいだと!
「それは、また、危篤な……」
 世の中、解らないものである。解らないから世の中は面白いのであろうが。
 患部を充分に冷やし、ビールを呑み始めた。おかげさまで痛みはないし、腫れてもいないようだ。多少の違和感があるようにも思えるが、気のせいかもしれない。腕や首筋を何ヶ所か蚊に刺されたのだが、そちらのほうがよほど気になる。
「黄腰さんは来ないの?」
 轡に訊いてみると、残念そうに「ええ」と頷いた。
「まず無理でしょうね。何しに来たんだか」
 詳しくは知らないが、夜の間は蜂も寝ているのではないのだろうか。いや、心底恐れている者にとっては、そういう問題ではないのかもしれない。
 さて、肝心のキャンプファイヤーだが、特に決められたイベントはなく、自由気ままに酒を呑んで騒ぐだけの催し物である。だが、炎という趣向があるだけで、盛り上がりのレベルは普段とまったく違ってくる。
 時が経つにつれ、誰もが言動をアルコールに支配されてきた。しかも目の前には動物的本能を揺さぶる紅蓮。わたし自身、もう何が何やら判らなくなってきた。それは他のメンバーも似たようなものだろう。
 ソーケンの会員に限らず、近くにいる他の客と肩を組み、酒を呑みかわし、歌を唱った。
 お互いがいつどこで何をしていたか――そんなことを把握している者などひとりもいなかった。
 轡は頻繁にトイレへ行ったり電話をかけに輪を外れたりしていたように思う。
 朱夏は途中で急に食器洗いがまだであったことを思い出し、今ならすいているだろうと慌てて流し場へと駆けていった。
 三井寺は三十分ほどわたしにくっついていたのち、胃の中に溜めたものをすべてリセットするためにどこかへ姿を消し、以後、翌日まで見ていない。
 わたしは前後不覚で、空へ向かって長く伸びるはずの炎がまん丸に見えるほどに酔っていた。九時半にお開きになるまで飲み食いし続け、誰か解らぬ相手と猥談に花を咲かし、その後、三井寺と同じ道を辿ることとなる。久しぶりに胃液を味わった。
 こうして夜は終わった。

 しばらく夜風で頭と身体を冷やし、サークルのメンバーには挨拶することもなしに、ひとりトボトボと真っ暗な道を歩いてロッジへ帰り着いたころには、十時を過ぎていた。
 思いっきり戻したおかげで、比較的気分は良好であった。ほろ酔い加減といったところか。鼻歌のひとつも唱いたくなる。
 同じつくりのロッジが等間隔で並んでいるため、よくあるミステリ小説なんかでは間違って違う部屋に入ってしまい、そこでひとつ錯覚トリックが生まれたりするが、幸いにもわたしは間違わずに四番ロッジへ入っていった。その際に隣の五番を見てみたが、窓は暗かった。すでに由美枝嬢は寝入ってしまっているのだろう。
 明かりのついた部屋の中、利御はノートパソコンを開き、写真の整理に勤しんでいるところだった。わたしが帰ってきたというのに、一瞥もせず無言で作業を続けている。
「ただいまー」
「お帰り。そしてお休み」
「あい」
 一刻も早く安らかな眠りにつきたかったわたしは、そのままベッドへ直行する。
「君は上」
「あい」
 気分よく梯子を上がり、上のベッドに横たわった。落ちるような感覚が訪れ、次の瞬間にはもう記憶が飛んでいた。

 

第6回

 

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                                      4

 拍子抜けするほどロッジの流し場はすいていた。わたしは冷たい水で悠々と顔を洗い、壮快な気分で自分の部屋へ向かった。
 空気の綺麗な場所で吸う煙草は格別である。ロッジへ戻る前に外で一服しておこうと、わたしはマルボロを銜え、ライターを取り出した。煙草の箱をしまいつつライターを出そうなどとしたのがいけなかったのだろう、小さなライターは手から滑り、足元の茂みへと落ちてしまった。虻蜂取らず、ふたつのことを同時にするべきではない。
 煙草を銜えたまま舌打ちをし、しゃがんで草を掻き分けた。雑草の丈はわたしの膝ほどだが、密生しているため厄介だ。そのとき、
「――やあ、霜月君も自然観察かい! いい傾向だね!」
 遠くから利御の声がした。見れば森から黒服が出てきたところである。
「落とし物だよ!」
 ぶっきらぼうに答え、草をよける。ライターが見つかった。よかった。
 次の瞬間、右手の甲に鋭い痛みが走った。
「痛っ!」
 まさに針で刺したときの痛痒そのもの。わたしの手を刺した犯人――いや犯虫は、びっくりするほどの羽音を立てて草むらから飛び立った。
 やたらと肥えた蜂である。横幅のあるがっしりとした黒い体と、胸部に纏った茶色の毛皮が特徴的で、見るからに強そうで恐ろしい。
 そいつが顔のすぐ前を通過して威圧してくるものだから、わたしは思わず情けない声をあげて尻餅をついた。蜂におののいたことより、今の様子を利御に見られたことのほうが悔しい。
「大丈夫かい、霜月君」
 利御が駆け寄ってきた。心配してと言うよりは、面白がっている風情だ。
 わたしは右手を見た。中指のつけ根あたりに、はっきりと刺された痕が窺える。僅かに血が滲んできた。
「クマバチだね。これは運が悪い」
「け、警戒色なんてなかったぞ、あいつは」
「なくたって刺すよ、こちらから攻撃すれば。クマバチは縄張り意識が強いからね。でも攻撃性は低いはずだから、やはり本当に運が悪い」
 攻撃なんてした覚えはないが、蜂にしてみれば明らかな攻撃だったのだろう、わたしの手がぶつかったというだけのことでも。それにしても、草むらの中に隠れているなんて卑怯だ。
「まあ、とりあえずそこを離れたまえ。クマバチが戻ってきてまた刺すかもしれないよ。――付近に巣はないようだけど」
 速やかに草むらを出た。ライターを回収することを忘れない。利御のもとまで行くと、
「君はアレルギー体質?」
 唐突にそんなことを訊いてきた。
「なんだって?」
「霜月君は虫アレルギー?」
「知らないよ、そんなことは」
「過去に蜂に刺された経験は?」
「なかった――と思うけど」
「じゃあ大丈夫かな。昆虫アレルギー体質の子供がクマバチに刺されて亡くなったことがあるそうだから、一応ね」
 恐いことを平気で言う。そうやってわたしが怯えるさまを楽しんでいるがいい。
「死ぬことはないだろうけど、腫れるといけないな。――診せてごらん」
 利御はカメラを傍らに置くと、わたしの右手を取り、両手の親指を使って傷口の周囲を押さえた。そのまま爪を立てないように力を込め、刺された穴から血液を搾り出す。見ていてあまり気持ちのいい光景ではない。
 ある程度血が出てくると、利御はなんのためらいもなく、さも当たり前のことであるように、わたしの手に顔を近づけると、傷口に口を寄せた。
「お、おい」
 利御の唇がわたしの手に触れる。そして血を吸いだした。
「利御――」
 彼の頭を眺めながら、されるがままになっていた。生暖かい。端から見たら、さぞや滑稽な姿であろう。いい歳をした男がふたり身を寄せ合い、片方が片方の手に口づけしているのだから。蛇の毒を吸い出すという話は聞いたことがあったが、虫の毒に対しても同じことが言えるというのは知らなかった。だが考えてみれば、いずれも毒であることに変わりはない。
 幸い、あたりに人の姿はなかった。こんなところを見られたくない。見られたい者などいるわけがない。特に由美枝には見られたくない。
「――あ、先輩、どうしたんですか?」
 わたしの願いは脆くも崩れ去った。我々の声が聞こえたのか、ロッジから由美枝が顔を出したのだ。
「あ」
 そして眼前に広がる衝撃的な光景に言葉をなくした。
 わたしはオロオロとするばかり。
 利御はちゅうちゅう吸うばかり。
「あ、あの――す、すみません、私、えっと――失礼します」
 いつも大人びた由美枝がここまで取り乱すのは初めて見た。なかなか愛らしい姿で、これは収穫である、などと喜んでもいられない。まず間違いなく、疑うべくもなく、百パーセント、ある致命的な誤解を受けたことは確実だ。
 由美枝は慌ててロッジに引っ込み、バタンと扉を閉じた。
「――ち、違うんだ!」
「何が違うんだい?」
 ようやく利御が顔を上げ、口に含んだ私の血液を、おそらくそこに混じっている蜂の毒と一緒に吐き出した。
「とんでもない思い込みをしているぞ、彼女はきっと」
「ああ、そうか。そうかもしれないね。――しかしさほど重要な問題ではないな」
「重要だよ!」
「そうかい。それでは言い方を変えよう。僕にとっては重要じゃない。重要なのは君の虫刺されのほうだ。さあ、治療はまだ済んでいないよ」
 言って利御はカメラを拾い、立ち上がった。わたしたちのロッジへと歩く。わたしもフラフラと腰を上げ、あとに続いた。
「サークルの人?」
 ロッジ内でスツールに腰かけると、利御が自分の荷物を漁りながら訊いた。
「ああ、黄腰さん。黄腰由美枝さん」
「好きなの?」
「好きだけど、恋愛感情というわけじゃない」
「だろうね」
 やがて利御は、チューブ入りの軟膏と、ガーゼ、サージカルテープ、包帯を次々にバッグから取り出した。ペットボトル入りのミネラルウォーターまである。
「そんなもの持ち歩いてるのか。大袈裟な」
「大袈裟? 現に今、君は有毒生物の被害を受けているじゃないか。山に来るなら必需品だよ。特に僕のような職業にとってはね」
 確かにそうかもしれないが、蜂に刺されて――しかもスズメバチのように危険な種ではない――ガーゼや包帯というのは、大袈裟だと思う。
「はい、手出して」
 素直に従う。利御はペットボトルを取ると、ミネラルウォーターを惜しげもなく患部に流した。
「部屋が水浸しになるじゃないか」
「解っているよ。しかし流し場は少々遠い」
 傷口の洗浄が終わるとハンカチで優しく拭い、軟膏を塗りつける。
「それは?」
「抗ヒスタミン剤とステロイド剤」
「はあ」
「ロッジは彼女だけなの?」
「え?」
 数秒経ってから、由美枝のことだと気づいた。
「――ああ、そうだよ。他は全員テント」
 わたしは手当を受けながら、由美枝が幼いころ蜂に刺されて蜂恐怖症となってしまったこと、彼女がサークル随一のミステリ作家であること、さらには他のメンバーのことまで話して聞かせた。先刻の宴会で起こったことも、すべて。
「轡に黄腰に白帯に三井寺か。面白いね」
 何が面白いのかは解らなかったが、話し終えたころにはガーゼのテーピングが済んでいた。包帯は必要ないだろうと利御は判断した。当然である。絆創膏で充分だろうに。
 外はすでに暗い。八時になろうとしている。部屋に明かりをつけ、網戸を閉めた。利御は、取り出した治療道具をしまっている。
「ありがと」
 一応、礼は言っておいた。
「冷たいジュースでも持っていたら、患部に当てて冷やすといい。少しでも腫れを防げる」
 あとでまたビールでも買ってこよう。利御のぶんも。いや利御は酒は飲まないか。確かこいつは牛乳とコーヒーが好きだったな。
 そのとき電話が鳴った。わたしのポケットの携帯電話である。着信メロディは『ブレードランナー』のテーマ。画面を見ると、轡からと判る。
「もしもし」
 と出ると、すかさず利御が横から、
「電話を受けたほうが『もしもし』と呼びかけるのは正しくないな。この言葉は『申し上げる』の意であり――」
 などと小うるさいことを言ってきたが、当然無視である。
「――轡でーす」
 いつもと変わらぬ陽気な声。
「やあ、何?」
「これからこっちでキャンプファイヤー始まるんですよ。キャンプ場の人全員で」
「へえ。そりゃあいいね」
「八時半から一時間ぐらいやるみたいですけど、どうですか? お誘い合わせのうえ」
「ああ、そうするよ。ありがとう、わざわざ」
「いーえ。それじゃ、待ってますよ」
 電話を切り、利御に今のことを知らせてやった。しかし彼は素っ気ない。
「ふうん。行ってらっしゃい」
「つれないね」
「そのようなイベントを楽しいものだと思い込んでいる人ばかりじゃない、ということだよ。群れたい人だけで群れればいい。僕は遠慮する」
 人を小馬鹿にしたような台詞だが、いつものことではある。
「そうかい。じゃあ、そうするさ」
 わたしはひとりで向かおうと立ち上がった。
「隣の彼女――黄腰さんも行くのかい?」
「さあ、聞いてないけど。でも行かないんじゃないのか」
「だろうね、おそらく。――そのほうが好都合だ」
「何が?」
 それには答えず、利御は窓を閉めると明かりを消した。
「気が変わったのかい」
「いや、ちょっと隣に」
「へ?」
 利御はさっさと外に出て、明かりの点った隣のロッジへと歩いていった。わたしはドアに鍵をかけ、
「おい、まさか抜け駆けとかいうんじゃないだろうな」
「僕が?」
 そういったことの似合う男ではないが、万が一ということもある。――いや、由美枝がいつ誰と会おうと、それは彼女の自由ではないか。それに由美枝には現在、轡がいる。わたしは何を考えているのだ。
 利御は少し声を抑え気味に、
「――誤解を解いてくる」
 そう言って由美枝のロッジをノックした。わたしは苦笑せずにいられなかった。

 

第5回

 

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                                      3

 夕食にはまだ早いが、陽が落ちればキャンプ場は闇に包まれてしまうため、明るいうちに早めに取っておいたほうが合理的であるということは自明の理である。暗い中で明かりでも灯そうものなら、蚊や蛾、その他さまざまの羽虫を引き寄せてしまうこととなり厄介だ。そんな状況を喜ぶ変人は、わたしの友人に一名いるだけである。
 その友人は、すでにひとりで森の中へと入っていってしまった。わたしはといえば、荷物を置いたロッジを施錠し、可愛い後輩たちに会うためキャンプ場へ向かおうとしていたところであった。轡たちの計画では、陽が沈んでしまう前にバーベキューパーティーをやるということだった。
「霜月先輩」
 背後からわたしを呼び止める透き通った声の主は、思考を巡らすまでもなく黄腰(きごし)由美枝と判る。振り向けば、ストレートのロングヘアをそよ風に揺らしている由美枝嬢が隣のロッジから出てきたところだった。色白でスレンダーな美人である。多少、目つきがきつい印象を与えないこともないのだが、それが彼女の魅力の一端であると思う。Tシャツもジーンズも素っ気ない黒一色であるが、それがよく似合っている。本人もそれを自覚しているのか、日ごろから黒系統の服装が多い。社会学部三年生、ソーケンの一員である。
「やあ、君もロッジ?」
「ええ、最初はテントのつもりだったんですけど、ちょっと事情があって」
 言葉を濁し、それ以上の理由は述べない。そういえば轡が教えてくれたっけ。調子が悪いとかなんとか。多少、気にはなったが、特に詮索することもしなかった。
 由美枝は飴玉を舐めているようだった。ときどき言葉がどもる。
「何しゃぶってんの?」
「梅干しドロップです」
「なんだい、それは」
「おいしいですよ。あげましょうか」
「遠慮しておこう」
 甘くない飴など邪道である。わたしは話題を変えた。
「――黄腰さんも行くの?」
 キャンプ場の方向を指差しつつ訊いた。
 由美枝は首を左右に振り、
「私はいいんです。あんまり体調よくなくって」
「大丈夫かい? 変わりなく見えるけど」
「ええ、たいしたことはないんですけど」
 言葉どおり、体調不良には見えない。いつもの溌剌とした様子である。
 黄腰由美枝は、わたしが四年生のときに新入生としてソーケンにやってきた。得意分野はミステリであり、ならば活動内容が曖昧模糊とした創作研究会などではなく、ミステリ研究会へ行けばいいと思うのだが、彼女曰く、視野の狭いマニアの中に埋没したくはないとのことであった。手厳しい意見だが、このひとことだけで由美枝に好感を持った。何を隠そう、わたしもミステリ好きでありながらミス研を蹴ってソーケンへ身を委ねたひとりであったからだ。自他ともに認めるミステリマニアならばともかく、わたし程度の中途半端なミステリファンには、ミス研は少々荷が重い。
 折からのミステリブームで、皮肉なことにソーケン内部でもミステリが主流となりつつある。由美枝はそんな中でもとりわけ輝ける逸材であり、彼女の作品を目にしたミス研メンバーから引き抜きの声がかかったほどであった。ソーケンのクリスティなどと褒めそやされたが、ミステリを書く女性は皆クリスティと呼ばれてしまう状況は、いささか滑稽である。
「そういえば、さっき森のほうに入っていった人って、こないだ先輩が話してた写真家さんですか?」
「ん? ああ、そうだけど。見てたの?」
「ええ。窓から見えたんです。黒いスーツの人」
「見てるだけで暑くなるでしょ」
「ええ。私も黒ですけどね」
 白い歯を見せて微笑む。
「先輩はこれから宴会ですか?」
 笑顔とともに由美枝が問うた。わたしは愛想よく首肯する。
「君も来ればいいのに。たいしたことないんでしょ?」
「私はお留守番です」
 おどけた調子で言いつつ、「それじゃあ、いつぞやのコンパみたいに潰れないでくだいね」とつけ加え、由美枝はロッジに引っ込んだ。バイバイ、と手を振られたのでこちらも振り返した。
 由美枝は何をしに出てきたのだろう。きっとわたしの姿をロッジの窓から認め、挨拶をしに来てくれたに違いない。これは決してわたしが特別慕われているがゆえとか、わたしの自惚れが呼び起こした勘違いとか、そういったものではない。
 黄腰由美枝とは、そんな女性なのだ。
 わたしはひとりでキャンプ場へ向かった。

 そして今、わいのわいのとはしゃぎつつ、皆でバーベキューの準備に勤しんでいるところであった。皆で、と言ってもわたしは何も準備はしてこなかったため、後輩たちの手際を眺めながら時折茶々を入れるという、非常に建設的な役割を担っていた。もちろん、つまみ食いをしながらビールを空けさせてもらっている。立場的にはOBであり賓客であり、このキャンプ場を紹介した功績もあるわけであるから、断じてわたしが怠け者というわけではない。いわば当然の待遇である。
「先輩も少しは手伝ってよ」
 困ったように言ってきたのは、工学部一年生の三井寺庚(みいでら こう)だ。華奢な身体つきで、そのへんにいる女性よりも滑らかな肌をしており、しかも人好きのする美形ときたものだから、男色趣味のないわたしでも間違いを起こしてしまいそうな男である。引っ込み思案で人見知りするらしいが、わたしには懐いている。
「ビールばっかり飲んでないで。ほら、枝豆そんなに食っちゃって」
「何を手伝えばいい?」
「とりあえず邪魔しないでよ。それが一番ありがたい」
 酒が入って陽気なのをいいことに、ずけずけとそんなことを言うものだから、わたしは彼のことがとても可愛く思えてきて抱き締めたくなってしまい、本気でヘッドロックをかけてやった。邪魔はエスカレートする一方である。酔っているのだから仕方がない。
「まあまあ、霜月先輩」
 子供でもあやすように入ってきたのは、経済学部二年生の白帯朱夏(しろおび しゅか)である。ほのかな栗色に染められたショートの髪が似合いの女性で、ソーケンでは由美枝に次ぐ第二のクリスティなどとも囁かれている、才女と言っていいだろう。愛嬌のある顔つきが好ましい。轡とつきあっていると聞いた。端から見て悪くないカップルだと思う。
「あまりコーちゃんいじめないでくださいね」
 包容力がある声、とでも言うのだろうか。彼女の言葉には人を懐柔させる何かがあるような気がしてならない。
「あいよ。朱夏ちゃんが言うなら、もうひと締めしたら解放してやる」
 三井寺庚の悲鳴がこだました。激しくわたしの腕をタップするが、黙殺する。厄介な酔っ払いだ。救いようがない。
 やがて宴が始まったころには、午後の五時になろうかとしていた。夏だから、まだ充分に明るい。日没は七時半くらいだろう。
 肉の焼ける音はいつ聞いても心地いい。そこに重なる匂いも、また。これらに関しては、他のどんな食物よりも肉が優れている。人間は本能的に他の動物を喰らうことを欲しているのだ。だてに食物連鎖の頂点には達していない。
 総勢十六人で焼き網を囲んでの立食パーティーである。もともと十六人だった中から由美枝が抜け、代わりというわけではないがわたしが混ざり、プラマイゼロというわけである。十七名でないのが残念だ。
 セルフサービスで各自好きな食材を串で貫き、各々の責任で火を通し、タレをつける。焦がすのも生焼きにするのも自由だ。肉ばかり串刺しにするわたしに「ブロッコリーを食えブロッコリーを」と三井寺が命令するので、串で彼の目を突いてやろうかと思ったが、朱夏に止められたのでやめておいた。
 一応、わたし自身の名誉のために述べておくならば、これら食材費は皆の割り勘ではあるのだが、最も多額の出費をしたのはわたしである。誰よりも肉を喰らう権利はあるのだ。――と三井寺に諭しておこうかと思ったがやめた。みみっちいやつと思われてしまう。
 ところで先刻から気になっていたのだが、キャンプ場にはジガバチが多く飛んでいる。肉を囓り取るわたしの鼻先を突然掠めていき、驚いた拍子に串を落としそうになり、慌てて両手で押さえた。結果、わたしの手のひらはタレにまみれてベトベトになってしまった。忌々しい虫である。
「巣がいっぱいあるんですよ」
 わたしの様子を見て取った轡が、焼きトウモロコシを咀嚼しつつ教えてくれた。
「地面にたくさん穴が空いてるでしょう?」
 身を屈めて探してみると、ほどなく見つかった。細かな石ころが点在する乾いた地面に、ぽつり、ぽつりと小指の先ほどの穴が。利御の話では餌に卵を産みつけたあとで小石による蓋をするということだったから、それがどかされてしまったものだろう。人間たちが自由奔放にテントを張るキャンプ場に巣作りをしてしまうとは、お互い、はた迷惑な話である。人が巣を荒らし、蜂が人を脅かす。
「こっちらか手出ししなければ刺されないって、キャンプ場の人は言うんですけどね」
 朱夏が言葉を重ねた。
「でも、いつ刺されるか判らないから、ちょっと恐いと言えば恐いですよ。私もさっき虫よけスプレーたっぷり使っておきましたし」
「こいつらがいるから黄腰さん、こっちに来られないんだ」
 三井寺が言う。
「あの人、蜂恐怖症だから」
 それは知らなかった。
「なんだっけ、確か、子供のとき蜂に刺されて病院送りになって以来、駄目だそうだよ」
 なるほど、それが由美枝のロッジ宿泊の〝事情〟というやつか。刺される可能性を朱夏が恐れていたように、蜂イコール危険と誰もが思い込んでいる。たとえそれがジガバチであっても。たぶん、この場にいるメンバーの中で、ジガバチの安全性を知っている者はいないだろう。わたしだって人のことは言えないが。つい数時間前まで知らなかったのだから。
「子供じゃあるまいし、そんなに恐がらなくてもねぇ」
 朱夏がそんなことを言うと三井寺も同調したが、些細なものであれ陰口を叩いている人間の姿はいいものではない。しかし説教は嫌いなので黙っておいた。
 バーベキューの残りが少なくなってくると、まだ食い足りない者たちのためにレトルトのカレーがふるまわれた。わたしはそこまで大食らいではないが、若い男どもはガツガツと胃に収めていく。キャンプといえばカレーだろ、などと訳の解らぬことを皆で言いながら。
 わたしはデザートにリンゴを剥いてもらって食していた。なぜか――という表現は不適切かもしれないが――なぜか朱夏ではなく、三井寺が丁寧に果物ナイフで皮を剥き、「はい」と手渡しでくれた。それをムシャムシャ頬張る。まあ、普通に旨い。
 器用なもので、三井寺は片手で素早くナイフを一回転させて見せた。プラスティックの白い柄に色鮮やかなアゲハチョウが描かれているのが特徴的だった。それがくるりと舞う。
 やがて宴もたけなわ、ここで予定されていたイベントのひとつが実施されることとなった。すなわち、会誌『嚆矢』最新号に掲載された各作品の寸評会である。それぞれの作品の感想、批評を皆で話し合い、次作に活かすという趣旨ではあるが、まあ、ひとことで言ってテーマの決められた雑談である。酒の勢いも手伝って、忌憚なき意見が交わされる。
 ソーケンでは毎回テーマ競作がおこなわれ、同一のお題のもとに希望者数人が参加して作品を発表し合う。今回のテーマは「ダイイング・メッセージ」であった。言わずと知れた死に際の伝言というやつである。殺人事件の被害者が、死に直面した最期の瞬間に犯人を示す手がかりを残しておくという。死に瀕した者が本当にそんな気の利いた仕掛けを思いつくのかという疑問はさておき、ミステリの定番アイテムではある。
 ソーケンの二大クリスティであるところの由美枝と朱夏はもちろん、轡も、そしてなんと三井寺も競作に参加している。三井寺は詩歌専門と言ってよく、ミステリ小説なんて書かないと思われていたため、これには誰もが意表を突かれた。そして発表された彼の作品を見て、いま一度意表を突かれることとなった。ダイイング・メッセージを主題とした長い散文詩で勝負をかけてきたのである。しかも、単純なものではあるがしっかりとミステリ的なギミックが施されている。評価に関しては賛否両論あったが、わたしは大いに買っていた。
 その他の作品に関しては、おおむね可もなく不可もなくといったところだろうか。由美枝がさすがに良質なミステリを発表していたが、普段の力はあまり発揮できていなかったように思う。朱夏に関してもまた然り。彼女はいつだって由美枝を超せない。いつまでもナンバーツーの位置に甘んじている。いやもちろんナンバーワンになろうなどという意志は見せていないが、まったく意識していないというわけでもあるまい。
 誰かの携帯電話が鳴った。最近流行の曲だが、曲名は忘れてしまった。立ち上がって輪を離れたのは轡である。ポケットから携帯電話を取り出し、話している。彼の大きな声がこちらまで響いてきて、嬉しそうに会話をしているのが判った。――「ん? 今? お前の小説の悪口言ってたところだよ」「そうそう、今からでも来いよ」「大丈夫だって、そんなの。気合入れれば刺されないから」――。
 どうやら由美枝らしいが、以前に比べて随分とフランクな調子で話している。由美枝にはどこか世俗から乖離したような雰囲気があり、そのため誰もが幾分遠慮気味に接している。あの轡にいたってもそれは例外じゃなかったはずだ。
「彼女からだね」
 わたしの隣にいた三井寺が、小声で囁いた。
「どういうこと?」
「だから、愛しの黄腰さん」
「えっ? 轡君、朱夏ちゃんとつきあってるんじゃなかったの?」
 焼き網を挟んで正面にいる彼女を見ながら、わたしも小声になった。
「あれ、先輩知らなかったの? 別れたよ」
「いつ」
「一ヶ月前」
「知らない」
「で、即座に黄腰さんへ」
「あれま」
「みんな知ってるよ」
 朱夏の様子を窺うと、轡のほうをじっと見ている。彼女も電話の相手が誰なのか判っているだろうが、特に不機嫌そうな様子はない。
「まあ、後腐れのない別れ方だったらしいけど。朱夏さんが言うには」
 それはそうだろう。でなければどちらかがサークルを去っている可能性が高いだろうし、今までの親しげな会話はありえない。轡と朱夏の間にピリピリとした空気は一切感じられなかった。当然、彼らを囲む他のメンバーの間にも。
 男と女の間には色々あるものだと、常套的な文句でわたしは自らを納得させた。男のほうが轡大作であったから深刻な事態にはならなかったのだろう。ここまでカラッとした、五月晴れのような性質の男だから。
「やっぱ来れないって。情けない。嘆かわしい」
 ケラケラと笑いながら、轡が戻ってきた。

 七時になると空は藍色に染まり、夜が姿を見せ始める。バーベキューパーティーはお開きとなり、わたしはキャンプ場の北西にある流し場へと赴いた。森に面した一角にコンクリの細長い流し台が設えてあり、水道の蛇口がいくつも並んでいる。ここで飲料水を補給したり、食器や手を洗うことができる。わたしの手にはバーベキューのタレがついたままで、ティッシュで拭ってはあるのだが、やはり綺麗さっぱり洗っておきたい。それに暑さのせいもあり、顔の汗と脂も気になる。
 だが流し場は思いのほか混み合っていた。他のキャンプ客たちも一斉に飯ごうやらスプーンやら鍋やらを洗いに来ているのである。わたしと同様、手や顔を洗おうとしている者も少なくなさそうだ。どの蛇口にも行列ができていて、順番が回ってくるのはまだだいぶ先の話だ。
 一緒に来ていた〝洗い物係〟三名の中には朱夏もいたのだが、彼女は両手に持った洗い物を見つめながら、
「あとにしようかな」
 と呟いていた。彼女の言うとおり、すいてからまた来ればいい。三人は諦めて引き返した。わたしもそうすることにした。
 ロッジに戻る前にヤニを補充しておこうと思い立ち、キャンプ場南の管理舎へと向かった。ジュースやビールの自販機と並んで、煙草のそれも置いてあったからだ。
 キャンプ場は大雑把に言えば円形をしており、周囲を森で囲まれている。北西に先ほどの流し場、南に管理小屋があり、その先は駐車場、麓へ続く道となっている。東には森の中を真っ直ぐに突き抜ける幅広い道がつくられており、その先がロッジ村だ。森の中にもロッジ村とキャンプ場とをつなぐ道があるが、こちらは人がやっとすれ違うことができるほどの狭い道で、曲がりくねっており、足場もあまりよくはない。夜中に歩いたら、さぞや恐ろしい体験ができるに違いない。
『自然を大切に。空き缶はくずかごに。吸い殻は灰皿に』と書かれた古い看板を横目に煙草を買う。本当に自然を愛する者ならキャンプ地で煙草は吸わないだろうが、需要があるゆえにこうして供給しているのだろう。
 重たいやつを吸いたい気分だった。三十円高いがマルボロを購入する。マルボロはわたしが最も好きなパッケージの煙草である。
 管理小屋の隣には公衆トイレもあるので、そこで用を足してゆく。ここの水道で手を洗うことはできたが、さすがに顔まで洗う気にはなれない。
 トイレを出て東へと足を向けたとき、ロッジ村にも流し場があったことを思い出した。シャワー施設も整っていたはずだ。ならばこちらを使わせてもらえばいい。わたしはまだ明るい道をロッジへ急いだ。

 

第4回

 

闇匣より出ずるもの 闇匣より出ずるもの
1,080円
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                                      2

 サークルのメンバーは先に出発していたため、わたしたちがキャンプ場に到着したころには、テントは張り終えてあるという状態だった。サークルは現在、約二十名の会員からなっており、今回の参加者は十六名。なかなかの参加率といえよう。彼らは我々と違って合理的で、自動車によってやってきたということである。駐車場は、キャンプ場の南に五十メートルほど行ったところにある。
「やあ、遅かったじゃないですか。お待ちしてましたよ!」
 待っていたどころか、わたしの存在すら忘れ果てていたのではないかと思わせるほどに脳天気な声で迎えてくれたのは、サークルの代表である轡大作(くつわ だいさく)だ。この名字を一度で読める人も書ける人も見たことはない。名前に反して身体のつくりは中肉中背だが、心と声は大きい。健康的な短髪が健やかな汗に濡れている。多少抜けている部分もあるかもしれないが、細かいことは気にしない彼の気質がリーダーに向いていると言えなくもない。
 轡は鳴兎門大学経済学部の三年生である。我がソーケンでは、毎年夏休み前に世代交代がおこなわれる。四年生はとっくに就職活動というわけだ。それでも毎年数名の四年生がしつこく居続けるものであるが、さすがにキャンプは遠慮したと見える。
「あ、こちらが庵さん?」
 利御のことは前もって伝えてあった。轡は軽く頭を下げる。人見知りとは縁のない彼の態度に、人によっては妙な馴れ馴れしさを感じてしまうかもしれない。
「暑くないですか?」
 利御の服装をじろじろと眺めつつ、無遠慮に訊く。無遠慮なのだが、不作法な印象は与えない。轡の得意芸だ。
「暑いですね」
 利御は涼しそうに応えた。彼はこの気温にも関わらず、黒のスーツ姿である。墨汁を塗りたくったような真っ黒のジャケットにスラックス。山に来ているというのに革靴を履いている。見れば早くも土で汚れている。
 これで暑くないわけがない。事実、頻繁に眼鏡を外してはハンカチで鼻当てを拭っている。汗が気になるのだろう。だが暑さを感じさせる行動といったらそれくらいのもので、特に額や首筋を汗が伝っているというわけでもない。生来の色白で日焼けなどしていないものだから、どうしたって涼しげな顔に見えてしまう。
「先輩たちはロッジでしたよね」
「ああ、そうだよ」
 わたしは額の汗を拭き拭き応える。立ち止まった途端に身体中から汗が噴き出してきた。
「轡君は? ――ああ、そうか。全員テントだったね」
「そりゃそうですよ。せっかく山に来たんだから」
 丸太のロッジだって、わざわざこの山を訪れなければ宿泊できない。
「でも、急遽ひとりぶんロッジを借りましたけどね」
「へえ。誰?」
「由美枝(ゆみえ)ですけどね。ちょっと調子が悪いとかで――そうそう、ビール冷やしてありますよ。よかったらどうぞ」
 轡は振り返り、キャンプ場の一角を指差した。目を凝らすと、色彩豊かなテント群の中に、見覚えのある後輩たちの姿が窺えた。
「昼間から酒盛りかい」
「いいじゃないですか」
「まあ、いいね。遠慮はしないよ」
「どうぞどうぞ。――庵さんも」
 黒服に目を向けると、利御はずり落ちた眼鏡を指で押さえつけながら、
「僕は下戸だから」

 キャンプ場は二百五十平米ほどの平らな広場になっており、ところどころに芝生が窺える。そこから東へ百メートルくらい行ったところが、我々の泊まるロッジ村である。
 よく言えば風情があり、悪く言えばみすぼらしい、玩具のような丸太小屋だ。それが等間隔で三かける四、合計で十二設けられている。小屋と小屋との距離はおよそ十メートル。外観を見れば誰でも予想できるように、すべての小屋の内装は同一のものである。小さな二段ベッド、テーブル、ふたつのスツール。ドアがひとつに窓がひとつ。ドアには鍵がかかるようになっており、それぞれのキーは、宿泊者がキャンプ場の管理舎から借りる仕組みになっている。
 わたしと利御は同じロッジに宿泊することとなっている。本当は別々にしたかったのだが、利御の「それでは不経済かつ非合理的だ」というひとことで、こうなってしまった。実際にはふたこともみこともあったのだが、本質的にはあまり変わりない。
 ロッジには一から十二までの番号が振られていて、それぞれドアにプレートが貼りつけてある。わたしたちのロッジナンバーは四。まことに縁起のよい数字である。利御とふたりで二泊の予定。素敵なキャンプになりそうな予感――などあるわけもない。
 中に入ると、むっとした空気が押し寄せてきた。
「エアコンはないのか」
 予想どおりとはいえ、やはり落胆の色は隠せない。わたしはさっさと荷物を置き、奥の窓を全開にした。ありがたいことに網戸も完備されており、これで夜間も蚊の襲来に悩まされずに涼むことができる。だが今は、網戸も開け放っておいた。
「あるわけがないだろう」
 利御も彼のバッグを床に置くと、さすがに疲れたのかベッドに腰かけた。
「いい部屋じゃないか」
「本気で言ってる?」
「無駄がないね」
 広さは六畳ほど。ベッドとテーブルが空間のほとんどを埋め、なるほど定員はふたりまでだなと納得させられる。一時的であればもっと大人数を収容できるが、寝泊まりするにはふたりが限界だ。快適な睡眠を得ようと思うのなら。
 わたしは利御とテーブルを挟んでスツールに腰を落ちつけた。思わずだらしのない呻きが漏れる。どっこいしょ、と言わなかったぶん救われてはいる。
 窓から涼風が吹き込んでくる。草いきれとは趣の異なった植物の香り。森の匂いだ。陽が直接差さない方向に窓があるというのがありがたかった。蝉の声がうるさいが、早くも耳が慣れつつある。一日も過ごせば気にならなくなるのかもしれない。
 背負ってきたリュックを開け、先刻後輩たちからお裾分けしてもらった二本の缶ジュースを取り出す。氷と一緒にクーラーボックスで眠っていたそれは、目覚めたばかりで玉のような汗をかいている。
「乾杯」
 利御に合わせて酒は遠慮することにした。腹がすいてきたということもあり、今飲んでしまったら確実に潰れてしまう。
 見た目に違わずよく冷えているジュースは我々の喉を潤し、気持ちを生き返らせてくれる。
「暑いな」
「暑いね」
「夏の山に黒スーツで来るなんて。暑くないのかい」
「だから暑いと言っているだろう」
「脱げよ」
「見た目よりは通気性がいいよ。それに、夏の山に白い半袖で来ている君の気持ちが解らない。紫外線の直射を受けるうえ、剥き出しの腕を虫に刺されやすい。せめて中に黒いTシャツでも着たまえ。そして上に白の長袖を着る。これで陽差しも虫も防げる」
「……涼しさには代えられないよ」
 いちいちうるさい男だ。
「で、これからのご予定は? 庵先生。これを飲んだらすぐにお出かけかい?」
 まさかそんなことはあるまい、と思いつつ。
 しかし返ってきた言葉はわたしの予測を裏切り、
「ああ。よく判ったね」
「おい、本気か?」
「まだ陽が出ているうちに森のほうを見てこないと。明後日には帰らなくちゃいけないからね、時間がないよ」
「はは、熱心なことで」
 わたしはジュースを飲み干した。最後の一滴も残さず吸いつくす。
 利御はブランデーでも舐めるかのようにスポーツドリンクをちびちびやりながら、
「これが仕事だからね。僕は君と違って遊びで来ているわけじゃない」
「解ってるよ、そんなことは」
「それにまだ蜂とは出会っていない」
 今日彼が撮影したのは、チョウチョとコガネムシくらいだったように記憶している。毒は持ってなさそうな昆虫ばかりだ。利御は利御なりに焦っているのかもしれない。
 わたしはポケットから煙草を取り出した。先ほどから吸いたくてしょうがなかったのだ。ジュースの空き缶という、ちょうどいい灰皿もできたことだし。いや、これが目的で早めに飲み干したというのもある。
 煙草の銘柄にはこだわらない。その日そのときの気分によって変えている。こういった吸い方をする人間はわたしくらいのものであろう。この日はマイルドセブンだった。
 利御は煙草を吸わない。本来なら愛煙家であるわたしが遠慮をしなければならない場面なのであろうが、利御相手にそれは必要ない。お互いもう慣れている。
「このあたりには、どんな蜂がいるんだ?」
 それほど興味はなかったが、訊いてみた。
「さてね。出会ってみてのお楽しみだよ」
 利御は窓の外を眺めながら言う。すぐ近くに森の梢が見える。
「キャンプ場ということで人が集まるからね、たとえばスズメバチのような危険な蜂の巣などは定期的に調査して、見つけ次第駆除している可能性は高いな」
「なるほど、まあ、スズメバチの巣があるようなところには客も来ないだろうし」
「怪我人が出た場合、キャンプ場に責任が問われてしまう。不条理なことにね。刺されるか否かは各々の責任だよ」
「ということは、君の望むような蜂には出会えない?」
「いや、このあたりはさほど標高が高くないし、平坦な地形だ。しかも広大な森林と草原がある。期待できるよ。第一、望み薄だったらどうしてわざわざ来ると思う?」
 確かにそうだ。
「ほら」
 外を見ながら顎で指し示す利御に従い視線を向ければ、はたして、窓のすぐ近くを黒い羽虫が通りすぎていった。フラフラとおぼつかない飛行で、大きさは二、三センチくらいに見えた。蜂だろう。タイミングのいいやつだ。我々の会話を聞いていたかのように。
「あれは?」
「蜂だよ」
 それは解っている。
「種類は?」
「もうちょっとよく観察してみないと」
 蜂の速度は遅く、一瞬しか見る時間がなかったというわけではない。詳しい者なら充分に特定できるのではないのか?
「たいした昆虫専門家だな」
 わたしが皮肉を口にすると、
「限定することくらいなら簡単さ」
 と少々不機嫌に言う。
「霜月君、専門家であるからこそ、あやふやな言及は避けるべきだよ」
「屁理屈に聞こえるぞ」
「……全身がほとんど黒色で、特徴的な斑紋やいわゆる警戒色としての縞模様等は窺えなかった。それにあの細長い体つきからして、スズバチ、ドロバチの可能性も完全に捨てきれたわけじゃないが、まあおそらくジガバチだろう。そしてここの標高から考えて、サトジガバチではなくヤマジガバチと思われるね」
「ご丁寧な解説痛み入るよ」
 わたしの最初の質問に「ヤマジガバチだろう」と、ひとこと答えるだけで済む問題だ。専門家というものは、少しでも知識を披露したい病気を持っているらしい。
「ほら」
 また利御が顎を動かす。見れば窓から先ほどの蜂がご来訪。本当にこいつは我々の声に聞き耳を立てているんじゃないのか。
「やはりジガバチだ」
 消え入るような頼りない羽音を微かに響かせ、ゆらゆらと、優柔不断げに浮遊する黒い蜂の胴は、利御の言ったように細長い。胸と尻尾――腹と言うのが正しいのだろうが――が一本の針金で結ばれているような、まるで細工物みたいだ。変に人工物めいていて気持ちが悪い。全身は黒色だが、腹の一部分だけが褐色に染まっている。汚れでも付着しているように。
「刺すのか?」
「刺すよ」
「おい」
 刺されたくはない。わたしは思わず腰を浮かそうとした。
「動くな」
 利御のひと声が飛ぶ。わたしは止まる。普段の彼からは想像もできない、鋭い声と厳しい言葉。
「せっかく入ってきたんだ。刺激したくない」
 言いつつ利御はゆっくりと片手を伸ばし、傍らに置いてあったデジカメを取った。この蜂――ジガバチといったか――をモデルに仕事を始めるつもりらしい。
「本当に刺されたくないんであれば、じっとして動かないこと。これが蜂に対する鉄則だよ」
 わたしは専門家の忠告を聞くことにした。
 蜂が目の前を通過する。汗が引いた。
「恐がらなくてもいいよ霜月君」
 利御がおかしそうに笑う。こんな笑い方をするのは、揶揄するときと決まっている。
「刺さないから」
「今、刺すって」
「ああ。針があるからね」
「だったら――」
「使うのは獲物を捕まえるときだけだよ。それに獲物を殺すのではなく麻痺させるための毒だ。人が刺されても大事にいたることはない」
「そうなのか」
「もちろん自分の身を守るのにも使うけど――試しに捕まえてみるかい?」
 冗談ではない。
 蜂はわたしの前を通過し、ドアのほうへ。
「つまり、こちらから手を出さなければ――」
「刺さないよ。絶対にね」
 子供のころ、家の軒につくられた小さな蜂の巣を恐がるわたしに、母が言った。こっちからいたずらしなければ刺されないよ、と。そんな遠い夏の一日を思い出す。
「彼女は蛾の幼虫を狩り、地面に掘った巣の中に運び込む。そして卵を産み、巣穴を石で塞ぐ。やがて孵った子は新鮮な餌を食べ、蛹になり、羽化し、地上へ出てくる」
 いったい何を求めているのか、ジガバチは宙をさまよう。
「どうしてジガバチという名がついたか知っているかい?」
 知るわけがない。
「穴を掘るときに発する羽音が、ジガジガと聞こえるからだよ」
「へえ」
「僕にはそうは聞こえないけれども。だけど、そういったユニークな擬音を当てた昔の人は蓋し詩人だね」
 確かに、そんな擬音は聞いたことがない。独創的といえば独創的である。
「このジガという音に字を当てて〝似我蜂〟とも言うんだ。我に似る、で似我。穴を掘るときに蜂が『我に似よ、我に似よ』と呪文を唱えた結果、巣穴に運び込まれた芋虫が、やがて同じ蜂の姿に変身して地中から這い出てきたように見える――そんな意味が込められているんだ」
「ほう。そりゃまた」
「詩人だね」
 ジガバチはUターンし、またこちらに来る。
 カメラのシャッターが押された。フラッシュは光らない。
 光っているのは利御の瞳だ。
「本来なら、こういった写真に人間の存在を感じさせるものが写り込むというのは理想的ではない」
 写真に捉えられたジガバチの背景には、ロッジの内装、そしてもしかしたらわたしの肩口くらいは入り込んでいたかもしれない。
「でも今回の本では、比較的自由に撮らせてもらえることになっているんだ」
 再度シャッター。
「毒虫と人間の取り合わせなんて、なかなか面白いとは思わないかい」
 そんなことを言われたって知らない。
 やがてジガバチは疲れたのか、翅を休めるため、利御の身体に近づき、
 そっと彼の袖口に留まった。
 黒いジャケットに包まれた左の腕だ。利御は嬉しそうにジガバチを見つめると、カメラに添えられていた左手をゆっくりと離し、机の上に載せて脱力させた。
「よかった。逃げられない」
 机に投げ出された腕に、蜂が留まっている。黒い服の上に黒い蜂。
 利御は右手だけでカメラを構え、液晶画面にジガバチの勇姿をとらえては何枚も続けざまに撮影してゆく。純真無垢な子供だってこれほどの笑みはなかなか浮かべられまい。いつもの無表情あるいは仏頂面とのギャップに、わたしは声を押し殺して苦笑した。
 居心地がいいのか、モデルという大役に緊張しているのか、蜂は標本のように動かない。
「多くの人は、さっきの君のように、蜂というだけで例外なく恐がるけどね、蜂には人を攻撃するものとしないもの、二種類がいるんだよ」
 液晶の蜂と実物の蜂、両方を交互に凝視しながら利御が言う。
「決め手となる要素はふたつあってね、まずはこの特徴的な腰のくびれ。これゆえに蜂はひと目で蜂と識別される。どんな素人だって、腰がくびれた昆虫を見れば蜂と判る」
 異様に細い、もはやくびれという言葉など似つかわしくない細腰のジガバチを見る。
「これを蜂腰というんだ。文字どおり蜂の腰。蜂腰がある蜂は例外なく針を持っていると思っていい。なぜならこのくびれは、針がついている尻――正確には腹部を、自由自在に動かすことができるようについているものだからね。どんなに強力な武器を持っていても、それを使いこなせなくては意味がない。そのための蜂腰だよ」
「持っていない蜂もいるのか?」
「もちろん。虫のヴァリエーションの多さを甘く見てはいけない。ハバチの仲間がそうだよ。これらは寸胴で、あまり僕らが抱いているイメージの蜂の姿には見えない。ハバチは主にクサギの葉を食べて苦い毒を体内に取り込み、それで捕食者から身を守るんだが、まあそれはいいとして、とにかくハバチには針がない」
 それは解った。要するに、蜂に見えない蜂は刺さないということか。これは勉強になった――わけないじゃないか。そもそも、蜂に見えない虫を蜂と思って恐れる人などいない。
「もうひとつは――」
 続けざまに利御が言った。わたしは、抗議のために開きかけた口を閉じた。
「蜂と聞いて真っ先に思い浮かべる模様はなんだい?」
「縞々」
「そう、黄色と黒の特徴的なストライプだね。非常に目立つ二色の組み合わせだ。これが警戒色。この模様がついている蜂は、人を攻撃する」
 断言した。
「ミツバチ、アシナガバチ、そしてスズメバチ。最大のオオスズメバチなんかは、黄色ではなく橙色をしているけどね。日本において人間が警戒しなければならない蜂はこの三種類の仲間だけさ」
「それくらいなら、見分けがつくな」
 利御の言った三種だけなら、素人のわたしにだって判る。小さいのがミツバチ、細長いのがアシナガバチ、大きくて凶悪そうなのがスズメバチだ。
「そう。だからね、なんでもかんでも恐れる必要性はまったくない。クロスズメバチだけは黄色の縞が細く目立たないから、多少は注意したほうがいいかもしれないけれど。それに人を攻撃するといっても、こちらから手出ししなければ何もしてこない。巣にいたずらをするとか、大きな音を立てたり激しい動きをしたりして興奮させるとか。――よく部屋に入ってきた蜂を追い出そうとハエタタキ片手に暴れ回る人の姿を目にするけどね、あれは逆効果だよ。単に迷い込んだだけなのに、怒らせて攻撃的にしてしまう。蜂だってルールに従って生きているんだ。必要もないのに無闇やたらと攻撃しない、という自然界の鉄則に従ってね」
 次第に熱弁と化す利御の台詞であったが、袖口のジガバチを驚かさぬよう左手をぴくりとも動かさないのはさすがだ。あきれるほどのプロ根性と言うべきか。
「それでも今挙げた三種は攻撃的だ。なぜか? それはね、彼らがみな社会性生活を営む昆虫だからだよ。集団でひとつとなり、互いに協力し団結し子孫を残そうとする。仲間のためなら自らの生命さえ犠牲にする。そういった習性を有しているがゆえに、攻撃的なんだ。裏を返せば、このジガバチのように――」
 スマートな黒い令嬢は、利御の腕の上。
「――社会を持たず単独で活動する習性を持った蜂は、自分の命惜しさに滅多なことでは――いや、まず間違いなく――人を攻撃しない。何かに攻撃をしかけるということは、すなわち同時に己の身も危険に曝すことになるからね」
 なるほど納得した。それで利御はこんなにも落ちついていられるのだ。わたしなら、蜂が身体に留まるだけで慌てふためくことだろう。刺さないと解ってさえいれば、恐れることなど何もない。
「ただ勘違いしないでほしいのは、社会性の蜂イコール攻撃的というわけじゃないということだ。マルハナバチは集団で巣作りをするけど、攻撃的な性格はしていない。警戒色もない。まあ、社会性昆虫だけあって、他よりは多少攻撃性が強いかもしれないけれど、ミツバチほどじゃないよ」
 ジガバチに変化が生じた。じり、じり、と利御の腕をにじり、手の甲へと移動してゆく。
「そもそも毒針とは何か。これは産卵管が変化したものなんだ。ゆえに、毒針は雌にしか生えていない。だけどこれを知っていたところで、あまり役には立たないね。ひと目で雌雄の区別がつく人なんていないだろうし、何より、社会生活を営む蜂の多くは雌だし。働き蜂はみんな雌だよ。特にミツバチの働き蜂は卵を産めないから間性(かんせい)とも呼ばれているけどね。そして自分では子を産めないがゆえに平気で命を捨てられる。――捨て鉢になれる」
 最後のは駄洒落のつもりだったのかもしれないが、無視することにした。
 するうち、ジガバチが利御の手に移った。今まで服の上だったのが、今度は直接皮膚の上に留まっている。さかんに触角を動かしているが、これは人肌――他の生き物の違和感を得ているためであろうか。
「ジガバチも雌が毒針を使い、我が子のために餌を狩る。子供のための大切な毒針を、人間に使うなんてもったいない」
 利御が左手を上げた。蜂が指を這う。せわしなく六本の脚を動かし、だがゆっくりと、細長い中指を登りつめてゆく。
 無言で立ち上がると、利御は窓際へ歩いていった。右手に構えたカメラで、外に差し出した左手を捉える。
 指の先端に到達したジガバチは、黒く長い翅を開くと、愛すべき昆虫写真家に別れを告げた。
 瞬間、シャッターが押された。

 

第3回

 

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               彼女のためにできること
                           Ammophila infesta

                                                                        葦原崇貴

                                      0

 窓ガラスに留まり羽根を休めているのは、体長二十ミリほどの細長い蜂だ。
 体のほとんどが黒く艶光り、室内の明かりを照り返している。
 唯一、腹部の一箇所だけが熟れたような橙色に染まっている。
 鋭利な剃刀のように長細く伸びる黒い翅(はね)。
 よく見れば黒真珠のごとき秀麗な複眼。
 そして最大の特徴は、あまりにも細すぎる腹部のくびれ。
 胸から伸びるそれは、まるで一本余分に生えた脚のよう。
 管が胸部から伸び、それはやがて腹の脹(ふく)らみとなる。
 触れただけで、もげてしまいそうな。
 儚い、あまりにも儚げな胴体である。
 窓ガラスの向こう、部屋の中には、ひとりの女がいる。
 女は蜂に気づいていない。
 蜂も女に気づいているかどうか。
 互いに認識し合ったところで、どうなるものでもない。
 蜂と同じく黒い服に身を包んだ女は、つまらなそうにベッドに腰かけていた。
 締めきられた室内は暑いに違いない。
 空調など整ってはいない。
 だが女は窓を開けない。
 つと顔を上げた。
 窓から見たら部屋の奥に当たる、入口のドアに目を向ける。
 立ち上がり、近づき、ノブに手をかけた。
 夢のように白い手である。
 ドアの隙間から、女は来訪者と会話を交わしている。
 表情は窺えないが、歓迎されざる客ではないらしい。
 その証拠に、女はドアを大きく開き、相手を招き入れたではないか。
 振り返ったその顔は穏やかだ。
 入ってきたのは男。
 女と同じくらいの年齢だろうか、あるい多少は年上かもしれない。
 ともかく、女も男も若い。
 青年と呼ぶに相応しい若者である。
 男は後ろ手にドアを閉じると、女の勧めに従って、椅子に腰を落ちつけた。
 小さなテーブルを挟んで、女はベッドに戻る。
 そして会話は続く。
 ふたりの姿を観察している者は、いない。
 一匹の蜂を除いては。
 男が何か愉快なことでも言ったのだろう、女が笑った。
 屈託のない笑みを浮かべている。
 何も知らずに。
 その男が、この後、女に死をもたらすということも知らずに。

                                      1

 わたしが利御(としみ)とともに、かまびすしい蝉時雨の降り注ぐ神霧山(じんむやま)を訪れたのは、盆も過ぎ秋が待ち遠しくなりつつある、しかしまだ夏の暑さは盛りという、そんな時季であった。
 盆地という地形の影響で、鳴兎子(なうね)市の夏は暑い。それでも関東の北に位置するのだから、日本全体を俯瞰してみれば北国と呼べないこともない。その証拠に冬は底冷えが酷い。だが東北の南に位置することを思うと、それはそれで納得がいかない。
 このように気候的に決して恵まれているわけでなく、山に囲まれ閉ざされた内陸ということもあり交通の便もさほどよくはない。だが、わたしは鳴兎子を離れるつもりはない。特別この地方に執着があるわけではない、と自分では思う。
 ただ、わたしはこう考えるのだ。利便性が高く娯楽に溢れた都心部だけに人間が集まるという状況、これは極めて不健康なのではなかろうかと。人という種は、より広く万遍なく分布するべきではないのかと。わたしは自ら、この鳴兎子への分布を買って出ているのだ。
 このことを利御に話すと、彼は機嫌がよさそうに――実際、よかったのだろう――口の端を歪め、
「空間による棲み分けができているね。ヒラタカゲロウみたいだ」
 と意味不明のことを言った。意味なんてなかったのかもしれない。利御とはそんな男である。
 利御――庵利御(いおり としみ)は昆虫写真家だ。まだ二十代だというのに権威あるナントカ文化賞の受賞歴があるらしく、日本全国の昆虫の姿をその生態とともに紹介した著書『日本の蟲』が、マニアックな学術書の域を越えてそこそこの売り上げを記録しているということだ。
 現在、利御は新たな著作『毒虫百景』の製作に携わり(それにしても、とんでもないタイトルである。売れるのか?)、この日もこうして市街地を離れ、陳腐な表現で言うところの「大自然溢れる」山中へと赴いていたのであった。
 同行者はわたし、霜月慶太(しもつき けいた)。同い年の利御とは、学生時代からの腐れ縁というやつである。わたしの仕事はといえば、「しがない」という言葉が芸術的なまでに合致するフリーライターだ。フリーターなのかフリーライターなのか判然としない、という駄洒落が決して冗談になっていない日々を送っている。批評文、紀行文、体験記、小説、コラム、エッセイ、なんだって書く。書いてやる。種類さえ選ばなければ、かつかつではあるが食ってゆけるものだ。
 利御とは大学を卒業後しばらく音信不通であったのだが、一年前にひょんなことで再会し、それ以来こうして行動をともにすることが多い、要するに友人と呼べる関係となったというわけである。学生時代のことを顧みれば、まさかこれほどまでに親しいつきあいをすることになろうとは思いもよらなかったのだが、人生というものはどこでどうなるか判らないものである。
 話をもとに戻そう。『毒虫百景』の名のとおり、新作は有毒昆虫で満たされた一冊になる予定だそうだ。利御が今回狙っているのは、森林に棲息する有毒昆虫、おもに蜂の仲間なのである。すでに先週、鳴兎子市内にて、都市部に巣作りをする蜂の姿を何枚も写真に収めているという。
 このたびわたしが利御に同行した理由の半分は偶然と言える。多かれ少なかれ、あらゆる事象には常に偶然が作用するものだ。それが世の仕組みである。
 これから訪れるのは、神霧山の森林の入口に粗末な小屋が立ち並ぶ、ロッジ村である。深い森の入口にぽっかりと、重い家具をどけたあとの絨毯のように丸く土地が開けており、そこにコピーとペーストで設置していったかのように等間隔で丸太小屋が並んでいるのだ。
 大方の予想を裏切らず、そんな場所にそんなふうにロッジが建っている理由はといえば、キャンプに訪れた者が宿泊するための施設として、である。キャンプ場にテントを張って寝泊まりするぶんには無料だが、ロッジを借りるのは有料だ。だが金銭を支払うだけのメリットは当然用意されているわけで、素人が張ったテントよりも確実に雨風が凌げ、簡素なものではあるがベッドも用意されてあり、ひとつの小屋にふたりまで宿泊が可能である。決して広くはないが、椅子とテーブルも完備されているので仲間とブリッジだってできる。そして何より重要なのは、テントを輸送してきたうえにそれを設営するという労働から解放されるということだ。これは大きい。
 話は変わるが、わたしが学生時代――鳴兎子を代表する総合大学、鳴兎門(めいともん)大学である――に所属していたサークルは、正式名称を「創作研究会」という。ソーケンなどと略されているが、要は小説や詩歌といった文学的な創作活動を主だった活動内容としている――といったことはお題目にすぎず、実際は皆で何をして遊ぶかを考えているという――そんな健康的なサークルである。会員の名誉のために書き添えておくなら、隔月で発行している『嚆矢』というくそまじめなタイトルの会誌が落ちたことは一度もない。それなりにサークルの本分は果たしているということだろう。会誌の古くさいタイトルを変えようという働きかけが二、三年に一度あるのだが、昔からの伝統ということで毎回うやむやにされている。面倒臭いだけなのかもしれない。事実、わたしの代もそうだった。生き物とは本能的に変化をいとうものである。
 わたしのような暇人が卒業後も頻繁にサークルに顔を出すといった行為は、決して特別なことではない。とりあえず、そういうことにしておいてほしい。ともかく、わたしは可愛い後輩たちの様子を窺うため、とっくの昔に大学を出ているにもかかわらず、暇なときなら週に一度はキャンパス外れのプレハブを覗きに行っていた。
 こんな先輩は煙たがれてしかるべきと思うかもしれないが、案外慕われているほうなのではないかと自己評価している。これにはわたしの職業が大きく起因しているのかもしれない。根無し草の自由業ということで、学生たちと同じような感性をいつまでも忘れないでいられるおかげだ。決して自慢できることではないが。さらに、社会の底辺ではあるが文筆業という肩書きを有しているため、そういった方面を目指している後輩たちから、色々とアドバイスを求められる。わたしが言ってやれることといえば、「やめといたほうがいいよ」くらのものではあるのだが。
 この夏、その創作研究会・ソーケンのメンバーたちが神霧山のキャンプ場を訪れることとなった。大自然の中で親睦を深めるという名目であったが、親睦なんてものは自然がなくたって深められる。それに自然とはいえ、人間が整地し建設したロッジ村は到底自然とは呼べない。周りに広がる森林だって、植林でないという保証はない。
 つまりは日頃無縁である山中でのレクリエーションを実行し、そこになんらかの娯楽性を見出そうという、まあ若い者ならば程度の差こそあれ誰もが思いつく動機にすぎない。
 キャンプをするのならばいいところがあるよ、と教えてやったのはわたしだ。決して有名なキャンプ場ではなく、周囲に特別な娯楽施設があるわけでもない。だがそれゆえに穴場となっており、ロッジのレンタル料もリーズナブルなものである。こんなマイナーな場所をどうしてわたしが知っていたかといえば、もちろん職務上の経験である。仕事を選ばず雑文を書くわたしは、以前に神霧山の自然観察コースについて紹介記事をものしたことがあるのだ。
 サークルの会員の全員が、テントによる夜明かしを試みる予定であった。経済的に恵まれている者や合理性を重視する者は、実費においてロッジを借りればいい。だがそうする者はいなかった。皆が皆、例外なくテントでの「大自然溢れる」キャンプ生活を経験してみたいということであった。生活といっても、たった二泊の予定だが。
 そしてそんなとき、利御からもわたしに相談が持ちかけられた。曰く、――神霧山へ撮影にゆきたいのだが、適当な宿泊場所を知っていないか。
 ならば利御もサークルの後輩たちと同日にセッティングしてしまおうと考え、とんとん拍子に計画は進行し、今日にいたるというわけである。
 キャンプ場までは自動車で行けるのだが、我々は麓までの送迎バスを利用し、そこからは徒歩で向かっていた。経済的かつ健康的である。そうとでも自分に言い聞かせなければやってられない。なだらかで歩きやすい山道とはいえ、やはり、なんとも暑い。
 しかし利御は苦にしたふうもなく、いやむしろ逆に楽しげに歩を進めていた。手には愛用のデジカメを握り締めて。ときおり足を止めては野の花や木の幹にレンズを近づけ、色とりどりの蝶やら甲虫やらを写真に収めている。頭上高くを通過してゆく小さな蝶を目ざとく見つけてはわたしの制止も聞かずに追いかけてゆくものだから、一向に進めない。今回は蜂を撮るんじゃなかったのか? 子供よりも厄介である。

 

第2回

 

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