無人の家で発見されなかった手記 -13ページ目

無人の家で発見されなかった手記

──ある素人小説家の陳述

                                      5

 嘘だ。
 そう思った。
 ありえない。そんなことが起こるわけないではないか。
 それが本当だとしたら、犯人はどうやって部屋の奥まで行き、そして入口まで戻ってこられたというのだ
 いや犯人だけじゃない。被害者の《アンリ》だって、どうして標本をひとつも踏みつけることなく、部屋の奥まで行けたのだ? 床にはほとんど隙間なく蝶の標本が飾られていたというのに。
「密室だ――!」
 三井寺が低く叫んだ。
「霜月さん、これは密室だよ。ドアに鍵はかかっていなかったから不完全なイメージが強いけど、まぎれもなくこれは密室だ」
「密室、か」
 まさかこんな不可能状況が、いきなり飛び出してくるとは。
「密室、ねえ」
「そうだよ。積もった雪に足跡が残っていないという使い古された手が『雪密室』なら、これはさしずめ『蝶密室』といったところか」
 楽しそうに三井寺は笑った。乾いた笑いである。
 わたしは半信半疑で――いや本当はほとんど信じていなかったのだが――問い返す。
「本当か、利御? まさかそんな――」
「ミステリ小説じみたことが実際に起こったのかって? 僕は嘘はついていないよ」
 横で三井寺が腕を組み、しかつめらしく考え込んでいる。そして、
「床にはびっしりと標本が飾ってあったわけだよね? 壁際まで隙間がないくらい」
 と訊いた。利御は首肯する。
「天井には、ぶら下がれたり、何かを引っかけたりできるようなフックみたいなのはついてない?」
「ないよ。蛍光灯が填め込まれているだけ」
「家具も一切ないわけだよね」
「図のとおり。スツールがふたつあるだけだね」
「このスツールはトリックに関係している?」
「さて」
 利御は中指で眼鏡を押し上げた。
「そうだね、ひとつヒントとしては、希少標本室は関係ないと言っておこうか。せいぜい、そこに飾られていた置物が凶器に使われたというだけで」
「標本は簡単に外せるわけ? 床から」
 利御は頷く。
「硬質ゴムに針で留められているだけだからね。引き抜くことも再び差し込むことも可能だよ」
「じゃあそれだ。犯人はあらかじめ標本を取り除いておいて、部屋の奥まで行けるようにしておいたんだ。そして殺害後、再びすべてをもとに戻す。――どお?」
 挑戦的な目つきで、三井寺は利御をねめつけた。
 利御は落ちついた所作でカクテルを飲み干すと、
「残念ながら、否だね。……おかわり。今度は――グラスホッパー」
 またかよ。
 三井寺は不服そうだ。
「否定する根拠は?」
「まず時間と手間がかかりすぎるね。わずか一夜の出来事だよ。ひとつひとつ標本を取り外し、その一個たりとも壊してしまわないように保管しておき、犯行後にまたもとに戻すなんてね、とてもじゃないが無理だと思うよ」
「でも百パーセント不可能じゃないでしょ? 個人で無理なら複数犯だ」
 すると利御は目を細め、
「たとえば壁に画鋲を刺したとき、それを引き抜くと穴が残るね。この跡はどうやったって穿たれたまま残ってしまう。それと同じように、ここの床も針を抜けば穴が残る。同じ穴にもう一度差し込めば大丈夫だろうけど、すべての標本にそれを施すことは不可能だね。そして、現場にそういった痕跡は認められなかった」
「そうかあ」
「それに第一、犯人がわざわざこんな工作をおこなった理由が不明だよ。不可能状況を演出してみせるだけのために、気の遠くなるような作業を一夜という短時間のうちに終わらせなければならないなんて、不合理極まりない」
「犯人はきっと、標本を壊したくなかったんだ」
「だとしたら、この部屋で殺すことだけは避けたと思うよ。現に、被害者と凶器の下敷きになった蝶は滅茶苦茶になっていたわけだし。――あ、来たね。どうも」
 五杯目のカクテルに口をつけた。三井寺をやりこめて、いい気になっているふうに見える。
 それが癪にさわり、わたしも自分のアイデアをぶつけてみることにした。
「じゃあ、これでどうだ? 犯人は、奥にいる《アンリ》に向けて、入口から凶器を投げたんだ。あるいは何か特別な道具を使って、投擲ないし射出をしたのかもしれない。遠隔殺人だね」
 これならば、犯人は蝶を潰すことなく殺人が可能だ。どんなもんだ。わたしだって、だてにミステリを愛読してはいない。
「霜月君、」
 すると利御は心底わたしを莫迦にしたように、
「被害者は後頭部を三度殴られていたと言ったばかりじゃないか。凶器にゴム紐でもつけて、殴るたびに回収したのかい?」
「い、いや、それは――」
「だいたいね、被害者はどうやって蝶を踏まずに奥まで行けたんだい?」
 そうだった。それをすっかり失念していた。
「霜月君、頭をどこかに忘れてきたのかい?」
 うるさい。
 すると意気消沈していたかに見えた三井寺が、
「それだ!」
 と指を鳴らした。
「それだよ、霜月さん。被害者は部屋の奥じゃなく、他の場所で殺されたんだ」
「それで?」
「投げられたのは凶器じゃなくって――いや、凶器もあとで投げられただろうけど――死体だったんだよ。死体を投擲あるいは射出したんだ」
 新たな発見に気をよくする三井寺であったが、すかさず利御が、
「すでに述べたように、被害者はとても身体が大きい。間違いなく百キロは超えている。その死体をどうやって十メートルも飛ばすんだい?」
 丸々と太った巨漢が、色とりどりの標本の上を飛行する光景が脳裏に浮かんだ。いささかシュールである。そして、どうも無理のような気がしてきた。痩せ形の女性ならば、力のある男が放り投げることもできようが――いや、それすらも無理か。十メートルともなると。
「それに、繰り返しとなって恐縮だが、やはり理由が見えてこない」
 まさか、蝶の上を舞うデブの画が見たかっわたけでもあるまい。
「そうかあ、理由かあ。理由だよなあ」
 口をとがらせ、首を捻っている三井寺。なぜだか妙に可愛らしく見えてきて厭だ。
「スツールがふたつあるから、それを足の裏に貼りつけて竹馬みたくして――なんてのも考えたんだけどね」
「理由以前の問題だね」
 ふたりは顔を見合わせて笑った。人の死をネタに、不謹慎なやからである。わたしも含めて。

 

第6回

 

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                                      4

 座談会――平たく言えば飲み会だが――がお開きとなったのは、日付が変わってまもなくのことであった。
 来客たちは、ちょうど四つある客室をあてがわれ、そこで就寝することとなる。その前にシャワーを借りるのも結構。夜明かしするのも結構。もちろん、標本室を訪れるのも自由。
 五人が五人とも勝手気ままにやりたいことをやり、お互いの行動に特別な関心を抱いて行動していた者はいなかったはずである。ゆえに、誰が何時にどこで何をしていたか、正確に把握している者はひとりもいない。ありていに述べるなら、彼らのいわゆるアリバイは存在しないということになる。
 翌朝。
 第一発見者は《るーみす》であった。
 絹を裂くような悲鳴、とはこういったものを指すのであろう。
 皆が起きだしてまもなく。朝食すら取っていない。
 《ヨナクニ》、《ルキリア》、《麝香》の順にリビングへ姿を現し、三人が揃った途端の悲鳴であった。
「離れのほうからだ!」
 標本室がある方角を見ながら《ヨナクニ》が言った。だが、リビングから外が見えるわけでもない。
 言い知れぬ不安に包まれたまま、三人は急いで玄関へ回り、外へ出た。
 離れに駆けつけると、全開にされた戸口にぺたりと座り込む少女の背中が見えた。
「どうしたんです!」
 訊いても彼女は答えない。ガタガタと震えつつ、小刻みに首を振るばかり。
 日の出が遅い時期ということと、天候が曇りであったことにより、あたりはまだ薄暗かった。だから、明かりのともった室内はやけに眩しく感じられる。
 怖々と《るーみす》が奥を指さす。
 三人はゆっくりと、「蝶の間」を覗き込んだ。
 眼前に広がる光景に、ただ言葉をなくすばかりであった。
 昨夜と同じ、目も眩むばかりの標本群。
 ――いや、同じではない。
 部屋の奥、入口から見てちょうど真正面の奥の壁際、そこに、誰かが倒れていた。
 誰か――この場にいないのは、そう、彼ひとりだけである。
 無遠慮に巨体を横たえ、たくさんの蝶を腹の下敷きにし、よく脂肪のついた手足をだらしなく投げだし、俯せになっている。
 太い首に支えられた頭部は横を――ちょうどこちらの方向を向き、その目と口は、驚愕に見開かれていた。
 瞳に生彩はなく、髪はぬらぬらと赤く濡れ、その液体は額に首に流れ、そして床へ、潰れた標本を染め上げている。
「死んでいる……」
 そう《ヨナクニ》が言ったとおり、《アンリ》はすでに事切れていた。
 もっと詳しく様子を見ようと、《麝香》が足を踏み出しかけたとき、
「駄目です!」
 《ヨナクニ》が彼を諫めた。
「現場を荒らしてはいけません」
「いや、万にひとつかもしれませんが、息を吹き返すかもしれませんよ」
 応急手当を試みる価値が、ひょっとしたらあるかもしれない。――という《麝香》の考えであった。
「駄目ですよ。もう、無理です。見たら解るでしょう――?」
 確かに、手遅れのようではある。すっきりしないものを感じながらも、《麝香》は引き下がった。
「殺人――みたいね」
 何とか平静を保ちつつ、《ルキリア》が言う。
「ほら見て。あそこに転がっているの――あれが凶器じゃないかしら」
 彼女が指さしたのは、死体の左側に落ちている、長さ三十センチほどのガラス製の彫像であった。標本に隠れ、ひと目ではなかなか見つけにくい。
「あれは――」
 呆然と呟き、《ヨナクニ》は奥のドアへ向かった。ノブに手をかけようとし、少しためらったのち、ハンカチを出して指紋をつけないようにノブを回す。
「ない! やっぱりそうです、こちらの部屋に飾ってあったやつですよ!」
 希少標本室に置いてあった、例の彫像である。このとき、続いて《麝香》も奥の部屋を覗いてみたが、やはり彫像はなかった。それ以外に変わった点は、特に見当たらない。
 そしてこれはあとで判明したことだが、間違いなく凶器はこのガラス彫像であった。死因は脳挫傷。撲殺である。後頭部を数回殴られていた。傷口の数から、三度と見られている。
 この「蝶の間」で、数多の華麗な標本に囲まれながら、《アンリ》は何者かの手によって命を絶たれたのであった。

「そしてこのとき、実は面白い出来事がひとつ起きていたんだ」
 まるで、とびきり傑作ないたずらを思いついた子供のような笑みを浮かべながら、利御はそう言った。
「あとから解ったことだけどね。このときは皆――僕も含めて気が動転していたものだから、誰も気づかなかった」
「なんだ? もったいぶらずに話せよ」
「その前にもう一度、現場の状況を整理しようじゃないか」
 利御はいったん身体を引いて、背もたれに寄りかかる。
「『蝶の間』は、一辺が十一メートル以上の正方形だと思ってもらっていい。無論、高さがあるわけだから直方体というのが正確な呼称だね。天上まではだいたい三メートル強。窓はひとつもなく、ドアは入口と希少標本室へ通じるものだけ。いずれにも鍵はかかっていなかった。そして、この部屋は床も壁も標本で満たされている」
「まあ、解らないではないが、解りにくくもあるな。図でも描いて説明してくれよ」
 わたしがそうリクエストすると、横で三井寺もこっくりと頷き同意した。
 利御は億劫そうに、
「君たちの好きなミステリ小説なんかでは、こういうときに現場の平面図が出てくるんだろう? しかし、図を使って解説しなければならない時点で、小説としては破綻しているね。だったら最初から漫画を描けばいい。流行だろう? ミステリ漫画というのは」
 こんな憎まれ口を叩いておきながら、なぜか楽しげに紙ナプキンを引っ張りだして、そこに図を描きはじめた。描きあがるまでの数分間、わたしたちはじっと利御の手元を覗き込んでいた。
「こんな感じでいいだろう?」(図参照)


「ああ、上出来だよ。利御にしてはね。現場のつくりが単純なのが幸いしたな」
 彼の致命的なまでの絵の才能は、よく知っている。こういった簡単な直線の組み合わせならばともかく、いわゆる絵画などを描いた場合、見た者すべてに優越感を抱かせずにはいられない。
「で、何がどう面白いんだい?」
 どうせたいしたことはあるまいと高をくくり、目の前の男を試すような心境で訊いてみた。
 すると、こんな答えが返ってきた。
「被害者の身体や、ガラスの彫像に下敷きにされていたのは別だけどね、それ以外に、この部屋で被害に遭っている――つまり潰れている蝶の標本は、ひとつたりともなかったんだよ

 

第5回

 

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                                      3

 そこまで話すと、利御はグラスホッパーの残りを一気に飲み干した。
「うん、おいしいね」
 わたしと三井寺の期待のこもった視線を受け止めながらも、しかしマイペースにそんな感想を述べる。
「もう一杯いいかな」
 気取った仕草でグラスを持ちあげる。わたしの返事も聞かず、
「バーテンダーさん、グラスホッパー」
「人の金だと思いやがって」
「ああ、そう思っているよ」
「少しは遠慮したらどうだ? こっちはまだ一杯目だぜ」
「僕は~、三杯目~」
 やばい。酔っている、こいつ。
「霜月君、君たちが話を聞きたいと言うから、わざわざこうして多忙な中つきあってあげているんじゃないか。カクテルの二杯や三杯、快くご馳走してくれるというのが筋というものではないのかな?」
「はいはい、解ったよ。いくらでも呑ませてやるから、さっさと話せ」
 わたしのインタビュー――と言えるほどたいしたものではないが――に、やけにあっさり応じたと思ったら、さては、これが目当てであったのか。
 利御の前に三杯目のグラスホッパーが差し出された。この緑色の何がそんなにお気に入りなのだろう。まさか、このバッタの名をしたカクテルしか知らないんじゃないのか?
「日本で一番大きなバッタは何か知ってるかい?」
 唐突にそんなことを訊いてきた。
「知るか」
 つきあいきれない。
「霜月君、無知を盾に事象からの逃避をおこなおうとするのは感心できないな。ムシクソハムシだって、もう少し前向きに生きている」
 意味不明の非難をされたので、仕方なくわたしは当てずっぽうで答えてやることにする。大きなバッタならば、偉そうな名前がついているかもしれない。
「トノサマバッタ?」
「はずれ」
「ショウリョウバッタが大きいって聞いたことあるけど……」
 わたしの隣で、自信なさげに三井寺が言う。
「なかなか博識だね。そう、ショウリョウバッタの雌は日本最大級」
 急に機嫌がよさそうに口元を歪めた。利御はグラスに口をつける。
 我々は利御の次の言葉を待った。
 グラスを置くと利御は、
「ええと、どこまで話したかな。そうそう、ヨナクニ氏のコレクションルーム、通称『蝶の間』に入ったところからだったね」
 バッタはどこへ跳んでいったのだろう。
「そこで僕たちの前に広がった光景たるや、まさにこれこそ天上の楽園、至高の美術――」
「あのさ」
 三井寺が話の腰を折った。利御は途端に不機嫌そうに、
「なんだい? 顔の綺麗な君――三井寺君」
「バッタは? なんの関係があるの?」
「何が?」
 駄目だ。酔ってる、こいつ。
 アルコール度数たかだか十五度のカクテル二杯でここまでなるやつは初めて見た。
 さしもの三井寺も「いや、もういいです。なんでもない。俺が悪かった」と賢明に身を引いた。
 今日は、利御が一昨日の夜に参加したばかりの、昆虫マニアのオフ会の様子を聞くための集まりなのである。話者の機嫌を損ねるという愚行だけは避けねばなるまい。たとえ語り手が救いようのない下戸であったとしてもだ。
 しかもこの話は、単なる昆虫マニアの集いではない。利御はそこで、ある事件に巻き込まれているのである。
 そう、くだんの部屋――「蝶の間」を舞台とした、殺人事件に。

 ほぼ正方形の部屋は一辺が十メートル以上あり、家具と言ったら手前の壁際にスツールがふたつあるだけなので、思いのほか広大な印象を見る者に抱かせる。
 ドアは入口の他に、右側の壁にもひとつついている。鉄製の、いかにも頑丈そうなドアだ。入口は手前側の壁の左端にあるため、奥のドアとは離れている。
 ここには窓がないが、二十四時間エアコンが稼働しているようで、温度と湿度は一定に保たれているということだ。ワインセラー並みの徹底ぶりである。いったん中に入れば暖かな空気が一行を迎え、《麝香》の眼鏡は軽く曇った。
 だがここに保存され展示されているものは、ワインではない。世界有数の鱗翅目コレクターであることを誇示するように、《ヨナクニ》の収集した無数の標本が、ところ狭しと並んでいるのだ。標本の展示というと、アクリル張りのケース内にこぢんまりと整列しているものを思い浮かべるだろうが、ここは違う。もっと大胆かつ派手な見せ方をしているのである。
 すなわちそれは、部屋の床と壁への直接展示、である。
 色とりどり、無数の標本たちが、それぞれ一本の針に胴を貫かれ、この部屋の床に、壁に、磔にされているのである。ほとんど隙間というものがないほどびっしりと埋め尽くされ、初めて足を踏み入れた者は例外なく、極彩色の絨毯と壁紙に囲まれているかのような錯覚を受ける。
 ウェブサイトにてこの部屋の画像は公開されていたが、実際目にするのとはまったく違う。ここに身を置き、標本たちに囲まれてはじめて、「蝶の間」そのものを鑑賞し体感したことになるのだ。おそらくランダムに配置されているのだろうが、ひょっとしたら特殊な視覚効果を狙っているのではないかと思わせる、微妙な色彩バランス。じっと見つめていると距離感を失ってゆく。続いて、軽い眩暈。一匹一匹がまるでゆっくりと翅を動かしているかのような錯覚を受けたころには、完全にこの部屋の虜となっている。
 言葉をなくし呆然と立ち尽くす四人の来客を、《ヨナクニ》は極上の笑顔で見つめていた。

「ちょっと質問」
 三井寺が軽く挙手をした。利御は話の腰を折られて、ますます不機嫌そう。
「リンシモクって何?」
「鱗翅目。……アゲハ、モンシロチョウ、オオムラサキ、アサギマダラ」
「ああ、チョウチョね。納得した」
「すでに説明したとおり、ヨナクニ氏は高名な蝶マニアだ」
 それにしても、部屋じゅうを標本で飾り立ててしまうとは。少々、常軌を逸していると言える。マニアというものは、多かれ少なかれ、皆そういった面はあるのかもしれないが。
 利御が話を続ける。

 鱗翅目は世界に約十七万種いると言われている。さすがにその十分の一もないだろうが、それでも名の知られている種はほとんどが揃っているのだと《ヨナクニ》は自慢した。
「ここまで揃えるのに四半世紀かかりましたよ」
 もちろんすべての標本には、学名と採取年月日の記載されたラベルが一緒に針を通されている。ごく手近のものしかそれを読むことはできないが。
 入口がある手前側の壁沿いだけ、床には標本が飾られていない。もちろん、ここが通路となっているわけである。入口と奥のドアとを結ぶ、幅一メートル半ほどの空隙。ここには前述した二脚のスツールが置かれてある。腰を落ちつけゆっくりと鑑賞にひたることも可能というわけだ。
 床も壁も、すべて硬質のゴムで覆われている。それは明るい灰色をしており、コンクリート打ちっ放しのようにも見える。ここに針を刺し、標本を留めておけるという仕組みだ。ゴムは相当硬く、飛び跳ねたとしても足跡などつきようがない。
「奥に行けないね」
 見たままのことを《るーみす》が言った。
「ええ、もし行きたければ、ひとつひとつ取り除いていくしかありませんね」
 《ヨナクニ》が応える。
「つまり、奥の床や壁の標本をじっくり鑑賞することは不可能、と」
 と言ったのは《アンリ》。
「踏んで行けば別でしょうけど」
「確かに」
 《ヨナクニ》が笑った。
「あちらのドアは?」
 と《ルキリア》が訪ねる。
「ああ、希少標本室ですよ」
「きしょーひょーほんしつ?」
 首を傾げる《るーみす》に、《アンリ》が代わりに答えてやった。
「つまり、珍しい標本やなんかは、あっちに大切に保管されてるってことでしょう」
「そう、そのとおりですよ」
 さすがに貴重な種類の標本は、厳重にケースの中で保管されているということだ。
「てゆーことは、ルーミスシジミもあっち?」
 自らのハンドルネームの由来となった蝶の名前を挙げる。《ヨナクニ》は大仰に頷き、
「ええ、他にもギフチョウ、ミカドアゲハ、オオムラサキ、ゴイシツバメシジミもありますよ」
「ほう! それは凄い」
 巨体を震わせ驚く《アンリ》であったが、決して大袈裟なことではない。ゴイシツバメシジミは「種の保存法」により採集や取引が禁じられているのだから。なんでも、法の制定直前に入手に成功したという。

「おい、利御」
 気分よさそうに語る昆虫写真家を遮り、わたしは言った。
「蘊蓄はいいから、さっさと事件に触れろよ。そうやって前置きを引きのばして、カクテルをたんまりいただこうって腹じゃないだろうな」
「なるほど、その手があったね。――おかわり」
 またグラスホッパーである。四杯目。顔色はまったく変わらないが、目が充血してきた。大丈夫であろうか。
 わたしたちも新たなカクテルを注文する。こちらはまだ二杯目だ。

 小一時間も見とれていただろうか、不意に《ルキリア》が、
「奥のお部屋も見せていただいてよろしいでしょうか?」
 と《ヨナクニ》のほうへ振り返りつつ尋ねた。
 彼は満面の笑みを浮かべつつ、
「もちろんです。どうぞどうぞ。その言葉を待っていましたよ」
 奥の間もよほど見せたかったのだろう、踊るような足取りでドアへと向かった。四人は、足元の標本に気をつけながら彼に従う。
 入口とは別の鍵を差し込んでノブを回す。ドアを押し開け明かりをともすと、こちらは奥行きが「蝶の間」の半分ほどの部屋となっているのが判った。
 先にあれだけ素晴らしい展示物を見せられたせいか、こちらに関してはさほど大きな感動はなかった。だがこれだけでも大変なコレクションではあるし、実際、金銭的価値にしてみればこちらのほうがずっと貴重だ。
 四方の壁には標本のケースがいくつも下げられ、部屋の中央にはガラス張りのショーケースが設えてあり、中にはもちろん希少な鱗翅目の標本が並べてある。
「おっ! ほらほら、るーみすさん、ありましたよ」
 《アンリ》が太い指で指し示したのは、ショーケース内の小さなチョウである。体長わずか十数ミリ。鮮やかな青紫の翅を持つ美しい蝶だ。
「わーい、ルーミスシジミだ。実物見るの初めてー!」
 子供のように――事実、子供なのだが――無邪気にはしゃぐ《るーみす》を、実の子を見るかのような目つきで《ヨナクニ》が眺めていた。
 希少標本室の名にたがわず、先ほど《ヨナクニ》が述べた以外にもクロシジミやオオウラギンヒョウモンなど、実に多彩な希少種、危急種、絶滅危惧種の標本が取り揃えてある。
「どうして鱗翅目ばかりを? 鞘翅目や直翅目、半翅目などには興味を持たれなかったのですか?」
 壁に飾られたケースをひとつひとつ見つめつつ、《麝香》が訊いた。
「ええ、まったくもってそのとおりですよ。鱗翅目以外には興味がありません。――理由は、わざわざ言うまでもないでしょう?」
「ええ、まあ解りますよ」
 鞘翅目とは甲虫類、直翅目とはバッタ類、半翅目とはカメムシ類のことである。あらゆる昆虫の中で、やはり鱗翅目が飛び抜けて美しく、艶やかで、ヴァリエーションに富んでいると言えよう。これは誰に訊いても明らかだ。その魅力に取りつかれている者は数知れない。
「あ、すみません、ちょっとお手洗いに」
 気まずそうに《ルキリア》が言った。
「ああ、すみません。そろそろ戻りましょうか」
「いえ、どうぞ皆さんはごゆっくり」
「場所、解りますか?」
「はい、先ほど見ておきましたから」
 そしてそそくさと《ルキリア》はドアを抜けていった。
「――とは言いましても、やはりそろそろ潮時でしょうか」
 他の三人の意見を窺うように《ヨナクニ》が呟く。
 そのとき部屋の隅の標本を眺めていた《アンリ》が、頓狂な声を発した。
「あれ? これはなんです?」
 壁際に、腰の高さほどの木の台座が置いてある。彼が指さしたのは、その上に載っている、青みがかった透明のガラス細工であった。
 長さ三十センチ強といったところ。太さは大人が両手で握ってちょうど左右の指が触れあう程度だ。何十本もの細い茎が絡まり、樹木のような太い幹を形作っている。そのてっぺんには小さく美しい花が一輪咲いており、花びらには一頭の可憐なチョウが留まっている。チョウの翅の部分は最も青色が濃く配置されている。
「もしかして、これ、ルーミスシジミですか?」
「ああ、特定はしていないけど、そのあたりのシジミチョウを意識して作らせてありますよ」
「やはり、ヨナクニさんの会社の商品?」
「いえ、違います。特注品にして非売品ですよ。この世にひとつしかありません」
「それは貴重ですなあ」
 横から《アンリ》がおだてる。
「さぞや高いんでしょう」
「いや、そんなことはないですよ。この部屋の標本ひとつのほうが、ずっと価値はあります」
 そんな会話を聞いているのかいないのか、《るーみす》はガラスの彫像に歩み寄ると、
「それじゃあ、今日からこれはルーミスシジミに決定! ということで」
 なんのためらいもなくそれを手に取った。一瞬、場の空気が冷たくなる。
「いいんですか、勝手に?」
 《アンリ》が心配そうに尋ねたが、《ヨナクニ》は平然としたもので、ますます《るーみす》を愛おしむかのように見つめていた。
「伊万里の壺じゃあるまいし、構いやしませんよ」
 微笑み混じりにそう話す。
「さて、そろそろ戻りましょうか。これから晩酌でもどうですか?」
「いいですね」
 と《アンリ》。
「オフ会ならではのマニアックなトークで語り明かしましょうか」
「さすがに徹夜するつもりはありませんがね……」
 《るーみす》が名残惜しそうに彫像をもとへ戻し、四人は次々に標本室を出、建物の外へと移動した。外気に触れた途端、皆例外なく微かに身を震わせた。
「皆さんを信用して――」
 室内の明かりを消しながら《ヨナクニ》が言った。
「施錠はしないでおきますね。いつでも好きなときにいらっしゃって、ご覧になって構いませんよ」
「いいんですかー? 本当に?」
 嬉しそうに《るーみす》が聞き返す。
「ええ、もちろんです。ですけど、ドアを開け放したままにはしないでくださいね、くれぐれも」
「はーい」
 元気よく返事をして屋敷へ向かう彼女に、三人の男たちが続いた。
 リビングで待っていた《ルキリア》と一緒に、テーブルを囲んでの座談会と相成った。未成年の《るーみす》と下戸の《麝香》はソフトドリンクを所望し、他の三人はいかにも高級そうなワインを酌み交わし――

「まさか、マニアックな昆虫フリートークまで事細かに語るつもりじゃないだろうな」
 わたしが釘を刺すと、利御はきょとんとした表情で、
「そのつもりだけど?」
「却下、却下。それが事件に関係あるなら別だけど、どうせ意味ないんだろう?」
「関係があると言えばあるね。ないと言えばない。およそこの世に意味のあるものなどないし、無意味であるがゆえに面白いんだ」
「じゃあ要らないよ」
「残念だね」
 どうせまた、津軽海峡を境にして棲息するオサムシの種類ががらりと変わってくるとかいう豆知識を、面白おかしく――面白おかしそうなのは利御だけなのだが――語って聞かせようとするに違いない。そんなのはもう、うんざりである。わたしがなぜこんなことを知っているのかといえば、言うまでもなく目の前の男の仕業である。一生使わない知識であることは間違いない。
 ともかく、利御の話はまだまだ続く。そしてこれからが、核心である殺人事件発生の場面となる。

 

第4回

 

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                                      2

 最後のひとりが《ヨナクニ》に案内されてリビングに通されると、すでに待ちかねていた三人がほぼ同時に立ち上がり、彼を迎えた。
「はじめまして。アンリです」
 背丈だけでなく横幅も大きな青年が、真っ先に握手を求めてきた。ぶよぶよと生白い、カブトムシの幼虫のような指である。
「麝香(じゃこう)さん、ですよね?」
「ええ、そうです」
 頷くと、《アンリ》は満足げに微笑んだ。
 続いて《ヨナクニ》により、《ルキリア》と《るーみす》も紹介される。
「あれれ?」
 素っ頓狂な声を発したのは《るーみす》であった。
「もしかして、麝香さんって、庵利御さんじゃありません?」
「庵利御って――昆虫写真家の?」
 《ヨナクニ》がまじまじと《麝香》を見つめた。
「ああ、言われてみれば」
「えっ! そうなんですか! 感激だなあ!」
 まだ握手をしたままの《アンリ》の手が大きく振られる。《麝香》は苦笑いを顔に貼りつけていた。
「麝香さんのサイト、凄く面白いですよ! 昆虫の擬態や隠蔽を専門に扱って、しかもあれだけ鮮明な画像資料や独自の研究観察レポートが充実しているところなんて、世界広しといえども、麝香さんの『擬態WORLD』くらいのものでしょうね」
 そう《アンリ》は《麝香》のホームページを絶賛した。とても社交辞令とは思えない熱の入れようである。
 昆虫マニアならば、この若き昆虫写真家のことを知っていてもおかしくはない。まだ新人だが、若い層を中心にカルトな人気が高まりつつある。そしてこの場に集った五人は皆いずれもが昆虫マニアで、しかもほとんどが庵利御と同じ鳴兎子在住なのであるから、彼の名前と顔が一致してしかるべきと言えよう。
 今宵ここ《ヨナクニ》邸に集まった四人――《アンリ》、《ルキリア》、《るーみす》、《麝香》は、いずれも《ヨナクニ》が管理するウェブサイトを頻繁に訪れ書き込みを残してゆく常連たちなのである。《ヨナクニ》は日本有数の蝶マニアであり、標本のコレクターとしては世界で五指に入るほどである。彼のサイトではおもにコレクションの紹介や、蝶に関する独自の論文などを掲載している。
 常連客は他にもたくさんいるのだが、《ヨナクニ》と同じ鳴兎子(あるいは近郊)に住む者で、本日のオフ会に都合のついたのは四名だけであった。全員が本名を名乗らずにハンドルネームで互いを呼び合うというのは、最近では常識である。こちらのほうが遙かに馴染みのある名前なのだから。
 ただ《ヨナクニ》だけは都合上、本名を明かしている。与那国勇(よなぐに いさむ)というのが彼の名である。ハンドルネームとあまり変わりがない。
 与那国勇は鳴兎子でも有名な富豪であり、こちらはまったく昆虫や蝶とは無関係なのだが、硝子工芸や硝子小物の製造会社を経営し大成した人物でもある。鳴兎子の都心部に建つ彼の屋敷は、近所から硝子御殿と呼ばれているとかいないとか。
「それにしてもこのお家にひとり暮らしですか。寂しくなりません?」
 《るーみす》が無邪気に訪ねた。まだ十代半ばであろう少女だ。癖のないセミロングの髪が艶やかに光っている。
 《ヨナクニ》が丁寧に答えてあげる。
「いや、今日はもう帰りましたけど、家政婦さんもいますし、それに私もほとんど出かけてますしね。寂しいとかいうのはないですよ」
「結婚されないんですか?」
 ちょっぴり意地悪そうに《ルキリア》が訊いた。二十代後半に見える、落ちついた美人だ。専業主婦だということであったが、まだ学生で通りそうだ。
「いやあ、これは痛いところ突かれましたな。仕事仕事の毎日で、気づけばこの歳ですよ。――いや、昔は女房がいましたがね。別れてしまいました」
 そう言って《ヨナクニ》は笑った。
「あらら、もったいない。あたし、玉の輿狙っていいですかー?」
 そう《るーみす》が訪ねると、《ヨナクニ》は一層愉快そうに笑う。決して本気にしているわけではないだろうが、どこか好色そうな笑みに見えた。
「ところで、さっそくですが、全員揃ったところで見せていただけませんか? 例のやつを」
 《アンリ》がそう提案した。さすがに《麝香》の手はもう離している。《麝香》は気づかれないよう、汗で濡れた手のひらをコートの裾で拭っていた。
「そうですね。そうしましょう」
 《ヨナクニ》が何度も頷く。先刻から見せたくてうずうずしていたのが手に取るように解った。子供のように跳ねながら、《るーみす》も「見たい、見たい」とはしゃいでいる。
 そうして五人は、《ヨナクニ》に連れられて、彼自慢のコレクションルームへと足を運ぶこととなった。時刻は午後八時半をすぎたばかりであった。
「『蝶の間』は離れにあるんですよ。ですから、いったん外に出ていただくことになります」
 案内しながら《ヨナクニ》が言った。一行は屋敷の玄関へ行き、スリッパから靴へと履き替える。外へ出ると、あらためて初冬の夜の寒さが身にしみた。
 広い庭の土は凍りついたように固い。そこをぞろぞろと横切り、敷地の一角にぽつねんと佇むコンクリートの建物へと向かった。ところどころに外灯が設置されているため、位置を見失うようなことはない。
 高さは四メートルほどだろうか。入口のドアの他には窓ひとつ見当たらない、非常にぶっきらぼうな印象を与える直方体である。横幅は二十メートルくらい。奥行きは十メートル強といったところ。
 ポケットから鍵束を取りだし、《ヨナクニ》が慣れた手つきで鍵を開けた。ドアの上にはランプが取りつけられているため、手元を明るく照らしてくれる。
 ドアを手前に開け、《ヨナクニ》が真っ暗な室内へ足を踏み入れた。そして室内灯のスイッチを押したらしく、天井で蛍光灯がまばゆい光を放った。
「わあお!」
 《るーみす》の口から感嘆の声が漏れた。他の三人も、程度の差はあれ一様に感心し感動している。
 ここが《ヨナクニ》の誇る、彼独特の風変わりな、世界にふたつとない標本展示室なのである。

 

第3回

 

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                                    蝶密室
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 麝香:それでですね、本当は何だったと思います?
 るーみす:なになに?
 ルキリア:勿体ぶらないで下さいよ。
 麝香:それがなんと、アオバアリガタハネカクシだったんですよ
 るーみす:!
 ヨナクニ:それは酷い(笑)
 ルキリア:傑作です。最高です。
 るーみす:それにしてもマニアックなジョークですねん
 麝香:いかにも
  ----- アンリ さんが入室しました -----
  ----- チャットルームはロックされました -----
 アンリ:こんばんは。遅くなりました。
 るーみす:こんばんわなり>アンリどの
 ルキリア:今晩は。>アンリさん
 麝香:こんばんは>アンリさん
 ヨナクニ:こんばんは。時間どおりですよ、大丈夫です
 アンリ:僕で全員揃いましたね。
 麝香:さっそくですがオフの日取りを
 るーみす:ロックする必要あんの?
 麝香:秘密の会合です(笑)
 ヨナクニ:いい雰囲気ですね
 るーみす:謎めいていて
 麝香:それはさておき日取りのほうを
 ルキリア:当初の予定どおりでよろしいですね?
 ルキリア:異存ある方は?
 るーみす:いませんねえ
 麝香:ホストのヨナクニさんは?
 ヨナクニ:もちろんOKですよ。お待ちしてます
 るーみす:コレクション見せてくださいね♪
 ヨナクニ:もちろん
 麝香:サイトの写真だけでも圧倒されましたからね
 麝香:じかに見たら卒倒したりして
 ヨナクニ:大したもんじゃないですよ
 ルキリア:いえ、あながちジョークとも言えないのではないでしょうか?
 アンリ:世界的に見ても誇れるコレクションですよ。
 ルキリア:しかも、あの大胆なディスプレイ!
 るーみす:ああ、来週はあれをじかに見れるのですねー
 アンリ:楽しみです。
 ヨナクニ:勝手に過度な期待を抱いて、失望しないように(笑)
 麝香:(笑)
 麝香:ところで現地集合で?
 ヨナクニ:はい、午後八時に
 ヨナクニ:住所はメールにておしらせしたとおり
 アンリ:方向音痴なので辿り着けるか心配です。
 ヨナクニ:一応、解りやすい場所ではあるのですが
 ヨナクニ:タクシーを使っていただければ確実ですよ
 アンリ:そうします。
 麝香:晩飯は各自食ってくるということで
 ヨナクニ:すみません。大したおもてなしもできずに
 麝香:いえいえ、そんな
 ルキリア:それに目的は晩餐会(笑)じゃないですから。
 るーみす:そうそう。ちょうちょ
 ヨナクニ:期待していてください、そっちのほうだけは(笑)
 るーみす:さっきと言ってることが・・・
 ヨナクニ:まあいいじゃないですか
 ヨナクニ:ではそういうことで、当日はどうぞよろしくお願いします
 アンリ:お会いできるのを楽しみにしております。
 るーみす:楽しみです
 麝香:同じく
 ルキリア:お邪魔いたします。
 ヨナクニ:では、次回はオフにてお会いしましょう
 ヨナクニ:おやすみなさい>皆さん
  ----- ヨナクニ さんが退室しました -----
 ルキリア:お休みなさい。失礼します。
  ----- ルキリア さんが退室しました -----
 るーみす:でわでわ~
  ----- るーみす さんが退室しました -----
 麝香:のちほどメール送ります>アンリさん
 アンリ:なんでしょう?
 麝香:ちょっとしたことです
 麝香:詳しくはメールにて
 アンリ:そうですか。お待ちしてます。
 アンリ:それではこのへんで。
 麝香:お休みなさい
 アンリ:失礼します。
  ----- 麝香 さんが退室しました -----
  ----- アンリ さんが退室しました -----

                                      1

 赤い部屋。
 そんな名前のバーがある。
 鳴兎子(なうね)駅から直線距離にして百メートルとないだろうが、入り組んだ細い路地を幾度も曲がり、歩道橋を越え、インターバルの長い押しボタン信号に掴まり、建て売り住宅のようにそっくりな雑居ビル群の中をなんの目印もなくさまよい、果ては深淵か塹壕かと思わせる狭く急な階段を下りてゆくとはじめて、「Red Room」と朝浮き彫りの施された真っ赤なドアに辿り着けるという寸法であるから、常連客でさえ駅から十分はかかる。初めての者は、ナビゲーターが不在であるなら、よほどの僥倖にでも恵まれぬ限り、マスター自慢の数々のオリジナルカクテルにありつくことはまず無理だ。
 ここのマスター、名を平井次郎(ひらい じろう)という。自称、江戸川乱歩(本名は周知のとおり平井太郎)の隠された実弟である。なぜ弟の存在を隠さねばならないのか、いやそんなことよりもどう見たって五十代前半のこの男が、乱歩の弟であろうはずがない。まあこれは彼一流のジョークなのであろうが、つまらないからといって責めてはいけない。ジョークの九割方はくだらないものである。そして印象に残るジョークとは、大概くだらないものである。
 しかしその冗談のような名前ゆえか偉大なる「兄上」への憧憬の想い強く、平井次郎氏は自分の店をかの名作のごとく真っ赤に染め上げてしまったのである。
「赤い部屋」の名に恥じぬとおり、ここ秘密の地下室は情熱と狂乱の色に支配されている。見下ろせば緋色のカーペット、見上げれば紅色のランプ。壁紙もテーブルも、カウンターもスツールも、ボックスのテーブルもソファも、濃淡の差はあれど同系統の色彩なのである。常に薄暗く、店の奥はぼやけて見えにくい。奥へと行けば、今度は入口付近が曖昧にぼやけてしまう。ここにはすでに四、五回足を運んでいるわたしであったが、いまだにおおよその敷地面積すら計れない。狭くないことだけは確かなのだが。
 こんなバーに誰が好きこのんで潜ってくるのかと思えば、これが存外に繁盛しているのだから面白い。常連客は皆、自分の、自分だけの趣味のよさを噛み締めるために訪れているのだろう。自分だけの穴場であり、自分を取り巻くほんの少しの仲間だけが同行を許された憩いの場。誰もがそう思っているのだ。そして、そんな人間がたくさん集まる。滑稽ではあるが、これこそが世の縮図と言える。
 カウンターに腰を据え、平井次郎をはじめとする三人のバーテンダーと刹那的な会話を愉しむのもよいが、ここはボックスもお勧めである。ボックス席の名のとおり、それぞれが背の高い仕切り――当然、真っ赤な仕切りだ――で区切られ、簡易な談話室のようになっている。あるいは会社のオフィスのよう。ここで独りになるもよし、仲間と騒ぐもよし、内々の打ち合わせをするもよし。バーだからといってアルコールとつきあう必要性はなく、ソフトドリンクと軽食、デザートも充実しているから、一風変わった喫茶店と捉えられる向きもあるようだ。小耳に挟んだところによると、ここの地上部分に喫茶店専門の「青い部屋」という店舗を開こうという平井次郎の計画があるとかないとか。
 十一月。霜月である。わたしの名字も霜月(しもつき)だが、十一月とはまったく関係がない。わたしは九月生まれだし、両親も祖父母も兄弟も、図ったように十一月生まれがいない。ともかく十一月の乾いた風が鳴兎子を清める中、わたしは「赤い部屋」の階段を下った。階段は赤くない。血脈の色彩が踊るのは、入口のドアを開けてからだ。
 店内にはラヴェルのボレロが流れていた。BGMは常にクラシック。意識すればよく聞こえるほどの上品なボリュームで来客を優しく包む。特にボレロは流される頻度が高く、おそらく平井次郎のお気に入りなのだと察せられる。
「人生の曲だよ、これは」
 とは同行した三井寺庚(みいでら こう)の言葉である。彼もクラシック愛好家と言えよう。最近は、ひとりMDウォークマンでカノンを聴いていることが多い。
「同じフレーズが延々と繰り返されるだろ?」
 彼はわたしの後輩であるにも関わらず、こんな調子でいわゆるタメ口をきく。不快ではない。
「人間なんてものは、毎日が同一ルーチンの連続さ。成長とともに内容は濃厚になっていくかもしれないけど――」
 ボレロも次第に楽器の種類が増し、音量が濃密になってゆく。
「それがピークに達したかなと思った瞬間、唐突に閉じてしまう」
 最高潮で途端に終わる、それがボレロという曲だ。
「永遠に続くよりかマシだけど」
 ボレロは十五分しか続かない。楽曲としては長いほうなのかもしれないが。
 いちばん奥のボックスに身をおさめようと――いつもそうしているからだ――店内を横切った。だがそこには先客がひとりいて、我々に陰気な視線を送りつけてきた。頭の禿げ上がった痩せ形の男である。ひとりきりで湿っぽく酒を呑んでいたいのだろう。
 わたしたちは奥からふたつめのボックスへと腰を落ちつけた。仕切り板は決して厚くなく、そもそも密閉された部屋でもないので、実質的に声は筒抜けである。だが重要なのは音声が隣まで響くか否かではなく、そこからの目線が届くかどうかということにある。視界が遮られているだけでも随分と違うものだ。それだけで、プライベートな空間が保てるような気になってくる。こうして壁――と呼べるほどのものでもないが――に囲まれ腰を下ろせば、すでに奥の男は気にならない。
 テーブルを挟んで向かい合わせになればいいのだろうが、まるで仲むつまじいカップルのように並んで座った。これは決してわたしたちの関係がそういったたぐいのものであるというわけではなく、正面の席に我らがゲストを迎えるためである。
 約束の時刻まで、もう五分もない。そのゲストは時間に関しては決してルーズではないのだが、まれに大きな遅刻をすることもある。そんなときは大概、自分の仕事に夢中になっているのだ。だが今日に限っては違った理由で遅れてきそうである。彼はこの店は初めてのはずだ。はたして無事「赤い部屋」へ辿り着くことができるのか。
 我々はカクテルを頼んで時間を潰すことにした。
「知ってる? 今夜は満月なんだ」
 そんなことを言いつつ三井寺はシルバーブリットを頼んだ。わたしは「赤い部屋」オリジナルのカクテルであるオールインワンを注文した。オールインワンは色とりどりの丸いフルーツの浮かんだカクテルである。甘口で、デザート向きと言えよう。
 乾杯ののち煙草を取り出し、ふたりとも煙製造機と化す。今日のわたしの煙草はキャスターマイルド。
 しばし無言で無為に時間を浪費した。それでも時は瞬く間に過ぎ、気づけば約束の時刻を四十分も上回っていた。
 すっぽかされたのではないかといぶかりもしたが、やがて五十分遅れでメインゲストが姿を現した。
 黒いコートと髪の毛に、ちらほらと白い粒が窺えた。朝から冷え込んでいたが、外では雪が降りだしたものと見える。彼は雪のついた眼鏡を拭うと、空いている席へ――テーブルを挟んで、ちょうどわたしの向かいになる――コートも脱がずに収まった。この間、まったくの無言である。
「遅いじゃないか。さては、一時間近くも道に迷っていたかい?」
「いい雰囲気の店だね。前に一度だけ行ったことのあるバーもよかったけど、負けていない」
 わたしの言葉にも応えず、そんなことを言った。
「なんて店だい?」
 好奇心に駆られて訊いてみる。有名店ならばわたしも訪れたことがあるだろう。
 彼は遠い記憶を探るように目を細めると、やがてぼそりと口にした。
「鴉鷭亭(あばんてい)」
 聞いたことのない店の名だ。第一、酒の呑めないこの男が何をしに行ったというのであろう。
 そんなわたしの疑問も知らずに、庵利御(いおり としみ)は軽く左手を挙げてバーテンダーのひとりを呼んだ。
「グラスホッパー」
 下戸なんじゃなかったのか?

 

第2回

 

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