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嘘だ。
そう思った。
ありえない。そんなことが起こるわけないではないか。
それが本当だとしたら、犯人はどうやって部屋の奥まで行き、そして入口まで戻ってこられたというのだ。
いや犯人だけじゃない。被害者の《アンリ》だって、どうして標本をひとつも踏みつけることなく、部屋の奥まで行けたのだ? 床にはほとんど隙間なく蝶の標本が飾られていたというのに。
「密室だ――!」
三井寺が低く叫んだ。
「霜月さん、これは密室だよ。ドアに鍵はかかっていなかったから不完全なイメージが強いけど、まぎれもなくこれは密室だ」
「密室、か」
まさかこんな不可能状況が、いきなり飛び出してくるとは。
「密室、ねえ」
「そうだよ。積もった雪に足跡が残っていないという使い古された手が『雪密室』なら、これはさしずめ『蝶密室』といったところか」
楽しそうに三井寺は笑った。乾いた笑いである。
わたしは半信半疑で――いや本当はほとんど信じていなかったのだが――問い返す。
「本当か、利御? まさかそんな――」
「ミステリ小説じみたことが実際に起こったのかって? 僕は嘘はついていないよ」
横で三井寺が腕を組み、しかつめらしく考え込んでいる。そして、
「床にはびっしりと標本が飾ってあったわけだよね? 壁際まで隙間がないくらい」
と訊いた。利御は首肯する。
「天井には、ぶら下がれたり、何かを引っかけたりできるようなフックみたいなのはついてない?」
「ないよ。蛍光灯が填め込まれているだけ」
「家具も一切ないわけだよね」
「図のとおり。スツールがふたつあるだけだね」
「このスツールはトリックに関係している?」
「さて」
利御は中指で眼鏡を押し上げた。
「そうだね、ひとつヒントとしては、希少標本室は関係ないと言っておこうか。せいぜい、そこに飾られていた置物が凶器に使われたというだけで」
「標本は簡単に外せるわけ? 床から」
利御は頷く。
「硬質ゴムに針で留められているだけだからね。引き抜くことも再び差し込むことも可能だよ」
「じゃあそれだ。犯人はあらかじめ標本を取り除いておいて、部屋の奥まで行けるようにしておいたんだ。そして殺害後、再びすべてをもとに戻す。――どお?」
挑戦的な目つきで、三井寺は利御をねめつけた。
利御は落ちついた所作でカクテルを飲み干すと、
「残念ながら、否だね。……おかわり。今度は――グラスホッパー」
またかよ。
三井寺は不服そうだ。
「否定する根拠は?」
「まず時間と手間がかかりすぎるね。わずか一夜の出来事だよ。ひとつひとつ標本を取り外し、その一個たりとも壊してしまわないように保管しておき、犯行後にまたもとに戻すなんてね、とてもじゃないが無理だと思うよ」
「でも百パーセント不可能じゃないでしょ? 個人で無理なら複数犯だ」
すると利御は目を細め、
「たとえば壁に画鋲を刺したとき、それを引き抜くと穴が残るね。この跡はどうやったって穿たれたまま残ってしまう。それと同じように、ここの床も針を抜けば穴が残る。同じ穴にもう一度差し込めば大丈夫だろうけど、すべての標本にそれを施すことは不可能だね。そして、現場にそういった痕跡は認められなかった」
「そうかあ」
「それに第一、犯人がわざわざこんな工作をおこなった理由が不明だよ。不可能状況を演出してみせるだけのために、気の遠くなるような作業を一夜という短時間のうちに終わらせなければならないなんて、不合理極まりない」
「犯人はきっと、標本を壊したくなかったんだ」
「だとしたら、この部屋で殺すことだけは避けたと思うよ。現に、被害者と凶器の下敷きになった蝶は滅茶苦茶になっていたわけだし。――あ、来たね。どうも」
五杯目のカクテルに口をつけた。三井寺をやりこめて、いい気になっているふうに見える。
それが癪にさわり、わたしも自分のアイデアをぶつけてみることにした。
「じゃあ、これでどうだ? 犯人は、奥にいる《アンリ》に向けて、入口から凶器を投げたんだ。あるいは何か特別な道具を使って、投擲ないし射出をしたのかもしれない。遠隔殺人だね」
これならば、犯人は蝶を潰すことなく殺人が可能だ。どんなもんだ。わたしだって、だてにミステリを愛読してはいない。
「霜月君、」
すると利御は心底わたしを莫迦にしたように、
「被害者は後頭部を三度殴られていたと言ったばかりじゃないか。凶器にゴム紐でもつけて、殴るたびに回収したのかい?」
「い、いや、それは――」
「だいたいね、被害者はどうやって蝶を踏まずに奥まで行けたんだい?」
そうだった。それをすっかり失念していた。
「霜月君、頭をどこかに忘れてきたのかい?」
うるさい。
すると意気消沈していたかに見えた三井寺が、
「それだ!」
と指を鳴らした。
「それだよ、霜月さん。被害者は部屋の奥じゃなく、他の場所で殺されたんだ」
「それで?」
「投げられたのは凶器じゃなくって――いや、凶器もあとで投げられただろうけど――死体だったんだよ。死体を投擲あるいは射出したんだ」
新たな発見に気をよくする三井寺であったが、すかさず利御が、
「すでに述べたように、被害者はとても身体が大きい。間違いなく百キロは超えている。その死体をどうやって十メートルも飛ばすんだい?」
丸々と太った巨漢が、色とりどりの標本の上を飛行する光景が脳裏に浮かんだ。いささかシュールである。そして、どうも無理のような気がしてきた。痩せ形の女性ならば、力のある男が放り投げることもできようが――いや、それすらも無理か。十メートルともなると。
「それに、繰り返しとなって恐縮だが、やはり理由が見えてこない」
まさか、蝶の上を舞うデブの画が見たかっわたけでもあるまい。
「そうかあ、理由かあ。理由だよなあ」
口をとがらせ、首を捻っている三井寺。なぜだか妙に可愛らしく見えてきて厭だ。
「スツールがふたつあるから、それを足の裏に貼りつけて竹馬みたくして――なんてのも考えたんだけどね」
「理由以前の問題だね」
ふたりは顔を見合わせて笑った。人の死をネタに、不謹慎なやからである。わたしも含めて。
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