無人の家で発見されなかった手記 -12ページ目

無人の家で発見されなかった手記

──ある素人小説家の陳述

                                      9

 昨日の事件のことで、内密にお話があります。つきましては、下記の時刻、下記の場所にて――。
 そんなメールを送信し、今日この場に誘い出したという。わたしが利御にインタビューを試みたとき、やけにあっさりと承諾してくれたと思ったら、こんな裏があったわけだ。利御がここに来た本当の目的は、野次馬根性むき出しで事件の話を聞こうとする我々の欲望を満たすためではなく――真犯人を告発するため。
「私は、やっていない。どうして、何を根拠に」
 与那国は必死に抗弁する。利御は軽く受け流し、
「ほら、また悪い冗談ですよ。我々が話していたこと、すべて聞いていたのでしょう? でしたら、これ以上説明の必要もないと思いますが」
「る、るーみすが犯人でないというのは解った。でも、だったらどうして私なんだ!」
 汗を垂らし唾を飛ばす。見苦しかった。
 バーテンダーが、他の客が、何ごとかとこちらへ視線を向けている。
「理由は先ほどご説明したとおり。いくつもあります」
 利御は左手の人差し指を立てる。
「一つ、ひと目で死亡を見て取ったこと」
「そ、そんなの、見たら誰だって判るじゃないか」
「僕は判りませんでした。少なくとも、断定はできかねました。ましてや、殺人現場であるがゆえに足を踏み入れてはならない、などといった発想も出てきませんでした」
 与那国は言葉に詰まる。続いて利御は中指を立て、
「二つ、同じくムラサキシジミと断定できたこと」
「それだって判るさ。ああ、判るとも! 私は標本の持ち主なんだ。判らないわけがないだろう!」
「そうは言っても、やはり即座に断言したのは失敗でしたね」
 何かを言おうとする与那国を遮り、薬指を伸ばす。
「三つ。自分の靴の処分と交換が可能だったのは、あなただけです。他の方々は皆、一足しか靴を持っていませんでしたから。来客だから当然ですが」
「わ、判らんじゃないか。犯行を計画して予備の靴をあらかじめ持ってきていたのかもしれない」
「計画を立てるのなら、もっと有効な殺人方法を考えていると思いますが。それに、勝手の判らない人様の家で、どうやって証拠品を処分するつもりだったのやら。そんな危険な筋書きでは、とても計画とは呼べませんよ」
「う、うるさい!」
 恫喝に、まるで迫力がない。
 利御はさらに指を立てた。小指だ。
「四つ。ガラス彫像の指紋です」
「指紋、だと?」
 与那国は頓狂な声をあげた。
「それこそ証拠じゃないか。るーみすが犯人だって――」
「まだそんなことを言ってるんですか? 逆ですよ。あなたが犯人であるという証拠です」
「どうして!」
「思い出してみてください。るーみす嬢が彫像を手にしたとき、その場にいたのは誰でしたか?」
 言われた意味が解らないらしく、与那国は無言で立ちつくしていた。
 わたしは記憶を掘り起こす。希少標本室に全員で入り、そのときに彼女が彫像を手にしたはずだ。いや、待てよ。その前に、ひとり退室した者がいた。そう、《ルキリア》である。彼女がトイレに行くと言ってひと足先に――。
「あ!」
 思わず叫んだのは与那国でなくわたしであった。
 そうだ、そうなのだ。《ルキリア》が消えると、残るは四人。そのうち《アンリ》は犠牲者であるから、彼を引いて三人。つまり、
「つまり、るーみす嬢の指紋が彫像に付着したことを知っていたのは、僕とあなたのふたりだけなんですよ。彼女を犯人に仕立て上げるという着想を得ることができたのも」
 《ルキリア》は知らなかったわけだから、残るのは《ヨナクニ》である。
「麝香さん、それでは君も被疑者じゃないのかね!」
 与那国が吼える。
「君だって知っていたんだろう! 彫像にるーみすの指紋がついていたと!」
 鬼の首でも取ったような、とはこういう状態であろうか。与那国は利御を指さし、そう言った。
 だが無情にも――利御の五本目の指が、親指が立てられ、彼の左手は完全に開かれた。
「五つ。僕は知らなかったし、あなたは知っていた。――彫像に、るーみす嬢以外の指紋が最初から付着していなかったことを
 ぽかんと口を開け、与那国の動きが静止した。
 利御はそのまま左手を眼前に持ってきて、眼鏡を押さえる。
「説明が要りますか?」
 与那国は応えない。
「彫像には、ただひとりの人物の指紋しか付着していなかった。この事実を知っていたからこそ、犯人はその指紋の持ち主に罪を被せようと発想することが可能だったわけです。もしも僕が犯人で、凶器に彫像を選んだとしたら、当然持ち主であるあなたの指紋がついているものと思いこんで、被害者にはムラサキシジミでなく、別の標本を握らせていたところでしょうね」
 左手を眼鏡から離した。
「それは絶滅危惧種ですから、希少標本室から取ってこなければならないわけですが――世界最大級の蛾である、ヨナクニサンの標本をね」
 与那国は力なく床に膝をついた。
 しばし、静寂が続く。
 クラシック音楽が流れているはずだが、頭に入ってこない。
 やがて利御が口を開いた。
「ヨナクニさん。僕は、あなたを警察に突き出すためにお呼びしたわけでも、自首を勧めるためにお会いしたわけでもありません。ただひとつ、直接お訊きしたかったことがあるんです」
「なんで――しょうか」
 すべてを失い、茫然自失の与那国であったが、かろうじて利御の問いに反応した。
 利御はしっかりと彼の目をみつめると、こんなことを訊いた。
「どうして、殺したのです?」
 彼らしくない、利御に似つかわしくない質問と言えた。
 問われた与那国は、しばらく押し黙ったのち、ようやく口を開いた。
「論文――ですよ」
「論文?」
「そうです。私が書いて、ホームページに掲載した論文です。高山の蝶の分布に関する、私なりの新解釈を発表した――」
「ああ、あれですか。覚えています」
「あれ、自信作だったんです。一番、気に入ってましたし」
「はい」
「それを、腐されたんです」
「ああ、なるほど……」
 利御が遠い目をして呟いた。
「彼に――アンリに、論破されたんですよ、メールで。ひと月ほど前でしたか。もう、それこそ容赦なく」
「それで」
「ええ、そうです。それで悔しくて殺したんです」

 

第10回

 

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                                      8

「まさか君たちは、るーみす嬢が犯人だとは考えていないよね?」
 都合よく凶器に残されていた彼女の指紋。ダイイングメッセージらしきムラサキシジミ。そして靴裏の鱗粉。――そう、標本の上を往復したのだから、犯人の靴には鱗粉が付着していたはずである。
「冤罪だ。彼女は、はめられた。誰だって判るさ」
 自信満々で三井寺が言った。
「だけど警察は莫迦だから彼女を連れていった」
「莫迦というのとは違うよ」
 利御が警察の肩を持つ。ここで言う警察とは、あの一条警部補のことである。気にくわない。
「堅実なんだ。警察という機構は」
「堅実、ね」
 三井寺はせせら笑う。そんな彼に利御が、
「どうして彼女が冤罪か、判るかい?」
「簡単だよ。被害者のアンリは大層な巨漢だったんでしょ? そしてるーみすちゃんは年端もいかぬ十代の少女。――まさか彼女も大女だったなんてことは」
「ないよ。むしろ小柄なほう」
「だったら明瞭さ。彼女がアンリの後頭部を殴るのは、ちょいと難しいな。背丈が違いすぎるでしょ。殴れないことはないだろうけど、効果的な打撃は加えにくい」
「そうかな?」
 意地悪そうに利御が反論する。この男は本当に意地が悪いのだが。
「るーみす嬢はスツールの上に立ってから殴ったのかもしれない」
「そんなことしたら怪しまれるよ。怪しまれなかったとしても、足場が不安定で力がこもらない。へっぴり腰じゃ人は撲殺できないでしょ」
「被害者が床の標本をよく見ようと屈み込んだときに、殴ったのかもしれない」
「それなら可能か。でも、一撃で殺しちゃいないんだろ?」
「そう、そのとおり」
 ふたりは顔を見合わせて、旧知の仲のように微笑んだ。
「じゃあ簡単さ。非力な彼女は一撃で仕留められなかった。だとしたら、次の瞬間にはアンリの反撃を受けているはずだ。なにせ、被害者には部屋の奥まで走って逃げる余裕があったんだから。たとえ相手が武器を手にして背後を取っていたとしても、それが小柄な少女なら、たいした問題はない。俺が彼女なら、撲殺と扼殺だけは避けるね。危なっかしくてしょうがない」
「そう、そのとおり」
 また同じことを言う利御。三井寺はさらにつけ加える。
「そして、犯人は被害者の息の根を完全に止めている。何度も殴ってね。なのにアンリは、ムラサキシジミだっけ? その標本を握り締めていた」
「そう、そのとおり。明らかにおかしいね。被害者が息のあるうちに犯人の名を告発する品を手に取ったのなら、犯人は殺害後それを奪い取っているはずだ。その機会があったはずなのに、標本には手がつけられていない」
「つまりこれは、被害者の残したダイイングメッセージではなく、犯人の残した下手くそな偽装工作と見なすのがセオリー。犯人がるーみすに容疑を被せるため、アンリの手に握らせたんだ。るーみすが犯人なら、自分の名前を指し示すようなものをわざわざ握らすはずもない、と」
「そう。それでは、真犯人はいったい誰だろう?」
 挑戦するように利御はそう言った。
 腕を組む三井寺。
 《るーみす》が消え、《アンリ》は被害者。《麝香》イコール庵利御であるから、彼が犯人でない以上、考慮に入れる必要はなし。
 すると残るのは、《ヨナクニ》と《ルキリア》である。
「こうなったらもう、あとは自明の理ってやつでしょ」
 不敵に微笑む三井寺。利御は頷き、グラスを手に取った。
「そう、犯人はあの人しかいない。もちろん、霜月君も判っているよね?」
「あ? あ、ああ」
 適当に合わせておいた。利御はそれ以上突っ込んでこない。見透かされているのかもしれない。
 利御はカクテルをひと口、ふた口、喉に通し、
「犯人は、まず最初に僕らと被害者を発見したとき、確かに息絶えているようには見えたけれども、遠目からそう断言し、誰ひとり死体に近づかせようとしなかった。ここで誰かの靴裏に鱗粉が付着してしまっては、せっかくの偽装工作が――るーみす嬢の靴に、昨夜のうちに施していた偽の証拠が、無効となってしまうからね」
 利御の声が熱を帯びる。
「そして犯人は、握らされて形の崩れた蝶の標本を、ひと目でムラサキシジミと看破した。ミドリシジミ、トラフシジミ、ルリシジミ、ミヤマシジミ、ウラナミシジミなど、他にも似ている種が存在するにもかかわらず、最もルーミスシジミに酷似しているムラサキシジミの名をあげた。自分で握らせたのだから、当然知っていたわけだね。ムラサキシジミが部屋のどのあたりに展示されていたのかも知っていただろう」
 やけに大きな声を出している。「赤い部屋」じゅうに聞こえる――とまではいかなくとも、隣のブースには余裕で響くくらいの声量である。
「つまり犯人は、彼しかいないわけだね」
 利御は景気づけのように、カクテルを一気に飲み下した。そして、勢いよくグラスをテーブルに置く。
「鱗粉が大量にこびりついた自分の靴を秘かに処分できた人物。靴の一足ぐらい捨てたところで、代わりが手元にある人物。そう、それはヨナクニさん、あなたしかいないわけですよ!」
 利御は、我々ではなく――横の仕切り、つまり奥のボックス席に向かって声をかけていた。
 その席、「赤い部屋」の最奥の席には、ひとりの中年男性が座っていたはずである。
 つまり、彼こそが。
「悪い――冗談、だ……」
 掠れた、男の声。
 頭の禿げ上がった、やせぎすの男は、呆然と目を見開いて、奥からフラフラと歩み出てきた。
「麝香さん」
 すがるような目つき。本当に会社社長――一国一城の主なのだろうか。威厳も貫禄も見て取ることはできない。
「悪い冗談をさんざん披露してくださったのは、あなたのほうですよ」
 利御は冷たい視線を男にぶつけた。わたしも三井寺も、ただ呆気に取られてぼんやりと彼を――与那国勇を眺めていた。

 

第9回

 

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                                      7

「質問!」
 三井寺が身を乗り出した。利御はまだグラスに残る緑の液体を眺めながら、
「なんだい?」
「納得がいかない」
「それは質問と言わない」
「おかしいよ、そんなの」
「事実だよ。まあ、確かにおかしいと言えば言えるかな。るーみす嬢が犯人だなんて、話ができすぎているよね。ダイイングメッセージといい、指紋といい、鱗粉といい」
「違うよ! いや、それだよ!」
「どっちだい? 君、霜月君に似てきたね」
「鱗粉だよ、鱗粉。どうしてそれが決め手になるの」
「標本を踏めば鱗粉が靴につくよ」
「――だからあ!」
 こらえきれずにわたしが割って入る。
「蝶の標本は一匹も踏まれていないんだろう? だったらどうして鱗粉が決め手になるんだよ!」
 すると利御は意外そうな表情を浮かべた。
「ああ、まだそのことにこだわってるの」
「こだわるもなにも、まだ明かしていないじゃないか、『蝶密室』のトリックを」
 まさか忘れたとは言わせない。
 利御は眼鏡を押し上げ、
「それでは教えようか。いや、教えてあげようか。特別」
「言い直すなよ」
「要するに君たちは、『蝶の間』で起こった犯行の様子、その一部始終を知りたいんだろう?」
 それはそうだ。それさえ知ることができたなら、同時にトリックも判明する。
「簡単だよ。まあ、これは僕の想像でしかないわけで、もしかしたら細かな部分が実際とは異なっているかもしれないけど」
「解ってるよ。利御が犯人でもない限りは」
「いいかい、一度しか言わないよ。こんなことを何度も繰り返すのは面倒だし、時間の無駄だ」
「いいから早く言えよ」
「言ってください、だろう?」
「あのなあ」
 冗談、冗談、と陽気に笑う利御。彼は一度唇を舐めてから、こう言った。
「まず犯人は希少標本室から凶器を持ってくる。当然、指紋がつかないように手袋をはめてね。そして、『蝶の間』にいる被害者――犯人が呼び出したのか、被害者が自らやってきたのかは判らないけど――被害者の背後から頭を殴った」
「それは『蝶の間』のどこで?」
 三井寺が口を挟んだ。
「それはもちろん手前の通路だね。ポジションとしては、犯人が出入口を背にしていた」
「どうして?」
「唯一の逃走経路に犯人が立ちふさがっている状況でないと、つじつまが合わないからだよ。さらに言うなら、希少標本室のドアからも離れていたんじゃないかな。つまり、まさに入口を入った場所か、その近辺」
「どういうことだい?」
 今度はわたしが問う。利御は鋭い視線を投げかけ、
「黙って最後まで聞きたまえ。すぐに判るよ。――いいかい? 後頭部を不意に殴られた被害者だが、まだ致命傷ではない。彼は犯人の殺意を知った。振り返り、再び自分を殴ろうと凶器を振りかざす犯人を見て、相手が本気であることを確信したのかもしれない。そして――被害者は逃げたんだ。部屋の奥にね」
 奥? 奥というのは――。
「奥のドアではないよ。言葉のとおり、『蝶の間』の奥さ。しかしもちろん逃げられるわけもない。まあ、パニックに陥った末の無意味な逃避行動と言えるだろうね。そして追いかけてきた犯人に、無防備な後頭部を再度殴られた。そしてたぶんこのときに倒れ、たくさんの標本が身体の下敷きとなった。犯人はさらにもう一度、とどめを刺すため殴りつける。完全に息の根が止まったことを確認した犯人は、凶器を放り投げたあと、ムラサキシジミの標本を探し、被害者の手に握らせて偽のダイイングメッセージを残した。そして――」
「そして――?」
「悠々と現場を立ち去った。以上、説明終わり」
「ちょっと待て!」
 わたしと三井寺が同時に抗議の声を発した。思わずふたりで腰を浮かす。
「密室は? 密室はどうやってできたの! なんの説明にもなってないじゃん!」
 今にも利御に掴みかかろうとするほどの勢いで、三井寺が問い質した。
 当の昆虫写真家といえば呑気なもので、酔いが回ってきたのか眠たそうな瞳で見つめ返す。
「密室だって? そんなもの、はなからないよ」
「ない? ないって、そんな」
「君たちが勝手に密室と称して盛り上がっていただけじゃないか」
「だったらどうして――!」
 わたしも唾を飛ばす。
「どうして蝶は踏まれていなかったんだ! 被害者も犯人も、標本はまったく踏んでいないんだろう?」
「標本は踏んださ。いずれも部屋の奥まで走り、犯人はさらに戻ってきたわけだからね」
「それじゃあ、踏んでも潰れなかったと? それとも、潰れたけど新しいのと入れ替えた――?」
「まあ落ちついて座りたまえご両人」
 利御は穏やかに言うと、ゆっくりと眼鏡を上げ、
「僕の話をちゃんと聞いていたのかい? 僕は、蝶の標本が踏まれていなかったとは言ったけど、その他の標本に関しては言及していないよ」
 なんだって?
「鱗翅目、と言ったはずだね。いくつか例を挙げたら、勝手に蝶と思いこんだ」
 まさか。
「部屋には鱗翅目の標本が所狭しと展示され、蝶だけが踏まれていなかった。となると、導き出せる解答はただひとつ」
 まさか、まさか、
「利御、まさか――」
「そう、踏み潰されていたのは、蛾の標本だけだったんだよ
 蛾。蛾。蛾。蛾蛾蛾蛾蛾蛾蛾蛾蛾蛾。
「ッッガァーッ!」
 切れた。
「まあ落ち着きたまえ霜月君。ほら、席を立たない。ほらほら、物を持たない」
「蝶じゃなくて蛾だとぉぅ? 卑怯だ! アンフェアだ!」
「アンフェア? 意味が不明だね。起きたことは事実なわけだし、フェアもアンフェアもないよ」
「どうしてわたしが、そんな頓知なぞなぞにつきあわなくちゃならないんだ!」
 いつのまにか、三井寺に羽交い締めにされていた。それほど興奮していたということだ。酒が回っていたのは利御だけじゃなかったかもしれない。
 見れば三井寺は笑っていた。さも愉快といった風情だ。
「最高だ! 最高!」
 そんなことを繰り返す。何が最高なものか。
「顔が真っ赤だよ霜月君」
 当たり前だ。誰のせいだと思っているのだ。
 わたしは卓上の紙ナプキンを取りあげ、
「こんな見取り図なんて――要らないじゃないか!」
「ああ、不必要だね」
「だったら、何をわざわざ――」
「書いてくれと言ったのは君たちじゃないか。こんなことで責められても、僕は困ってしまうよ」
 やれやれ、と肩をすくめ、利御は語り始めた。
「先ほど言ったように、鱗翅目は世界に約十七万種いる。そのうち蝶は約一万七千種で、あとはすべて蛾だよ。つまり、蝶は全体の十分の一でしかないわけだ。日本においては蛾が約四千五百種、蝶は約二百五十種にすぎない。これがどういうことか解るかい? つまり、『蝶の間』の標本の上を適当に歩いたとして、蝶を踏みつける確率は、蛾を踏む確率の十分の一に満たないということだよ。だから被害者も犯人も、偶然に蝶を踏まなかったことは決しておかしなことではない」
「だからと言って納得できるか」
 そう、納得などできない。「蝶密室」――実際は密室でもなんでもなかったわけだが――の疑問は氷解した。だが、利御の言動が納得できないのである。
「だったら、最初からそんなこと言うなよ。意味がないじゃないか」
 そう、意味がない。現場には、被害者と犯人の歩いた跡がはっきりと残されていたのだ。このとき偶然に蝶が一匹も踏まれていなかっただけのことではないか。それを、あたかも不可能状況であるかのごとく語りやがって。
「心外だね霜月君。僕がなんの意味もなく、わざわざこんな話をしたと思っているのかい?」
「ああ思っているよ」
 わたしはようやく腰を下ろした。三井寺がいなかったらどうなっていたか判らない。
 利御はわざとらしく溜息をつくと、唐突にこんなことを訊いてきた。
「蝶と蛾の違いはなんだか知っているかい?」
「なんだって?」
「だから、蝶と蛾の相違点だよ。どうやって区別しているのか」
「なんだ、突然? 関係あるのか、事件と?」
「もちろん」
 こっくりと頷く利御。
 わたしはしばし熟考し、
「綺麗なのが蝶で、気持ち悪いのが蛾」
 と見事な解答を提示した。
 利御は天を仰ぎ見、
「ああ、霜月君」
 絶望的とも言える声を出す。
「小学生だって、もうちょっとまともな意見を出すよ」
「昼行性と夜行性の違い?」
 横から三井寺が訊く。
「いいことを言うね三井寺君。確かに蝶には昼行性のものが、蛾には夜行性のものが多いけど、いずれも例外があって決定的ではないね」
「だったら――留まったときに翅を閉じるか閉じないかってのも、聞いたことあるけど」
「それも決め手とはならないよ。確かに蝶には翅を開いて留まるもの、蛾には閉じるものが多いけど、多いというだけで、すべてではない」
 だったらなんだというのだ。
「他にも触角の形状や、前翅と後翅とをつなぐ連結器官の有無などである程度区別できるけど、それについても例外は存在する。――結局のところ、明確に言えるのは一点だけなんだ。それは――」
 利御は我々を交互に見つめる。
「すなわち、人間が『蝶』と定めたものが蝶であり、『蛾』と定めたものが蛾である」
 なんだ、それは。
 そんなことは――当たり前ではないか。
「そう、これは当たり前のこと。しかし、最も重要なことであり、人間が見落としがちなことでもある。人がそう定めたというだけのことで、同じ鱗翅目の中に蝶と蛾の区別ができ、今回の状況のような偶然が生まれ、君たちが混乱し、ひとつ教訓を得る」
 解ったような、解らないようなことを言う。第一、わたしはなんら教訓なるものを得ていない。
 なんだか本当に酩酊感が増してきた。頬の紅潮と目の充血が自分で判る。わたしは平井次郎バーテンダーにレッドアイを注文した。いや、トマトジュースだけのほうがよかっただろうか。
「では、話を事件に戻そうか」
 利御が新たなグラスホッパーを注文した。

 

第8回

 

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                                      6

 どうやら三井寺はお手上げの状態らしい。標本が実は強化プラスティックでできていただの、吸盤を使って天井を這っただの、大がかりな仕掛けがあってどこからか通路が出てくるに違いないだの、冗談としか思えないアイデアを次々と並べ立てていることからもそのことが窺えた。実際、冗談のつもりなのであろう。
「分からないかい?」
 優位に立った者だけが見せる表情を顔に貼りつけ、利御がグラスを置いた。カクテルはまだ残っている。当然のことだが、ペースが落ちてきている。
「しょうがないね、それじゃあ、話を先に進めようか」
「密室の解明はどうなる?」
「後回しにしよう。このあとの展開を知れば、ひょっとしたら何かひらめくかもしれない。ひらめかないかもしれない」
 そして利御は、警察到着後の様子を語りだした。

 通報後まもなく警察が到着、標本室は途端に慌ただしくなった。昨夜は神秘的な装いを見せていた「蝶の間」も、警察と鑑識がずかずかと上がり込み、手際よく現場検証を始めると、標本は色褪せて見え、単なる奇妙な殺人現場となり果ててしまった。
 捜査の指揮をとるのは一条(いちじょう)という警部補であった。見るからに値が張りそうなスリーピースにロングコート。
「おや、以前にお会いしましたね」
 彼は《麝香》の姿を認めると、口元以外ほとんど顔の筋肉を動かさずに声をかけてきた。

「またあの刑事かい」
 わたしはこの一条という男が好きではない。それはきっと、彼が冷血動物じみているからだろう。見かけだけでなく、中身までもが。
「霜月君の大好きな一条警部補だよ」
「その場にいなくてよかった」
「彼はなかなか優れた警官だよ」
 確かに仕事はできるのかもしれないが。
 わたしは話の続きを促した。

 死亡推定時刻は本日未明、午前二時から三時の間。室内は常に空調が整っているわけだが、これが切られた形跡はない。壁際のスイッチひとつで簡単に操作できるわけではなく、本宅にある機械室の中に操作パネルが取りつけられている。そしてここには鍵がかかっていた。それに第一、極度に温められていたわけではないため、たとえ暖房を止めたとしても、死亡推定時刻に変化はないということである。
 よって、犯人が死亡推定時刻を誤認させてアリバイを作ったなどということはありえない。何せ、昨夜は誰ひとりとしてアリバイはないのだから。
 また、外部から強盗のたぐいが侵入してきたという可能性については、これも否定されている。外壁は高く、さらに警報装置や監視カメラ等、防犯体勢に抜かりはない。
 容疑者である四人はリビングに拘束される形となり、まとめての事情聴取とあいなった。
 四人の関係や集まった目的、本名とハンドルネーム、そして昨夜の行動などをひととおり訊かれ、指紋を採取されたのち、一条警部補は彼らに透明なビニール袋を見せた。壊れた蝶の標本がひとつ封入されている。とても小さな蝶だ。細かに崩れた翅の色は紫に見えた。
「これは、被害者の手に握られていたものです」
「手に?」
 《ルキリア》が聞き返した。
「そうです。しっかりと握り締められていました。ゆえに、このような状態となっているわけですが――」
「ムラサキシジミ、ですな」
 黙ってそれを凝視していた《ヨナクニ》が、ふと言う。
「『蝶の間』――あの標本室にあったものに違いありません」
「確かですか?」
「もちろんです。ひとつだけでなく、他にも何頭か壁や床に留めてあります。特別珍しい種類ではありませんから」
 他の三人も彼の言葉に同意する。言われてみればムラサキシジミだ。大きくても体長二十ミリくらいしかない、小型の蝶である。冬でも、暖かい日になると出てくることがある蝶だが、その特徴は今回の件とは関係ない。
「蝶と一緒に、この紙も針に通されていました」
 一条はもうひとつビニール袋を取り出す。中にあるのは二かける四センチほどの紙で、そこには採取場所と採取年月日、そして「Narathura japonica」すなわちムラサキシジミの学名が記載されていた。
「間違いないですね。ムラサキシジミに」
 《ヨナクニ》が頷く。そして急に目を見開き、一条を見つめた。
「標本を握り締めていた――ということは」
 警部補はいつもの眠たそうな目つきを変えることなく、
「ええ、被害者がいまわの際に遺した手がかりであるかもしれません」
「ダイイング・メッセージ」
 そう《ルキリア》が呟き、はじかれたように彼女が顔を向けたのは――いやに口数の少ない《るーみす》であった。
 《ルキリア》に続いて《ヨナクニ》も、それにきづいたのであろう。驚愕の表情で《るーみす》を見つめた。
 視線の集中砲火を受けた少女は、今にも泣きだしそうに声を震わせ、
「あたし――やってないよ!」
 叫んだ。そして無意識に退く。一歩。
「どういうことですか?」
 事態が理解できていない一条が、誰にともなく問うた。
 答えたのは《麝香》である。
「似ているんですよ。ルーミスシジミとムラサキシジミは」
「ルーミスシジミ? ああ、彼女のハンドルネームが、るーみすでしたね」
「そうです。ルーミスシジミのほうがさらに小型で、翅の裏の色が違うことで見分けがつくのですが」
「だとしたら、どうして被害者はルーミスシジミを握っていなかったのでしょう?」
 一条警部補の視線は、容赦なく《るーみす》に向けられていた。
「たまたま近くにあったのでしょうか」
「いえ、ルーミスシジミは希少種なんですよ。だからそれは、奥の希少標本室にしかなかったはずです。そうですよね?」
 《ヨナクニ》に同意を求めると、彼は「ええ」と答えた。
 一条は得心した様子で、
「なるほど、よく解りました。つまり被害者が告発したかった人物は――」
「あたしじゃありません!」
 絶叫に近かった。見ていて痛ましくなるほどの。
「るーみすさん。――いえ、本名は白條(しろすじ)さんでしたね。実はさきほど鑑識から報告がありまして、凶器となったガラスの彫像、あれからはあなたの指紋が検出されているのですよ。あなたの指紋だけが。これはいったいどういうことでしょう」
「そ、それは――」
 彼女が極度の混乱と恐慌で答えられないので、代わって《麝香》が、
「昨夜、るーみすさんが彫像を手に取ってご覧になったんですよ」
「なるほど、そのときについた指紋だと」
「でしょうね」
「ですが、もうひとつ」
 白手袋に包まれた一条警部補の人差し指が、真っ直ぐに上を向いて伸びる。
「ここで待機していただいている間に、皆さんの靴を調べさせてもらいました。与那国さんに関しては、所有されてるすべての靴に対して。そして、あるひとつの事実が浮かび上がってきました」
 全員が黙り込み、一条の次なる言葉を待った。
「白條さん」
 名を呼ばれ、びくりと身を強張らせる《るーみす》。
「あなたの靴だけ、裏に粉が付着していましたよ」
「粉?」
 聞き返したのは《ヨナクニ》だった。
「粉って――」
「可及的すみやかに成分を分析させたところ、案の定、それは――鱗粉でした」
 皆の口から「ああ」と息が洩れた。
「これがどういうことか、お解りですね? 懸命にぬぐい去ろうとした跡が見られましたが、何粒か、しっかりとこびりついていましたよ。標本室を横切った証拠ですね」
「あたしは――やってない――」
 惚けたように呟く《るーみす》へ、一条は淡々と言い放つ。
「お話は署でお伺いしましょう」
 こうして少女は連れられ、今もなお拘束を受けている。
 《ルキリア》と《麝香》は連絡先を訊かれ、解放された。そうしてこの日は終わった。
 つい昨日の出来事である。

 

第7回

 

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 雑談です。

 連載中の『蝶密室』に、グラスホッパーというカクテルが出てきます。一般的なレシピとしては、ミントリキュール、カカオリキュール、生クリームを同程度の比率でシェイクする感じでしょうか。爽やかなグリーンがまさにバッタをイメージさせる、甘口のカクテルです。
 僕にはお酒を呑む習慣がないのですが、この小説を書いていた当時、グラスホッパー目当てで時々足を運んでいたバーが埼玉にありました。
 スコッチバーなのでウィスキーのほうが専門なのですが、カクテルもリクエストすれば色々と作ってくれて、これが滅法美味い。
 ここのお店のグラスホッパーが絶品で、ミントリキュールはごく少量しか入れない代わりに、ミントの葉を乳鉢で磨り潰して入れてくれるんですね。そのため、色はほぼ白なのですが、ミント風味はしっかりとしていて、これが甘さと絶妙に相まって、それはもう思い出しただけで涎が出てくる逸品でした。作るのに時間がかかるので、混んでるときに注文されると困る、とバーテンダーさんが本音を漏らしたりもしてましたが。

 前述のとおり、そこはスコッチ専門なので、それまでろくに呑んだことのないウィスキーも勧められ、試すようになりました。そうしたら、ウィスキーが好物になってしまったんですね、これが。
 バーのよいところは、自分がお酒に全然詳しくなくても、バーテンダーさんにお任せして、一杯から試せるというところでしょう。僕がいつも頼んでいたのは、マッカランでした。それとたまにグレンリベット。ストレートで呑むことが多かったです。

 僕はビールが大の苦手なので(ついでにワインも)、飲み会に誘われてビールを勧められると大層不機嫌な顔をすると思いますが(笑)、ウィスキーを出されたら落ちつきますのでヨロスク。
 誘わないのが一番です。

 

 

 

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