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駐在妻だったころからもう25年もたつのに
ブログを書いているのは
実家に送った手紙を母が保存してくれていて
私が勝手に送りつけていた(笑)
育児サークルへの『北京通信』
があるからです。
ほんと書くことは記録だし、
これがなければ
ほとんど忘れている当時の生活です。
それでは、
今日は私が北京で3年間お世話になっていた
中国語の先生、張老師について
お話しします。
私は彼女の最後の弟子だったんです。
というのは、私を最後に
チャン先生はパソコンを勉強することになったから。
私が北京をあとにしたのが1998年、
Windows95が出て3年目ですね。
パソコンといっても、まだ使い勝手が悪く、
どんな世界が来るのか
まだわからなかったころです。
私の帰国が決まったときチャン先生は
「あなたを教えたら、もう中国語教師は引退します。
パソコンの学校に入るんです」
とのたまったのです。
先見の明がある方ですよね。
私より一回りぐらい若かったので
今もきっと現役でIT業界で活躍されているのでは?
そんな彼女、
銀座4丁目の真ん中に立たせても
中国人と見えないぐらいおしゃれで、
あか抜けている美人さんでした。
先輩駐在妻さんからの紹介で
中国語の家庭教師として来た彼女。
ほとんど日本語が話せません。
私だって「ニーハオ」だけで来ているのに
どうやって授業をしたらいいか分かりますか?
筆談がある!
最初はほとんどこれでした。
とはいえ
中国語と日本語では違う意味の単語もあるので
3カ月ぐらいは本当に授業が苦痛でした。
授業が分からなすぎて、つらかった。
それから少しずつ
日常でも知っている単語やフレーズが増えていき、
中国語で説明されても
なんとなく分かるようになっていくのです。
チャン先生のご主人は弁護士で
その当時、
庶民はあまり持っていなかった自家用も所有し
マンションも購入し、
生活には全く不自由のなかった方です。
そんな彼女に、
私は聞いたことがあります。
なぜ働くのかと。
答えは
「バカだと思われたくないから。
働いていないと能力がないと思われる。
それが私はいやなんです」。
だからこそ、時代も読み、
新しいパソコンという技術も
身につけようという意欲もあるわけです。
私が住んでいた場所は各国の駐在員の住まいがあり、
多くの中国人の先生が
テニスや中国語、太極拳などを教えるため出入りしていました。
外国人相手の仕事は、おそらく実入りもいいはず。
ただ、駐在員の奥様たちは
生活に支障のない程度の中国語を習得すると
勉強をやめる人が多かったので、
先生としても、
あまりやりがいを感じなかったのかもしれません。
私は中国にいる限り勉強すると決めていたので、
熱心に教えていただきました。
しかーし、
私にとって中国語の勉強はサバイバルのため
始めたもの。
北京に来て最初に近所に買い物に行き
目指したものが買えなかった
強烈な原体験があるからです。
言葉が分からないので紙に単語を書いて見せると
没有!!(ないよ)
の一言だけが
顔色一つ変えずに返ってくる。
なんだ、この人たちは!
売る気もないし、やる気もない。
怒りが、中国語を学ぶ原点でした。
言いたいことが言えるようになりたい、
と思ったわけです。
(注:現在は
商売っ気ある人も多くなったと思います。)
帰国後もチャン先生と文通が続きましたが、
彼女、私の手紙を赤ペン添削して返してきました。(笑)
ありがたいな~と思いつつ、
日本に帰ってからは中国語を使う場所がなくなり
勉強の意味が見いだせませんでした。
せっかく身につけたのにもったいないと思いましたが、
悔しさが原動力だったので、どうにもなりません。
彼女と一緒に中国語検定の勉強もしたなあ。
懐かしいなあと思いつつも、
あれから20年以上たってしまいました。
語学力はほとんどなくなってしまいましたが、
語学の勘だけは残っているので
辞書が引けたり、
場面から内容はなんとなく把握できます。
テープ起こしの仕事でときどき出てくる簡単な中国語も
書き起こせたのは3年間の効果でしょう。
チャン先生、お元気にしていらっしゃるかな……。
彼女のように向上心の強い人が多い、
活力あふれる国だからこそ
今の中国の成長があると思っています。
子育てが一段落した
アラフィフ・アラカンの皆さんも
人生100年時代、まだまだ輝けます。
一緒に夢中になれることを探しませんか。
一人で見つけられない方は、ぜひご相談くださいね。
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