グレゴール・ザムザはある朝けったいな夢から目が覚めてみたら,ベッドん中で馬鹿でかい虫に変わってる自分に気がついた。(フランツ・カフカ『大阪弁で読む「変身」』より)

 

 2025年2月13日付朝日新聞夕刊に「カフカ名著 大阪弁に『変身』」と題する記事が掲載されている。カフカのあの不条理小説『変身』を大阪弁で訳した書物らしい。訳者は西田岳峰(たかね)さんという大阪府内の会社に勤める会社員で,仕事の合間の隙間時間を使って2年半かけて訳したとのこと。

 手許にあった高橋義孝訳の新潮文庫版で同じ箇所を見ると,次のように訳されている。

「ある朝,グレゴール・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと,自分が寝床の中で一匹の巨大な毒虫に変わっているのを発見した。」

 カフカのこの小説に関してはいろいろな解釈があるが,西田さんのコンセプトは『変身』をドタバタコメディーとして読むというもの。私は翻訳の作業とは原著者と読者との間をただ橋渡しするだけではなく,訳文を通して翻訳者の感性なり,思想なりが表現されるものであると思っているので,これはこれでいいのだろうと思う。高橋訳で「これは一体どうしたことだ」と訳してある箇所の西田訳が「おれ,どないしてん?」となっているところなど,なかなか面白そうだ。

 西田さんは大阪出身とのことだが,大阪人は大阪の文化,特に食べ物や言葉にこだわりを持っている人が他の地域出身の人に比べて多いのではないだろうか。私の若い頃からの友人で今でも付き合いのある大阪出身の人物が2人いるのだが,彼らと話をしていると,今の吉本の芸人の話す大阪弁は「本来の大阪弁」ではないらしい。私は大阪の中学,高校に通っていたので大阪出身ではあるが,それほど大阪文化にこだわりがないのでいつも彼らの話を「そうでっか」と思って聞いてはいるが…。(笑)

 因みに,上の新潮文庫版の奥付を見ると初版が「昭和27年7月28日発行」となっていて,私の持っているのは「昭和42年2月28日 23刷」で,定価60円である。西田版の定価は1430円。最近,読みもしない(だろう)本を買いすぎているので,図書館で予約しようとしたら置いていなかった。しかたがない。Amazonでポチッとクリックするか。

 

 

 stewardship

 

 手元の英和辞典でstewardshipを調べると「管理」という意味が掲載されている。言葉の成り立ちとしては,「(客船,旅客列車,旅客機の)旅客係」という意味のstewardに「状態,性質」を表すshipをつけた単語であるが,社会学者の橋爪大三郎によると,この単語には宗教的な意味が含まれているとのことである。それについて氏の『世界がわかる宗教社会学入門』(筑摩書房)に次のようなエピソードが紹介されているので,以下にその部分を引用してみる。

 

 「日本人は宗教を軽蔑しているくせに,宗教について無知です。滑稽なことです。学校でもどこでも,宗教のことを学ぶチャンスがないからなのですが,何とかすべきです。こんなことがありました。私の友人のところに,霞ヶ関から深夜電話がかかってきました。『地球環境の国際会議で,条約の案文にstewardshipと書いてあるけれど,何のことかよくわからない』というのです。困った役人は,ロンドンから本省に電話し,本省でも誰もわからなかったので,とうとう友人のところに電話がかかってきたのです。stewardshipは『管理責任』と訳しますが,神が世界を創造したあと,その管理を人間に任せたという聖書の記事が背景になっています。要するに,人間が自由に自然を利用・改造していい(だから責任もある)という考えですが,ここから品種改良や捕鯨禁止や生物の多様性保護といった考え方が出てきます。驚くべきなのは,日本の一流官庁や国際交渉の担当者が,欧米社会の行動の根底にある哲学・宗教について,基本的なことを知らないという点です。日本人は,人間も自然の一部と考えるのでstewardshipの考え方はなじまない,案文から外してくれ,と交渉することも考えつきませんでした。」(pp.18-19)

 

 橋爪大三郎のこの著書は高校生レベルを対象にした世界の宗教についての概説書であるが,上の引用からも分かるように私たち日本人は世界の宗教についてよく知らないことが多いように思われる。もちろん,何らかの宗教を信仰しなければならないということはないが,パレスチナ問題を見ても分かるように,宗教的対立が世界の抗争の根底にあることも随所に見られるわけで,宗教の問題を無視して世界情勢を理解することは不可能ではないだろうか。

 

 ところで,ドナルド・トランプはプロテスタントらしいのだが,彼の辞書にはstewardshipという言葉は存在しないのだろうか?

 

 

月に2回~3回ずつ観た映画の短評を掲載することにしました。

評価は5点満点。

★が1点。☆が0.5点です。

 

 

1. 「ミッシング」(2024年 日本)

監督:吉田恵輔

キャスト:石原さとみ / 青木崇高 / 森優作           

評価:★★★★             

<短評>

6歳の娘が誘拐され,夫婦がその行方を捜すプロセスを描いた映画。母親は時として常軌を逸した行動に出るほど追いつめられているが,父親は比較的冷静。その夫婦のあり方,さらにその行方不明事件を報道する地方TV局員との交流,SNSによる母親への誹謗中傷など様々なことが描かれているが,それらが散漫にならないようにまとめられている。石原さとみの熱演とそれを受け止める青木崇高,森優作の冷静な演技が見物。

 

 

2. 「その瞳に映るのは」(2022年 デンマーク)     

監督:オーレ・ボールネダル      

キャスト:バートラム・ビスゴ・エネボルドセン / エスター・バーチ            

評価:★★★★

<短評>          

史実に基づく映画。1945年3月,ナチス占領下のコペンハーゲン。イギリス空軍によるコペンハーゲンの中心部にあるゲシュタポ指令部(シェルハウス)空爆作戦(「カルタゴ作戦」)が失敗して近くの小学校を誤爆。そこに至るまでの様々な人たちの姿を描いた群像劇であるとともに誤爆直後の混乱を描いた作品。ラストの映像が秀逸なので,★1つ追加して4点。

 

 

3. 「ザ・メニュー」(2022年 アメリカ)  

監督:マーク・マイロッド          

キャスト:レイク・ファインズ / アニヤ・テイラー=ジョイ            

評価:★★★   

<短評>

富裕層しか入店できない孤島にある超高級レストランが舞台。シェフが「食べるのではなく,味わってください」と言うが,これがテーマ。その夜の客はカネはあるが,料理など味わえない人間ばかり。ただ,そのテーマを描くためにこの展開は必要なのか?

感想は「大山鳴動してネズミ一匹」

 

4. 「騙し絵の牙」(2021年 日本)            

監督:吉田大八  

キャスト:大泉洋 / 松岡茉優         

評価:★★★☆

<短評>

「映画.com」の文章を借りると,「出版業界を舞台に、廃刊の危機に立たされた雑誌編集長が、裏切りや陰謀が渦巻く中、起死回生のために大胆な奇策に打って出る姿を描いた」作品。終盤,2転,3転のドンデン返しがあって,それなりに楽しめるが,よくできたテレビドラマといったところ。「古くて陳腐なものVS新しくて面白いもの」という構図で物語が展開されており,その構図が単調すぎる。

仕事はカネを稼ぐための手段というよりも「遊び」に近いものだった。(森永卓郎)

 

 私は寝室に14インチのテレビを置いている。そのテレビはあまり見ることはないのだが,冬は目が覚めても寒くてすぐに寝床から出るのが億劫になり,テレビのスイッチを入れて1時間ほど時間を過ごしてから起き出すのが習慣化してしまった。で,日曜日の朝はたいてい橋下徹が司会をしているフジテレビの報道番組を見るのだが,8日の朝はテレビのスイッチを入れると同時間帯のTBSの「がっちりマンデー」が放映されていて,内容が先日亡くなられた森永卓郎さんの追悼番組だったのでそのまま見ることにした。森永さんはこの番組のレギュラーだったようで過去の映像を振り返りながら司会の加藤浩次と進藤晶子があれこれお話しをするという構成になっていて,番組の最後に森永さんの仕事に対する姿勢として上の「ことば」が紹介されていた。

 森永さんが亡くなったのは1月28日だが,SNSでは今でもその死を惜しむ声が多く見られる。たしかに森永さんのガンが発見されてからのこの1年ほどの闘病生活中に執筆された本は彼の遺言のような内容で(といっても,私は全てを読んだわけではないが),それに共感する人が大勢いるのだろう。ただ,私は森永さんが出演するラジオ番組をよく聴いていたリスナーの一人として,上の引用に表されているような仕事に対する彼のスタンスにハッとするとともに,少し反省もさせられたのである。そうだよね。たしかに彼は仕事を遊びとして楽しんでいた。だから,どんなにバカなように見えることであっても全力投球できたのだろう。だとすれば,彼の壮絶な戦いのように見えた最後の一年の執筆にかける思いにもどこか遊びの感覚があったのではないだろうか。ただ一点,これは決定的なことだが,仕事で遊ぶには相当な才覚が必要とされる。私にはどう見てもその才覚がないことは確かだが,残りの人生,肩の力を抜いてやりたいことだけをやっていこう。

 

森永卓郎氏のご冥福をお祈りします。合掌。

定年って生前葬だな。(内館牧子『終わった人』より)

 

 内館牧子のこの小説は映画化もされており,この「ことば」を聞いたことがある人も多いのではないだろうか。物語は定年を迎えたエリートサラリーマンがその後の人生において自分が打ち込めることが見つからず,スポーツジムに通ったり,見たくもない映画を見に出かけたり,あれこれ趣味を見つけようとするのだが,打ち込めるものが何も見つからず…,という話である。結局,彼にとって仕事が人生の全てであり,それがなくなった途端「終わった人」になってしまうのである。

 多くの人たちは人生のかなりの時間を仕事に費やす。だから,仕事についてどんな考えを持つかは,生きていく上でとても重要なことである。「仕事が生きがい」と言う人も大勢いることだろう。それはそれで結構なことである。しかし,私は,高齢者になって仕事をやめた現在に至るまで,「仕事だけが自分の人生だ」というマッチョな考えを持ったことは一度もない。もちろん,自分が関わった仕事に対しては,自分なりに全力を尽くしたとは思っているし,仕事の瞬間瞬間に喜びを感じたこともある。しかし,その喜びがなくなったら人生が終わってしまうなどと思ったことはないのである。概ね,仕事は私にとって時間をカネに変える行為以上のものではなかったのだと思う。

 もちろん,仕事に人生の意味を求めることを悪いと言うつもりはない。しかし,仕事が与えてくれる意味って何なのだろう?誰か他者の役に立つことをしているという意識が持てるということなのだろうか。それなら,ボランティア活動でよいではないか。いや,生きていかなくてはならない以上,お金を稼いだ上で他者の役に立つことをしているという意識が持てるということではないか。そうだとすれば,エッセンシャル・ワーカーと言われる人たちの賃金は低すぎないか。「仕事」について考え出すと私はいつも困難に逢着してしまい,結局,この世界は仕事を中心に回っており,仕事は金を稼ぐ手段であるということに収斂してしまうのだ。私たちが,仕事が与えてくれていると思っている意味は,多くの場合,組織が与えてくれる意味に寄り添っているに過ぎないのではないだろうか。おそらくこの意見に賛成してくれる人は少ないだろうが,その程度の冷めた目線で考えることも必要ではないだろうか。これが私のスタンスである。