監督:クリストファー・ノーラン

キャスト

 ガイ・ピアース(レナード・シェルビー)

 キャリー=アン・モス(ナタリー)

 ジョー・パントリアーノ(テディ)

 スティーブン・トボロウスキー(サミー)

 

私はどうやらクリストファー・ノーランという映像作家を誤解していたようだ。というより,『ダンケルク』のような一般受けする作品しか観ていなかったのだろう。『メメント』を観るとそう思わざるを得ないのだ。この映画は非常に斬新な映像構成によって展開されるのだが,その斬新さは彼の発する強いメッセージ性に規定されているのである。

 

 観客は映画が始まってしばらくの間ある種の混乱状態に陥るのだが,それはカラーパートの映像と,モノクロームの映像とが脈絡なく交互に映し出されることによる。しかし,しばらくしてこの物語の主人公であるレナードは約10分間しか記憶を保てない前向性健忘という記憶障害を患っていることが分かる。そして,それは彼の妻が自宅で暴漢に襲われて殺害され,その時自分も鉄パイプで頭部を殴られたためであることが分かってくる。彼は復讐のため妻を殺害した人物を追っているのである。

 では,上に書いたカラー映像の部分と,モノクロームの部分とはどのような関係になっているのか。この点がこの作品の映像構成の斬新さなのであるが,カラーパートでは物語が現在から過去に遡っていき,モノクロームのパートは過去から現在へと時間が進行しているのである。そして,両者は最後に繫がる。このような映像構成の映画が過去にあっただろうか。少なくとも私は知らない。もっとも,私はいわゆる映画ファンと比べてそれほど多くの作品を観ているわけではないが…。

 カラー映像のパートで物語は徐々に過去に遡っていくのだが,その際重要な役割を演じるのは記録である。レナードは自分が遭遇した人物や建物など,必要と思われるものをポラロイドカメラに収め,写真の余白にその人物や建物についてのコメントを記録する。さらには最も確実な記録の保存法として自分の体に入れ墨で記録する。10分程度しか記憶を保てないレナードにとってはその記録が唯一の手がかりなのである。そして,観客はその記録によって作られるレナードの時間軸の中に引き込まれ,レナードとともに彼の妻を殺害した人物を追いかける。

 一方,モノクロームの部分で,レナードは前向性健忘になる以前,保険会社の調査員の仕事をしていたのだが,その当時,調査対象であったサミーという58歳の半引退の会計士についての過去のエピソードを語るシーンがある。サミーは事故で頭部を損傷し,現在のレナードと同じ前向性健忘にかかっているのだが,保険金を騙し取るための演技ではないかとレナードは疑っているのである。ある日,レナードはサミーの妻から夫が本当に前向性健忘なのかどうかが知りたいという相談を受ける。彼女は心の底からサミーを愛し,できれば以前のサミーに戻って欲しいと思っているのだ。彼女は重い糖尿病を患っており,サミーにインシュリンの注射をしてもらっているのである。ある日,彼女は夫が本当に前向性健忘なのかどうかを試すため,インシュリンの注射をしてもらったあと,15分後,再度サミーに注射をして欲しいと頼む。サミーは優しく注射をする。それを繰り返した挙げ句サミーの妻は死亡する。サミーの前向性健忘は本当だったのだ。

 この作品でレナード以外に重要な役割を果たすのが,上に述べたサミーとテディ,ナタリーだ。特に観客は,カラー映像のパートでレナードにしつこくつきまとうテディにラストで「アッ」と驚かされる。

 映画の序盤,テディとレナードが次のような会話をするシーンがある。

テディ「メモだけの人生は無理だ。メモなど当てにならん。」

レナード「記憶もだ。記憶の方がもっと当てにならん。…記憶は思い込みだ。」

記憶と記録のどちらが人生にとって重要であるかを話し合っているシーンなのだが,このシーンの意味はのちに分かることになる。

 

(以下,一部ネタバレを含みます)

 レナードは自分の「記録」を頼りにどんどん過去に遡っていくのだが,彼の妻の殺害事件についての警察の調書の一部が欠損していることが判明する。実は,この部分には重要なことが書かれていたのだが,その部分が不明であることにより,レナードの犯人追及には偽りの部分があることを観客は知るのである。ここにおいて観客はレナードの記録によって作られていた時間軸の世界の外に出るのだが,端緒における誤りが全く別の世界を作り上げていたのである。目の前にある記録は本当に信頼に足るものなのか?クリストファー・ノーランはそのように問い,記録を改ざんすることの反倫理性というメッセージを観客に突きつけるのだ。考えてみれば,私たちの国においても数年前に記録の改ざんという反倫理的なことが行われたではないか。しかも,私たち国民は未だにそれによって作られた空間の中に閉じ込められたままではないのか。

 話が若干横道に逸れたかもしれないが,クリストファー・ノーランはのちに『テネット』において,『メメント』で発したメッセージを地球というもっと大きな規模で伝えることになる。そこでは現実に時間が逆行する。『メメント』も『テネット』も難解な映画だと言われているが,彼のメッセージを伝えるにはこの上ない映像構成であり,それが見事に成功していると言わざるをえないであろう。映画評論家の町山智浩は「なぜ映画を観るのか?」と問い,「観る前と観た後で別の人間になるためだ」と答えている。ひょっとしたらクリストファー・ノーランは天才なのか。少なくとも,ものすごく頭のいい映像作家であることは確かだ。

 

監督:石井裕也

キャスト:

妻夫木聡(浩介)

原田美枝子(玲子)

池松壮亮(俊平)

長塚京三(克明)

 

 映画のジャンルの一つに「難病もの」というのがあると思うが,「難病もの」はたいてい「難病+α」になっていて,αのところに「恋愛」がくると,私の場合,パスするのが正解だと思っている。では,αが「家族」だったらどうか。

 国語辞典によると,「絆」とは,「絶ちがたい人と人との結びつき」という意味だそうだが,そういう意味では,その代表的なものが「家族」だろう。「難病+家族」…。難病の家族を抱えた人たちの絆はどのような展開を見せるのだろうか。

 

 若菜家の家族構成は,父克明,母玲子,長男浩介,次男俊平の4人である。克明は小さい会社を経営しているが,あまりうまくいっていない様子だ。浩介はサラリーマンで妻の深雪(黒川芽以)は妊娠3ヶ月。俊平は大学生だが留年している。

 さて,物語だが,最近物忘れがひどくなり,意味不明なことを言い出す玲子を心配した克明と浩介が,玲子を病院に連れて行き,検査をした結果,医師から脳腫瘍,それも手のほどこしようのない状態で,余命1週間ほどということを宣告される。こんな時最も頼りになるはずの克明は動揺するだけで,どうしてよいかわからない。浩介も動揺してはいるが,どのように対処すればよいかということを考え,いろいろ思い悩む。俊平に電話をして留守番電話に事態の深刻さを伝えてはいるが,なかなか折り返しの電話をしてこない。やっと連絡がついて姿を現しても,無責任なことを言って浩介をいらいらさせる。こんな時,テレビドラマなどではお互いに大声での非難の応酬になったり,取っ組み合いのケンカになったりするのだが,この映画ではそうはならない。さらに,病状が進行している玲子は今までの生活の中でたまっていた不満を吐き出すかのように夫を非難したりする。かなり絶望的な状況に加えて,玲子にはサラ金に300万円ほどの借金があることが判明し,克明の事業もうまくいっておらず,多額の借金を抱えている。やがて,玲子を入院させておくことが不可能になった病院から退院することを勧められる。浩介は納得がいかないが,母親の診断書やレントゲン写真などをもらって,俊平と手分けして母親を受け入れてくれる病院を探し回ることになり,物語はこのあたりから新たな展開を見ることになるのである。

 

 見終わったあと,とてもしっくりくる映画であった。それは,一言で言えば,家族の絆を等身大に描いているからだろう。妻夫木聡の抑えた演技はそれをよく表していたし,池松壮亮は,お調子者だけれど母親を想う俊平の気持ちを見事に演じていた。長塚京三演じる克明は少し頼りない父親ではあるが,だからこそ彼の家族への愛情の表し方にリアリティを感じるのである。難病ものというと,必要以上に泣かせようとしたり,大声で怒鳴り合ったりしながら,あまりよく分からない理由で絆や愛情を強調するきらいがあるが,この映画はそういったことを一切排除することによって,家族としての絆のあり方に迫っているのである。家族の誰かが難病になっても,普通,他の家族にはそれぞれの生活があり,それとどのように折り合いをつけながら難病の家族に向き合うかが問題であるはずだ。そのプロセスをちょっとしたシーンの積み重ねによって描くことで,この映画は成功したと言えるだろう。

 

*以前Yahoo!ブログに掲載した記事の再掲載です。

今回のAは以下の文です。

 

 なにげなくこの本を読みにかかり,正午から午後,午後から黄昏,トイレに行くのも惜しく,お茶もおちおち飲めず,一気通貫で読んでしまった。これほどの傑作がフルイにかからないなんて,世の中どうかしている。

 その構築ぶりの遠大,精妙,技巧の卓抜,巧緻。読んで脱帽した。とうとう国産でもこれくらいの作品ができるようになったかと,感銘が深い。

 私が,もし直木賞の選考委員なら,一も二もなくコレしかないと力説する。諸君,今からでも遅くない。ご一読あれ。

 どんな砂漠でも,どこかに水の湧く場所はあるものだとこれを読んで感じ入らせられる。

 

 

 少々長い引用になってしまったが,今回の引用は檜山良昭著『スターリン暗殺計画』(徳間書店)の帯に書かれている開高健による推薦文である。元々は朝日新聞の「日記から」に掲載された文章であるらしい。本の奥付を見ると「昭和53年10月10日 第1刷」となっている。なんと,約43年前に発行された本で,これほどまで絶賛されると檜山良昭も著者冥利に尽きるのではないだろうか。

 さて,今回なぜ開高健の推薦文を引用したかというと,実は私も当時読んだ覚えがあり,最近,たまたま書棚の片隅に置いてあったのを手にとってみたところ上の推薦文が目に留まったからである。当時読んだときには開高健ほどではないとしても,ワクワクしながら読んだ覚えがあるのだが,(幸いなことに?)細部をほとんど忘れていたので再読してみようという気になったのである。話の内容をひと言で言うと,昭和14年の日本陸軍によるスターリン暗殺計画とその挫折を描いているのだが,歴史的事実から題材をとったミステリーなのである。したがって,著者が言うように,「真実と虚構が渾然一体」となっており,「スターリン暗殺計画という基本的枠組みは真実であるけれども,部分的に虚構化が加えられている」のである。しかも,どこが真実でどこが虚構なのかが読者には分からないというところもまたミステリーなのだ。

 著者はおびただしい文献,資料を読み,その一部を引用するとともに,当時の関係者たちへのインタビューから得られる証言によってストーリーを組み立てていくという独特な展開形式を採用しており,これは一見地味な方法ではあるが,この形式こそがこの作品を魅力的なものにしているのである。

 ソ連の内務人民委員部の極東地区長官であったゲンリッヒ・サモイロヴィッチ・リュシコフが昭和13年6月13日の早朝満州国に亡命する事件から始まり,2度のスターリン暗殺計画を挫折に導いた人物が誰であったかの推測に終わる息もつかせぬ展開は,開高健ではないが,「ご一読あれ」と言いたくなる作品である。

 

* この作品はその後文庫化もされたが,現在では絶版になっているようだ。ただ,電子復刻版で読むことはできるようである。

 

 今回のAは以下の一文です。

 

 今年夏に予定される東京オリンピック・パラリンピックについてどうすべきか聞きました。「開催すべきだ」と答えた人のうち、最も多かったのは「無観客」の20%で、「中止すべきだ」は37%でした。

 

 上の引用は先日行われたJNNの世論調査の結果を報じたネットでの配信記事の一部である。

 

全文は以下を参照。

 

http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye4264597.htm?1620612944211

 

 この調査では菅内閣支持率,新型コロナウイルスの感染防止に向けた政府のこれまでの取り組み,緊急事態宣言についての評価,自粛生活,ワクチン接種,憲法改正などについて尋ねており,上の引用はその中の一項目として今夏開催予定の東京オリンピック・パラリンピックについてのアンケート結果について述べた部分である。

 私はこれを読んで「?」と思ったのだが,それは,「『中止すべきだ』は37%でした」の部分である。TVなどを見ていると,東京オリンピック・パラリンピックの開催についてのアンケートでは,「延期すべきだ」と「中止すべきだ」を合わせるとほぼ70パーセントになると言われているので,「『中止すべきだ』は37%でした」とだけ報じられると,残りの63%は「開催賛成」と読めるからである。率直に言って,この報道の仕方は言葉足らずではないだろうか。もっとも,同時に配信されている動画でのニュースでは次のように報道されている。

 

・通常通り開催すべきだ  2%

・観客数を制限して開催すべきだ  13%

・無観客で開催すべきだ  20%

・延期すべきだ  28%

・中止すべきだ  37%

 

 この項目を見ると,上の3つには「開催すべきだ」という文言がついているのに対し,下の2つは「開催すべきではない」と考えている人たちの回答であるが,「開催すべきではない」という文言はついていない。もちろん,「延期」と「中止」は内容が異なるので,そのような文言を入れることができないのはわかるが,配信記事のように「開催すべきだ」と「中止すべきだ」を並べて報じれば,「開催賛成」63%,「中止」37%と解される可能性は高いと言わざるを得ないであろう。したがって,アンケート結果を正確に報道するとすれば,次のように記述するべきではないだろうか。

 

「今年夏に予定されている東京オリンピック・パラリンピックについてどうすべきか聞きました。『開催すべきだ』と答えた人は35%で,『開催すべきでない』と考えている人は65%でした。『開催すべきだ』と答えた人のうち、最も多かったのは『無観客』の20%で,『開催すべきでない』と考えている人のうち,『延期すべきだ』は28%,『中止すべきだ』は37%でした。」

 

 この記事を書いた記者は「同時配信した動画ニュースでは内訳を報じているのだから,そちらを見ろ」とでも言いたいのかもしれないが,そうだとすれば,わざわざこんな誤解を招くような記事を掲載しないで動画だけを配信すればよいのではないだろうか。もちろん,耳の不自由な人たちにもニュースを伝える必要がある以上,文章での配信が必要であることは理解できるが,それならば,もっと正確な文章で伝えてもらいたい。これは報道に対する私たちの信頼に関わる問題である。

 読んだ本や雑誌,新聞,映画のセリフなど,印象に残った言葉をQuote From Aとして,自分の感想などを時々書いてみます。Aは引用した言葉のことです。第1回目のAは以下の文章です。

 

 「芸術やあらゆる表現において,私には人にどれだけ『古臭い』とか『保守的』とか言われようとも,どうしても考えを変えられない原則があります。それは『極私的なるものをとことん突き詰めていった地平には,必ず普遍的なるものが見え隠れしている』という原則です。言い換えると,個別的な,世界に一つしかないものを,つまりそのほかのものとの代え難さや希少性や一回性をとことん追求すれば,そこには世界の全体と共有できる地平が見えてくるという,客観的法則というよりむしろ,『精神態度』に近いものです。そこに到達するはずだという,誤解を恐れずに言えば『信仰』に近い思いがあるということです。」(岡田憲治『言葉が足りないとサルになる』亜紀書房 p.155より)

 

 

 まず,私は著者が本書を通じて主張している内容には概ね賛成であるということはひと言言っておきたい。

 

  さて,上に引用した文は写真撮影を趣味としている著者が友人のプロ・カメラマンと立ち上げた写真サークル―作品を持ち寄って論評・講評するサークル―に,著者もプロの友人も「やられたあ」という感想をもつほどの素晴らしい写真を提出した,ある20代の女性メンバー(著者はこの女性を「不思議ちゃん」と読んでいる)について語っている文章の一部である。その後も不思議ちゃんは天才ではないかと思われるほどの写真を持ってくるのだが,著者によれば,論評・講評の段になってその作品の意図などを聞くと,結局何が言いたいのかさっぱりわからないとのことなのである。たとえば,公園にいるおばあさんを撮った写真では,「…うーん,何かなぁ,これって感じ?」,「ジ・オバアチャン!みたいな感じ?」といった調子なのである。そこから著者は彼女の写真がどんどんダメになっていったと述べ,上の引用文のようにつぶやくのである。著者によれば,「感じたものはそのままでは感じたものにすぎない」のであり,彼女の写真がどんどんわけのわからないものになっていってしまったのは,彼女が感じたことを言い表す言葉を持っていないからであると言うのである。

 タイトルからも分かるように,この本は「言葉」の持つことの意味にについて述べられた書物であり,上の引用文も「言葉と芸術」という節の中に収められている文章である。したがって,著者が,不思議ちゃんが自分の作品についての言葉を持っていないことを基準にして彼女の作品を評価したという姿勢も理解できないではない。しかし,そうだとすれば一つ疑問が残るのだ。つまり,著者は不思議ちゃんの作品を初めて見たときになぜ「やられたあ」という感想を持ったのだろうか,ということである。少なくとも本書にはそのことについての説明はないのである。私は「極私的なるものをとことん突き詰めていった地平には,必ず普遍的なるものが見え隠れしている」という著者の考えには概ね賛成であるが,それは必ず言語化されなければならないものなのだろうか?著者は「センス」とか「感性」という言葉でごまかしてはいけないと言う。しかし,私は芸術においては「センス」とか「感性」と言われるものがその人の才能だと思うので,創作者が作品についての言語を持っていないからという理由で,作品の価値が低下するとは言えないのではないかと思うのである。創作者にとってはいわゆる「直感」によって生み出された作品が「普遍的なるもの」に通じていることもあるはずであり,だからこそ,著者は最初不思議ちゃんの写真に「やられたあ」という感想を持ったのではないのだろうか。作品を言語によって表現するのは批評家の仕事であって,創作者の仕事ではないと私には思われるのだが…。ただ,では文芸はどうか,映画はどうか…と問われると,「う~ん」と考え込んではしまうが。