**************************************

 もう40年近く前になると思いますが,「酒」をテーマにして書かれた古今東西の傑作を,吉行淳之介がアンソロジーとしてまとめた書物が『酔っぱらい読本』というタイトルで出版され,それの「弐」を読んでいたときに出会ったのが,唐の詩人,于武陵の『勧酒』という詩で,井伏鱒二がそれを訳していました。

    

          勧君金屈巵 (君に勧む金屈卮)
    満酌不須辞 (満酌辞するを須いず)
    花発多風雨 (花発けば風雨多し)
    人生足別離 (人生別離足る)

 

  井伏訳は,次のようになっています。

    コノサカズキヲ受ケテクレ

    ドウゾナミナミツガシテオクレ

         ハナニアラシノタトヘモアルゾ

    「サヨナラ」ダケガ人生ダ

 

 この詩の最後の1行がこのブログのタイトルです。もっとも,「人生足別離」は「人生は別れに満ちている」という意味なので,「『サヨナラ』ダケガ人生ダ」は,井伏鱒二による意図的な誤訳に近い意訳とも言えそうですが,漢文の素養など全くない私にとっては,「まあいいじゃないか」ということで,井伏訳が気にいっております。要するに,「花が咲けば風が吹き雨が降るように,人生には別れがつきものだから,今,この酒を酌み交わしている時を大切にしようよ」という意味ですね。

 

 因みに,『酔っぱらい読本・弐』はなかなか面白い本で,たとえば,山口瞳の「『ドライ・マルチニ』論争」という小文では,ドライ・マルチニ(ドライ・マティーニ)の飲み方について,山口瞳の主張は,オリーブを取り出して,これを口に含み,楊子をカウンターに置いて素早く飲むということなのですが,その証拠として,ビリー・ワイルダー監督の映画『アパートの鍵貸します』の中で,ジャック・レモンがそのような飲み方をしていたと書いていたのにも思わず笑ってしまいました。

**************************************

 

 上の一文は2016年5月1日にYahoo!ブログにアップした記事です(Yahoo!ブログでは「人生足別離」をブログのタイトルにしていました)。じつは私がブログを始めたのがこの日で,したがって,これは私がブログで初めて書いた記事です。あれから丸5年の年月が経ちました。5年という年月は短いようですが,考えてみれば,その5年の中の2年弱の間,個人的な事情で関西に居住し,また関東に戻ってくるという少々気ぜわしいことや,昨年の2月からは新型コロナウイルスの蔓延で自粛生活を強いられたりしており,平凡な私の人生にもそれなりにいろいろと変化はあるようです。

 また,ブログと言えば,2019年にはYahoo!が突然ブログサービスを停止したために,現在のアメブロでブログを書くことにしたものの,記事をアップする頻度は激減してしまいました。もっとも,Yahoo!時代もせいぜい月に10~15本程度ではあったのですが…。これは自分の主な関心がブログを書くことから別の方向へと変わったためで,そのためブログをやめようかと思ったりもしたのですが,せっかく始めたことなので,少し趣を変えて続けることにしました。映画もCS放送などで観てはいて,その感想文も書いたりしているのですが,なかなかうまく書けず途中まで書いてそのまま放置している作品も数本あります。したがって,今後は映画の感想文については本当に書きたいと思う作品だけに限定して書くことにしました。最近観た作品の中ではクリストファー・ノーラン監督の『TENET テネット』が最も気になっています。いずれ感想文を書きたいと思っていますが,いつになることやら…。

 ところで,上に挙げた『勧酒』ですが,井伏訳の最後の2行が川島雄三の墓碑に刻んであるとか,寺山修司の詩「さよならだけが人生ならば…」などのおかげで,自分の中では最後の2行だけが一人歩きしているのですが,この詩はそのタイトル通り,酒を酌み交わしている相手に「まあ,飲めよ」と言っているのであって,後半の2行は酒を勧めるための口実ですね。(笑)ひょっとしたら,相手は「もうこれ以上飲めないよ」と言っているのかもしれません。いずれにしても,二人とも相当酔っ払っている状態でしょうね。しかし,そこで後半の2行が出てくるとすれば,やっぱり粋だなと思ってしまいますね。最近,TVを見ていると,コロナの影響で路上飲みなどをしている若者の姿が映し出されたりしますが,「そんな野暮な飲み方をしてないで,家に帰って『酔っぱらい読本』でも読みながら一人で飲むのも楽しいよ」と言ってやりたくなりますが,「うるせー,ジジイ」などと言われるのがオチで,まあ,ムダなことでしょうね。(笑)

 

監督:若松節朗

キャスト:

 佐藤浩市(伊崎利夫)

 渡辺謙(吉田昌郎) 

 佐野史郎(内閣総理大臣)

 安田成美(浅野真理)

 

************************************

2011年3月11日午後2時46分。マグニチュード9.0、最大震度7という日本の観測史上最大の東日本大震災が発生した。太平洋から到達した想定外の大津波は福島第一原発(イチエフ)を襲う。内部に残り戦い続けたのは地元出身の作業員たち。外部と遮断されたイチエフ内では制御不能となった原発の暴走を止めるため、いまだ人類が経験したことのない世界初となる作戦が準備されていた。それは人の手でやるしかない命がけの作業。同じころ、官邸内では東日本壊滅のシミュレーションが行われていた。福島第一原発を放棄した場合、被害範囲は東京を含む半径250km。避難対象人口は約5,000万人。それは東日本壊滅を意味していた。避難所に残した家族を想いながら、作業員たちは戦いへと突き進む――。(「シネマ・カフェ」より)

************************************

 

 今年は福島第一原発事故から10年目にあたるが,先日,テレビの地上波で本作をノーカットで放映していたので,鑑賞してみた。映画を見終わった時にふと歴史家のE・H・カーがその著『歴史とは何か』の中で述べている言葉,「歴史とは…現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのであります」という言葉を思い出した。カーはまた,「歴史的事実とは何か」と問い,「事実というのは,歴史家が事実に呼びかけた時にだけ語るものなのです」とも述べている。

 

 もちろん,映像作家は歴史家ではない。しかし,描かれている内容が過去の事実に基づいた作品である以上,私たち観客は福島第一原発事故について,若松監督がその事実にどのような呼びかけをし,その事実とどのような対話をしたのかという視点を持つ必要があるだろう。

 映画のエンドクレジットで次のように述べられていた。

 「海外メディアは暴走する原子炉と命がけで戦った人たちを『Fukushima 50(フクシマフィフティ)』と名付けた。」

 この映画における若松監督の視線が凝縮されたクレジットである。あの未曽有の事故のことを知らない日本国民はまずいないだろうし,福島の土地と住民,さらには私たちの国土を守るために命がけで戦った人たちのおかげで東日本壊滅の危機が回避されたということも多くの人たちが知るところであろう。しかし,では,あの当時現場で何が起こっていたのかについて私たちはどれだけのことを知っているだろうか? この映画はその部分に突き進んでいき,彼らの戦いの姿を描いているのである。もちろん,映画は作り物であり,そこに描かれている彼らの使命感や思いは監督の視線を通じて描かれたものではある。しかし,私たち観客が,あの圧倒的に困難な情況の中でそれを打開するべく奮闘している姿を画面(スクリーン)を通じて目の当たりにするとき,映画はリアリティを確保し,私たち観客は彼らの思いに寄り添い,彼らへの共感,敬意,感謝の気持ちに包まれのだ。その意味では,この映画は作品として成功しており,観ておくべき映画だと言えるだろう。

 ただ,一方で,福島第一原発事故は終わってはいない。この映画が公開された2020年3月時点で,双葉町,大熊町,浪江町の大部分,それに飯館村,富岡町の一部は帰還困難区域に指定されており,事故から10年経った現在でも汚染水処理問題,さらにはデブリの取り出しをどうするかについてはまったく手つかずの状態になっているのだ。要するに,原発事故は現在進行中なのだ。そうだとすれば,あのエンディングはどうなのだろう。私はかなりの違和感を禁じ得ないのである。

 2013年7月9日,吉田昌郎所長,食道ガンにより逝去。葬儀の場で伊崎は言う。

 「あの時イチエフで起きたことは必ず後世に語り継いでいく。それが現場にいた俺たちの使命だ。」

 この言葉と,エンディングで伊崎利夫に扮した佐藤浩市が満開の桜並木の下で佇む絵の間にとてつもない距離感を抱いたのは私だけだろうか。私には,これはヘタな時代劇における一件落着の絵にしか見えなかったのである。ついでに言えば,終盤に出てくる米軍の「オトモダチ」云々も不要だろう。

 

 劇中,吉田所長と伊崎が交わす会話がある。

吉田「なんでこんなことになっちまったんだ」

伊崎「俺たちは何か間違ったのか」

 いや,あなたたちは何も間違ってはいない。しかし,映画はこの会話をもっと深掘りする必要があったのではないだろうか。然る高名なコピーライターはこの映画から「命を捧げる覚悟」の尊さを感じ,約2時間泣きっぱなしだったそうだ。しかし,自戒を込めて言うが,この映画を英雄物語に解消し,事故および原発を巡る現代的課題を涙で流し去ってよいものではないだろう。

 

監督:岸善幸

キャスト:

 門脇麦(白石珠)

 長谷川博巳(石坂史郎)

 リリー・フランキー(篠原弘)

 菅田将暉(鈴木卓也)

 

 刑事や探偵が人を尾行するのは職業上のことであり(もっとも,私の周囲にはそういう職業の人がいないので,これは単なる想像でしかないが),個人的にある人を尾行するという場合には,それなりの理由があると思われるので,「理由のない尾行」などというものが成立するとは思われないのだが…。しかし,これが小説や映画の世界でのこととなると,どういう展開になるのか,興味をそそられるものではある。そういう興味からこの映画を見ることにした。

 

  白石珠は哲学を専攻する大学院生で,ゲームデザイナーの鈴木卓也と同棲している。珠はある日,指導教官の篠原弘に修士論文について相談する。「どうして人間は存在するのかとか,何のために生きるのかとか…,正直に言うと,私,何となく生きてきて,何となくここにいて…,自分がいるということの答えが出なくて…」これに対し,篠原は「たった一人の人間を観察して,人間とは何かということを考察してみてはどうですか」と言い,「理由のない尾行」を勧める。ただし,篠原は,尾行相手との接触は絶対避けることと付け加える。

  ある日,珠は書店で,自分が住んでいるアパートから見える立派な家で妻と幼い子供と一緒に幸せそうに暮らしている石坂史郎を見かけ,尾行を始める。そして,史郎が不倫をしていることを知るのである。そこから珠は石坂の尾行にのめり込んでいく。史郎は辣腕の編集者で,不倫相手とは時々会っているようなのだが,ある日,珠が石坂を尾行し,不倫相手との密会現場であるホテルのロビーにいると,石坂の妻が現れ,石坂の不倫がバレてしまう。泣き崩れる妻。その数日後,石坂の妻は自殺未遂で救急車で搬送されるのだが,石坂は,搬送現場にいた珠が自分を尾行している人間だということに気づくのである。ここから,珠と石坂との思いもよらない関係が展開される。

  珠は篠原に尾行相手に気づかれてしまったことを報告する。篠原は,尾行相手を変更して続けてみてはどうかと提案する。すると,珠は,驚いたことに,篠原を尾行相手に選ぶのである。篠原は,余命2ヶ月と宣告された母親に婚約者を紹介するのだが,珠は,母親が亡くなったあとの篠原と婚約者を尾行して,やっと修士論文を完成させ,篠原に提出する。篠原はその論文を高く評価する。ただ,一点,あることを除いて…。

  「人間はなぜ存在するのか,人は何のために生きるのか」といった哲学的な問題を考察するために「理由のない尾行」をするという荒唐無稽とも言える設定はともかくとして,なかなか楽しめる作品ではあった。珠が偶然見かけた石坂を尾行して彼の秘密を知ってしまってから尾行にのめり込んでいくプロセスは,修士論文を書くためというよりは,他人の秘密をのぞき見るという好奇心によって駆り立てられているようにも見えてくるのだが,その様子を,門脇麦が表情の変化などを通じてよく表現しており,観客も石坂を尾行している気分になってくるのである。

 珠が石坂を尾行していることが石坂にバレたあと,珠が自分の心の奥にぽっかりと空いた空洞があるということを告白するシーンがある。それは,高校2年生の時に父の親友を愛し,その男が亡くなってからずっと続いていることだが,石坂を尾行することによってその空洞が埋まってくる感覚が生まれてきたと言うのだ。「何か分かるかもしれないな,と思って…,何か埋められるんじゃないかな,と思って…」他人を知ることによって自分の空洞を埋め,自分を知ることになるというのだろうか?う~ん,どうなんだろう。石坂は珠のそんな告白を一蹴するのだが,私には石坂の言い分の方がよくわかる気がするのだが…。

 篠原はなぜ珠に「理由のない尾行」などということを勧めたのだろう。映画のラストでわかることだが,彼は珠に尾行されていることを知っていたのだ。珠には,あまりわかり合えない卓也との同棲生活と,他人を尾行することによって自分を知ることになっていくということの「二重生活」があったのだが,篠原にも二重生活が存在していた。このことによって篠原が珠に「理由のない尾行」を勧めた理由もなんとなく分かるのだが,話を複雑にしすぎたようにも思われ,わかりやすさという点では逆効果だったような気がしなくもない。いずれにしても,珠は「人間はなぜ存在するのか,人は何のために生きるのか」といった問題に近づくことができたのだろうか?

 ある意味,ナゾの多い映画ではあるが,結構楽しむことができた。それは,ソフィ・カルの難しそうな哲学的談義から入っていきながら,実は,社会や人に馴染むことのできなかった女の子の成長物語になっているからであろう。

 

以前,Yahoo!ブログにアップした記事ですが,先日再鑑賞しましたので,そのまま掲載しました。

 

監督:黒沢清

キャスト:

 蒼井優(福原聡子)

  高橋一生(福原優作)

 東出昌大(津森泰治)

 坂東龍汰(竹下文雄)

 玄理(草壁弘子)

 笹野高史(野崎医師)

 

************************************

2020年6月にNHK BS8Kで放送された黒沢清監督,蒼井優主演の同名ドラマをスクリーンサイズや色調を新たにした劇場版として劇場公開。1940年の満州。恐ろしい国家機密を偶然知ってしまった優作は,正義のためにその顛末を世に知らしめようとする。夫が反逆者と疑われる中,妻の聡子はスパイの妻と罵られようとも,愛する夫を信じて,ともに生きることを心に誓う。そんな2人の運命を太平洋戦争開戦間近の日本という時代の大きな荒波が飲み込んでいく。蒼井と高橋一生が「ロマンスドール」に続いて夫婦役を演じたほか,東出昌大,笹野高史らが顔をそろえる。「ハッピーアワー」の濱口竜介と野原位が黒沢とともに脚本を担当。「ペトロールズ」「東京事変」で活躍するミュージシャンの長岡亮介が音楽を担当。第77回ベネチア国際映画祭コンペティション部門で銀獅子賞(最優秀監督賞)を受賞。(映画.comより)

************************************

 

 映画の終盤,聡子が言う。「ひどく納得しているのです。…私はいっさい狂っていません。ただ,それが,つまり私が狂っているということなんです,きっとこの国では。」狂気の時代や社会においては正気が狂気にならざるをえないのである。そう,この映画は間違いなくホラー映画なのだ。

 太平洋戦争が始まる直前の神戸。貿易会社を経営している福原優作の妻,聡子は夫に頼りきって豪邸に住み,何不自由なく暮らしているごく普通の女性である。その聡子が,仕事のため甥の文夫を連れて満州に行った夫がスパイになって帰ってきたのではないかと疑い始めることをきっかけに時代の狂気に気づくのである。そして彼女は驚くような変貌を遂げていく。どのように変貌するのか。「私はスパイの妻になります。」聡子は夫が満州から持ち帰った関東軍に関する資料,つまり細菌兵器の開発のために関東軍が満州で行っている人体実験に関する資料をアメリカに持って行くために,夫とともに密航を企てるのである。聡子の変貌。それがこの映画のすべてである。

 聡子は自分の狂気によって狂気の時代を生き抜こうと決意する。彼女は夫が満州から持ち帰った資料を会社の倉庫から盗み出し,憲兵隊に渡す。それは一種のダマシなのだが,そのために夫と一緒に満州に渡った文夫は逮捕され,激しい拷問を受ける。夫の優作も憲兵隊に連行されるが,シラを切り通し釈放される。(現実には,この情況で釈放されるなどということはあり得ないだろうが,この映画においてそのようなリアリティなど問題ではないのだ)。聡子の変貌は夫をスパイとして後戻りできないところにまで追い込んだのだ。しかし,聡子は本当に狂っているのではない。あの狂気の時代に聡子は自らが狂気へと変貌することによって正気を保ち時代を突き抜けようとしたのである。

 1945年。逮捕され,精神病棟に入院している聡子は米軍による空襲の最中につぶやく。「お見事です。」聡子の戦争は終わるのだ。

 ナゾの多い映画でもある。はたして優作は聡子を裏切ったのか,彼はアメリカに渡ることができたのか,そもそも優作は生きているのか死んだのか,戦後,聡子はなぜアメリカに渡ったのか…。しかし,そんなことはどうでもいいのだ。黒沢清が観客に突きつけたメッセージ。「狂気の時代と社会を突き抜けるのは自らの狂気だけなのだ」。このメッセージだけは明確なのだから。

 蓮実重彦はこの映画を評して「聡子が演じてみせる変貌が戦後日本という名の世界を救うことになるだろう」と述べた。そのとおりだろう。戦争の時代だけが狂気の時代ではないのだから…。

  思い返せば昨年の今日から自粛生活に入ったのだった。なので,2月19日は私にとっての自粛記念日なのだ。昨年の今頃と言えば,連日ダイヤモンド・プリンセス号の集団感染が報じられており,神奈川県在住の80代女性が日本で初めて新型コロナで死亡したのは2月13日のことであった。この新型コロナウイルスに関して最初に報道されたことの一つに,この感染症の危険性は年代によって異なるということであり,私のような70代の人間の死亡率はかなり高いということであった。そのため,私はネット,テレビ,新聞を中心にできるだけコロナウィルスに関する情報を集め,かなり徹底した自粛生活をする必要があるという結論に達したのである。

 私の生活は一変した。この1年,友人,知人,仕事関係の人など,濃淡の差はあれ自分と何らかの関わりのある人たちとは誰にもリアルな生活の中で会うことはなかった。もっとも,妻だけが唯一の例外であり,電話で彼らと話をしたり,zoomを使って会話をすることはあったのだが…。当然のことながら,公共交通機関を利用することもまったくなくなり,一駅隣にあるレンタル店に行ってDVDを借りることもなくなった。その分,映画を観ることが極端に減り,代わりに読書量が増えた。

 外出と言えば,スーパーやコンビニ,ドラッグストアに買い物に行くことと,ほぼ毎日の散歩ぐらいである。時間の経過するスピードが非常に速く感じられるようになり,つい1年前までのことなのにコロナ以前の生活はとても遠い昔のことのように思われ,懐かしい思い出のようにさえ感じられるのである。ひょっとしたら,自分の中で世界に対する感じ方に何らかの変化が生じているのかもしれない。

 私が現在の場所に引っ越してきたのはほぼ10年前のことである。コロナ以前には自分の住み処と最寄り駅の間を歩くだけだったのだが,自粛生活の中で散歩コースを探す必要に迫られ,最寄り駅とは反対の方向に歩いて行ったところ,とてものどかな場所があることがわかったのである。今では散歩はほぼ毎日の日課となっているが,このコースをとても気に入っている。そして,つい1カ月ほど前から散歩コースにある溝に白鷺が姿を見せるようになり,毎日のようにその姿を見ていると何故か愛着が湧いてきたのである。ウ~ン,動物が特に好きなわけではない私の場合,これはコロナ以前にはなかった感情ではないだろうか。やはり,自分の中で何かが変わったのだろう。

 

 

 この国でも一昨日からワクチンの先行接種が始まったが,当初の予定より進行が遅れそうで,年内に希望者全員への接種が終わるかどうかの見通しも立たないようであり,集団免疫が獲得されるのはかなり先のことになるだろう。ということは,私の自粛生活もまだまだ続くということであるが,もし仮に全国的にほぼ安全な状態になったと言われても,引きこもりの人が外の世界に足を一歩踏み出すのが難しいと言われているように,私の意識がコロナ以前のような状態に戻るにはさらに時間がかかるのではないだろうか。もっとも,今の気分はそれでも構わないとは思っているが…。まあ,あのパスカルも『パンセ』の中で言っているではないか。

 「人間の不幸などというものは,どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる。部屋にじっとしていればいいのに,そうできない。そのためにわざわざ自分で不幸を招いている。」…ウン,けだし至言。(笑)