監督:クロエ・ジャオ

キャスト

 フランシス・マクドーマンド(ファーン)

 デビッド・ストラザーン(デイブ)

 

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「スリー・ビルボード」のオスカー女優フランシス・マクドーマンドが主演を務め,アメリカ西部の路上に暮らす車上生活者たちの生き様を,大自然の映像美とともに描いたロードムービー。ジェシカ・ブルーダーのノンフィクション「ノマド 漂流する高齢労働者たち」を原作に,「ザ・ライダー」で高く評価された新鋭クロエ・ジャオ監督がメガホンをとった。ネバダ州の企業城下町で暮らす60代の女性ファーンは,リーマンショックによる企業倒産の影響で,長年住み慣れた家を失ってしまう。キャンピングカーに全てを詰め込んだ彼女は,“現代のノマド(遊牧民)”として,過酷な季節労働の現場を渡り歩きながら車上生活を送ることに。毎日を懸命に乗り越えながら,行く先々で出会うノマドたちと心の交流を重ね,誇りを持って自由を生きる彼女の旅は続いていく。第77回ベネチア国際映画祭で最高賞にあたる金獅子賞,第45回トロント国際映画祭でも最高賞の観客賞を受賞するなど高い評価を獲得して賞レースを席巻。第93回アカデミー賞では計6部門でノミネートされ,作品,監督,主演女優賞の3部門を受賞した。(「映画.com」より)

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今回は飛行機雲(「飛」と表記)と架空の対談相手(Aと表記)の対話形式で書いてみました。

 

飛)ひと言で言うとどんな映画?

A) タイトルにある「ノマド」って遊牧民のことなんだけど,この映画では季節労働者としてあち       らこちらの現場で働きながら,車上生活を送って いる人たちを指していて,主人公の高齢の 女性(ファーン)がリーマンショック後の不況で会社が倒産して住んでいる家を失い,自由を求めて「現代のノマド」になる決意をし,そこで出会ったノマドたちとの触れ合いやファーンの心情をアメリカの大自然をバックに描いた作品ってとこかな。

飛)で,感想は?

A)ファーンを演じたフランシス・マクドーマンドの演技がすごくて,ノマドの自由な生き方,その孤独感や喪失感といったものが伝わってきていろいろと共感できる映画だったよ。

飛)なるほど。ボクもだいたいそういう感想なんだけど,ちょっと引っかかるというか,もう少し違った視点からも観ることができる映画じゃないかとも思うんだよね。

A) たとえば?

飛)映画の終盤でファーンが姉の家を訪ねていき,そこで姉の夫のジョージや初めて会った人たちと食事をするシーンがあるよね。

A) うん。

飛)その時,同席していた人たちがリーマンショックの時に不動産を買っていれば儲けることができたのにと言うんだけど,それを聞いたファーンが「客たちに貯金をはき出させ,借金までさせて家を買わせるのは理不尽だと思う」と口を差し挟むよね。

A) そうだったね。

飛)そこでジョージが「誰もが君みたいに身軽じゃないから」と反論するんだけど,それに対してファーンは「そう思ってる?私が軽い気持ちで旅に出たと?」と言うんだ。

A) うん。

飛)このシーンがボクの中で印象に残ってるんだけど,それは,このファーンのセリフに続いて彼女がノマドになった時の決意やら悲しみやらを語るのでもなく,現代の格差や分断と言った社会的な話に発展するのでもなく,ファーンの姉の「ノマドって…」というどうでもいい話に続いていって別のシーンに切り替わったからなんだ。

A) ん?

飛)つまり,示唆的なんだよね。

A) でも,ファーンがノマドになった経緯は冒頭で示されているよね?

飛)2~3行の字幕でね。ストーリーを進行するために簡単に説明されてはいるんだけど映像としては一切説描かれていないよね。つまり,クロエ・ジャオ監督は示唆するだけで,それ以上突っ込んではいかない。もっと言えば,あえて避けているようにも思うんだ。キミはさっき「ファーンは自由を求めて現代のノマドになる決意をして…」と言ったけど,その自由ってカッコ付きの「自由」でしょ。自ら積極的に選びとった自由ではなく…。

A) でも,リンダ・メイに誘われてファーンがノマドの生活を勧めているボブ・ウェルズの話を聞きに行ったとき,彼が世界の分断だとか,貨幣が支配している世界を批判するシーンもあったよ。

飛)あったよね。でも,結局ボブ・ウェルズは「もし社会が我々を野に放り出すなら,放り出された者たちで助け合うしかない」と言って話を締めくくるよね。これはある種のコミューンなんだけど,たとえばリベラル派の人たちなどが最近よく口にするコミューンとは違うよね。

A) ダメなの?

飛)いや,逆だよ。だからいいんだ。終盤近くのシーンでボブ・ウェルズが言う「悲しみや喪失感を抱いている人たち」がお互いを分かりあった上で,「絆」などという面倒臭くて欺瞞的な言葉じゃなくて,「‘さよなら’がないんだ。‘またどこかで’」といった緩い連帯感がね。ただ,なぜクロエ・ジャオ監督は声高に社会の分断だとか,新自由主義経済の批判といった方向に行かなかったのかということは考える必要があると思うんだ。

A) なるほど。

飛)ひょっとしたらだけど,そういうことって,もう認めるより仕方のないことだと思ってるんじゃないかという気もするんだよね。

A) どうかな。

飛)高齢になった人間になんて用なしだという社会って,生産性にしか価値を置かない社会ってことじゃない?

A) そうだね。

飛)だったら,生産性の低い人間の側からすればそんなことに抗議するより,「上等じゃねえか」って居直っちゃえばいいじゃんってならない? さっき,ここでの自由ってカッコ付きの「自由」でしかないのでは?って言ったけど,それでいいじゃんってことなんだけど…。

A) う~ん。

飛)もっとも,そう言っちゃうと,「自由な働き方改革」なんていう言葉が浮かんできて,やっぱりダメかなとも思うんだけどさ。

A) やっぱりダメなような気がするけど。

飛)でも,映画としては,その「自由」と格差社会という問題とのギリギリのせめぎ合いのところで成立しているということを見ないと,ただのノマド賛歌になっちゃうからね。

A) 映画の中でファーンが言う「‘ホームレス’じゃなくて‘ハウスレス’なのよ」ってことかな?

飛)名セリフなんだけど,あのセリフの中にノマドの覚悟を読み取れなければ意味ないよね。

A) で,この映画,5点満点で点を付けるとすると何点?

飛)4点なんだけど,いろいろ気づかされたので,やっぱり5点だね。キミは?

A) ボクは無条件に5点だな。

  コロナ禍で自粛生活を始めてずいぶん経つが,ウイルスが変異に変異を重ねて最近のデルタ株の感染力の強さは当初の武漢発の株に比べて比較にならないほどだ。一般にウイルスは感染力が強くなると毒性は弱体化すると言われているが,デルタ株に関してはその点は現在のところ不明だそうだ。ワクチン最先進国のイスラエルの最近の状況を見ると,ワクチンだけに頼っていてはこのパンデミックは半永久的に続きそうな気になってきたぞ。プランBが必要なのでは?

 https://toyokeizai.net/articles/-/450304

 

 ところで,自粛生活を続けていると自然にネットを見る機会も増えていくのだが,先日ネットを見ていたらYouTubeにChet Baker の “Greatest Hits Full Album 2021”と称するジャズの曲がアップされていたので試しに聴いてみた。1曲目のAlmost Blueから完全に引き込まれてしまった。ヘンだぞ。今まで,ジャズやクラシックを聴いてもほとんど何の反応もしなかったのに…。ひょっとして長い間の自粛生活のせいで脳が変異したか。デルタ脳?(笑)まあ,これは悪いことではない。(残り少ない)人生に楽しみが一つ増えたのだから。今後もさらなる「変異」が起こることを期待しよう。

 というわけで,Chet Bakerを扱った映画『ブルーに生まれついて』のレビューをアップしてみた

 

 これは以前Yahoo!ブログに掲載した記事の再掲です。なんだか使い回しばかりだなあ~。しかし,私のマイナーなブログの記事など読みたい人はそれほどいないだろうから,ま,いいか。

 

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『ブルーに生まれついて』(2015年 アメリカ / カナダ/ イギリス)

 

監督:ロバート・バドロー

キャスト

 イーサン・ホーク(チェット・ベイカー)

 カルメン・イジョゴ(ジェーン / エレイン)

 カラム・キース・レニー(ディック・ボック)

 

 私のような凡庸な人間から見れば,人並み外れた才能の持ち主はただただ羨ましい存在でしかないが,実際には必ずしもそうでもないらしい。太宰治の小説『葉』の冒頭で「撰ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり」というヴェルレーヌの言葉が引用されているが,彼らにも不安はあるらしい。映画『ブルーに生まれついて』(Born to Be Blue)はジャズのヴォーカリスト&トランペッターとして一世を風靡したチェット・ベイカーの生き様を描いた作品である。私は音楽には疎い方であるが,イーサン・ホークの熱演に引き込まれて2度見てしまった。

 

 1966年のイタリア。逮捕されているチェット・ベイカーのもとに彼の自伝的映画を制作するために一人の男が訪ねてきて,チェットは釈放される。シーンが転換して,チェットの映画が撮影されている。1954年,ニューヨークの名門ジャズクラブ「バードランド」にチェット・ベイカーが初登場する場面。彼は全米人気投票1位で,特に女性に大人気だ。司会者が言う。「カリフォルニアからやってきたジャズ界のジェームス・ディーン。“ウエスト・コースト・スイング”の生みの親…」競演の相手はマイルス・デイヴィスとデイジー・ガレスピーだ。演奏が終わったあと,マイルスがチェットに言う。「カネや女のために吹くヤツは信用しない。バカな白人女にジャズが分かるか?…“偉大なる白人の希望”か?…ビーチに帰れ。この店には早い。修行して出直せ。」女がチェットに麻薬を勧めている場面。女が言う。“Hello Fear.  Hello Death.  Fuck You.”妻のエレインが帰ってきて激怒する。そして言う。「マイルスのせい?」

 1966年,ロサンゼルス。チェットの自伝的映画の撮影が進行している。撮影のあと,チェットは別れた妻,エレインの役を演じているジェーンを口説き,夜,一緒に歩いている。突然,麻薬の売人たちが現れ,チェットをボコボコにし,彼は前歯を何本も折られるひどいケガをする。麻薬をやめたと思われていたチェットだが,実はやめていなかったのだ。トランペット奏者にとって前歯が何本もなくなるということは致命的である。映画は,義歯をつけ,麻薬をやめたチェットがジャズメンとして再生するための涙ぐましい努力と,ともすれば自暴自棄になるチェットを励ます恋人ジェーンの献身的な愛情を描いていく。

 

(感想)

 ジャズは奴隷制度が廃止されたころ,ヨーロッパの音楽とアフリカ系のリズムが溶け合って発達した音楽であり,いわば黒人解放を象徴する音楽である。この映画は,そのブラックカルチャーに近づいた才能豊かな一人の白人ジャズメンのジャズへの限りない愛情と,白人であるが故の悲哀を描いた作品である。

 チェット・ベイカーはなぜドラッグに溺れるようになったのか?恋人となったジェーンが尋ねるシーンがある。自分の才能を見いだしてくれたチャーリー・パーカーと一緒にやった,というのがチェットの答えだ。そうかもしれない。しかし,映画の全編を通じて感じ取れるのはブラックカルチャーに拒絶される人間の焦りだ。歴史的に虐げられ,差別されてきた人たちの魂を自分は表現することができないのか?「バードランド」での演奏のあと,チェットに尋ねられたマイルス・デイヴィスは言う。「なかなかよかった。きれいな旋律の甘い響きだった。キャンディーみたいに。」天才ともてはやされていた男の自信が揺らいだ瞬間だ。そして,不安…,ドラッグ依存。

 ジェーンはチェット・ベイカーの薬物依存を絶つために献身的な努力をする。映画は,義歯をつけ,麻薬をやめたチェット・ベイカーがトランペット奏者として再生するための涙ぐましい努力を描いていくが,同時に,普通の市民生活を営むことのできないダメ男ぶりにも焦点を当てていく。ジェーンへの子供のような依存,自分を信頼してくれる人間に対する裏切り,ドラッグの誘惑に負けそうになるチェット…。 

 映画制作とは扱う対象に対する映像作家の解釈であり,映画の鑑賞とは鑑賞する作品に対する観客の側の解釈である。ロバート・バドロー監督はチェット・ベイカーを徹底したダメ男として描きながら,彼の中にあるジャズへの熱い想い,その才能,そして,それが受け入れられない悲哀と孤独を掬いだした。そして,その悲哀と孤独が彼のドラッグ依存と結びついているのであれば,この物語はやはり悲劇だと言わざるを得ないであろう。これが,私がこの作品を観た時に感じたすべてであり,それが十分伝わってきたという点でこの映画を高く評価したい。

 ジェーンは実在の女性ではない。しかし,ロバート・バドロー監督が映画の中で彼女をまるで実在の女性のように描いた意図は明らかだ。チェット・ベイカーは徹底した依存体質であり,誰かの愛情なしには立ち直れない人物だ。これがロバート・バドロー監督の解釈である。その意味で,ジェーンの存在なしにはこの映画は完了しなかったのだろう。そして,ラスト。立ち直ったチェット・ベイカーは,デイジー・ガレスピーの尽力によって「バードランド」で演奏する機会を与えられる。しかし,チェットはここで重大な裏切りをする。チェットの演奏を聴いたジェーンはそれを確信し,静かにチェットの前から姿を消す。ラストはそれでよし。

 イーサン・ホークが素晴らしい。まるでチェット・ベイカーが乗り移ったようだったが,イーサン・ホークはこういう欠陥だらけの男の役柄がよく似合う。もっとも,劇中,彼自身が歌う3曲の歌に関してはいろいろと酷評もあるようだが…。蛇足になるが,ジャズを扱った映画で世評の高い「セッション」は,私には後味の悪い印象しかなく,比較するならこの映画に軍配を上げたい。「バード」は未鑑賞。

 

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 キム・ギドクが亡くなっていた。2020年12月,新型コロナウイルス感染症のため訪問先のラトビアで死去したらしい。初めて知った。昨年から『キネマ旬報』の定期購読をやめてしまったりして,映画の情報に疎くなっていたようで,最近,たまたまネットの情報を通じて初めて知ったのである。(合掌)

 私の場合,キム・ギドク監督作と言えば,『THE NET 網に囚われた男』は観たことがあったのだが,何年か前に(数少ない・笑)私のブロ友さんの一人が『嘆きのピエタ』のレビューを書いておられ,それを読んでこの監督に関心を持ち,その後,『嘆きのピエタ』も含めて何作か観てみた。随所にハードな暴力が描かれていて目をそむけたくなるようなシーンもあるのだが,社会の底辺に生きる人間を描くことを通じて社会が人びとに与える束縛を見事に活写しているように思えるのだ。

 

 以前Yahoo!ブログに『THE NET 網に囚われた男』を観た時に書いた記事が手元にあったので再掲しておきたい。

 

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THE NET 網に囚われた男』(2016年 韓国)

 

監督:キム・ギドク

キャスト

 リュ・スンボム(ナム・チョル)

 イ・ウォングン(オ・ジヌ)

 キム・ヨンミン(取調官)

 イ・ウヌ(チョルの妻)

 

 

 ナム・チョルは北朝鮮の漁師で,妻と幼い娘と3人で国境近くの村で平穏に暮らしている。ある日,漁に出たナム・チョルのボートのエンジンに網が絡まり,エンジンが停止してしまう。彼のボートは操縦不能になり,韓国まで流れつく。当然のごとく,彼は韓国当局からスパイの嫌疑をかけられ厳しい取り調べを受ける。やっとスパイの嫌疑が晴れるが,今度は韓国への亡命を勧められる。しかし,彼は妻子の待つ北朝鮮に帰りたい一心で亡命を拒否し続け,やっと帰国できることになる。ところが,今度は北朝鮮でスパイ容疑をかけられ,こちらでも厳しい取り調べを受けることになるのである。

 

 好むと好まざるとに関わらず,私たちは政治から自由になることはできない。それは,私たちが何らかの国家に所属しているからだ。その国家がどのようなものであるかは私たちの人生を大きく左右する。朝鮮半島が38度線によって南北に分断されており,お互いに敵対関係にあることは周知の事実だ。したがって,南北を舞台にした映画はどうしても政治的なものにならざるを得ず,『THE NET 網に囚われた男』も多分にそのような側面を描いた映画だと言えるだろう。しかし,この映画は国家のスパイが暗躍するスパイ映画でもなければ,政治的イデオロギーを扱った映画でもない。政治的対立によっていかに一人の無辜の民が翻弄されるかを描いた作品なのである。韓国の護衛官でナム・チョルの潔白を信じているオ・ジヌに対してナム・チョルが言う言葉――「俺は今まで網で魚を捕りすぎたようです。今度は俺が網に掛かりました。」――がなんともむなしく響くのだ。

 この映画のキーワードは,国家,個人,家族だ。ナム・チョルは韓国当局からスパイだと疑われ,激しい拷問を受けても決してそれを認めない。また,スパイ容疑が晴れて亡命を勧められても決して首をタテに振らない。それは北朝鮮という国家への愛国心なのだろうか?この点は映画からは読み取れなかった。読み取れたのは,そしてキム・ギドクが言いたいことは,ナム・チョルは自分の愛する妻と娘のもとに帰りたいという想いだけだということだ。彼の願いはただ一つ。愛する妻と子供の3人で平和に暮らしたい。しかし,政治の現実はそれを決して許さない。北朝鮮に帰ったナム・チョルを待ち受けていたのは北朝鮮の国家安全保衛部による厳しい取り調べだった。彼は南で洗脳されてスパイになったのではないかということである。

 彼はもう何も信じることはできない。なんとか家族のもとに帰ることを許可されるが,漁師の仕事は禁じられ,彼の人格は徐々に崩壊していく。その徴候は彼の肉体にも現れてきて…。そして,衝撃のラストへ。このラストシーンはどのように解釈すればよいのだろうか。私は無辜の民の自由への希求に対するキム・ギドク監督のエールだと受け取ったのだが…。

 

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監督:アラン・J・パクラ

キャスト

  メリル・ストリープ (ソフィー)

    ケヴィン・クライン (ネイサン)

    ピーター・マクニコル(スティンゴ)

 

 この映画を観るのは今回が3回目だ。最初は公開時なのでかれこれ40年ほど前になる。ただ,強制収容所での「ソフィーの選択」のシーンが強烈すぎて,それ以外の部分の印象が薄かった記憶がある。2度目に観たのは今から4年ほど前。今ではなくなってしまったYahoo!ブログに感想を書いたのだが…。では,なぜ今回3度目の鑑賞をしたのかというと,2週間ほど前に何の脈絡もなく突然「ソフィーは何を選択したのか?」という疑問が心に浮かんだからである。今回はこの点を中心に感想を書いてみたい。

 

 

最初にこの映画のストーリーをまとめておきたい。(ネタバレを含みますので,その点,ご注意を。)

 

 第2次大戦後まもなくの1947年。作家志望の若いスティンゴは,南部の田舎からNYに出て来る。ブルックリンにアパートを借りるが,そこには,ソフィーとネイサンのカップルが暮らしている。初日。スティンゴはソフィーに対して,ものすごい剣幕で怒っているネイサンに出くわす。しかし,翌日には彼らは仲直りをしており,スティンゴに一緒に食事をしないかと誘う。ソフィーはポーランド人で,ネイサンはユダヤ人の生物学者で大企業の製薬会社の研究員とのことであった。ここから,スティンゴと彼らとの濃密なつきあいが始まる。物語は随所にスティンゴのナレーションを挿みながら展開されていく。ネイサンが仕事で帰宅が遅くなったある夜,ソフィーはスティンゴとお酒を飲みながら,自分の身の上話を始める。ソフィーの父親は大学教授だったのだが,戦争中,反ナチスの文章を書いたことで,ソフィーの夫とともに秘密警察に連行され銃殺されたということ。ソフィー自身も病気の母親のために統制物資のハムを隠し持っていたかどで逮捕され,アウシュビッツの強制収容所に入れられていたとのことであった。そんな話をしていたときにネイサンが戻ってくる。彼はスティンゴとソフィーの仲を疑い,怒りを表す。ネイサンは感情の起伏が激しく,機嫌がよいかと思えば急に怒り出して,見境もなく人を傷つける言葉をぶちまけるのである。スティンゴはそんなネイサンに戸惑いながらも彼の強烈な個性に引きつけられ,ソフィーには密かな恋心を持っているのである。

 ネイサンが2人の仲を疑って,何度目かに激しい怒りをぶちまけたとき,ソフィーとネイサンが二人とも行方不明になる。ソフィーのことを心配したスティンゴは,以前ソフィーの父親の受講生だった人で,大学の教授になっている人物に会いに行く。そこで,スティンゴはソフィーの話に嘘があることを知ってしまう。それからしばらくして,ネイサンの兄から電話が掛かってきて,スティンゴはネイサンについて重大なことを知らされるのである。彼は統合失調症だったのだ。ソフィーはアパートに戻ってくるが,スティンゴは完全に正気をなくしているネイサンからの電話に危機感を持ち,ソフィーに自分と一緒に南部に逃げようと言う。南部へ行く途中,二人はホテルに泊まる。そこで,ソフィーは,それまで誰にも語ることのなかった収容所でのある選択のことについて話し出す。それは魂を引き裂かれるような選択であった。スティンゴはソフィーにプロポーズし,彼らは初めて結ばれる。しかし,翌朝,スティンゴが目覚めると,ソフィーはネイサンの元に戻るという書き置きを残して立ち去っていたのだ。数日後,スティンゴはブルックリンのアパートに戻る。そこには,自殺したソフィーとネイサンがベッドに横たわる姿があった。

 

 この映画を語るとき,私たちはまずソフィーがスティンゴに語った収容所での魂を引き裂かれるような「選択」に触れないわけにはいかない。それは,ソフィーが二人の幼い娘と息子とともに収容所に送られてきた日の出来事である。ナチスの将校がソフィーに二人の子供のうちどちらを焼却炉に連れて行くかを選べと迫ったのである。ソフィーがそんなことはできないと言うと,将校は,では二人とも連れて行くと言い,彼らをソフィーから引き離そうとしてもみ合いになるが,その時,彼女は「娘のほうを」と叫んでしまい,泣き叫びながら将校に連れられていく娘を見送ってしまったのだ。この告白は映画の終盤での回想シーンなのであるが,観客はこれによって,それまでの展開でソフィーにつきまとっていた死の影の本当の原因を知ることになるのだ。そして,それと同時に私には,映画は「アウシュビッツからの帰還者が幸福に生きることは可能なのか」という問いを発しているようにも思えたのである。ソフィーにはどこか死の影がつきまとっている。事実,彼女の手首には何度か自殺を試みた痕跡もある。それでも彼女はなんとか生きることを選択してきたのだ。スティンゴがソフィーのウソについて,本人に問いただすシーンがある。ソフィーは,「真実が常に理解を助けるとは限らない」と言う。確かにその通りだろう。ソフィーにとって,収容所での「選択」によって背負わなければならない十字架を軽くしてくれるものであればウソなどいくらでもつくことができるのだろう。ソフィーは言う。「何が真実なのか分からない。ずいぶんたくさんウソをついたから。」

 死の影がつきまとっているのはネイサンも同様だ。スティンゴが初めてソフィーとネイサンのけんかを目撃したとき,ネイサンが「僕たちは死ぬのだから」と口走るシーンがある。ネイサンは陽気な男だが,急に怒り出すことがあり,一度怒り出すと手がつけられない。ネイサンのこのような気分の不安定さは統合失調症によるものであることが映画の終盤で分かるのだが,彼もまた,心の中に癒やされぬものを抱えているのである。ソフィーの抱えている十字架とネイサンの病。彼らは反発し合いながらも,お互いに激しく求め合わざるを得ないのだ。

 「ソフィーは何を選択したのか?」という今回のテーマに移ろう。収容所での出来事は「ソフィーの選択」なのだろうか。どうも私にはそうは思えないのだ。本当の選択は戦後にやってくる。映画は問う。「生か死か」と。収容所での出来事によって重い十字架を背負わされたソフィーが幸福に生きるという選択をすることは不可能なのか?スティンゴと一緒に南部の農村で平穏に暮らす選択はできないのか…?その「生か死か」という選択肢においてソフィーは「死」を選択したのである。収容所での出来事は許されないことであったのだろうか。ネイサンと一緒に安らかな表情で眠るベッドのそばでスティンゴがエミリー・ディキンソンの詩を朗読する。

 

 広い寝台を畏れをもって準備し

 公正な審判の下る時を静かに待とう

 しとねをまっすぐに,まくらは丸く

 朝日の黄金色の騒音に乱されぬように

 

 ラスト。スティンゴは夜明けのブルックリン橋を一人歩いている。スティンゴのナレーションが被る。

「2人に対する憤りも悲しみも解き放った。彼らはこの地上で虐殺され,裏切られ,殉教者となった子供たちの一部に過ぎない。」

 人の心の痛みを抱え込むことのできる人間になったスティンゴは,きっと素晴らしい小説を書くだろう。

 

 見終わったあと,そのあまりにも過酷なソフィーの選択に心が震え,やがて心の中に澱のようなものが沈殿していく――そのような映画であった。

 

 

 

 

 

監督:クリストファー・ノーラン

キャスト

 ガイ・ピアース(レナード・シェルビー)

 キャリー=アン・モス(ナタリー)

 ジョー・パントリアーノ(テディ)

 スティーブン・トボロウスキー(サミー)

 

私はどうやらクリストファー・ノーランという映像作家を誤解していたようだ。というより,『ダンケルク』のような一般受けする作品しか観ていなかったのだろう。『メメント』を観るとそう思わざるを得ないのだ。この映画は非常に斬新な映像構成によって展開されるのだが,その斬新さは彼の発する強いメッセージ性に規定されているのである。

 

 観客は映画が始まってしばらくの間ある種の混乱状態に陥るのだが,それはカラーパートの映像と,モノクロームの映像とが脈絡なく交互に映し出されることによる。しかし,しばらくしてこの物語の主人公であるレナードは約10分間しか記憶を保てない前向性健忘という記憶障害を患っていることが分かる。そして,それは彼の妻が自宅で暴漢に襲われて殺害され,その時自分も鉄パイプで頭部を殴られたためであることが分かってくる。彼は復讐のため妻を殺害した人物を追っているのである。

 では,上に書いたカラー映像の部分と,モノクロームの部分とはどのような関係になっているのか。この点がこの作品の映像構成の斬新さなのであるが,カラーパートでは物語が現在から過去に遡っていき,モノクロームのパートは過去から現在へと時間が進行しているのである。そして,両者は最後に繫がる。このような映像構成の映画が過去にあっただろうか。少なくとも私は知らない。もっとも,私はいわゆる映画ファンと比べてそれほど多くの作品を観ているわけではないが…。

 カラー映像のパートで物語は徐々に過去に遡っていくのだが,その際重要な役割を演じるのは記録である。レナードは自分が遭遇した人物や建物など,必要と思われるものをポラロイドカメラに収め,写真の余白にその人物や建物についてのコメントを記録する。さらには最も確実な記録の保存法として自分の体に入れ墨で記録する。10分程度しか記憶を保てないレナードにとってはその記録が唯一の手がかりなのである。そして,観客はその記録によって作られるレナードの時間軸の中に引き込まれ,レナードとともに彼の妻を殺害した人物を追いかける。

 一方,モノクロームの部分で,レナードは前向性健忘になる以前,保険会社の調査員の仕事をしていたのだが,その当時,調査対象であったサミーという58歳の半引退の会計士についての過去のエピソードを語るシーンがある。サミーは事故で頭部を損傷し,現在のレナードと同じ前向性健忘にかかっているのだが,保険金を騙し取るための演技ではないかとレナードは疑っているのである。ある日,レナードはサミーの妻から夫が本当に前向性健忘なのかどうかが知りたいという相談を受ける。彼女は心の底からサミーを愛し,できれば以前のサミーに戻って欲しいと思っているのだ。彼女は重い糖尿病を患っており,サミーにインシュリンの注射をしてもらっているのである。ある日,彼女は夫が本当に前向性健忘なのかどうかを試すため,インシュリンの注射をしてもらったあと,15分後,再度サミーに注射をして欲しいと頼む。サミーは優しく注射をする。それを繰り返した挙げ句サミーの妻は死亡する。サミーの前向性健忘は本当だったのだ。

 この作品でレナード以外に重要な役割を果たすのが,上に述べたサミーとテディ,ナタリーだ。特に観客は,カラー映像のパートでレナードにしつこくつきまとうテディにラストで「アッ」と驚かされる。

 映画の序盤,テディとレナードが次のような会話をするシーンがある。

テディ「メモだけの人生は無理だ。メモなど当てにならん。」

レナード「記憶もだ。記憶の方がもっと当てにならん。…記憶は思い込みだ。」

記憶と記録のどちらが人生にとって重要であるかを話し合っているシーンなのだが,このシーンの意味はのちに分かることになる。

 

(以下,一部ネタバレを含みます)

 レナードは自分の「記録」を頼りにどんどん過去に遡っていくのだが,彼の妻の殺害事件についての警察の調書の一部が欠損していることが判明する。実は,この部分には重要なことが書かれていたのだが,その部分が不明であることにより,レナードの犯人追及には偽りの部分があることを観客は知るのである。ここにおいて観客はレナードの記録によって作られていた時間軸の世界の外に出るのだが,端緒における誤りが全く別の世界を作り上げていたのである。目の前にある記録は本当に信頼に足るものなのか?クリストファー・ノーランはそのように問い,記録を改ざんすることの反倫理性というメッセージを観客に突きつけるのだ。考えてみれば,私たちの国においても数年前に記録の改ざんという反倫理的なことが行われたではないか。しかも,私たち国民は未だにそれによって作られた空間の中に閉じ込められたままではないのか。

 話が若干横道に逸れたかもしれないが,クリストファー・ノーランはのちに『テネット』において,『メメント』で発したメッセージを地球というもっと大きな規模で伝えることになる。そこでは現実に時間が逆行する。『メメント』も『テネット』も難解な映画だと言われているが,彼のメッセージを伝えるにはこの上ない映像構成であり,それが見事に成功していると言わざるをえないであろう。映画評論家の町山智浩は「なぜ映画を観るのか?」と問い,「観る前と観た後で別の人間になるためだ」と答えている。ひょっとしたらクリストファー・ノーランは天才なのか。少なくとも,ものすごく頭のいい映像作家であることは確かだ。