
監督:ミシェル・アザナヴィシウス
キャスト:
ベレニス・ベジョ(キャロル)
アブドゥル・カリム・ママツイエフ(ハジ)
アネット・ベニング(ヘレン)
マキシム・エメリヤノフ(コーリャ)
2022年2月24日,ロシアがウクライナに軍事侵攻し,ウクライナ戦争が始まった。あの日から昨日で半年が経過した。当初,新聞,テレビなどの報道機関は連日この戦争の様子を大きく取り上げていたのだが,最近ではあまり報道されなくなり,私たちの関心もかなり薄れてきているようにも思われる。戦争が終わったわけではない。むしろ,長期化する様相さえ呈しているようにも思われるのだが…。
映画『あの日の声を探して』は,第2次チェチェン戦争の悲劇を,戦争に翻弄される9歳の少年の姿を通して描いた映画である。フリージャーナリストの常岡浩介は『ロシア 語られない戦争』(アスキー新書)の中で次のように述べている。
「チェチェンは,カフカスのほぼ中央に位置する,四国より少し小さい面積のクニだ。90年代初めの時点で100万人程度の人口があったといわれる。そのカフカスとはどこかと問われると,黒海とカスピ海の間,ロシアとトルコ,イランの間にある地域で,大カフカス山脈を挟んで北カフカスと南カフカスに分けられる。アジアと欧州と中東の狭間にあって,アジアでも,欧州でも,中東でもない。
アジアでも欧州でも中東でもないという位置の問題は,歴史的には様々な文化交流の舞台となり,軍事的要衝ともなってきたものの,現代のチェチェン戦争においては,チェチェン人にとって不利に働いてきた。つまり,欧州人にとっても,中東人にとっても,アジア人にとっても,チェチェン戦争はよそ事にすぎなかったのだ。… 世界のどこからもよその世界の出来事とみなされてしまうということが,これほどのむごたらしい惨劇が延々と続いていながら,チェチェン戦争をして,現代の『見捨てられた悲劇』にしてしまった。」(pp.13-15)
ミシェル・アザナヴィシウスは,この映画を通じて戦争の残虐さを描いているのだが,それだけではなく,戦争に対して無関心を決め込む私たちをも告発しているかのようなのである。
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(以下は以前Yahoo!ブログに掲載した記事の再掲です。ほとんど映画の内容を紹介しているに過ぎませんが,この映画が伝えようとしているメッセージは忘れるべきではないと思われますので再掲したいと思います。なお,ほぼネタバレなので,未鑑賞の方は閲覧にはご注意ください。)
1999年9月,ロシアはテロリスト掃討という名目のもとにチェチェンに空爆を開始,続いて地上軍を派遣する。第2次チェチェン戦争の始まりだ。映画は,真っ暗な画面に男の声だけが聞こえるというシーンから始まる。男が「写らねぇ」といった瞬間,牛の死骸がビデオ撮影の画面に写る。男の声が続く。「ここはでっかいクソ溜,チェチェンだ。」男はビデオカメラを回しているらしく,映画のスクリーンには男がビデオカメラで撮っている映像が続く。建物が燃えており,どうやら戦闘のあとの様子を撮っているようだ。やがて,ビデオの画面は兵士たちに尋問されている3人の男女の姿をとらえる。一人の兵士が何度か激しく罵った後,突然尋問されている中年の男を射殺する。妻らしき女が兵士に「人殺し!」と叫んだとたん,その女も射殺される。夫婦の娘らしき若い女が泣き叫ぶなか,ビデオの画面は暗転し,通常の映画の画面へと切り替わる。少年が赤ん坊を抱きかかえて建物の窓から先ほどの光景を見ている。少年の名はハジ。ハジは自分の両親が目の前で殺される瞬間を見てしまったのだ。そしてその衝撃で声を失う。ロシア軍がいなくなったころを見計らって,ハジは赤ん坊の弟を見知らぬ人家の前に置いてロシア軍から逃れるべく放浪する。ある街にたどり着き,いったん赤十字国際委員会に保護されるも,そこを抜け出しさまよう。その街では,EU人権委員会の職員キャロルが仕事をしている。街をさまよっているハジとキャロルは偶然出会う。キャロルはハジを自分のアパートに連れて帰り,世話をする。声が出なくなって話すことができないハジは,ただただ暗い表情を浮かべるばかりだ。キャロルはハジの境遇をある程度理解しながらも,ハジは容易に心を開かない。キャロルは,赤十字国際委員会で働いている女性ヘレンにそのことで相談しに行ったりもするが,逆に批判されることにもなる。
この映画では,ハジとキャロルの話と平行してもう一つの物語が進行している。チェチェンから2300キロ離れた,ロシア連邦ペルミ市に住んでいる陽気な大学生コーリャは,ある日,微罪で警察に職務質問をされ逮捕される。彼は刑務所行きを免れるが軍隊に強制入隊させられ,チェチェンから33キロのモズドクに送られる。モズドクはチェチェン攻撃の拠点であり,戦闘で死亡したロシア兵がヘリで送り返されるところでもある。コーリャはその死体処理の任務を命じられるとともに,軍隊内の絶対的なヒエラルキー,日常的に行われる理不尽な暴力,いじめを経験していくなかで元の陽気さを失い,殺人機械へと変貌していく。この変貌ぶりをマキシム・エメリヤノフは見事に演じきっているが,戦争の持つ悲劇は,無数のハジとその家族を生み出すだけではなく,一人のごく平凡な若者が暴力しか信じることのできない殺人マシンに変貌していく狂気でもあるというアザナヴィシウスの明確なメッセージを,私たちは読み取ることができる。
映画の進行とともにハジは徐々にキャロルに心を開いていく。たまに笑顔も見せるようになる。ある日,キャロルはハジに絵本を見せながら,「熊を見たことがある?あったらウイ,なかったらノンよ」と言う。ハジは「ウイ」と答える。話せるようになったのだ。そして,キャロルは大きな決断をする。
この映画には,ハジ(&キャロル)とコーリャの物語だけではなく,ロシア兵に殺されたと思っていたハジの姉が,分断された家族を取り戻すため,赤ん坊の弟を抱きかかえてハジを探し回る物語も絡んでいる。はたして彼女はハジに会うことができるのだろうか?
コーリャがチェチェンの戦闘地域に送られることが決まる。コーリャはもはや以前の陽気な男ではない。喜んで戦場に赴き,殺人マシンとして「果敢に」戦う男になっている。ここで,平行線をたどったまま交わることがなかったハジの物語とコーリャの物語が出会い,物語は冒頭に回帰していく。しかし,アザナヴィシウスはこの戦争に対する怒りをぶつけるかのように突如として映画を終了させるのである。
戦争は誰にとっても悲劇をもたらす。ほとんど交わることのない二つの物語を通じて,アザナヴィシウスはそのことを私たちに教えている。一方では,私たちから大切な人たちを奪い,他方では,ごく普通の人間が殺人マシンにさせられる,ということを。
さらに,この映画のなかで印象に残っている会話がある。キャロルとヘレンの会話だ。
キャロル「EUがやるべき緊急対策は?」
ヘレン「世界が注目してるとわからせること。」
キャロルはEUの外務委員会の公聴会でチェチェン戦争の現状についてレポートする機会を得る。しかし,出席している委員たちはチェチェン戦争にまったく関心を示さない。先進国の無関心。アザナヴィシウスの告発は無関心を決め込んでいる私たちに対しても向けられているようだ。