9月後半に観たサスペンス&ミステリー映画は韓国映画の『ザ・コール』とインド映画の『ビジョン(Drishvam)』ですが,前者は自分の中で評価が定まらないので感想は『ビジョン(Drishvam)』のみです。

 

『ビジョン(Drishvam)』(2015年 インド) Netflix

監督:ニシカント・カマト

出演者

アジャイ・デーヴガン(ヴィジェイ)

タブー(ミーラー:警察の長官)

シュリヤー・サラン(ナンディニ:ヴィジェイの妻)

イシター・ダッタ(アンジュ:ヴィジェイの長女)

 

 

 田舎町でケーブル・テレビ会社を営むヴィジェイは妻と二人の娘と幸せな暮らしをしているが,ある日,長女のアンジュが学校のキャンプに行ったとき,警察の長官の息子で素行不良のサムに更衣室で着替えをしているところを盗撮され,その映像をネタに「これをネットに流されたくなければ俺の言うことを聞け」と脅される。その日の夜遅くサムが家にやってくるのだが,母親のナンディニとサムが揉みあっているところを動揺したアンジュが近くにあった鉄パイプでサムの後頭部を殴り殺害してしまう。アンジュとナンディニはサムの死体の処理に困り,それを庭に埋めるのだが,その光景を幼い妹が目撃する。留守をしていたヴィジェイは帰宅して事の顛末を知り,家族を守るために様々なトリックを駆使しアリバイ工作をする。一方,サムの母親で警察の長官であるミーラーは失踪した息子を探すため,なり振り構わぬ捜査に乗り出し地元警察の情報からヴィジェイ一家に対する取り調べを始める…。

 

 事件の内容だけではなく犯人が誰であるかも観客に分かっているサスペンス映画。映画のポイントはヴィジェイが工作した完璧なアリバイをミーラーが見抜くことができるかどうかにある。したがって,ヴィジェイのアリバイ工作の内容は観客には知らされておらず,ヴィジェイとミーラーの息詰まる対決が映画の見所である。攻守所を変え行きつ戻りつしながら進んでいくこの部分の展開はなかなか面白く,謎解きの妙が味わえる作品に仕上がっている。ただ一つ解決されていない謎が残るので,「ウン?それはどうなってるの?」と思っていたらエンディングで「そうくるか!」となってクレジットへ。なるほど,納得。

 

 サスペンス映画としてはかなり面白かったのだが,インドの警察の取り調べのシーンは取り調べというより拷問で,あれが実態なのかどうか疑問に思ったのだが,ミステリー映画として楽しむのが目的なので,その点は不問にしておこう。あえて難点を言えば,163分とかなり長い作品なのだが,前半の30分ほどが冗長で2時間ぐらいの作品に仕上げることができたのではないだろうか。また,終盤のミーラー夫妻とヴィジェイが会うシーンも不要なように思われる。

 

【評価】

ストーリー展開 ★★★★

どんでん返しのインパクト ★★★☆

伏線の回収 ★★★★

サスペンスとしての満足度 ★★★★

 

★1つが1点。☆は0.5点。5点満点。

 「伝え方は上手いが,伝えたいメッセージがチープ」と言ってよい作品と,「伝え方はチープだが,伝えたいメッセージはよく分かる」と言ってよい作品のどちらが好みかと言えば,私は後者だ。安直なテーマを持って回った伝え方によって粉飾されている作品より,私は伝え方が少々拙くても,「これが私の言いたいことだ」と主張している作品の方に制作者の本気度を感じてしまうのだ。今回は(私の基準で)その2つの作品を紹介したい。もちろん,私の独断によるものなので,映画を観る人によって評価は分かれるのは承知の上である。

 

1. ミセス・ノイズィ(2020年 日本)

 

監督:天野千尋

キャスト

篠原ゆき子(吉岡真紀)

大高洋子(若田美和子)

長尾卓磨(吉岡裕一)

新津ちせ(吉岡菜子)

宮崎太一(若田茂夫)

 

「フィガロの告白」の天野千尋が監督・脚本を手がけ,隣人同士の些細な対立が大事件へと発展していく様子を描いたサスペンスドラマ。小説家で母親でもある吉岡真紀は,スランプに悩まされていた。ある日,突如として隣の住人・若田美和子による嫌がらせが始まる。それは日を追うごとに激しさを増し,心の平穏を奪われた真紀は家族との関係もギクシャクしていく。真紀は美和子を小説のネタにすることで反撃に出るが,その行動は予想外の事態を巻き起こし,2人の争いはマスコミやネット社会を巻き込む大騒動へと発展していく。主人公の小説家・真紀を「共喰い」の篠原ゆき子,隣人の美和子を「どうしようもない恋の唄」の大高洋子,真紀の娘を「駅までの道をおしえて」の新津ちせがそれぞれ演じる。2019年・第32回東京国際映画祭「日本映画スプラッシュ」部門出品。(「映画.com」より)

 

 とても分かりやすい展開の映画ではあるが,たいへん難しいメッセージを提起している作品である。私たちは普通SNSを含むいわゆるメディアを通じて世の中で起こっている出来事を知るのだが,メディアが伝える情報が大なり小なりのバイアスを含んでいるということをついつい忘れてしまい,単純な善悪の二分法で事態を判断してしまいがちである。この姿勢が極端な形で表れたものがSNSにおける「炎上」ということなのだろうが,この映画が問いかけているのは,何事においても性急な答えを求めすぎる私たちの姿勢である。

 では,ある報道に対して私たちはどのように接すればよいのだろうか?答えはそれほど簡単ではないし,この映画がそれに対する答を与えてくれているわけでもない。しかし,天野監督は,10数年前に連日ワイドショーを賑わせた「騒音おばさん」の事件をベースに,それについての映像作家としての解釈を加えたフィクションを作ることによって,私たちの常識的な判断に潜む危険性をあぶり出したことは確かであり,そこにこの作品の卓越性があると思われるのである。ただ,描き方にもう少し工夫があってもよかったのではないだろうか。その点がやや惜しまれる作品である。

 

 

2. 幼い依頼人(2019年 韓国)

監督:チャン・ギュソン

キャスト

 イ・ドンフィ(ジョンヨプ)

 ユソン(ジスク)

 チェ・ミョンビン(ダビン)

 イ・ジュウォン(ミンジュン)

 

2013年に韓国で実際に起こった漆谷(チルゴク)継母児童虐待死亡事件をもとに,7歳の弟を殺したという驚くべき告白をした10歳の少女に心を動かされた弁護士が,真実を明らかにするため奔走する姿を描いた実録サスペンスドラマ。ロースクールを卒業し,法律事務所に就職する前に児童福祉館で臨時で働いていたジョンヨプは,継母から虐待を受けているダビンとミンジュンの姉弟に出会う。当初は深刻に受け止めていなかったジョンヨプだったが,弟ミンジュンが死亡する事件が発生し,姉のダビンがその殺人の被疑者とされたことに何かが間違っていると感じ,ダビンの弁護を引き受けることを決意する。主人公の弁護士ジョンヨプ役を「エクストリーム・ジョブ」のイ・ドンフィが熱演。(「映画.com」より)

 

 制作者が意図していることと,私がこのタイプの作品に求めていることとが違うのだろう。描かれている内容は2つだ。一つは社会的に問題となっている児童虐待のひどさである。もう一つは,法律事務所に就職する前に臨時で働いていた児童福祉館で関わった幼い姉弟を結果的に裏切ることになった心優しい弁護士が,その後,その姉弟が継母から虐待を受け,弟のほうが亡くなったというニュースを目にすることによって正義に目覚め,奮闘する姿である。この作品を観た観客の多くは虐待された子供たちと,彼らのために立ち上がった弁護士に共鳴するだろうし,私もそのような観客の一人ではある。そして,この酷い母親は裁判で裁かれることになり,観客はある種のカタルシスを感じる構成にはなっている。いわゆる「泣ける映画」なのだ。しかし,私にはこの作品には映画として決定的に足りないものがあるように思われるのだ。それは虐待を繰り返す継母の内面であり,それがほとんど描かれていないことである。チャン・ギュソン監督が制作したかったのは「泣ける映画」なのか,あるいは冷酷非道な女性の内面を描くための想像力が欠如していたのか,それは分からないが,私には物足りない映画ではあった。

 最近の映画を観る手段はNetflixかVODかNHKBSプレミアムなのだが,Netflixで観る作品のジャンルはサスペンスやミステリー映画が多い。今月前半(2022年9月前半)もそのジャンルの作品を3本観たのでちょっとした感想と私なりの評価を書いてみた。評価は★と☆で表し,★1つを1点とし,5個が満点,☆は0.5点とした。

 

1. ウィークエンド・アウェイ(2022年 アメリカ)Netflix

監督:キム・ファラント

キャスト

 レイトン・ミースター(ベス)

 クリスティナ・ウルフ(ケイト)

 ジアド・バクリ(ザイン)

 ルーク・ノリス(ロブ)

 

 夫ロブに幼い娘の世話を頼みベスは久々にクロアチアに住む親友ケイトを訪ねる。そして,彼女は女2人で旅行を楽しむのだが,ケイトに強引に誘われて繰り出した旅先のクラブで出会った2人組の男たちと4人で酒を飲むうちに酔って記憶を失ってしまう。翌朝,ホテルで目覚めたベスはケイトの姿がないことに気づく。彼女は突然姿を消してしまったのだ。警察に相談をしに行っても相手にしてもらえないベスは自らケイトの行方を捜し始めるのだが,嘘と裏切りが渦巻く出来事に巻き込まれていく。

 

 サスペンス物でよくある,突然疾走した人物を捜し求めるストーリーで,二度のどんでん返しがあるのだが,一度目のどんでん返しは「ちょっと無理かもね」という手法で,二度目のそれはよくあるパターンで陳腐。全体が中途半端な作品で,TVドラマレベル。

 

ストーリー展開 ★★☆

どんでん返しのインパクト ★★

伏線の回収 ★★★★

サスペンスとしての満足度 ★☆

 

2. 嵐の中で(2018年 スペイン)Netflixオリジナル

監督:オリオル・パウロ

キャスト

 アドリアーナ・ウガルテ(ベラ・ロイ) 

 チノ・ダリン(レイラ警部補)

 アルバロ・モルテ(ダビド)

 フリオ・ボイーガス=コウト(ニコ・ラサルテ)

 

 

 25年前の少年を救ったことで現在の自分の人生が変わってしまった女性が,存在の消えた愛娘を取り戻すべく奔走する姿を描いたスペイン製SFサスペンス。1989年の嵐の夜。隣人男性が妻を殺害する現場を目撃した少年ニコは,男性から逃げようと外に飛び出し,車にはねられて死んでしまう。25年後,看護師のベラは夫ダビドや幼い娘グロリアと一緒に,ダビドの友人アルトルの近所の家に引っ越してくる。そこはかつてニコが住んでいた家で,アルトルはベラたちに25年前の事件について話す。その日の深夜,嵐の中で時空にズレが生じ,ベラは古いテレビを通じて事件直前のニコと対面する。外へ行かないよう忠告してニコの命を救うベラだったが,翌朝目を覚ますと,彼女の人生はすっかり変わっていた。「ジュリエッタ」のアドリアーナ・ウガルテが主演を務め,「永遠に僕のもの」のチノ・ダリン,「マーシュランド」のハビエル・グティエレスが共演。(「映画.com」より)

 

 この映画のポイントは,人生が全く変わってしまい(一緒に眠りについたはずの娘のグロリアが行方不明になったばかりでなく,周囲の人たちはそんな子供など存在しないと言ったり,夫のダビドも彼女のことを知らない人だと言ったり,看護師だった主人公が有能な医師になっていたり…)主人公ベラの存在している空間がどこなのかということと,1989年と25年後の2014年をどのように結びつけるのかということ,それにニコが目撃した犯罪がどのように絡むのかということだ。もちろん,現実には起こりえないことなので,映画の中でそれらを描くトリックがどの程度不自然でないかという点にサスペンス映画としての成否がかかっている。伏線も回収されており,見ている側にとってあまり混乱はしないが,「まあ,それしかないよね」と思わせてしまうところがインパクトの弱さを露呈した作品であろう。有名なサスペンス映画『バタ○○○・○○○ト』を思い出してしまった。どんでん返しもあるのだが途中でなんとなく分かってしまった。

 

ストーリー展開 ★★★

どんでん返しのインパクト ★★★

伏線の回収 ★★★★

サスペンスとしての満足度 ★★★

 

3. 記憶の夜(2017年 韓国) Netflixオリジナル

監督:チャン・ハンジュン

キャスト

カン・ハヌル(ジンソク)

キム・ムヨル(ユソク)

 

 

 ソン一家は父母,ジンソク,ジンソクの兄のユソクの4人家族だ。物語はその一家が新居に引っ越す途中の車の中,ジンソクが悪夢から目を覚ますところから始まる。やがて,一家は新居に到着するが,ジンソクは新居の建物に漠然とした既視感を覚える。新居ではジンソクの部屋になるはずの一室が以前の住人の荷物で占拠されており,父親から一ヶ月ほどしたら前の住人が取りに来るのでそれまではユソクと同じ部屋を使うように言われる。また,その住人から部屋の中を見ないように言われているとも…。そんなある夜,ジンソクの目の前で兄のユソクが数人の男たちに誘拐され,行方不明になる。警察に相談しながら兄の帰りを待っているソン一家だが,19日経った日にユソクが無事に戻ってくる。しかし,戻ってきた兄はその19日間の記憶が全くなく,さらに帰ってきてからの兄の様子は以前とは少し異なっていることにジンソクは気づく。ユソクは偽物なのか?ジンソクの疑念は強くなり,ある夜,家を出て行った兄を尾行する。そして,ジンソクが見たものは…。

 

 いったいこの家族に何が起こっているのか,観客はわけも分からぬままにドンドン映画に引き込まれていく。このあたりの展開の持って行き方は本当にウマいなあ~。そして終盤のどんでん返し。「え~!そうなの!」としか言い様がない。本作のポイントは「記憶」,そして時系列のトリック。サイコスリラー。まあ,若干無理なところもあるが,そこは納得しよう。難点を言えば,終盤の展開がやや冗長なところかな。

 

ストーリー展開 ★★★★

どんでん返しのインパクト ★★★★☆

伏線の回収 ★★★★

サスペンスとしての満足度 ★★★★☆

 

監督:ミシェル・アザナヴィシウス

キャスト:

ベレニス・ベジョ(キャロル)

アブドゥル・カリム・ママツイエフ(ハジ)

アネット・ベニング(ヘレン)

マキシム・エメリヤノフ(コーリャ)

 

  2022年2月24日,ロシアがウクライナに軍事侵攻し,ウクライナ戦争が始まった。あの日から昨日で半年が経過した。当初,新聞,テレビなどの報道機関は連日この戦争の様子を大きく取り上げていたのだが,最近ではあまり報道されなくなり,私たちの関心もかなり薄れてきているようにも思われる。戦争が終わったわけではない。むしろ,長期化する様相さえ呈しているようにも思われるのだが…。

 映画『あの日の声を探して』は,第2次チェチェン戦争の悲劇を,戦争に翻弄される9歳の少年の姿を通して描いた映画である。フリージャーナリストの常岡浩介は『ロシア 語られない戦争』(アスキー新書)の中で次のように述べている。

「チェチェンは,カフカスのほぼ中央に位置する,四国より少し小さい面積のクニだ。90年代初めの時点で100万人程度の人口があったといわれる。そのカフカスとはどこかと問われると,黒海とカスピ海の間,ロシアとトルコ,イランの間にある地域で,大カフカス山脈を挟んで北カフカスと南カフカスに分けられる。アジアと欧州と中東の狭間にあって,アジアでも,欧州でも,中東でもない。

  アジアでも欧州でも中東でもないという位置の問題は,歴史的には様々な文化交流の舞台となり,軍事的要衝ともなってきたものの,現代のチェチェン戦争においては,チェチェン人にとって不利に働いてきた。つまり,欧州人にとっても,中東人にとっても,アジア人にとっても,チェチェン戦争はよそ事にすぎなかったのだ。… 世界のどこからもよその世界の出来事とみなされてしまうということが,これほどのむごたらしい惨劇が延々と続いていながら,チェチェン戦争をして,現代の『見捨てられた悲劇』にしてしまった。」(pp.13-15)

 ミシェル・アザナヴィシウスは,この映画を通じて戦争の残虐さを描いているのだが,それだけではなく,戦争に対して無関心を決め込む私たちをも告発しているかのようなのである。

 

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(以下は以前Yahoo!ブログに掲載した記事の再掲です。ほとんど映画の内容を紹介しているに過ぎませんが,この映画が伝えようとしているメッセージは忘れるべきではないと思われますので再掲したいと思います。なお,ほぼネタバレなので,未鑑賞の方は閲覧にはご注意ください。

 

 1999年9月,ロシアはテロリスト掃討という名目のもとにチェチェンに空爆を開始,続いて地上軍を派遣する。第2次チェチェン戦争の始まりだ。映画は,真っ暗な画面に男の声だけが聞こえるというシーンから始まる。男が「写らねぇ」といった瞬間,牛の死骸がビデオ撮影の画面に写る。男の声が続く。「ここはでっかいクソ溜,チェチェンだ。」男はビデオカメラを回しているらしく,映画のスクリーンには男がビデオカメラで撮っている映像が続く。建物が燃えており,どうやら戦闘のあとの様子を撮っているようだ。やがて,ビデオの画面は兵士たちに尋問されている3人の男女の姿をとらえる。一人の兵士が何度か激しく罵った後,突然尋問されている中年の男を射殺する。妻らしき女が兵士に「人殺し!」と叫んだとたん,その女も射殺される。夫婦の娘らしき若い女が泣き叫ぶなか,ビデオの画面は暗転し,通常の映画の画面へと切り替わる。少年が赤ん坊を抱きかかえて建物の窓から先ほどの光景を見ている。少年の名はハジ。ハジは自分の両親が目の前で殺される瞬間を見てしまったのだ。そしてその衝撃で声を失う。ロシア軍がいなくなったころを見計らって,ハジは赤ん坊の弟を見知らぬ人家の前に置いてロシア軍から逃れるべく放浪する。ある街にたどり着き,いったん赤十字国際委員会に保護されるも,そこを抜け出しさまよう。その街では,EU人権委員会の職員キャロルが仕事をしている。街をさまよっているハジとキャロルは偶然出会う。キャロルはハジを自分のアパートに連れて帰り,世話をする。声が出なくなって話すことができないハジは,ただただ暗い表情を浮かべるばかりだ。キャロルはハジの境遇をある程度理解しながらも,ハジは容易に心を開かない。キャロルは,赤十字国際委員会で働いている女性ヘレンにそのことで相談しに行ったりもするが,逆に批判されることにもなる。

 この映画では,ハジとキャロルの話と平行してもう一つの物語が進行している。チェチェンから2300キロ離れた,ロシア連邦ペルミ市に住んでいる陽気な大学生コーリャは,ある日,微罪で警察に職務質問をされ逮捕される。彼は刑務所行きを免れるが軍隊に強制入隊させられ,チェチェンから33キロのモズドクに送られる。モズドクはチェチェン攻撃の拠点であり,戦闘で死亡したロシア兵がヘリで送り返されるところでもある。コーリャはその死体処理の任務を命じられるとともに,軍隊内の絶対的なヒエラルキー,日常的に行われる理不尽な暴力,いじめを経験していくなかで元の陽気さを失い,殺人機械へと変貌していく。この変貌ぶりをマキシム・エメリヤノフは見事に演じきっているが,戦争の持つ悲劇は,無数のハジとその家族を生み出すだけではなく,一人のごく平凡な若者が暴力しか信じることのできない殺人マシンに変貌していく狂気でもあるというアザナヴィシウスの明確なメッセージを,私たちは読み取ることができる。

 映画の進行とともにハジは徐々にキャロルに心を開いていく。たまに笑顔も見せるようになる。ある日,キャロルはハジに絵本を見せながら,「熊を見たことがある?あったらウイ,なかったらノンよ」と言う。ハジは「ウイ」と答える。話せるようになったのだ。そして,キャロルは大きな決断をする。

 この映画には,ハジ(&キャロル)とコーリャの物語だけではなく,ロシア兵に殺されたと思っていたハジの姉が,分断された家族を取り戻すため,赤ん坊の弟を抱きかかえてハジを探し回る物語も絡んでいる。はたして彼女はハジに会うことができるのだろうか?

 コーリャがチェチェンの戦闘地域に送られることが決まる。コーリャはもはや以前の陽気な男ではない。喜んで戦場に赴き,殺人マシンとして「果敢に」戦う男になっている。ここで,平行線をたどったまま交わることがなかったハジの物語とコーリャの物語が出会い,物語は冒頭に回帰していく。しかし,アザナヴィシウスはこの戦争に対する怒りをぶつけるかのように突如として映画を終了させるのである。

 

 戦争は誰にとっても悲劇をもたらす。ほとんど交わることのない二つの物語を通じて,アザナヴィシウスはそのことを私たちに教えている。一方では,私たちから大切な人たちを奪い,他方では,ごく普通の人間が殺人マシンにさせられる,ということを。

 さらに,この映画のなかで印象に残っている会話がある。キャロルとヘレンの会話だ。

 キャロル「EUがやるべき緊急対策は?」

 ヘレン「世界が注目してるとわからせること。」

 キャロルはEUの外務委員会の公聴会でチェチェン戦争の現状についてレポートする機会を得る。しかし,出席している委員たちはチェチェン戦争にまったく関心を示さない。先進国の無関心。アザナヴィシウスの告発は無関心を決め込んでいる私たちに対しても向けられているようだ。

監督:瀬々敬久

キャスト

菅野美穂(石橋留美子)

高畑充希(石橋加奈)

尾野真千子(石橋あすみ)

柴崎楓雅(石橋優)

外川燎(石橋悠宇)

阿久津慶人(石橋勇)

和田聰宏(石橋豊)

大東駿介(石橋太一)

 

 住んでいる場所も家庭環境も異なる3組の母と小学5年生の親子の物語。この3組の親子の人生はラストまで交錯することはなく,それぞれの物語が交互に描かれていく。いわばオムニバス形式の作品である。この3組の親子に共通するのは“石橋ユウ”という名前の小学5年生の息子がいるということである。静岡に住む石橋あすみは36歳の専業主婦で,新幹線で東京の会社に通勤している年下の夫がいる。神奈川に住む石橋留美子は43歳のフリーライターで“ユウ”とその弟の2人の子供を育てており,夫はフリーのカメラマンである。大阪在住の石橋加奈はアルバイトを掛け持ちする30歳のシングルマザーで,元夫は女を作って逃げたらしい。

 

 

 瀬々敬久監督の作品は過去『菊とギロチン』,『64 ロクヨン』を観たことがあり,『菊とギロチン』がとても素晴らしかったので今回鑑賞することに決めた次第である。で,感想はと言うと,「ウ~ン,イマイチ…」であった。

 映画の内容をひと言で言うと,「子供の母親への不信と親子の再生」ということだろう。3人の“ユウ”はそれぞれの母親への不信感をつのらせ,親子の激しい葛藤へと発展していくのだが,このプロセスがあまり伝わってこないのだ。母親は置かれた環境の違いからその表現の仕方は異なるものの,それぞれ自分の子供に精一杯の愛情を注いでいるように見える。たしかに,あすみは自分の人生に少し自信なさげなところもあるし,留美子は弟をいじめてばかりいる“ユウ”にイラだっているだけではなく,ライターとして新しく始めた仕事を抱えてもいる。また,貧しいシングルマザーである加奈は“ユウ”と自分の生活を支えるために2つのアルバイトを掛け持ちしているために“ユウ”と一緒に過ごす時間をあまり持つことができない。しかし,たかだかその程度のことでなぜ子供が母親不信になるのだろうか? 私にはよく理解できないのだが,このような疑問は昭和の価値観からくるものなのだろうか?おそらく,子供はもっと微妙な何かを感じ取っているのだろう。そうだとすれば,その点をこそ丁寧に描いてこその映画ではないのだろうか。思うに,瀬々敬久監督は3組の親子,それもある意味現代日本の典型的な3種類の家庭環境にある親子を取りあげるというアイデアに嵌まり込みすぎて,それぞれの親子関係の微妙なあり方を描くという点が希薄になってしまったように思われるのである。その意味ではこのオムニバス形式は失敗であったと言わざるを得ないだろう。一組の親子だけをとりあげ,母親の愛情の示し方と,それを受け止める子供の微妙な感情のすれ違いを描いた方が説得力のある作品になったのではないだろうか。少なくとも私にはそのように思われる作品であった。

 物語はお決まりの「親子の再生」へと続くのだが,この箇所も親子の葛藤の描き方の希薄さを反映したご都合主義に流れてしまっており,やはり「ウ~ン,イマイチ…」と言わざるを得ないのである。

 ところで,この映画に登場する3人の母親の連れ合いの男は,マザコンに不倫常習男,それに映画に登場しないが女を作って逃げた男…おしなべて全く家庭を顧みないろくでなしばかりなのだが,むしろ現代の病理はそちらにあるのではないだろうか。