監督:濱口竜介

 

キャスト

第1話 「魔法(よりもっと不確か)」

  古川琴音(芽衣子)

 中島歩(和明)

  玄理(つぐみ)

第2話 「扉は開けたままで」

  渋川清彦(瀬川)

  森郁月(奈緒)

  甲斐翔真(佐々木)

第3話 「もう一度」

  占部房子(夏子)

  河井青葉(あや)

 

(ネタバレあり)

 三話からなるオムニバス形式であるということと,「偶然と想像」というタイトルに惹かれて鑑賞してみた。この監督の作品はアカデミー賞作品賞にノミネートされた『ドライブ・マイ・カー』を観たことがあり,映画作りの巧みさには感心したものの,あまりしっくりこなかった印象があるのだが,それは肝心なところをほとんどセリフ回しで展開していくというところに原因があるように思われたからである。では,この『偶然と想像』はどうだったのかというと,ゲンナリするほどセリフ過多の作品であった。映画は映像で語るべきであるというのが私の考えなのだが,『偶然と想像』に出てくる登場人物たちはとにかくよくしゃべるのだ。いや,それだけだと言ってもよいだろう。

 

第1話「魔法(よりもっと不確か)」。

  観客は冒頭からタクシーの中での2人の若い女の恋の話を延々と聞かされる。一方の女(つぐみ)が最近知り合った男とどのように付き合っていけばよいかという話を相手の女(芽衣子)にしているのだが,どうもその男は芽衣子が2年前に別れた男のようなのである。たしかに「偶然の出会い」であるが,聞き役の芽衣子はそのことを打ち明けず,ツグミがタクシーを降りたあと,突然芽衣子の恋の相手である男(和明)の事務所に押しかけていき棒読みに近いセリフで禅問答のような会話を延々と繰り返すのである。自分たちが別れた経緯とか,ツグミとの関係をどうするのかとか,現在和明が自分(芽衣子)に対してどんな気持ちでいるのかといったことを…。セリフの棒読みもこの「禅問答」も監督の意図的な手法だとは思うのだが,私にはほとんど伝わってこなかったのである。芽衣子はなぜそんな行動をするのだろう?用がなくなって捨てたものを他の誰かが自分のものにしたとたん,惜しくなってしまったのか?だからといって,2年も前に別れた男のところにわざわざ乗り込んでいく必要があるとは思えないのだが,もしあるとすれば,その必要性を映像によって説得力を持たせて描いてこそ映画なのにセリフ回しで伝えようとしても,それは無理というものだ。観客,少なくとも私にとってはいきなり目の前に現れた自意識過剰な女が自分に都合のいいことをペラペラしゃべっている光景にしか見えないのだ。そして「想像」。ラストシーンで芽衣子は自分とつぐみ,それに和明の関係についてある想像をするのだが,そんなことはどうでもいいのではないだろうか。

 

第2話「扉は開けたままで」。

  授業やゼミをサボっていたために大学教授に落第させられた男子学生が付き合っている女子学生を使ってその教授にハニートラップを仕掛ける話。この女子学生は結婚していて男子学生とは不倫関係にあるのだが,映画の中心はその女性と教授が研究室で交わす会話にある。教授は50代で最近芥川賞を受賞したのだが,彼女は彼の著書の中のかなりきわどい性描写の部分をしつこく朗読するのだ。教授は彼女のそのようなハニートラップには乗らなかったのだが,またしてもセリフによる会話が続く。教授がどんな気分で彼女の朗読を聞いていたのかとか,私(女性)の生い立ちがどうのこうの…。

  彼女は教授との会話を録音しておいたことを打ち明けるのだが,彼女の朗読に心を癒やされたと語る教授はその音源をもらえないかと言う。彼女はある条件と引き換えにそれを承知する。この流れの会話に私はまったく乗れなかったのだが,特に彼女が出した条件の意図がまったく理解不能であった。

  「偶然」と「想像」はこの後に起こり,その「偶然」のために彼女は人生の失敗を招くことになる。しかし,仮に教授がハニートラップに乗ってきていたとしても,それを公表したとたん,彼女の人生は同じ運命をたどっていたはずで,彼女はなぜそのハニートラップを引き受けたのだろう?その辺りの事情や彼女の気持ちは無視?

 

第3話「もう一度」

 2人の女性が20年ぶりに偶然「再会」する。2人は高校時代の「クラスメート」なのだが,話をしているうちに人違いだということが分かってくる。一人は独身のキャリアウーマンで,もう一人は家庭の主婦。二人ともそれなりに幸せそうな境遇のようなのだが,どこか満たされないものを抱えている。二人とも高校時代にあこがれていた女性の思い出を語り,ついにはロールプレイでそれぞれがその女性の代役を演じることによってその満たされない部分が満たされるのである。勘違いによる「再会」が「偶然」,そこに存在しない高校時代のクラスメートに思いを馳せることが「想像」ということなのだろう。

 不幸ではないけれど,どこか満たされないものを抱えている人生。その空白を人はどのようにして埋め合わせるのか。仕事に打ち込むことによってなのか?子育てによってなのか?このテーマ設定は分からなくもない。しかし,初めて会った人間同士がひたすらお話しをすることによって心が通い合っていき,その空白が満たされるという描き方には無理があるのではないだろうか。もちろん,監督はそんなことは百も承知の上でこの状況を設定しており,その意味では実験的な描き方と言えなくもないのだろうが,私にはほとんどリアリティが感じられなかった話である。

 

 三話とも私たちの人生の中で起こらないとも言えない出来事かもしれないし,ひょっとしたらそのような状況を想像することもあるかもしれない。しかし,ただそれだけなのだ。それを突き抜けた向こうに何があるのかがほとんど見えない映画であった。評価の分かれる作品だとは思うが,おそらく私にはこの監督の語りの多い私小説風の映画が肌に合わないのだろう。

 

監督:フランシス・フォード・コッポラ

キャスト

マーロン・ブランド(ウォルター・E・カーツ大佐)

マーティン・シーン(ベンジャミン・L・ウィラード大尉)

ロバート・デュバル(ビル・キルゴア中佐)

 

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ベトナム戦争が激化する1960年代末。アメリカ陸軍のウィラード大尉は,軍上層部から特殊な任務を与えられる。それは,カンボジア奥地のジャングルで軍規を無視して自らの王国を築いているという,カーツ大佐を暗殺するというものだった。ウィラードは部下を連れてヌン川をさかのぼり,カンボジアの奥地へと踏み込んでいくが,その過程で戦争がもたらす狂気と異様な光景を目の当たりにする。(「映画.com」の一部を抜粋)

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 『地獄の黙示録』を観た。この映画は公開当時劇場で観た記憶があるが,今回再鑑賞しようと思ったのはあるブロ友さんがこの映画の原作とも言われているジョゼフ・コンラッドの『闇の奥』の書評をブログで書いておられたからである。私も早速新訳として紹介されている新潮文庫の『闇の奥』を読んでみて,久しぶりにこの映画を観たいと思ったのである。

 『闇の奥』については書評を書く機会があれば書くとして,今回は映画『地獄の黙示録』を中心にその感想を述べてみたい。

 ネットの情報によれば,この映画について「前半100点,後半0点」と評した評論家がいるらしいのだが,以前この映画を観たときには私もそれに近い感想を持ったような気がする。要するに,ベトナム反戦映画なのに後半のカンボジア奥地のジャングルで王国を築いたカーツ大佐の話に少々戸惑ったのだろう。しかし,今回再鑑賞してみてこの映画に対する見方がまったく変わってしまったのである。

 カーツ大佐が軍規を無視してカンボジア奥地のジャングルに入っていった動機は,アメリカの軍部の欺瞞性とその軍部が行っている戦争に絶望したからである。映画の進行につれてそれは徐々に明らかになる。しかし,ジャングルの奥地でウィラード大尉が出会ったカーツはしきりに「恐怖」という言葉を口にする。

 「私は恐怖を見た,君が見た恐怖を。君に私を殺人者と呼ぶ権利はない。私を殺す権利はあるが,私を裁く権利はない。恐怖を知らぬ者に,言葉だけで何が必要なのか,説いてわからせようとしても,それは不可能だ。恐怖,恐怖には顔がある。それを友とせねばならない。恐怖と,それに怯える心を友とせよ。さもないと,この二つは恐ろしい敵となる。」

 死ぬ間際にもカーツはかすかに「恐怖だ。恐怖だ。」とつぶやく。では,カーツが見た「恐怖」とは何なのか?映画の中でそれが具体的に語られることはない。おそらくコッポラは観客にそれを感じて欲しいと言っているのだろう。そして,私にはカーツが見た「恐怖」とは「近代的理性主義の敗北」ということのように思われたのだ。

カーツがウィラードに語った衝撃的な話がある。

 「特殊部隊にいた時のことだ。まるで何世紀も前のことの様に思える。収容所で予防接種をした。子供達にだ。ポリオの予防接種を終えて収容所を出ると老人が泣きながら後を追ってきた。戻ってみると,予防接種した腕をベトコンが切り落とした後だった。山の様に積まれていた。子供の腕が。今でも覚えている。私は大声をあげて泣きじゃくった。…そして悟った。…彼らの資質に驚愕したんだ。迷いのない強い意志だ。…彼らは私たちより強い。…信念を持って戦い,妻も子もいる。愛情に溢れている。なのに暴虐的行為を一切ためらわない。…真の精鋭とは,モラルがある。それでいて一方では感情がなく,何の興奮もなく,原始的な殺戮本能を発揮できる人間だ。理性的判断力も行使しない。」

 この衝撃的な出来事を目の当たりにしてもカーツは「近代的理性」の勝利を疑わなかったのであろう。カーツはカンボジア奥地のジャングルに住む現地人に近代的理性を説いたのかもしれない。そして,その「王国」はそれによって築かれるはずのものであった。しかし,その王国には至る所に死体があり,切り落とされた人間の首が転がっているのだ。

 子供の腕を切り落としたベトコンと同じく,人間には「光と影」がある。カーツが告白するシーンで,カーツの顔の半分に光が当たり,半分が影になっているのはそれを象徴しているのであろう。しかし,カーツには人間の本質は影のほうにあるということがはっきりと見えたのだ。まさにカーツ自身がそのような存在であった。「近代的理性主義」などというものはまやかしだ。戦争も残虐行為も決して終わることはないだろう。これを「恐怖」と言わずして何と言えばいいのだ?カーツの絶望の深さは彼に死以外の選択を許さなかった。そして,軍の任務を遂行することだけが自分の使命だと考えていたはずのウィラードはカーツの絶望を共有する。ラストの打ちのめされたように呆然として歩くウィラードの姿こそ「恐怖」を知った人間の姿なのだ。

 『地獄の黙示録』はベトナム戦争を素材にして「近代的理性主義」に疑問を突きつけた映画なのであった。

監督:河瀬直美

キャスト

永作博美(栗原佐都子)

井浦新(栗原清和)

蒔田彩珠(片倉ひかり)

浅田美代子(浅見静恵)

 

 

(ネタバレの感想です。閲覧注意。)

 特別養子縁組で子供を授かった夫婦と子供の産みの母親の姿,それにこの両者の関わり合いを描いた,いわゆるヒューマンドラマ。映画の構成は内容から見て大きく3つのパートに分かれている。(これは私の見方であって,映画にPart1,Part2,Part3と明示されているわけではない。)最初のパートでは子供を授かってから6年後の親子3人(栗原清和・佐都子夫妻,それに養子となった朝斗)の幸せそうな現在の生活の姿を中心に,この夫婦が特別養子縁組で子供を授かるまでの過去のプロセスが随所に挿入される。医師から,清和に無精子症の可能性があるため子供を持つことがほぼ不可能なことを告げられた時の夫婦の絶望感,それでも互いにいたわり合う夫婦の姿,一縷の望みをかけての治療,諦念,テレビの番組で偶然養子縁組制度を知り男の子を迎え入れようという決心…。それらがとても丁寧に描かれており,大いに説得力のある映像になっているのである。

 そして,ある日,6年前に朝斗を産んだ「片倉ひかり」を名乗る女性から「子どもを返してほしいんです。それが駄目ならお金をください」という電話が突然かかってくる。

 2番目のパートでは,中学生でいろいろなことをよく理解しないまま恋愛した結果妊娠した片倉ひかりが6年後に栗原夫婦に電話をかけてくるまでの姿が描かれる。彼女は特別養子縁組を仲介する「ベビーバトン」という,瀬戸内海の島にある施設で子供を出産し,その子を栗原夫妻のもとに養子に出すのだが,その後の彼女を待ち受けていたのは過酷な人生であった。ウ~ン,率直な感想を言うと,私はこの部分の描き方になんとも言えぬ違和感を持ったのだ。たしかに中学生で妊娠してしまうような体験をした少女が何事もなかったかのように生きていくことは難しいだろうという想像はつく。しかし,そうであれば,それに説得力を持たせるためには一つ一つのエピソードを丁寧に積み重ねて描く必要があるのではないだろうか。親子の葛藤,相手の中学生の男の子とのその後の関わり,学校での他の生徒との関わり,世間の目など…。もちろん,その点が全く描かれていないとは言わないが,最初のパートで描かれたような丁寧さはどこかに置き去りにされたかのようなのだ。その大きな原因は過剰と言ってもいいほどに挿入される美しい自然の風景にあるように思われる。最初,この風景は何かのメタファーなのかとも思ったが,あまりにも過剰なので,私は重いテーマを軽く見せようとする監督の意図を感じてしまったのだ。もしそうだとすれば,これらのシーンにはほとんど何の意味もないのであって,むしろ監督自身が自分の撮っている作品のテーマと正面から向き合っていないことを象徴しているようにしか思えないのである。

 このようなスタンスは最後のパートにおいてご都合主義的なエンディングとなって表れる。ひかりは新聞配達の仕事をしているのだが,そこで知り合った女性の街金からの借金の連帯保証人になっていて,その返済をやくざ風の男たちから迫られる。おそらく栗原夫妻にカネを要求したのもその返済をするためなのだろう。栗原夫妻は,生まれた子どもへの手紙を佐都子に託す心やさしい少女だった6年前のひかりと目の前にいる女が同一人物だとは思えず,そのような要求に応じるわけがない。ひかりは目的を達成することなく追い返されるのだが,これに続く展開がどうにもご都合主義なのだ。

 そもそも,ひかりは何をしたかったのだろうか。カネをゆすり取りたかっただけなのか?それとも,母性に目覚めたのか?しかし,ひかりが養子に出した子供のことを思うなどといったシーンはそれまでにどこにも描かれてはいなかったぞ。結局,カネ目当てとしか思えないのだが,そこからあの「感動的な」エンディングにどうしたら繫がるのだ?この映画には肝心なところで唐突なシーンが出てくるのだが,あまりにもご都合主義に流れていないか。たとえば,あの新聞配達店の店主が急に昔の恋人が自殺した話をしだして,ひかりのことを心配しているんだと言って涙を流すシーンはあまりにも唐突すぎて「エッ,エッ,エッ?」としか思えなかったし,警察がひかりの行方を佐都子にたずねにやってくるシーンも不可解。普通,犯罪者でもなければ事件に巻き込まれたと思われる行方不明者でもない人間の捜索など警察はしないだろう。まあ,栗原家にやってきた女が片倉ひかり本人であることを佐都子に認識させ,あのエンディングにつなげるためのシーンなのだろうが,私にはかなり不自然にしか見えなかったのである。

 ひと言で評すると「竜頭蛇尾」という言葉が相応しい作品だと思うが,もちろん,感動物語が悪いと言っているのではない。それならそれで,自然な人間模様を描いて欲しいわけで,意味のない風景描写(はっきり言って139分の長編で間延びした印象になったのもこの風景描写の挿入に原因があると思われる)や唐突な展開でごまかさないで欲しいと思うのである。

 酷評に近い感想を書いてきたが,「ベビーバトン」を運営している浅見静恵役を演じた浅田美代子の演技はとても自然で好感がもてたということは付け加えておきたい。

監督:フランソワ・トリュフォー

キャスト

ジャン=ピエール・レオ(アントワーヌ・ドワネル)

パトリック・オーフェイ(ルネ・ビジェー・親友)

アルベール・レミー(ジュリアン・父)

クレール・モーリエ(ジルベルト・母)

 

 

12歳のアントワーヌ・ドワネルにとって,毎日は苦痛の連続であった。学校では成績も悪く,いたずら好きで先生に叱責される。家では厳しい母親と,稼ぎも少なくうだつの上がらない父親に囲まれた息の詰まる生活。寝袋にくるまって両親のケンカを聞かされる日々。ある日,登校中に親友のルネと出会い,学校へ行くのを止める。午後に母親が街中で見知らぬ男と抱き合っているのを見て視線が合う。母は帰宅せず,翌朝,前日の欠席の理由を教師に追及されて「母が死んだのです」と答えるが,欠席を知った両親が現れてウソがばれる。

そんな彼の楽しみは映画を観ることだけだ。しかしある日,尊敬するバルザックの文章を丸写しして提出した作文がばれて叱られ,弁護したルネが停学になる。アントワーヌも家を出て,金持ちのルネの家に隠れ住む。やがて金に困り,ルネと一緒に父の会社のタイプライターを盗む。換金できず,戻しに行った時に守衛に捕まる。父親が警察へ連行する。非行少年として少年審判所へ送られ,護送車の中で初めて涙が出る。母親が判事の鑑別所送りの勧めに応じたため,束縛された毎日を過ごす。母親がようやく面会に来るが「ここが似合いだよ」と冷たい。監視の隙に脱走。野を越え,海へ,海へ。初めて見る海は大きかった。海辺に立ちつくし,ふとこちらを向いたまま動きを止める。(「ウィキペディア」より)

 

(ネタバレ)

 「ウィキペディア」によると,原題のLes Quatre Cents Coups「400回の殴打,打撃」は,フランス語の慣用句faire les quatre cents coups「無分別,放埓な生活をおくる」に由来するらしい。大まかなストーリーは上に引用した「ウィキペディア」の記述の通りであり,映画ファンの間ではこれも周知の事柄であるが,この映画はトリュフォーの自伝的作品である。田山力哉編著『フランス映画史』(芳賀書店)の中にフランソワ・トリュフォーの言葉が引用されていて次のように語っている。

「私は自分の幼いころの,そして青春期の夢を描き出すために映画を撮るのだ。そしてそれは自分自身のためでもあるし,できれば人のためにもなればと思う。人を退屈させたり,また一部の人にしか語りかけないということを,私は自らに禁じている。私は何よりもまず納得させたいのだ。」(p.237)

 この言葉通り,この映画はトリュフォーの12歳の頃の大人に対する目線がそのまま映像化されている作品であり,それはトリュフォーがジャン=ピエール・レオを見いだしたときに約束されていたようなものだ。その目線とは,大人は誰も自分の話を聞いてくれないということだ。夫婦喧嘩の絶えない両親,有無を言わさず怒鳴りつける教師,パンを囓っただけで「右か左か?」と尋ね,「左」と答えるといきなり左手でびんたを食らわせる鑑別所の職員…。邦題にあるように,「大人は判ってくれない」のだ。特別の「おりこうさん」でないかぎり,あの年齢に戻って大人の世界を見た場合,大なり小なりアントワーヌの目線に同調できるのではないだろうか。要は,一歩踏み出す(踏み外す)かどうかだけなのだろう。アントワーヌは一歩踏み出してしまったことによって少年鑑別所送りになる。

 鑑別所に面接にきた母親はアントワーヌに言う。「私たちはお前を引き取らないからね。自分で勝手に好きなように生きていったらいいよ。」その翌日,アントワーヌは鑑別所を脱走し,走って走って海辺にたどりつく。海は行き止まりなのか,それともその向こうには何か希望があるのか?希望があるとすれば,そこにたどりつくにはどのようにすればよいのか?アントワーヌは2,3歩水に足を濡らしこちらを振り向く。そして,映像はそこでストップしてFin。その表情は大人たちに向かって「好きなように生きていくよ」という挑戦状のように私には思われた。そう,アントワーヌの母親は少年審判所の職員に言っていたではないか。「あの子はスポーツが嫌いで,好きなのは映画だけなんです。」それは感化院の非行少年あがりであるフランソワ・トリュフォーそのものなのであり,「できれば人のためにもなればと思う」と述べているトリュフォーの居場所のない少年・少女に向けたメッセージでもある。

 

 

★  下の引用は「ウィキペディア」からのものであるが,それを読むと,ラストのストップモーションについての私の上の解釈はトリュフォー自身の意図とも異なっているようである。しかし,作品は制作者の手を離れると作者の意図を離れて独自に存在するものなので,私は自分が感じたようにレビューしておくことにする。

 

「ウィキペディア」の記述は以下のようである。

このラストのストップモーションを見た日本の批評家の大部分が自殺の決意を読み取ったが,トリュフォーは否定し,振り返ることによって怒りや反抗ではなく「さあ,どうしますか」という観客への質問だったという。(『トリュフォー 最後のインタビュー』p.159)

1. ゲーム(1998年 アメリカ)

監督:デビッド・フィンチャー

キャスト

マイケル・ダグラス(ニコラス・ヴァン・オートン)

ショーン・ペン(コンラッド・ヴァン・オートン)

ジェームズ・レブホーン(ジム・ファインゴールド)

デボラ・カーラ・アンガー(クリスティーン)

 

投資家として成功したものの,離婚後,孤独な毎日を送っていたニコラスは48歳の誕生日に弟コンラッドに再会し,CRSという会社のゲームの招待状を受け取る。ニコラスは好奇心からそれに参加するが,その時から奇妙で不可解な事件が続発。命まで危機にさらし,そのあげく財産や邸宅まで奪われることに…。「セブン」に続いてデビッド・フィンチャー監督が放ったサスペンス・スリラー。不条理な恐怖と謎の連続が観る者を不安へ陥れる。(「映画.com」より)

 

 見終わった時の感想は「はあ?」という感じ。CRSという会社のゲームに参加した後ニコラスに降りかかるさまざまな出来事はとてもゲームだとは思えない。ニコラスには何が起こっているのかが分からないし,観客も同じだ。とにかく映画の展開に振り回されるのだが,終盤にきての大どんでん返し。いやちょっと待て,これはどんでん返しなのか?日本のTVのバラエティー番組でやっている「○○○○○ラ」じゃん。おい,ニコラス,笑っている場合じゃないぞ…。というわけで,個人的にはバカバカしい映画だった。

 

ストーリー展開 ★★☆

どんでん返しのインパクト ★

伏線の回収 ★

サスペンスとしての満足度 ★☆

 

★1つが1点。☆は0.5点。5点満点。

 

 

2. The Witch 魔女(2018年 韓国)

監督:パク・フンジョン

キャスト

キム・ダミ(ジャユン)

チョ・ミンス(ペク)

パク・ヒスン(チェ)

 

 

「新しき世界」のパク・フンジョン監督が最強アサシン少女の戦いを描き,韓国で大ヒットを記録したバイオレンスアクション。ある特殊な施設で育てられ,8歳の時に逃げ出したジャユン。記憶を失った彼女は,助けてくれた酪農家の娘として暮らすことに。それから10数年後。頭に異変を感じるようになったジャユンは,その手術費用と経済状況の厳しい養父母のため,賞金目当てでオーディションを受けることを決意。しかしテレビ番組であるマジックを披露したことから,謎の男たちに追われる身となってしまう。出演は「嘆きのピエタ」のチョ・ミンス,「サスペクト 哀しき容疑者」のパク・ヒスン,「新感染 ファイナル・エクスプレス」のチェ・ウシク。「のむコレ2018」(18年11月3日~,東京・シネマート新宿,大阪・シネマート心斎橋)上映作品。(「映画.com」より)

 

 サスペンスというよりは「映画.com」の紹介にあるようにバイオレンスアクション系の映画で,観る人によって評価が分かれる作品だろう。私の場合,バイオレンスはそれほど嫌いではないが,アクションシーンにはそれほどドキドキしない,というより退屈してしまうほうなので,この作品はイマイチだった。もっとも,どんでん返しという点では「お~,そうくるか!」と納得させられる映画で,伏線(と言えるかどうかわからないが)も回収されていると言える。キム・ダミのファンの人たちにとっては,前半と後半での彼女の変身ぶりは堪えられないだろう。エンディングはPARTⅡへの橋渡し的な描き方であったが,個人的にはスルーかな。

 

ストーリー展開 ★★★

どんでん返しのインパクト ★★★★

伏線の回収 ★★★

サスペンスとしての満足度 ★★☆

 

★1つが1点。☆は0.5点。5点満点。