監督:是枝裕和

キャスト

 福山雅治(重盛)

 役所広司(三隅)

 広瀬すず(山中咲江)

 満島真之介(川島輝)

 市川実日子(篠原一葵)

 松岡依都美(服部亜紀子)

 斉藤由貴(山中美津江)

 

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「そして父になる」の是枝裕和監督と福山雅治が再タッグを組み,是枝監督のオリジナル脚本で描いた法廷心理ドラマ。勝つことにこだわる弁護士・重盛は,殺人の前科がある男・三隅の弁護を仕方なく担当することに。解雇された工場の社長を殺害して死体に火をつけた容疑で起訴されている三隅は犯行を自供しており,このままだと死刑は免れない。しかし三隅の動機はいまいち釈然とせず,重盛は面会を重ねるたびに,本当に彼が殺したのか確信が持てなくなっていく。是枝監督作には初参加となる役所広司が殺人犯・三隅役で福山と初共演を果たし,「海街diary」の広瀬すずが物語の鍵を握る被害者の娘役を演じる。第41回日本アカデミー賞で作品賞,監督賞,脚本,助演男優,助演女優,編集の6部門で最優秀賞を受賞した。(「映画.com」より)

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 是枝裕和監督の『三度目の殺人』を観た。この映画は劇場公開時に観たことがあるので再鑑賞になるが,やはり衝撃的な作品である。是枝作品の特徴はとても微妙な部分に突き進んでいって,それを視覚化する点にあるというのが私の印象なのだが,この作品もまさにそうである。映画のポイントになる点をいくつかにわたって見ていくことにする。

 

(ネタバレ注意)

●真犯人は誰か?

 映画の冒頭,真っ暗の河原で一人の男が後ろからスパナで殴打され死亡する。さらにその男の死体はガソリンをかけられ火を付けられる。逮捕され拘置所に勾留されているのは殺人の前科のある三隅だ。弁護を引き受けた重盛はなんとか死刑を回避したいと思っているが,面会を重ねるたびに三隅の話はころころ変わるのである。金銭目的で殺した,被害者の妻である美津江の依頼による保険金目的の犯行だ,そしてついには自分は殺していないと言い出すのだ。

 被害者の男は小さな食品加工会社の社長で,三隅はそこの従業員だったのだが犯行があった少し前に彼は解雇されているのである。さらに,被害者の男には足に障害のある高校生の一人娘の咲江がいて,映画の展開とともに咲江は14歳の頃から実の父親による性被害を受け続けており,そんな咲江に寄り添っていたのが三隅であることがわかってくる。では,咲江が真犯人なのか,三隅が咲江の代わりに殺したのか,それとも二人の共犯なのか…?じつはその点は映画が終わっても藪の中なのだ。つまり,この映画は真犯人を捜すいわゆるサスペンス映画ではないのである。

 

●人は「器」として生まれてくるのか?

 この映画には三隅のことを「器」と形容するシーンがある。中身はカラっぽでいかなるものも入りうるということだろう。三隅だけではない。人は「器」として生まれてきて成長する過程のなかでその「器」に何を入れるのかということだろう。対極は「生まれてこなければよかった人間が存在する」という考えだ。三隅は殺された社長のことをそのように言う。いや,社長だけでなく,自分もそうだ,と。映画はこの問いに対してどのように答えているのだろうか。

 

●誰が誰を裁くのか?

 「誰を裁くかは誰が決めるのですか?」映画の終盤,咲江が重盛に言った言葉だ。そう,この映画が問いかけているのは「裁き」だ。三隅は死刑判決を受ける。ひょとしたら彼は冤罪なのかもしれない。しかし,問題はそこにはない。

 この映画には十字形が時折映し出される。ガソリンをかけられて焼かれた咲江の父親の焼け跡は十字形だった。三隅が飼っていた小鳥の墓を重盛が掘り起こすと小石が十字形に並べられていた。重盛が電車の中で居眠りをして見る夢の中に出てくるシーン。重盛,三隅,咲江の三人が積もった雪の上で寝転がるが,重盛は足を広げているのに対し,三隅と咲江は手を左右に伸ばし両足を閉じて十字の形になっている。言うまでもなく,これは処刑されたキリストの十字架を象徴している。三隅と咲江は十字架にかけられる人間なのだろうか。

 重盛が小鳥の墓の十字形について三隅に問うシーンがある。

重盛「あれはどういう意味があるんですか。裁こうとしたんじゃないんですか,罪

   を?」

三隅「裁くのは私じゃない。私はいつも裁かれるほうだから。」

 法は罪を犯した人間を裁く。三隅は死刑判決を受けた。いずれ国家によって裁かれるだろう。しかし,ひょっとしたら,それは生まれてこなければよかった人間として三隅が自分自身を裁くことなのかもしれない。三度目の殺人だ。

 法が裁かなくても本当に裁かれるべき人間は存在する。では,誰がその人間を裁くのか?三隅は本当に裁かれるべき人間なのか?咲江の父は裁かれたのか?映画は問いかけるが答えがないまま終わり,問いだけが残る。

 

 是枝監督の映画はたいてい答えを用意してはくれない。いや,答えなど出ない問いを発するのだ。カタルシス?それを期待するなら是枝作品は観ないほうがよい。監督が発しているメッセージはただ一つだ。「自分で考えろ」。

 昨年の10月16日以来,久しぶりにサスペンス映画の星取り表を作ってみました。

 

1. シャッターアイランド(2010年 アメリカ)

監督:マーティン・スコセッシ

キャスト

 レオナルド・ディカプリオ(テディ・ダニエルズ)

 マーク・ラファロ(チャック・オール)

 ベン・キングズレー(ジョン・コーリー医師)

 ミシェル・ウィリアムズ(ドロレス・シャナル)

 

 ボストンハーバー沖の孤島に犯罪者を収容するアッシュクリフ精神病院が建っている。1954年,収容されていた女性患者レイチェル・ソランドが忽然と姿を消すという謎の事件が発生する。レイチェルはかつて自分の子供3人を殺害したのだが,自分の子供はまだ生きていると信じ,その死体とともに生活をしていたということでこの病院に収容されていたのである。米連邦保安官のテディ・ダニエルズとチャック・オールは事件解決のためその精神病院を訪れるが,調査を開始したテディは連続して起こる不可解な出来事に病院そのものに何かの陰謀があるのではないかとの疑惑を深めていき,やがて事件は思わぬ方向へと展開していく…。

 

 登場する病院関係者がほぼ全員どこか怪しげな人物であるのに加えて,テディが収容されている患者の一人に密かに「逃げろ」と忠告されたり,ロボトミー手術がなされているのではないかという疑いがあったりと,病院全体にどことなく不穏な空気が漂っている。さらに,テディにはこの島に来た目的がもう一つあって,それはかつて自分の妻を殺害した放火犯のレディスという男がこの病院に収容されているので,その男に面会することである。しかし,彼のファイルデータは何処にも存在せず,他の患者たちにレディスのことをたずねても誰も多くを語らないのだ。そして,終盤,思いもかけない大どんでん返しの展開に「エ~!」となってしまったのである。

 この映画は2度観たほうがよいかもしれない。話の展開を知った上で観ると,ちょっとした場面が伏線になっていることがよくわかるからである。例えば,テディとチャックがフェリーで孤島を訪れる冒頭のシーンで,なぜかテディが異常に水を恐れているところなど…。

 

ストーリー展開 ★★★★

どんでん返しのインパクト ★★★★☆

伏線の回収 ★★★☆

サスペンスとしての満足度 ★★★★

 

★1つが1点。☆は0.5点。5点満点。

 

2. チェンジリング(2008年 アメリカ)

監督:クリント・イーストウッド

キャスト

 アンジェリーナ・ジョリー(クリスティン・コリンズ)

 ジョン・マルコビッチ(グスタヴ・ブリーグレブ牧師 )

 コルム・フィオール(ジェームズ・E・デイヴィス警察本部長)

 デボン・コンティ(アーサー・ハッチンズ)

 ジェフリー・ドノバン(J.J. ジョーンズ警部)

 マイケル・ケリー(レスター・ヤバラ刑事)

 

 行方不明になった9歳の息子を探す母の物語。

 1928年のロサンゼルス。その年のある日,クリスティンが仕事から帰ってくると息子のウォルターの姿が見えず,クリスティンは必死に息子を探すが結局行方不明のまま4カ月ほどが経ったころロサンゼルス市警からウォルターが見つかったとの連絡があり,クリスティンは急いで息子を迎えに行く。しかし,その子はどう見てもウォルターとは別人のようにしか見えないのである。ところが,本人に名前をきくと「ウォルター・コリンズ」とすらすら答えたため,とりあえずクリスティンは子どもを連れ帰るのだが,やはりその子は別人であるという確信を持つ。このあたりまではスリリングなサスペンスタッチで引き込まれたのだが,その後の展開はロサンゼルス市警の横暴さや,クリスティンが受けた理不尽な扱いなどが中心となり,サスペンスというより社会派映画という色彩が強く,私にはその部分に違和感が残った。ひと言で言うと,実話に基づく映画なのだが,当時の警察の横暴さやそれを暴く人々の行動がご都合主義的であまりリアリティが感じられず,アメリカの民主主義に対するかなり安っぽい礼賛にしか思えなかった。良くも悪しくもハリウッド的な映画である。

 

ストーリー展開 ★★★

どんでん返しのインパクト ★

伏線の回収 ★★★

サスペンスとしての満足度 ★★

 

★1つが1点。☆は0.5点。5点満点。

 

3. オキシジェン(2021年 フランス / アメリカ)

監督:アレクサンドル・アジャ

キャスト

 メラニー・ロラン(エリザベス・ハンセン)

 マチュー・アマルリック(声の出演 AIのミロ)

 マリック・ジディ(レオ・ファーガソン)

 

「クロール 凶暴領域」「ハイテンション」などで知られるフランスの鬼才アレクサンドル・アジャ監督が,「イングロリアス・バスターズ」のメラニー・ロラン主演で放つSFスリラー。狭い空間の中で目覚めた1人の女性。完全に記憶を失っている彼女は,自分が何者なのかも,何故ここにいるのかも思い出せない。ミロと名乗るAIに話しかけられた彼女は,ここが密閉された極低温ポッドであること,そしてポッド内の酸素は残り僅かであることを知らされる。酸素が底をつく前に脱出を図るべく,自身の記憶を必死で手繰り寄せる彼女だったが…。「007 慰めの報酬」「潜水服は蝶の夢を見る」のマチュー・アマルリックがAIの声を担当。Netflixで2021年5月12日から配信。(「映画.com」より)

 

 閉鎖ポッドの中で記憶をなくし,全身を縛られたまま目覚めた女性(エリザベス)が徐々に過去の記憶を取り戻しつつAI との対話を通して自力で脱出するためにもがく姿を描いた,いわゆるワンシチュエーション映画だが,展開がかなり平板で,同じくワンシチュエーション映画で公衆電話を舞台にしたジョエル・シュマッカー監督の『フォーンブース』ほどの面白さはなかった。

 

ストーリー展開 ★★★

どんでん返しのインパクト ★★

伏線の回収 ★★★

サスペンスとしての満足度 ★★

 

★1つが1点。☆は0.5点。5点満点。

  町山智浩著『「最前線の映画」を読む』(集英社インターナショナル)はvol.1~3まで刊行されており,私が読んだのはvol.1であるが,その第7章は「イランのウィリー・ローマン」と題されて,前回扱ったアスガー・ファルハディ監督『セールスマン』のレビューが掲載されている。

 

 

 さて,前回のブログ記事でも述べたように,この映画に対する町山智浩の批評のポイントは私の感想ではまったくと言っていいほど触れていなかった点を中心に展開されているので,町山の批評のポイントを確認しておこう。

 まず,町山は「ファルハディ監督の映画は,物語は明確だが,本当に意味することは暗号のように隠されている。そのように表現するしかない事情があるのだ」(p.75)と述べる。それは1979年のイラン革命において生まれた革命政権のありかたに起因するものであり,それについて町山は次のように述べている。

 「イスラム革命政府は今も文化や言論を厳しく統制している。映画も演劇も政府の検閲を受ける。政府のチェックを通過した脚本しか映画化は許されず,撮影現場にも役人が監視に来る。もちろん,完成した映画も審査を受ける。特に当局が厳しいのは体制批判だ。」(p.76)

  そして,政府批判のかどで20年間映画製作を禁じられただけでなく,国外に出ることも禁止され,自宅に軟禁されたジャファール・バナヒ監督の例に言及したあと,次のように述べる。

 「彼のようにならないよう,イランの映画人たちは,表向きの物語の下に,暗号のようにそっと本当のテーマを隠すようになった。アッバス・キアロスタミ監督の『友だちのうちはどこ?』(87年)など,子どもを主役にした映画にイランの社会問題を巧みに忍ばせた。フランコ独裁政権下のスペインでヴィクトル・エリセ監督が少女とフランケンシュタインの怪物の交流を描いた『ミツバチのささやき』(73年)に,抑圧された市民たちの不屈の魂を隠したように。」(p.76)

 以上の前提を述べたあと,町山は「『セールスマン』には何が隠されているのか」(p.77)として,この映画に隠されているポイントをいくつかにわたって指摘する。

 

●「崩れかかったアパート」

 町山によれば,このシーンから「観客はイランの経済状況を察する」(p.77)のであり,さらに,「エマドのアパートはイランの体制をも意味しているかもしれない。イラン政府がどんなにイスラムの伝統的制度を守ろうとしても,グローバルな経済はその足元から侵入してくる」(p.77)のだということになる。そして,「そうした西欧的な新しい価値観と,イスラム的な古い価値観の軋轢をファルハディ監督はいつも描いてきた」(p.78)と述べられる。

●リベラルな高校教師

 エマド(映画の字幕では「エマッド」と表記されていたが,町山の記述にしたがって「エマド」と表記する)に関するいくつかのエピソードから,町山はエマドについて「エマドは旧時代のマチズモ(男性優位主義)を克服したリベラルなインテリである。いや,そうあろうとしていた」(p.79)と述べる。

●「ハード・ワーキング・マン」

 映画の中でエマドが劇団で妻と共演するアーサー・ミラーの戯曲『セールスマンの死』についての考察。町山はこの戯曲をマチズモの終わりを描くとともに「アメリカンドリーム」の終焉を予言したものとし,ファルハディ監督は『セールスマンの死』は現代のイランを描くのに使えるという発想を持ったことを紹介する。「たしかに,アメリカ社会を批判する戯曲だから,反米的な政府は喜びこそすれ,禁じたりはしない。だが,これが,どのように現代のイランを映しているのか?」(p.81)

●なぜ警察に訴えないのか

 アパートの部屋に侵入してきた人間によってラナがケガを負ったことに関する考察。町山は次のように述べている。

「『レイプ』という言葉も出てこない。夫のエマドは『妻がレイプされたのでは?』と明らかに疑っているが口に出して尋ねない。妻は警察に届けないでくれと懇願する。警察で詳細に状況を聴取されること自体苦痛だし,厳格なイスラム法に支配された国では,レイプされた被害者は姦通罪を犯したと責められ,加害者は咎められないことも多い。イスラム法では姦通罪は石打ちの刑で殺されることになっている。」(pp.82-83)

●「牛」とウィリー・ローマン

 一人で犯人捜しを始めたエマドは消耗していき,高校の生徒たちにも激怒するようになる。「エマドは妻をレイプしたかもしれない犯人を捕まえられない自分に苛立っている。『男として情けない』と。それはエマドが自分にあるとは思ってもいなかった伝統的な男性主義だ。」(p.83)

 エマドは授業でダルウシュ・メールジュイ監督の『牛』(69年)を上映する。それは,愛していた牝牛がいなくなったことで狂気に陥り,ついには自分を牛だと妄想し,干し草を食むようになる農夫の話だが,町山によれば,『セールスマン』ではこの農夫にエマドが重ねられているのだということだ。さらに,エマドは『セールスマンの死』のウィリーと一体化し,農夫やウィリーと同様,周囲の人間の心情が見えなくなり,妻を襲った犯人をひたすら追い続ける男になっているのだ。

●誰がウィリー・ローマンか?(この部分は映画のネタバレを含みます)

 エマドがたどり着いた犯人は自分の父親と同じくらいの世代の老人だった。ここから町山はこの老人と『セールスマンの死』のウィリーとの類似性に言及する。例えば,その老人はけっして裕福そうには見えなかったが,ウィリー・ローマンが愛人にしていたのと同じように,稼いだわずかばかりの金を,エマドの部屋の住人だった女性に貢いでいたということや,結婚して35年になるということ,さらに,おそらくは,死んでしまうということであろう。また,老人の妻の「この人は私の人生そのものなんです」という言葉が,ウィリーの妻リンダが語るセリフと瓜二つということから彼女たちの類似性にも言及する。では,町山はその老人がウィリーだと言っているのであろうか。この点は曖昧だが,町山が言うこの映画の隠された意図とはそういう点ではなく,妻の気持ちよりも,自分の復讐しか考えていないエマドのマチズモだということだろう。町山智浩は次のように言っている。

「最もリベラルで,最もインテリで,イランの古い体質に反発していたはずの主人公エマドは,男らしさを守るために暴力で殺人を犯してしまった。ラナは予告通り,彼の元を去った。一人になったエマドは誰もいないアパートの電気を落とす。そうすると,まるで舞台のスポットライトが消えたように見える。この,エマドの部屋こそが,実はウィリー・ローマンの家,『セールスマンの死』の舞台だったのだ。

 『セールスマン』は,スマホやインターネットを使いこなすイランの都市生活者の心の奥に残る,古のマチズモを抉り出す。」(pp.86-87)

 

 町山智浩はイランのような独裁政権の国で体制批判的な内容を含む映画が検閲を通過するために映画制作者たちが行っている工夫として,表向きの物語の下にそっと本当のテーマを隠しているのであり,『セールスマン』の場合,隠されたテーマとはマチズモというイランに残っている古い価値観に対する批判であると言っているのだ。そして,そのテーマを暗号のごとく表現するために用いられているのがアーサー・ミラーの『セールスマンの死』だということなのだろう。

 いかにもリベラリスト町山智浩による批評としてとても分かりやすい解説である。実は私はこの映画の劇中劇で『セールスマンの死』が用いられていることの意図があまりよく分からなかったので,町山のこの指摘には「なるほど」と思わざるをえない面はあるのだが,その一方で,エマドが自分の妻に対して危害を加えた相手を追い続ける姿勢をマチズモと言い切ってしまうことには疑問を感じざるをえないのだ。自分の大切な人間が侮辱されたり傷つけられたりしたとき,警察がそれを扱ってくれないからといってその事件を曖昧にできない心性とは「男として」ということではないと思うのだが…。たしかに,エマドは周りが見えなくなっていったし,老人に対する扱いは酷いとは思う。しかし,それはマチズモとは関係のないことではないだろうか。実際,エマドはどうすればよかったのだろうか?そして,ラナはなぜあの老人を許したのだろうか?私はやはり,エマド,ラナ,老人,老人の家族の間にある微妙な関係の中で人はどのように振る舞えばよいのかということがファルハディ監督のテーマであったとしか思えないのである。

 たしかに,映画だけではなく,芸術一般はそれが制作された社会や時代の精神を反映しているものである以上,それを無視して論じることはできないとは思うが,その一方でそのような体制を越えて扱われるべき問題もあるはずだと思うのである。ファルハディ監督はアカデミー賞授賞式に欠席したのだが,そこで読み上げられた監督の手紙には「映画を通して,人は,違う国,民族,宗教の人々にある共通の物語を知ることができます」という文言があったということが町山のこの本でも紹介されている。では,この映画における「共通の物語」とはいったい何を指しているのだろうか。

 町山智浩著『「最前線の映画」を読む』(集英社インターナショナル)を読んだ。以前にも読んだ記憶があるので,おそらく再読である。この本は2018年刊行なので,「最前線の映画」といってもその当時の比較的新しい映画を取り上げてそれらについてのレビューを試みた書物である。取り上げられている映画は以下の20本で,私が観たことのある映画については★をつけてみた。

「ブレードランナー2049」,「エイリアン:コヴェナント」,「イット・フォローズ」,「ドント・ブリーズ」,「哭声/コクソン」,★「沈黙―サイレンス―」,★「セールスマン」,★「エル ELLE」,「シンクロナイズドモンスター」,★「サウルの息子」,「ルック・オブ・サイレンス」,★「ラ・ラ・ランド」,「ベイビー・ドライバー」,★「ダンケルク」,「アイ・イン・ザ・スカイ」,「ワンダーウーマン」,★「メッセージ」,★「マンチェスター・バイ・ザ・シー」,★「ムーンライト」,「LOGAN/ローガン」

 代表的な映画ばかりだが,20本のうち9本しか観ておらず,自分自身が特別熱心な映画ファンではないということを改めて認識した次第だが,その中でもっとも気になった作品は第89回アカデミー賞で外国語映画賞を受賞したアスガー・ファルハディ監督の『セールスマン』である。この映画については以前Yahoo!ブログにレビューを書いたことがあるのだが,気になった理由は町山氏が指摘している視点に触れていなかったことに思い至ったからである。そこで,今回町山氏が指摘していることにも留意してこの映画を再鑑賞してみたので,町山氏の指摘についての感想を含めて2回にわたってレビューを試みることにした。まず,今回はYahoo!ブログに書いたレビューの全文をそのまま掲載することにする。

 なお,昨年末,この映画でラナ役を演じたイランの女優タラネ・アリドゥスティさんがイラン当局に逮捕されたというニュースが流れた。昨年9月にヒジャブの着用の仕方が適切でないという理由で風紀警察に逮捕された女性が数日後に急死したことに端を発した抗議デモがイラン全土に広がり,それに参加して逮捕された男性が処刑されたことに対して,彼女がSNSを通じて抗議したことが逮捕理由とのことなのだが,無事に釈放されることを祈るばかりである。

 

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以下,Yahoo!ブログに掲載したレビューの全文である。

 

監督:アスガー・ファルハディ

キャスト

 シャハブ・ホセイニ(エマッド・エテサミ)

 タラネ・アリドゥスティ(ラナ・エテサミ)

 ババク・カリミ(ババク)

 

 アスガー・ファルハディ監督「セールスマン」を観た。この作品は第89回アカデミー賞で外国語映画賞を受賞したのだが,それより少し前,誕生したばかりのアメリカのトランプ政権は,イランを含む特定7カ国の人間の入国禁止令を出し,アスガー・ファルハディはそれに抗議する意味でアカデミー賞授賞式をボイコット。その点でも話題になった作品である。

 

 エマッド・エテサミとラナ・エテサミ夫妻はともに小さな劇団の団員で,その劇団はアーサー・ミラーの「セールスマンの死」を上演することになっており,その稽古に余念がない。エマッドは高校の国語教師をもしているのだが,ある日,夫妻が住んでいるアパートが倒壊の危機に瀕したため引っ越しを余儀なくされる。新しいアパートを紹介してくれたのは劇団の仲間であるババクだ。引っ越しの当日荷物を運んでいくと,前に住んでいた女の持ち物が残っていたりするのだが,どうやらその女は娼婦のような仕事をしていたらしいのである。そして,エマッドとラナが住むようになり,「セ-ルスマンの死」が初日を迎えた日に事件が起こる。その日,ラナが先に帰宅して浴室でシャワーを浴びていると何者かが部屋に侵入し,ラナはアタマにケガをして病院に運び込まれたのだ。さいわい,致命的なケガではなかったのだが,この事件をきっかけとして事態は思わぬ方向へと展開していく。

 

 アスガー・ファルハディ監督の作品を観るのは今回で4作目だが,ファルハディ監督の作品に一貫して描かれているのは,「何が正しいのか?」ということの判断など本当にできるのかということだ。世の中の出来事には,明らかに一方が正しくて他方が悪であるということもあるが,「これが絶対に正しい」とは言えない事柄も多々存在する。アスガー・ファルハディはその間隙をついてくるのだ。ファルハディの映画には絶対的な悪人が登場することはまずない。「何が正しいのか?」この点をめぐって登場人物たちの間には様々な葛藤が交錯する。登場人物だけではない。観客である私たちも登場人物と一緒になって葛藤してしまうのだ。ラナは事件が表沙汰になるのを恐れて警察に届けることを躊躇する。エマッドはそんなラナの姿勢に批判的で,自分の手で犯人を見つけることに固執する。エマッドは,前の住人がどんな女であるかを知っていながらアパートを紹介したババクをも快く思わない。では,ラナを襲った犯人はどうなのか?彼は悪人なのか?犯人は最初からラナを襲う目的でアパートに侵入したわけではない。事件が起こったとき,ラナは,インターホンを鳴らしたのはエマッドだと思い込み,ドアを開けてからシャワーを浴びていた。訪ねてきた人物も,前の住人である女が引っ越したことを知らずにその女を訪ねてきたのである。「そそられた」。犯人のそのひと言はエマッドの怒りをさらに増幅させるのだが,一方,ラナはこの男を許しているのだ。しかし,エマッドの怒りはおさまらず,さらなる悲劇を生むことになる。

 なにかある出来事が起こったとき,それまでの均衡を保っていた関係に小さな亀裂が入り,やがてそれが修復不可能なものにまで発展してしまうことは私たちの日常でも時として見られることである。厄介なのは,そうなってしまう原因が誰かが悪いからというわけではないということにある。「セールスマン」で描かれているのも,妻が自宅で襲われるという事件をきっかけとして見えてくる様々なほころびだ。犯人を徹底的に追い詰めるエマッド。そのことにうんざりしているラナ。ラストは例によって曖昧だが,それは舞台がイラン社会だからなのか?いや,そうではないだろう。ファルハディが描く世界には文化を越えた人間社会の普遍的な問題がある。ならば,文化の違いにこだわってイスラム圏の人たちの入国を禁止する政策を実施した米国大統領に対する抗議の意味を込めて,ファルハディがアカデミー賞授賞式への出席をボイコットしたのは至極当然の成り行きだろう。

 

 タイトルについて。

 「セールスマン」というタイトルは言うまでもなく,劇中劇である「セールスマンの死」に由来しているのだが,この作品は,冒頭から「セールスマンの死」の様々なワンシーンによって物語の展開が示唆されながら進行していくという工夫があり,その点でも大変興味深い作品である。冒頭の劇中劇の稽古風景で見られる女優の入浴にまつわる話は,その後のラナが襲われる展開を示唆しているようでもあり,また,劇中劇のなかでもエマッドとラナは夫婦の役を演じているのだが,エマッドが演じるウィリーの死を嘆き悲しむ妻をラナが演じるシーンが示唆するものは…。エマッドとラナの関係?それともラナを襲った犯人とその妻の関係なのか。興味の尽きない作品である。

監督:瀬々敬久

キャスト

 菅田将暉(高橋漣)

 小松菜奈(園田葵)

 山本美月(高木玲子)

 高杉真宙(冴島亮太)

 斎藤工(水島大介)

 榮倉奈々(桐野香)

 倍賞美津子(村田節子)

 二階堂ふみ(山田利子)

 成田凌(竹原直樹)

 

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1998年にリリースされた中島みゆきのヒット曲「糸」をモチーフに,菅田将暉,小松菜奈演じる平成元年に生まれた男女の18年間を生活者からの視点から見た平成史とともに描いていく,瀬々敬久監督作品。平成元年生まれの高橋漣と園田葵。北海道で育ち,13歳の時に出会った2人は初めての恋をするが,葵は母親に連れられて北海道を去ってしまう。8年後,21歳になった漣は,友人の結婚式のため訪れた東京で葵との再会を果たす。しかし,漣は北海道でチーズ職人,葵は東京,沖縄へと自分の世界を広げ,2人は別の人生を歩み始めていた。さらに10年の時が流れた平成最後の年,2人は運命の糸によってふたたびめぐり会うこととなる。漣役の菅田,葵役の小松のほか,斎藤工,榮倉奈々,山本美月,倍賞美津子,成田凌,二階堂ふみ,高杉真宙らが顔をそろえる。(「映画.com」より)

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 13歳の時に出会い,初めての恋をした漣と葵。葵が母親の連れ合いの男から暴力によって虐待されていることを知った漣は葵を連れて青森まで逃げようとする。大人たちに発見され,お互いの手をしっかりと握り抵抗する漣と葵だが,結局大人たちによって引き離される。葵を守ってあげることができなかった漣はその思いを引きずりながら8年後に葵と再会する。

 この映画は「映画.com」の紹介にもあるように,中島みゆきのヒット曲「糸」をモチーフにして制作された作品だが,その歌詞の中に「縦の糸はあなた 横の糸は私 逢うべき糸に出逢えることを 人は仕合わせと呼びます」という一節がある。物語は平成元年に生まれた二人が平成最後の年に再・再・再会を果たすまでの縦糸と横糸の2つの人生を描いていくのだが,そこには瀬々敬久監督の「平成」という時代に対するこだわりが見えるように思われるのだ。

 「平成」ってどんな時代だったのだろう? 

 いろいろな事件や事故があったことが思い起こされるが,私にはそれは人と人とが「こころ」でつながることが希薄になっていった時代であったように思われるのだ。「自己責任論」,「格差」,「生産性」…。これらの言葉の中で多くの人々が孤立感を深めていった時代ではなかっただろうか。

この平成の価値観に対し,瀬々監督が私たちに発しているメッセージは「人の本当の幸せは『こころ』でつながることにしかない」ということなのだろうと私は思う。

 

心に残るシーンがある。

 葵と別の人生を歩み,北海道でチーズ職人として働いている漣は職場で知り合った年上の女性・香と結婚する。香は妊娠しているときにガンに犯されていることが発覚するが,強い意志で出産することを決意し,一人娘の結を授かる。やがて香は亡くなるのだが,生前幼い結に「泣いている人がいたら抱きしめてあげるのよ」と教え,結はそれを実践する。悲しんでいる人に寄り添い,つながるということ。瀬々監督のメッセージが表れているシーンだ。

 そして。挫けないこと。

 漣の中学生時代からの友人の竹原がカラオケスナックで歌う中島みゆきの曲「ファイト」。竹原はとても辛い状況にある。でもファイティング・ポーズをとることによってしか状況は開けないのだ。おそらく,瀬々監督のメッセージだろう。

 ラスト。

 漣と葵は再・再・再会を果たす。ハラハラするシーンが続くが,はたしてエンディングは?幸せになるのかどうなのか。ネタバレ回避のために結末は書かないが,このシーンを見ている間ずっと私はハッピーエンドであって欲しいと思っていた。