監督:ミケランジェロ・アントニオーニ

キャスト

 ジャンヌ・モロー(リディア)

 マルチェロ・マストロヤンニ(ジョヴァンニ)

 モニカ・ビッティ(ヴァレンティーナ)

 ベルンハルト・ビッキ(トマーゾ)

 

 アントニオーニの『夜』を観た。この映画を観るのは2度目だが,実は私はアントニオーニの映画はこれしか観ていない。前回観たときには「退屈な映画だな~」と思ったのだが,今回見直してみて,かなりスムーズに理解できたような気がしたので,そのあたりを感想文として書いてみる。

 

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結婚して十年になる作家とその妻が,病床にある夫の友人を見舞った。彼の姿を見て,作家の妻は心が傾いていくのを感じる。それは同時に,夫婦の絆が失われていくことを意味していた…。平穏な夫婦生活に潜む危機を描いた作品。(allcinemaより)

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 ある日の午後から翌日の朝までのリディアとジョヴァンニ夫妻の一日の出来事を描いた映画であるが,その出来事を通じて描かれているのは倦怠期を迎えた中年夫婦の心情である。ジョヴァンニはリディアに対する性的な関心をほとんど失っており,リディアはそのことに気づいていて,ある種の虚無感に陥っているのだが,アントニオーニが捉える映像はそれを見事に掬い取っているのである。

 リディアを傷つけるのはジョヴァンニが女性そのものに対する関心を失っているのではなく,自分に対する関心を失っているということだ。それは,例えば,彼らが出席したある富豪が主催するパーティーでジョヴァンニは主催者の富豪の娘ヴァレンティーナをしつこく追い回し口説こうとするのだが,ジョヴァンニとヴァレンティーナがキスをしているところを上の階から見ているリディアの後ろ姿などに描かれている。映画の終盤,リディアはジョヴァンニに「もうあなたを愛してないの。死にたいわ」と漏らす。お互いに愛を感じることのできない2人がその後何十年も一緒に暮らしていくなどということはリディアにとって耐えられないことなのだ。

 映画の冒頭,リディアとジョヴァンニは末期のガンを患っている共通の友人トマーゾを見舞う。映画の終盤でリディアはトマーゾが亡くなったことを知るのだが,実は現在のリディアはトマーゾを愛しているのである。この心理はかなり微妙だ。トマーゾが亡くなったことをジョヴァンニに告げたとき,リディアは彼のことについて次のように話す。

 「いい人だった。私の知性を誉めてくれた。“君は磨けば光る”と。…なぜ彼は私に執着したのか。…でも,私は結局,何も分かっていなかった。…あなたは彼とは正反対よ。すごく新鮮で楽しかったわ。…だから,彼じゃなくあなたを選んだの。」

 若き日のジョヴァンニは情熱的にリディアの愛を得ようとしたのに対し,ただ「いい人」でしかなかったトマーゾはリディアの愛を勝ち取ることができなかった。しかし,時の経過は残酷である。もはやジョヴァンニはリディアへの関心を失い,そのことで虚無感に陥ったリディアの心の隙間にトマーゾの献身的な愛が入り込んだのだろう。それを告げられたジョヴァンニは「再スタートしよう」と言って,リディアを抱き締める。

リディア:愛してないと言って。

ジョヴァンニ:言わない。言うものか。

 映画は抱き合う二人のロングショットで終わるが,それはこれから二人が過ごすことになるであろう長い「夜」を示唆しているかのようであった。

 

 

 男女の愛というのは実に厄介なものだ。『マディソン郡の橋』で描かれた「愛」が「新鮮なまま冷凍保存された<愛>」であるとすれば,この映画が描いている「愛」は「冷凍保存が溶けた<愛>」の姿であろう。

 この映画に関してアントニオーニは次のようなコメントを残している。

 「この映画で裕福な階級をあつかったのは,彼らの人間感情は貧しい階級におけるように物質的,現実的要因によって左右されないからだ。」

 この指摘は大変興味深い。この映画の主人公であるジョヴァンニは売れっ子の作家であり,その妻リディアは資産家の娘である。つまり,アントニオーニが言う「裕福な階級」に属しており,その感情が「物質的,現実的要因によって左右されない」人たちなのである。つまり,彼らにとって愛情とは相手のために身を粉にして働いて相手を支えることによって示されるものではないのである。生活の心配がなくなった人たちにとって「恋愛」は唯一と言ってよいほど生きていることの実感を与えてくれるものであろう。リディアの空虚感はその実感を得られなくなったところから来ているように思われるのだが,そうだとすれば,それは,この映画が撮られた頃より裕福になった世界に生きている現代の先進国の多くの人間が共有しているものと言えなくもないだろう。そして,それは近代人に特有な病理かもしれないと言ったら言い過ぎだろうか。

 例えば,小谷野敦は『退屈論』(弘文堂)の中で,近代人の不幸について次のように述べている。

 「近代人に不幸があるとすれば,人生への期待度があまりに高くなってしまったことからくる不満だろう。親の決めた結婚とか,一時の勢いでの結婚に比べて,真剣に考えた恋愛結婚なら幸せになれるだろう,と思ったあたりが,近代人の大きな間違いである。」(p.16)

 アントニオーニの映画は難解だと言われ,『情事(1960年)』,『夜(1961年)』,『太陽はひとりぼっち(1962年)』は「愛の不毛三部作」と呼ばれているそうだが,『夜』を観るかぎり,「愛の不毛」とは要するに小谷野敦が上の言説で述べている意味での「近代人の不幸」だと考えれば,アントニオーニは映像を通じてそれを見事に表現していると言えるだろう。

 

  「男女の愛」を扱った映画を2日間で2本観た。一つは『マディソン郡の橋』,もう一つは『夜』だ。対照的な映画ではある。もっとも,それを意識して観たわけではないが,そのあたりを少し意識して感想文を書いてみた。今回は『マディソン郡の橋』である。

 

監督:クリント・イーストウッド

キャスト

 クリント・イーストウッド(ロバート・キンケイド)

 メリル・ストリープ(フランチェスカ・ジョンソン)

 アニー・コーレイ(キャロリン)

 ビクター・スレザック(マイケル)

 ジム・ヘイニー(リチャード)

 

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<ネタバレのストーリー紹介>

1989年冬。アイオワ州マディソン郡。フランチェスカ・ジョンソンの葬儀を出すために集まった長男のマイケルと妹のキャロリンは,母の遺書に「死んだら火葬にしてほしい」とあるのに当惑する。2人は彼らに当てた母の手紙と日記を読み始める…。1965年秋。フランチェスカは結婚15年目で単調な生活を送っていた。夫のリチャードと2人の子供がイリノイ州の農産物品評会に出掛け,彼女は4日間,一人で家にいることになった。新鮮で開放的な気分になった彼女の前に,プロ・カメラマンのロバート・キンケイドが現れ,道を尋ねた。彼は,珍しい屋根付きのローズマン橋の写真を撮りに来ていた。フランチェスカは彼の魅力に引かれ,その晩,夕食に誘う。彼が宿に帰った後,「明日の晩,もう一度いかが?」とのメモを,明朝の撮影で彼が訪れる橋の上に残した。翌日,2人はホリウェル橋の上で落ち合った。二人は次第に打ち解け合い,キンケイドは新しいドレスを着た彼女の手をとり,ダンスを踊った。自然の成り行きで一晩中愛し合った2人は,次の日,郊外でピクニックを楽しんだ。残り時間がわずかなことに気づき始めた彼らは,その夜,親密に抱き合った。最後の朝はぎごちなさと不安の中で迎えた。フランチェスカは「これはお遊びなの?」となじるが,彼は「一緒に来てくれ」と言う。悩み苦しんだ末に,荷物をまとめた彼女だったが,家族のことを思うその顔を見て,キンケイドは去った。夫と子供たちが帰ると,元の日常が戻った。数日後,夫と買い物に街に出掛けた彼女は,降りしきる雨の中,立ち尽くすキンケイドの姿を見た。車から出ようとドアのノブに手をかける彼女だが,どうしてもできない。そして,彼とはそれきりだった。1979年,夫リチャードが死去。彼の死後,フランチェスカはキンケイドに連絡をとろうとしたが果たせず,やがて彼の弁護士が彼の死を報せ,遺品が届いた…。手記を読みおえたキャロリンとマイケルは,母の秘めた恋に打たれ,2人は母の遺灰を彼女が愛したキンケイドと同じように,あの橋から撒いた。(「映画.com」より)

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 人が恋に落ちるパターンはいろいろあるだろうが,フランチェスカにとってはこの恋はある程度自然だったと言えるだろう。彼女の人生は不幸ではないが,どこか飽き足りないものを抱えている。優しい夫と2人の子供に恵まれ安定した生活ではあるが,意識の深層には閉鎖的な田舎での毎日の単調な暮らしの中で気がついた時には中年のオバサンになっており,もう恋をすることもなく年老いていくことへの漠然とした満ち足りなさと諦念が存在していたのだろう。そんな時に現れたのが世界を股にかけて仕事をしてきたカメラマンのロバートなのだ。いろいろな経験をしてきたロバートの話はフランチェスカにとって刺激的だし,誠実そうな男でもある。そりゃあ好きになってしまうだろう。では,一方のロバートはどうなのか。彼はフランチェスカのどこに惹かれたのだろうか?彼は過去に結婚し離婚をしている。それだけではなく,いろいろなところでいろいろな女性と付き合ってきたということも示唆されている。しかし,フランチェスカへの思いは行きずりの恋では断じてないのだ。しかも,わずか4日間だけの愛が「永遠の愛」なのだ。う~ん,しかし,私にはこれらのことが映像を通じてまったく伝わってこなかったのだ。そのために,物語が進行しても違和感だけが残ることになったのである。

 さらに,フランチェスカが亡くなったあと,彼女の遺品として残された手紙や日記で母とロバートの恋物語を知り,ショックを受けた二人の子供たち,特に母の不倫に反発していたマイケルがラストでは二人の恋に理解を示し,母の遺言にしたがって遺灰をあの橋から撒くのだが,そこにいたるまでの心情の変化のプロセスもまったく描かれておらず,非常に唐突な流れになっているように思われるのだ。これはおそらく,私がフランチェスカとロバートの4日間の恋物語にイマイチ乗れなかったためなのだろう。

 いろいろと否定的な意見を書いたが,恋とは不思議なものと考えれば,そのあたりの不自然さには目をつぶって一つの恋物語としてこの映画を楽しめばよいのかもしれないとは思うが…。ひと言で言えば,「新鮮なまま冷凍保存された<愛>の物語」として観るのが正解なのかもしれない。

 

監督:ステファン・ルツォビッキー

キャスト

 カール・マルコビクス(サロモン・ソロヴィッチ)

 アウグスト・ディール(アドルフ・ブルガー)

 デービト・シュトリーゾフ(フリードリヒ・ヘルツォーク親衛隊少佐)

 アウグスト・ツィルナー(クリンガー医師)

 

 2月7日は私にとっての「映画記念日」なのです。「何のこと?」と思われるでしょうが,10年前の2月7日に観た映画がきっかけで私は再び映画を観るようになったのです。「再び」というのは,20代~30代前半の頃の私は定職に就いていなかったにもかかわらず,映画館その他の場所で頻繁に映画を観に行く若者だったのですが,30代前半から仕事をするようになって,いつの間にか映画に関心を失っていったからです。それで,10年前の2月7日,たまたま立ち寄った「TSUTAYA」で借りた映画が『ヒトラーの贋札』で,当時の私にはこの映画がとても面白く思え,それ以降,その「TSUTAYA」の常連客になり,観た映画の一口メモを書くようになったという次第なので,2月7日は私にとっての「映画記念日」なのです。その「TSUTAYA」も5年ほど前に閉店になり,また,コロナ禍の前には時折出かけていった劇場にも行かなくなったのですが,CS放送やVOD,Netflixなどで細々と映画を観ている日々が続いています。

 以上のようなわけで,今回,『ヒトラーの贋札』を再鑑賞してみました。

 

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ナチス・ドイツがイギリス経済を混乱させるために実行した贋札製造計画“ベルンハルト作戦”。贋造を強制させられたユダヤ系技術者の視点から事件の裏側を描いた人間ドラマ。第2次世界大戦中,贋ポンド札を製造するために強制収容所内の秘密工場に集められたユダヤ系技術者たち。拒否すれば命はないが,作戦の成功はナチスの優勢に繋がり,ユダヤ人がさらなる苦しみを受けることになる。彼らは自らの命と信念の間で葛藤し…。(「映画.com」より)

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 「映画.com」の作品紹介にもあるように,この映画で扱われているのはナチスドイツが行った「ベルンハルト作戦」,つまりイギリス経済を混乱させるために贋ポンド札を製造することを強制されたユダヤ人グループの強制収容所における話である。原作は,実際にその作業に従事して生き残ったアドルフ・ブルガー氏の著書である。

 

 ホロコーストを扱った映画は数えきれないほど制作されているが,それを扱う視点はさまざまだ。語弊を恐れずに言えば,本作は非常によくできたエンタメ作品である。そうは言っても,絶滅収容所という過酷な状況に置かれたユダヤ人囚人たちの姿を描いているので,「仲間」の二人が理不尽に銃殺されるシーンや,主人公が酷い侮辱を受けるシーンなどもあり,『ライフ・イズ・ビューティフル』のような荒唐無稽なふざけた話でないことは言うまでもない。

 もちろん明るい映画ではないが,彼らは特殊な技術を持っているために,ベッドや食事などで他のユダヤ人囚人たちより「厚遇」されており,他の絶滅収容所を描いた映画と比べると悲惨な状況はやや背後に退いてはいる。物語は,彼らの運命が贋札であることを見破られないほど精巧な紙幣を造ることができるかどうかにかかっているということを中心に展開されており,そこに緊張感が生まれるのであるが,この緊張感はまさにエンタメ作品のそれである。

 ただ,エンタメ性に流れたせいで,やや描き足りない部分が残ったことも事実である。たとえば,物語の主人公であるソロヴィッチは逮捕される前は旅券などの偽造をする贋作師,要するに悪党であり,「同胞?俺以外はみんな他人だ!」などとうそぶいていたのだが,収容所では他の囚人たちを気遣ったりする人間に変貌(?)しているのである。このあたりの変貌などはもう少し説得力をもって描いて欲しかったとは思うし,囚人たちのなかの異端分子であるブルガーとの遣り取りなどももう少し深掘りする必要はあったのではないだろうか。「今日の銃殺より,明日のガス室だ」はたしかにその通りではあるが。

 また,贋札を作るためにソロヴィッチたちが収容されているザクセンハウゼン強制収容所の最高責任者であるフリードリヒ・ヘルツォーク親衛隊少佐とソロヴィッチとの関わりはもう少し丁寧に描いていればたいへん興味深い作品になったのではないかと思われるのだが。なにしろ,ヘルツォークという人物は,強制収容所ではユダヤ人が理不尽に殺されているにもかかわらず,「子育てというのは一人一人に責任を持つことだ。手を挙げたりしない。絶対に。言い聞かせて模範を示すのだ」などということを平気で口にする男だからである。

 以上のような物足りなさは残るものの,本作は非常によくできたエンタメ作品であることに変わりはなく,ホロコーストを描いた映画をあまり観ない人たちにもオススメの作品である。

 

★目次

まえがき

序章 「好きなこと」とは何か?

第一章 暇と退屈の原理論─ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?

第二章 暇と退屈の系譜学─人間はいつから退屈しているのか?

第三章 暇と退屈の経済史─なぜ“ひまじん”が尊敬されてきたのか?

第四章 暇と退屈の疎外論─贅沢とは何か?

第五章 暇と退屈の哲学─そもそも退屈とは何か?

第六章 暇と退屈の人間学─トカゲの世界をのぞくことは可能か?

第七章 暇と退屈の倫理学─決断することは人間の証しか?

結論

付録 傷と運命―「暇と退屈の倫理学」新版によせて

 

 

 第五章~第七章では哲学的に暇と退屈の問題が扱われる。第五章はハイデッガーの「退屈論」だ。取り上げられるのは『形而上学の根本諸概念』である。

 ハイデッガーは,まず退屈を,「退屈の第一形式」,「退屈の第二形式」,「退屈の第三形式」に分けて考える。「退屈の第一形式」とは,「何かによって退屈させられること」(p.214),つまり「はっきりと退屈なものがあって,それが人を退屈という気分のなかに引きずり込んでいるということ」(p.214)である。例えば,片田舎のローカル線の駅舎で4時間後に来る列車を待っている人はその時間をやり過ごしたいと思うが,時間がのろく,ぐずつくことで人はその状態に「引き止め」られる。引き止められるとなぜ困るのか。「何もないところ,むなしい状態に放って置かれることになるからである」(p.222)。これをハイデッガーは「空虚放置」と呼ぶ。人はこれを回避するために「気晴らし」を求める。この「引き止め」と「空虚放置」が「退屈の第一形式」を構成する2つの要素である。

 次に,「退屈の第二形式」であるが,これは「何かに際して退屈すること」(p.214)である。これについてハイデッガーはあるパーティーに招待された人の例を出している。美味しい食事を食べ,食事が済むと楽しく一緒に腰掛け,音楽を聞き,談笑する。面白く,愉快である。退屈するものは何もなく,その人は満足して帰宅する。そして明日の仕事についておおよその見当をつけ,目安を立てる。するとそのとき,その人は本当は退屈していたということに気がつくのだ。 (pp.226-227) これが「退屈の第二形式」であるが,この第二形式は第一形式と並列してあるのではなく,「より深まった退屈」(p.226)なのである。この人物がなぜ退屈したのかについてのハイデッガーの説明は次のようである。

 第一形式においては,人は気晴らしを求め,それによって満たされようとするが,ここではパーティー自体が気晴らしなので,人は気晴らしを求めることはない。人はその楽しい雰囲気に自分を任せ放しにし,周囲に調子を合わせる付和雷同の投げやりな態度で,それ以上何も求めなくなる。つまり,「自分自身が空虚になる(p.235)のである。これが第二形式における「空虚放置」である。では,時間による「引き止め」はどうか?楽しいパーティーで時間を気にしている人はまずいない。つまり,時間は人を放任している。しかし,放免しているわけではない。どういうことか?第二形式においては,自分の中で空虚が生まれるのだが,それは,「自分が時間を停止させたからである。…私はその停止した時間から空虚のうちへと滑り込むがままに放任されている。とはいえ,放免されるわけではなく,停止した時間へと引き止められている」(pp.237-238)のである。このように,第二形式においても,「引き止め」と「空虚放置」は不可分の関係で退屈の要素をなしているのである。

 ハイデッガーはさらに「退屈の第三形式」について述べる。それは「なんとなく退屈だ」という感覚であり,ここでは,「もはや気晴らしということがあり得ない」(p.245)。人は全面的な空虚の中に置かれ,「外から与えられる可能性がすべて否定されている」(p.248)。するとどうなるか?ハイデッガーは言う。外からの可能性が拒否されている以上,人は自分に目を向けることを強制され,そのことによって「自分が持っている可能性に気がつく」(p.248)のだ,と。では,その「可能性」とは何か?國分の文章を引用しよう。

 「答えは驚くほどに単純である。『自由だ』とハイデッガーは答えるのだ。…私たちは退屈する。自由であるがゆえに退屈する。退屈するということは自由であるということだ。…この段階ではまだ自由は可能性にとどまっている。…では,それをどう実現するか?ここでの答えもまた驚くほどに単純だ。『決断することによってだ』と言うのである。…退屈はお前に自由を教えている。だから決断せよ―これがハイデッガーの退屈論の結論である。」(pp.252-253)

 しかし,國分はハイデッガーによるこの「結論には受け入れがたいものがある」(p.255)として,第五章を終える。

 第六章は「動物は退屈するのか」ということがテーマだ。この章でのキーワードは,エストニア生まれの理論生物学者ユクスキュル(1864-1944)の提唱した「環世界」という概念だ。「環世界」とは,「すべての生物は別々の時間と空間を生きている」(p.264)ということである。國分は動物の環世界と人間の環世界についての考察を進め,人間は動物と比べて,環世界間移動能力がはるかに高いという点にその違いを見いだす。そして,人間のこの環世界間移動能力の高さが退屈の原因だとするのである。さらに,人間と動物の違いが環世界間移動能力の違いであるとすれば,人間ほどではないとしても,動物もまた退屈している可能性はあると結論づける。

 國分は「環世界」という難しいタームを用いて説明しているが,「環世界間移動能力が高い」ということは,要するに,人間は,比較的容易にいろいろなものになることができるし,いろいろなことをすることができるということである。逆に言うと,人間は一つのことに没頭できないということになり,退屈が生じる,というのが國分の結論であると思われる。

 第七章は,國分による<暇と退屈の倫理学>の構想である。第五章で見たように,國分はハイデッガーの結論を「受け入れがたいものがある」と述べていた。ハイデッガーの結論を再度確認すると,人間は自由であるが故に退屈する,自由の可能性を発揮するために決断せよ,ということだった。しかし,と國分は言う。決断するということは「周囲の状況から自分を故意に隔絶するという事態」(p.311)であり,「『狂気』の奴隷になることに他ならない」(p.311)。さらに,「こんなに楽なことはない」(p.311),なぜなら「ただひたすら決断した方向に向かえばいい」(p.311)からだ。

 國分はこの事態をハイデッガーの退屈の3つの形式に即して説明する。「第一形式において人は日常の仕事の奴隷になっているのだった」(pp.312)。したがって,時間が惜しい。それなのに,時間によって「引き止め」られ,期待した対象が現れないという「空虚放置」が生じ,退屈が生まれる。「では,なぜ人は日常の仕事の奴隷になっているのか?」(p.312)「なんとなく退屈だ」(第三形式)という声から逃れたいためだ。その声から逃れるために人は「決断」して仕事の奴隷になったのである。國分はこのようにハイデッガーの結論を批判するが,では,第二形式についてはどうなのか?ここでも人は「なんとなく退屈だ」(第三形式)という声から逃れるために,「退屈と混じり合うような気晴らしを選択」(p.313)する。しかし,國分はこれについて次のように言う。「第二形式においては何かが心の底から楽しいわけではない。たしかにぼんやりと退屈はしている。だが,楽しいこともある。…大切なのは第二形式では自分に向き合う余裕があるということだ。ならば,こうは言えないか?この第二形式こそは,退屈と切り離せない生を生きる人間の姿そのものである,と。人間は普段この第二形式を生きている。そこには『現存在(ハイデッガーの言葉で,〔人間〕のことである)のより大きな均整と安定』がある。だから人間がそれを求めるのも当然のことだろう。もしそれを非難する人がいたら,その人は人間というものを見誤っている。」(p.317)

 國分の<暇と退屈の倫理学>とは,第二形式の生を生きることであり,それが「人間が人間らしく生きること」(p.319)だったのだ。拍子抜けするほど平凡な結論ではないか。しかし,私はこの結論を支持したいと思う。これこそが私たちの「正気」だと思うからだ。

 ハイデッガーはパーティーをする人間の態度を,周囲に自分をあわせる付和雷同として描いた。だがこれは不当な評価ではないだろうか?なぜなら退屈の第二形式において描かれた気晴らしとはむしろ,人間が,人間として生きることのつらさをやり過ごすために開発してきた知恵と考えられるからだ。 

 退屈と向き合うことを余儀なくされた人類は文化や文明と呼ばれるものを発達させてきた。そうして,たとえば芸術が生まれた。あるいは衣食住を工夫し,生を飾るようになった。人間は知恵を絞りながら,人々の心を豊かにする営みを考案してきた。 

 「それらはどれも,存在しなくとも人間は生存していける,そのような類の営みである。退屈と向き合うことを余儀なくされた人問が そのつらさとうまく付き合っていくために編み出した方法だ。」(p.320) 

 

 國分は「結論」と題された最終章で,第二形式の生を生きるということをさらに展開し,「結論」として三つのことを言う。第一は,「与えられた情報の単なる奴隷」(p.353)にならないように理解する術を獲得することである。第二は,「贅沢を取り戻すことである」(p.355)。贅沢とは浪費することであり,第四章で述べられたように,消費は物を受け取らないので延々と続くが,浪費は物を過剰に受け取ることなので,どこかでストップする。そこに満足が現れる。ただし,浪費して楽しむためには訓練が必要である。この訓練は,芸術などのハイカルチャーだけではなく,衣食住のような人間にとって最も基礎的なことにおいても当てはまる。「贅沢を取り戻すとは退屈の第二形式のなかの気晴らしを存分に享受することであり,それは,つまり,人間であることを楽しむことである」(p.360)。文化資本が与えるカタログを延々と消費するのではなく,自分で理解し,それを浪費=楽しむことである。第三は,「動物になること」である。第六章で見たように,人間の退屈は「環世界間移動能力が高い」ということから生じていた。その能力が著しく低下するのは,「自らが生きる環世界に何かが『不法侵入』」(p.363)し,それについて思考せざるを得ないときである。それは,その環世界にとどまるということ=動物になることを意味する。つまり,自らの環世界のなかで,その「不法侵入者」について徹底的に思考することである。國分は難しい言葉を使っているが,要するに,食でも,芸術でも,スポーツでも,学問でも,何でもよいが,あることに興味を持ったなら(=環世界のなかにそれが不法侵入してきたら),それについて,私たちは徹底的に考え追求していくということだ。ついでにいえば,これは,第一形式のように,仕事の奴隷になることとはまったく異なる。そこでは情報や指示が一方的に与えられ,私たちはそれに従ってただ忙しくしているだけである。ワーカホリックになるとはこのことだ。だから,仕事がなくなったとき果てしない虚無に陥っていくのだ。最後に,國分がウイリアム・モリスの言葉を敷衍して述べている言葉を引いておこう。「人はパンがなければ生きていけない。しかし,パンだけで生きるべきでもない。私たちはパンだけでなく,バラも求めよう。生きることはバラで飾られねばならない。」(p.28)

 

 世界を見渡せばパンデミック,戦争,地球環境問題,格差・貧困問題など,人類が取り組まなければならない問題は限りなく存在する。そのような状況の中で「<暇と退屈>などと,何をのんきなことを言っているんだ」という声もあるだろう。たしかにそうかもしれない。しかし,これについて國分は次のようなことを示唆している。「退屈とどう向き合って生きていくかという問いはあくまでも自分に関わる問いである。しかし,退屈と向き合う生を生きていけるようになった人間は,おそらく,自分ではなく,他人に関わる事柄を思考することができるようになる。…すなわち,どうすれば皆が暇になれるか,皆に暇を許す社会が訪れるかという問いだ。」(p.369)

國分の言うように,少し立ち止まって退屈と向き合う生を生きていく術を身に付けた人たちが増えてくれば,ごくわずかではあるが,世界は希望の持てる方向に進んでいくのではないだろうか。

                             (おわり)

 

 国内でコロナウイルスによる最初の死亡者が出て以来先月で丸3年の月日が経過した。最初の頃はこの新しいウイルスがどのような性質のものかもわからず,政府も「緊急事態宣言」などを発出して国民に自粛を求めていたが,さすがに3年も経つとワクチンや治療薬も開発されてきて,政府も感染対策を大幅に緩和する方向に向かっている。現時点でそれが妥当かどうかの判断については横に置くとして,人々の意識がそろそろ元の生活に戻してもよいのではないかという雰囲気になってきているのはたしかであろう。それは「経済を回す」ということ以外に,もう自粛はこりごりだということからくるものだと思われる。要するに「退屈」に耐えられないのである。これは特にこの期間において新たに表れた現象ではなく,人間本性の問題であろう。その意味では,この機会に「退屈」について考えてみることには意義があるのではないかということで,國分功一郎『暇と退屈の倫理学』を読んでみた。

 実は,この本を読むのは今回が初めてではない。この本は最初2011年11月に朝日出版社から出版されており,以前私はその版で読んだことがあってYahoo!ブログに書評を書いたことがあるのだが,今回は2015年3月に太田出版から新たに「付録」が掲載された「増補新版」で読んでみた。さらに最近,新潮社から文庫化もされたようであるが,この感想文での引用ページは2015年の『暇と退屈の倫理学 増補新版』に基づいている。

 

 *Yahoo!ブログに感想を書いた際は4回にわたってダラダラと書いてしまったので,今回は1回にまとめようとしたのだが,結局,私の文章力の未熟さから簡潔にまとめることができず2回にわたって掲載することになった。

 

★目次

まえがき

序章 「好きなこと」とは何か?

第一章 暇と退屈の原理論─ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?

第二章 暇と退屈の系譜学─人間はいつから退屈しているのか?

第三章 暇と退屈の経済史─なぜ“ひまじん”が尊敬されてきたのか?

第四章 暇と退屈の疎外論─贅沢とは何か?

第五章 暇と退屈の哲学─そもそも退屈とは何か?

第六章 暇と退屈の人間学─トカゲの世界をのぞくことは可能か?

第七章 暇と退屈の倫理学─決断することは人間の証しか?

結論

付録 傷と運命―「暇と退屈の倫理学」新版によせて

 

 まず,「『好きなこと』とは何か?」と題された「序章」において「暇と退屈の倫理学」が答えなければならない問題が提起されている。國分功一郎によればそれは次のようなことである。20世紀になって先進国の人間は裕福になり暇を得たが,暇の使い方が分からない。つまり,自分の好きなことが分からない。そこに文化資本がつけ込み「あなたたちの好きなことはこれですよ」というカタログを与えてくれる。人々はそれを消費するのだが,それは「労働者の暇が搾取」(p.24)されるということである。では,なぜ暇は搾取されるのか?「人が退屈することを嫌うからである」(p.24)。「こうして,暇の中でいかに生きるべきか,退屈とどう向き合うべきか」という「暇と退屈の倫理学」の問いが現れるのである。

 さらに,國分は<暇と退屈の倫理学>が答えなければならないもう一つ重要な論点をも指摘する。それは,暇を得た人たちは文化資本が与えてくれる「娯楽」だけでは飽き足らず,自分が生きている感覚を味わえるもの,没頭できるものを渇望するということである。「大義のために死ぬ」といったことはその極限形態であるが,「<暇と退屈の倫理学>は,この羨望にも答えなければならない」(p.30)のである。

 

 以上の問いを「暇と退屈の原理論」として,その問題構成について述べているのが第一章であるが,簡単にまとめると次のようになる。つまり,人間にとって退屈は耐えがたいものなので気晴らしを求める。実は,気晴らしはどんなものでもよいのだが,人間はそうは思いたくない。そこで,気晴らしは熱中できるものでなくてはならないが,熱中するためには,自分の求めるものは容易に手に入るものであってはならない。つまり,それは苦しみをともなうものでなくてはならない。そうだとすると,「退屈に耐えられない人間」とは,「苦しみを求める人間」だということになるが,それは,はたして人間にとって幸福なことなのだろうか?例えば,バートランド・ラッセルは「熱意こそが幸福の源泉」だと言うが,國分は,「熱意を持って取り組むべきミッションを外側から与えられること,それを幸福と言ってよいのだろうか?」(p.64),「それは不幸への憧れを生みだす幸福論」(p.66)だと批判するのである。

 このような問いを発した上で國分は<暇と退屈の問題>を様々な観点から考察していくのだが,第二章~第四章では主に歴史的な観点からそれが扱われる。

 第二章は人類史的観点から「退屈はいつどうやって発生したのだろうか?」という問題を設定し,それは人類が数百万年に及ぶ遊動生活(移動しながら生きていく生活)の後,1万年ほど前に定住生活に入ったことによって現れたと述べられる。つまり遊動生活において移動するたびごとに新しい環境に適応するために発揮されていた人間の能力が行き場を失い,することがなくなったことから発生した現象なのである。

 第三章では経済と「暇と退屈」の関係が扱われるのだが,まず,國分は「暇」と「退屈」を次のように定義する。すなわち,「暇とは,何もすることのない,する必要のない時間を指している。…つまり暇は客観的な条件に関わっている。それに対し,退屈とは,何かをしたいのにできないという感情や気分を指している。…つまり退屈は主観的な状態のことだ」(pp.104-105)ということである。その上で,國分は両者の関係について,「暇に陥った人間は必ず退屈するのだろうか?それとも,暇に陥った人間は必ずしも退屈するわけではないのか?あるいはまた,…退屈しているとき,その人は必ず暇のなかにいるのだろうか?それとも退屈しているからといって,必ずしも暇のなかにいるわけではないのだろうか?」(p.105)と問う。そしてこの問題について「暇と退屈を直結させないロジック」(p.118)を見いだすことが重要ではないかと述べ,ヴェブレンの『有閑階級の理論』に出てくる「暇のなかで退屈せずに生きる術を知っていた」(p.117) かつての有閑階級(つまりブルジョワジーではない階級)の中にその可能性を見る。もちろん,「この階級を美化してはならない」(p.118)という譲歩をつけているが…。次に有閑階級が没落した後の労働者の「余暇の権利」について,フォーディズムを取り上げ,資本主義体制の中では,「休暇は労働のための準備期間である」(p.126)という点で,「余暇は資本の論理の中にがっちりと組み込まれている」(p.126),つまり,「余暇は資本の外部ではない」と述べられる。さらにガルブレイスを取り上げ,彼の言う「消費者主権モデルの崩壊」という点についてガルブレイスを評価しながら,もう一方で,ガルブレイスが「新しい階級」の出現に希望を見いだしている点を痛烈に批判する。つまり,ガルブレイスの言う「新しい階級」とは「仕事こそが生きがいだと感じている人」(p.133)であり,「『仕事が充実すべきだ』という主張は,仕事においてこそ人は充実していなければならないという強迫観念を生む」(p.135)と批判するのである。

 第四章は「疎外論」だ。主に扱われる論者はボードリヤール,ルソー,マルクスの3人である。まず,ボードリヤールから。ボードリヤールは『消費社会の神話と構造』において,「浪費」と「消費」を区別する。「浪費」とは必要を超えた支出であり,物を受け取り吸収することなので,どこかで限界に達しストップする。一方,「消費」は,その対象が物ではないので限界がない。つまり「人は物に付与された観念や意味を消費するのである」(p.152)。このとき,物は記号になり,人は記号を消費する。(たとえば,ある有名店に食事に行くということは,食事そのものが目的なのではなく,人に「あの店に行ったよ」と言うためである。したがって,それは延々と繰り返される。)さらに,この観念の消費は,労働や余暇までをも消費の対象にする。(労働は「忙しさ」という価値の消費になり,「生きがい」という観念の消費になる。また,余暇も消費の対象になる。「俺は好きなことをしているんだぞ」ということを全力でアピールする。)これは現代における疎外であるが,國分は,疎外の問題を再考するために,ルソー(&ホッブズ)とマルクスを取り上げる。ルソーは文明人の疎外について論じたが,それは,「本来的なもの」を呼び寄せてはならないという主張である。いわば,「本来性なき疎外論」(p.187)であり,國分はそれをマルクスの疎外論とともに高く評価する。(つづく)