
★目次
まえがき
序章 「好きなこと」とは何か?
第一章 暇と退屈の原理論─ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?
第二章 暇と退屈の系譜学─人間はいつから退屈しているのか?
第三章 暇と退屈の経済史─なぜ“ひまじん”が尊敬されてきたのか?
第四章 暇と退屈の疎外論─贅沢とは何か?
第五章 暇と退屈の哲学─そもそも退屈とは何か?
第六章 暇と退屈の人間学─トカゲの世界をのぞくことは可能か?
第七章 暇と退屈の倫理学─決断することは人間の証しか?
結論
付録 傷と運命―「暇と退屈の倫理学」新版によせて
第五章~第七章では哲学的に暇と退屈の問題が扱われる。第五章はハイデッガーの「退屈論」だ。取り上げられるのは『形而上学の根本諸概念』である。
ハイデッガーは,まず退屈を,「退屈の第一形式」,「退屈の第二形式」,「退屈の第三形式」に分けて考える。「退屈の第一形式」とは,「何かによって退屈させられること」(p.214),つまり「はっきりと退屈なものがあって,それが人を退屈という気分のなかに引きずり込んでいるということ」(p.214)である。例えば,片田舎のローカル線の駅舎で4時間後に来る列車を待っている人はその時間をやり過ごしたいと思うが,時間がのろく,ぐずつくことで人はその状態に「引き止め」られる。引き止められるとなぜ困るのか。「何もないところ,むなしい状態に放って置かれることになるからである」(p.222)。これをハイデッガーは「空虚放置」と呼ぶ。人はこれを回避するために「気晴らし」を求める。この「引き止め」と「空虚放置」が「退屈の第一形式」を構成する2つの要素である。
次に,「退屈の第二形式」であるが,これは「何かに際して退屈すること」(p.214)である。これについてハイデッガーはあるパーティーに招待された人の例を出している。美味しい食事を食べ,食事が済むと楽しく一緒に腰掛け,音楽を聞き,談笑する。面白く,愉快である。退屈するものは何もなく,その人は満足して帰宅する。そして明日の仕事についておおよその見当をつけ,目安を立てる。するとそのとき,その人は本当は退屈していたということに気がつくのだ。 (pp.226-227) これが「退屈の第二形式」であるが,この第二形式は第一形式と並列してあるのではなく,「より深まった退屈」(p.226)なのである。この人物がなぜ退屈したのかについてのハイデッガーの説明は次のようである。
第一形式においては,人は気晴らしを求め,それによって満たされようとするが,ここではパーティー自体が気晴らしなので,人は気晴らしを求めることはない。人はその楽しい雰囲気に自分を任せ放しにし,周囲に調子を合わせる付和雷同の投げやりな態度で,それ以上何も求めなくなる。つまり,「自分自身が空虚になる」(p.235)のである。これが第二形式における「空虚放置」である。では,時間による「引き止め」はどうか?楽しいパーティーで時間を気にしている人はまずいない。つまり,時間は人を放任している。しかし,放免しているわけではない。どういうことか?第二形式においては,自分の中で空虚が生まれるのだが,それは,「自分が時間を停止させたからである。…私はその停止した時間から空虚のうちへと滑り込むがままに放任されている。とはいえ,放免されるわけではなく,停止した時間へと引き止められている」(pp.237-238)のである。このように,第二形式においても,「引き止め」と「空虚放置」は不可分の関係で退屈の要素をなしているのである。
ハイデッガーはさらに「退屈の第三形式」について述べる。それは「なんとなく退屈だ」という感覚であり,ここでは,「もはや気晴らしということがあり得ない」(p.245)。人は全面的な空虚の中に置かれ,「外から与えられる可能性がすべて否定されている」(p.248)。するとどうなるか?ハイデッガーは言う。外からの可能性が拒否されている以上,人は自分に目を向けることを強制され,そのことによって「自分が持っている可能性に気がつく」(p.248)のだ,と。では,その「可能性」とは何か?國分の文章を引用しよう。
「答えは驚くほどに単純である。『自由だ』とハイデッガーは答えるのだ。…私たちは退屈する。自由であるがゆえに退屈する。退屈するということは自由であるということだ。…この段階ではまだ自由は可能性にとどまっている。…では,それをどう実現するか?ここでの答えもまた驚くほどに単純だ。『決断することによってだ』と言うのである。…退屈はお前に自由を教えている。だから決断せよ―これがハイデッガーの退屈論の結論である。」(pp.252-253)
しかし,國分はハイデッガーによるこの「結論には受け入れがたいものがある」(p.255)として,第五章を終える。
第六章は「動物は退屈するのか」ということがテーマだ。この章でのキーワードは,エストニア生まれの理論生物学者ユクスキュル(1864-1944)の提唱した「環世界」という概念だ。「環世界」とは,「すべての生物は別々の時間と空間を生きている」(p.264)ということである。國分は動物の環世界と人間の環世界についての考察を進め,人間は動物と比べて,環世界間移動能力がはるかに高いという点にその違いを見いだす。そして,人間のこの環世界間移動能力の高さが退屈の原因だとするのである。さらに,人間と動物の違いが環世界間移動能力の違いであるとすれば,人間ほどではないとしても,動物もまた退屈している可能性はあると結論づける。
國分は「環世界」という難しいタームを用いて説明しているが,「環世界間移動能力が高い」ということは,要するに,人間は,比較的容易にいろいろなものになることができるし,いろいろなことをすることができるということである。逆に言うと,人間は一つのことに没頭できないということになり,退屈が生じる,というのが國分の結論であると思われる。
第七章は,國分による<暇と退屈の倫理学>の構想である。第五章で見たように,國分はハイデッガーの結論を「受け入れがたいものがある」と述べていた。ハイデッガーの結論を再度確認すると,人間は自由であるが故に退屈する,自由の可能性を発揮するために決断せよ,ということだった。しかし,と國分は言う。決断するということは「周囲の状況から自分を故意に隔絶するという事態」(p.311)であり,「『狂気』の奴隷になることに他ならない」(p.311)。さらに,「こんなに楽なことはない」(p.311),なぜなら「ただひたすら決断した方向に向かえばいい」(p.311)からだ。
國分はこの事態をハイデッガーの退屈の3つの形式に即して説明する。「第一形式において人は日常の仕事の奴隷になっているのだった」(pp.312)。したがって,時間が惜しい。それなのに,時間によって「引き止め」られ,期待した対象が現れないという「空虚放置」が生じ,退屈が生まれる。「では,なぜ人は日常の仕事の奴隷になっているのか?」(p.312)「なんとなく退屈だ」(第三形式)という声から逃れたいためだ。その声から逃れるために人は「決断」して仕事の奴隷になったのである。國分はこのようにハイデッガーの結論を批判するが,では,第二形式についてはどうなのか?ここでも人は「なんとなく退屈だ」(第三形式)という声から逃れるために,「退屈と混じり合うような気晴らしを選択」(p.313)する。しかし,國分はこれについて次のように言う。「第二形式においては何かが心の底から楽しいわけではない。たしかにぼんやりと退屈はしている。だが,楽しいこともある。…大切なのは第二形式では自分に向き合う余裕があるということだ。ならば,こうは言えないか?この第二形式こそは,退屈と切り離せない生を生きる人間の姿そのものである,と。人間は普段この第二形式を生きている。そこには『現存在(ハイデッガーの言葉で,〔人間〕のことである)のより大きな均整と安定』がある。だから人間がそれを求めるのも当然のことだろう。もしそれを非難する人がいたら,その人は人間というものを見誤っている。」(p.317)
國分の<暇と退屈の倫理学>とは,第二形式の生を生きることであり,それが「人間が人間らしく生きること」(p.319)だったのだ。拍子抜けするほど平凡な結論ではないか。しかし,私はこの結論を支持したいと思う。これこそが私たちの「正気」だと思うからだ。
ハイデッガーはパーティーをする人間の態度を,周囲に自分をあわせる付和雷同として描いた。だがこれは不当な評価ではないだろうか?なぜなら退屈の第二形式において描かれた気晴らしとはむしろ,人間が,人間として生きることのつらさをやり過ごすために開発してきた知恵と考えられるからだ。
退屈と向き合うことを余儀なくされた人類は文化や文明と呼ばれるものを発達させてきた。そうして,たとえば芸術が生まれた。あるいは衣食住を工夫し,生を飾るようになった。人間は知恵を絞りながら,人々の心を豊かにする営みを考案してきた。
「それらはどれも,存在しなくとも人間は生存していける,そのような類の営みである。退屈と向き合うことを余儀なくされた人問が そのつらさとうまく付き合っていくために編み出した方法だ。」(p.320)
國分は「結論」と題された最終章で,第二形式の生を生きるということをさらに展開し,「結論」として三つのことを言う。第一は,「与えられた情報の単なる奴隷」(p.353)にならないように理解する術を獲得することである。第二は,「贅沢を取り戻すことである」(p.355)。贅沢とは浪費することであり,第四章で述べられたように,消費は物を受け取らないので延々と続くが,浪費は物を過剰に受け取ることなので,どこかでストップする。そこに満足が現れる。ただし,浪費して楽しむためには訓練が必要である。この訓練は,芸術などのハイカルチャーだけではなく,衣食住のような人間にとって最も基礎的なことにおいても当てはまる。「贅沢を取り戻すとは退屈の第二形式のなかの気晴らしを存分に享受することであり,それは,つまり,人間であることを楽しむことである」(p.360)。文化資本が与えるカタログを延々と消費するのではなく,自分で理解し,それを浪費=楽しむことである。第三は,「動物になること」である。第六章で見たように,人間の退屈は「環世界間移動能力が高い」ということから生じていた。その能力が著しく低下するのは,「自らが生きる環世界に何かが『不法侵入』」(p.363)し,それについて思考せざるを得ないときである。それは,その環世界にとどまるということ=動物になることを意味する。つまり,自らの環世界のなかで,その「不法侵入者」について徹底的に思考することである。國分は難しい言葉を使っているが,要するに,食でも,芸術でも,スポーツでも,学問でも,何でもよいが,あることに興味を持ったなら(=環世界のなかにそれが不法侵入してきたら),それについて,私たちは徹底的に考え追求していくということだ。ついでにいえば,これは,第一形式のように,仕事の奴隷になることとはまったく異なる。そこでは情報や指示が一方的に与えられ,私たちはそれに従ってただ忙しくしているだけである。ワーカホリックになるとはこのことだ。だから,仕事がなくなったとき果てしない虚無に陥っていくのだ。最後に,國分がウイリアム・モリスの言葉を敷衍して述べている言葉を引いておこう。「人はパンがなければ生きていけない。しかし,パンだけで生きるべきでもない。私たちはパンだけでなく,バラも求めよう。生きることはバラで飾られねばならない。」(p.28)
世界を見渡せばパンデミック,戦争,地球環境問題,格差・貧困問題など,人類が取り組まなければならない問題は限りなく存在する。そのような状況の中で「<暇と退屈>などと,何をのんきなことを言っているんだ」という声もあるだろう。たしかにそうかもしれない。しかし,これについて國分は次のようなことを示唆している。「退屈とどう向き合って生きていくかという問いはあくまでも自分に関わる問いである。しかし,退屈と向き合う生を生きていけるようになった人間は,おそらく,自分ではなく,他人に関わる事柄を思考することができるようになる。…すなわち,どうすれば皆が暇になれるか,皆に暇を許す社会が訪れるかという問いだ。」(p.369)
國分の言うように,少し立ち止まって退屈と向き合う生を生きていく術を身に付けた人たちが増えてくれば,ごくわずかではあるが,世界は希望の持てる方向に進んでいくのではないだろうか。
(おわり)