監督:アグニエシュカ・ホランド

キャスト

 ジェームズ・ノートン(ガレス・ジョーンズ)

 バネッサ・カービー(エイダ)

 ピーター・サースガード(ウォルター・デュランティ)

 ジョゼフ・マウル(ジョージ・オーウェル)

 

映画はメディアをどのように描いているか。

 

 ネタバレになるが,映画のストーリーを簡単に紹介すると次のようである。

 1929年の大恐慌後の1933年,資本主義諸国が大量の失業者であふれる中,社会主義国であったソビエト連邦だけが繁栄を続けていることに疑問を抱いた,ロイド・ジョージの元外交顧問・ガレス・ジョーンズはその疑問を解くため単身モスクワを訪れ,外国人記者を監視する当局の目をかいくぐってウクライナに赴く。そこでジョーンズが見たものは,ホロドモールと言われる想像を絶する悪夢の光景だった。ホロドモールとは当時のスターリンの政策がもたらした「飢餓による殺害」で,数百万人の死者が出たと推計されている。ジョーンズは逮捕されるが,この事実を公表しないことを条件にイギリスに戻ることを許可される。もし公表した場合には人質になっているイギリス人技師たちが処刑されることになっているため彼は非常に悩むが,悩んだ結果公表する決心をする。しかし,イギリスのメディアもアメリカのメディアも彼の報告を取りあげず,彼は失意のうちに故郷のウエールズに戻る。しかし,ある日,ウエールズにやってきた当時のアメリカの新聞王に直接訴えかけ,その事実が公表されたのである。

 

 まず邦題の「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」であるが,この邦題は観客をミスリードすることになっている。邦題だけを見れば,この作品はジェノサイドとも言えるスターリンによるあの非人道的なホロドモールの惨状を描くことがそのテーマであるかのように受け取られるのだが,もしそうだとすれば,この映画は描き足りないと言わざるを得ないであろう。スターリンがなぜあのような所業を行ったのかについての監督の理解がほとんど示されていないからである。

 この映画の原題がMr. Jonesであることから分かるように,映画制作者の意図はホロドモールの惨状を世界に知らせるためのガレス・ジョーンズの奮闘を描きたかったのである。しかし,その点でこの映画は取り上げている問題を一人のジャーナリストの奮闘劇に矮小化してしまっているところに私には不満が残った。なぜメディアの問題に突き進まないのか?

 たとえば,ジョーンズは一介の記者としての立場でモスクワに行くことができたのだが,その時に頼った人物はピューリッツァー賞を受賞したこともあるウォルター・デュランティである。しかし,そこで見たデュランティの姿は享楽に耽り,ソ連のプロパガンダを流す俗物に堕していた。問題はここである。つまり映画の描き方はかなり単純な善・悪の二分法にしかなっておらず,デュランティ個人の問題に解消されており,当時の政治状況,あるいはメディアの普遍的な問題にまで迫ることができていないのである。

 ところで,この映画にはジョゼフ・マウルがジョージ・オーウェル役で出演していて,当時のスターリン体制を動物たちのお伽話として批判的に描いた小説『動物農場』を示唆するシーンも挿入されているのだが,オーウェルは1945年に「報道の自由」と題された「『動物農場』序文案」という一文を書いている。それの訳者である山形浩生によると,「(オーウェルの)死後20年以上たってからタイプ原稿が見つかり,1972年に雑誌掲載され,その後各種の全集や『動物農場』の様々な版に含まれるようになった」(p.193)そうである。その序文案によると,このおとぎ話の出版は非常に難航したのだが,その原因が当時のソ連に出版社が忖度をして出版することに尻込みをしたからであるとのことである。そのことに対してオーウェルが当時の出版界や知識人たちの自主検閲を痛烈に批判しているのがその内容なのだが,この映画はそういった問題を正面から取りあげようとはしていないのである。

 上にも書いたように,映画の終盤,失意のうちに故郷のウエールズに戻ったジョーンズだが,ある日,ウエールズにやってきた当時のアメリカの新聞王に直接訴えかけた結果,その事実が公表される。この新聞王とは映画『市民ケーン』のモデルにもなったウィリアム・ランドルフ・ハーストである。ハーストが実際にどんな人物だったのかについて私は詳しくは知らないが,記事の捏造なども含むセンセーショナルな報道で,全米に一大新聞網を築き上げただけではなく,映画制作やラジオなども含むメディアを完全に支配したメディア王であったと言われている。そのハーストがジョーンズの記事をサラッと読んだだけでそれを公表する気になったのはなぜなのか。おそらくセンセーショナルな内容で,新聞が売れるという商業的動機によるものだろうが,当時の状況がそれほど簡単なものだったのかどうか,そのことに映画は全く触れておらず「めでたし,めでたし」で終わるのだ。この映画は勧善懲悪を描いているのか?制作者がエンタメ作品だと割り切っているのであれば,もっと楽しめる素材を選べばよいのであり,こんな中途半端な作品を見せられてもフラストレーションしか残らないのである。

監督:オリビア・ニューマン

キャスト

 デイジー・エドガー=ジョーンズ(カイア)

 テイラー・ジョン・スミス(テイト)

 ハリス・ディキンソン(チェイス)

 

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全世界で累計1500万部を売り上げたディーリア・オーエンズの同名ミステリー小説を映画化。

ノースカロライナ州の湿地帯で,将来有望な金持ちの青年が変死体となって発見された。犯人として疑われたのは,「ザリガニが鳴く」と言われる湿地帯で育った無垢な少女カイア。彼女は6歳の時に両親に捨てられて以来,学校へも通わずに湿地の自然から生きる術を学び,たった1人で生き抜いてきた。そんなカイアの世界に迷い込んだ心優しい青年との出会いが,彼女の運命を大きく変えることになる。カイアは法廷で,自身の半生について語り始める。

リース・ウィザースプーンが製作を手がけ,ドラマ「ふつうの人々」で注目を集めたデイジー・エドガー=ジョーンズが主演を務めた。音楽は「ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日」でアカデミー作曲賞を受賞したマイケル・ダナ。テイラー・スウィフトが本作のためのオリジナルソングを書き下ろしたことでも話題を集めた。(「映画.com」より)

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 タイトルに惹かれて鑑賞。ザリガニが鳴くという話は聞いたことがないので,このタイトルには何か深遠な哲学的意味でもあるのだろうかという興味で観たのだが,鑑賞後はあまりにも陳腐なストーリーにタイトルの意味を考える気力も失せてしまった。大谷翔平はパスタに塩しかかけないで食べるそうだが,それよりもはるかに薄~い内容の作品。

 恋愛的要素とミステリー的要素をベースに物語は展開されるのだが,それを構成する人物造形が絵に描いたようにパターン化されていて素人が脚本を書いたのかと思ってしまった。ひと言で言うと,特に「ザリガニの鳴くところ」を舞台にしなくても都会を舞台にしても成り立つストーリーではないか。もちろん,制作者はそうは言わないだろうから,「ザリガニの鳴くところ」を舞台にした意図について考えてみよう。

 

 「湿地は死を理解している。そして,死を悲劇にもしないし,罪にもしない。どんな生き物も生存のために奮闘する。時には獲物が命を繋ぐために捕食者を葬ることも。」

 エンディングのナレーションだ。野生が弱肉強食の世界であり,それは野生に生きる生物たちの生存本能である。もちろん,獲物が命を繋ぐために捕食者を葬ることもあるだろう。したがって,そこに人間世界の道徳観を持ち込むことは自然をありのままに見ることを妨げることになるであろう。たしかにそのとおりである。そうは言っても,例えばリカオンの群れに生きたまま食べられているシマウマの映像などを見ると,私などは「これが自然の摂理だ」などと冷静に見ることはできないのである。この映画が人間の価値観とは異なる自然界の摂理にしたがって構成されており,そこに制作者のメッセージがあるのであれば,私のような人間に対してもそれを説得的に描くべきだが,そんなシーンはあっただろうか?ひたすら湿地帯とそこに生息する動物たちの美しさしか描いていないではないか。カイアは町の人たちから「湿地帯の少女」と呼ばれて偏見の目で見られているのだが,彼女の行動のどこに野生が描かれているのだ?町に出かけていくことに少し躊躇はするものの,都会で引きこもっている人たちほどの深刻さも伺われず,出版社の編集者たちと初対面であるにもかかわらずレストランで普通に食事をするのである。カイアの小洒落た服装と住まい。制作者の考える「野生」とはこのようなものなのですか,と言いたくなるような作品であった。タイトルにしろ,上に引用した,取って付けたようなナレーションにしろ,「あざとい」としか言いようがない作品である。

 

監督:リン・ラムジー

キャスト

ホアキン・フェニックス(ジョー)

ジュディス・ロバーツ(ジョーの母)

エカテリーナ・サムソノフ(ニーナ)

 

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「ザ・マスター」「ウォーク・ザ・ライン 君につづく道」などの実力派俳優ホアキン・フェニックスと「少年は残酷な弓を射る」のリン・ラムジー監督がタッグを組み,第70回カンヌ国際映画祭で男優賞と脚本賞をダブル受賞したクライムスリラー。トラウマを抱え,暴力を恐れない元軍人のジョー。年老いた母と暮らす彼は,行方不明の少女たちを捜し出す報酬で生計を立てていた。そんな彼のもとに,政治家の娘ニーナを捜してほしいとの依頼が舞い込む。しかし見つけ出したニーナは,怯える様子もなく人形のように感情を失っていた。やがてニーナはジョーの目の前で再びさらわれてしまい…。ラムジー監督の前作「少年は残酷な弓を射る」も担当した「レディオヘッド」のジョニー・グリーンウッドが,今作でも引き続き音楽を手がけた。(「映画.com」より)

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 行方不明の少女たちを捜し出して報酬を得ることを生業にしている元軍人のジョーのもとに,政治家であるヴォット議員の娘ニーナを探し出して欲しいという依頼が舞い込み,ジョーが救出に出かけていく。このように書くと派手なアクション映画を想像してしまうが,この映画のテイストはまったく異なる。彼は任務の遂行のためには残忍な殺人も辞さない男であると同時に心に深い闇を抱えてもいる。そのあたりを映画はムダなセリフを一切排除しながら,ジョーの心象をフラッシュバックで映し出していく。どうやらそれは幼いときに父親から受けた虐待と戦場での出来事からくるもののようであるが,その出来事が何であるのかはフラッシュバックで示されているだけで具体的にはよく分からない。分からなくてもよいのだろう。問題は子供時代に受けた虐待や戦場での出来事が現在のジョーの意識を形成しており,それを体感することがこの映画を鑑賞したことになるからである。その点でホアキン・フェニックスの演技は観る者を圧倒してこの映画の言語化を(いい意味で)徹底的に阻害するのである。「あなたの映画力が試される普通でない映画」などと書いている評論家もいるが,そうかもしれない。

 しかしながら,個人のブログであるとはいえ,「あの映画すごかったねえ」だけではわざわざ感想文を書く必要もないので,おそらく牽強付会だとは思うが一定の解釈を試みてみた。

 以前,精神分析家のアリス・ミラーが書いた『魂の殺人 親は子供に何をしたか』(邦訳 新曜社)という本を読んだことがある。これは40年以上前に出版された本であるが,「闇教育」という言葉がキーワードになっている。「闇教育」とは,抵抗できない幼児や子供が親によって「しつけ」と称して行われる「教育」を指しているのだが,それによって子供の中に無意識のうちに憎悪が蓄積され,それが成人した後いろいろな形の復讐となって現れるというのである。「闇教育」とは暴力を伴う虐待だけではなく,生後2年ぐらいまでの幼児の自由な精神の発露を抑制する行為をも言うのだが,特に虐待された子供が成長した後の「復讐」は自分自身に向けられることもあれば,他者に向けられることもあり,また社会そのものに向けられることあって,その例として,ドラッグに溺れて娼婦になった少女,連続殺人鬼の青年,そしてアドルフ・ヒトラーが挙げられている。私はアリス・ミラーの見解が必ずしも100パーセント正しいとは思わないが,この映画のジョーの意識が父親から受けた虐待に対する復讐劇だと考えれば彼の現在の姿にある程度近づけるのではないだろうか。

 彼は母親と2人で質素なアパートで暮らしており,心から彼女を愛しているように見えるのだが,父親の虐待から唯一庇ってくれたのが母親だったのかもしれないし,また,彼が人を殺害するための道具は銃ではなく金槌なのだ。これは明らかに父親に対する復讐であろう。原題はYou Were Never Really Here「実はキミはここにはいなかったのだ」であるが,「父親の虐待や戦場でのトラウマがなかったら,キミはこんなことにはならなかったのだ」ということではないだろうか。

 牽強付会な解釈であることは承知の上で書いてみたが,ある意味,この映画は行き着くところまで行き着いた映画ではないだろうか。私は「映像で見せてこそ映画だ」という考えの持ち主ではあるが,この映画に関しては,ホアキン・フェニックスの演技に圧倒されて言葉を失ってしまったというのが正直な感想である。

1. 目撃者(2018年 韓国)

監督:チョ・ギュジャン

キャスト:

 イ・ソンミン(サンフン)

 キム・サンホ(チャン刑事)

 チン・ギョン(スジン)

 クァク・シヤン(犯人)

 

 保険会社に勤めるサンフンが新しく購入したマンションの敷地内で深夜に殺人事件が起こる。サンフンはたまたま自分の部屋からその現場を目撃するが,深夜なので他の部屋の灯りは消えており,サンフンは慌てて部屋の灯りを消す。しかし,犯人はサンフンの部屋を確認したようなのである。彼は犯人が自分の口封じに来るのではないかと恐れ,また妻と子供,そして新しく購入したした家を守るため警察の聞き込みにも一切目撃したという証言を拒否する。また,マンションの会長を中心とする住民たちは騒ぎに巻き込まれることや事件の風評被害でマンションの資産価値が下がることを恐れて,警察・マスコミへの協力に反対する同意書が配布される。他人の厄介な出来事に巻き込まれたくないという人々の心理に対する監督の批判的な姿勢がこの映画に一貫したメッセージである。この点は共感できる映画ではあるが,肝心のサスペンス映画としては脚本の荒さが目についた。ネタバレを避けるために詳細は書けないが,たとえば,マンションの住人で殺人の現場を目撃したであろう人物(女性)がもう一人いて,その女性は白昼自分の部屋で犯人に殺害され,犯人はその死体を一人で誰にも目撃されることなく運び出したようなのである。しかし,犯人が白昼堂々と口封じにやってくるというのもリアリティーが希薄だし,益してその死体をどのようにして運び出したのかというのも理解に苦しむところである。さらに,サンフンが刑事と一緒にいながら犯人を目の前にして証言を拒否するのも考えづらいところではあり,ラストの展開も「それはないだろう」としか言えず,サスペンスとしてはイマイチだった。

 

ストーリー展開 ★★

どんでん返しのインパクト ★

伏線の回収 ★

サスペンスとしての満足度 ★★

 ★1つが1点。☆は0.5点。5点満点。

 

2. search サーチ (2018年 アメリカ)

監督:アニーシュ・チャガンティ

キャスト

 ジョン・チョウ(デビッド・キム)

 デブラ・メッシング(ヴィック捜査官)

 ジョセフ・リー(ピーター)

 ミシェル・ラー(マーゴット)

 

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物語がすべてパソコンの画面上を捉えた映像で進行していくサスペンススリラー。16歳の女子高生マーゴットが突然姿を消し,行方不明事件として捜査が開始されるが,家出なのか誘拐なのかが判明しないまま37時間が経過する。娘の無事を信じたい父親のデビッドは,マーゴットのPCにログインして,Instagram,Facebook,Twitterといった娘が登録しているSNSにアクセスを試みる。だがそこには,いつも明るくて活発だったはずの娘とは別人の,デビッドの知らないマーゴットの姿が映し出されていた。「スター・トレック」シリーズのスールー役で知られるジョン・チョウが,娘を捜す父親デビッド役を演じた。製作に「ウォンテッド」のティムール・ベクマンベトフ。Googleグラスだけで撮影したYouTube動画で注目を集めた27歳のインド系アメリカ人,アニーシュ・チャガンティが監督を務めた。(「映画.com」より)

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 現在劇場公開中の『search2』の第1作目の作品。

 サスペンス映画が好きな私には,終盤にどんでん返しに次ぐどんでん返しがあって,ストーリー的にはとても楽しめる映画だった。物語はPC上で進んでいき,私としては,そのアイデアが斬新に感じられ,なかなか面白かったのだが,このような手法については賛否が分かれるところだろう。

 行方不明になるマーゴットの父親は娘の消息を知ろうとしてマーゴットが関わっていたSNSにアクセスしたところ,そこには父親の知らない娘の顔がある。彼は娘のSNSをどんどんたどっていくことによって真犯人に辿りつくのだが,SNSを通じて人と人とがつながる現代の状況を反映した作品で,いずれ『search2』も観たいという気にさせる映画であった。

 

ストーリー展開 ★★★★

どんでん返しのインパクト ★★★★

伏線の回収 ★★★

サスペンスとしての満足度 ★★★★

 ★1つが1点。☆は0.5点。5点満点。

 昨日,近所の書店に取り寄せて欲しいと注文してあった本が届いたとの連絡があり早速受け取りに行ったのだが,ついでに書店の本棚をブラブラと見ていて見つけたのがこの本。

 

中条省平『教養としてのフランス映画220選』(祥伝社黄金文庫)

 

 最近やたらと「教養としての~」というタイトルの本が目につくのだが,ある意味,冷笑主義が蔓延しているSNSに対するアンチテーゼなのだろうかとも思われる。まあ,あまり深く考えずに「教養=知識」という程度に理解しておけばよいのだろう。何事も「知っているだけ」ではあまり意味がないが,「知らなければ始まらない」とも言えるので,取っ掛かりとしてはこの類いの本は結構便利である。

 さて,本書はタイトルから分かるように,1902年の『月世界旅行』から始まって,2021年の『TITANE/チタン』までの著者厳選の220作品を紹介している本である。パラパラとページをめくっていくと,『アンダルシアの犬』,『裁かるるジャンヌ』,『巴里祭』,『にんじん』など,タイトルだけは聞いたことがあるが観たことのない映画の紹介が続き,やっと13番目に観たことのある『望郷』が出てきたと思ったら,続く14番目にこれも観たことのある『舞踏会の手帳』が紹介されていて少し安心。ところが,そのあとタイトルすら知らない作品が続き,やっと観たことのある映画が出てきたのは26番目の『天井桟敷の人々』,34番目の『禁じられた遊び』の2本だった。結局,220選の中で観たことのある映画はわずかに34本。教養のなさを思い知らされた次第ではあるが,ほぼ予想通りでもあった。まあ,紹介文を読んで興味深そうな作品をチェックしておくことにしよう。