平野啓一郎『本心』(文藝春秋社)

 

 

 平野啓一郎の小説に一貫して描かれている大きなテーマは「私とは何か」だ。先日このブログでも紹介した『私とは何か』の中でも平野はデビュー作の『日蝕』から『ドーン』までの一連の小説の中でそのテーマをどのように扱ってきたかを述べているが(pp.48-62),小説を書くことを通じて平野は「分人主義」という地平に辿りついたのである。『本心』は,平野がこの「分人主義」をどのように描いているかが物語の中心になっている小説である。

 

 舞台は近未来の2040年代の初め,自らの死を自己決定できる「自由死」が合法化された日本である。主人公の石川朔也(29)は亡くなった母親のVF(バーチャル・フィギュア)を制作してもらう。制作会社の野崎がVFについて説明する。「仮想空間の中に人間を作ります。…姿かたちは,本当の人間と,まったく区別がつきません。」「…話しかければ,非常に自然に受け答えをしてくれます。…ただ,“心”はありません。」要するに,姿かたちが生前の母と区別がつかないAIなのだ。いろいろと学習していくことによって生前の母が考えていたことも分かってくるだろう…。

 朔也は,顧客が仮想空間を通じて送ってくる指示に従って現実世界においてその要求を満たすリアル・アバターという派遣労働の仕事をしながら,母と二人暮らしをしていた。そんなある日,70歳を目前にした母から「自由死」を望んでいることを告げられる。

「お母さん,もう十分生きたから,そろそろって思ってるの。」(p.30)

「お母さん,富田先生と相談して,“自由死”の認可を貰って来たの。」(p.30)

 朔也は取り乱し,母を酷く責めるが,母は「もう十分生きたから」を繰り返すだけだ。

「違うよ,それはお母さんの本心じゃない。お母さんは,子供や若い世代に迷惑をかけないうちに,人生のケジメをつけるべきだっていう世間の風潮に,そう思わされているんだよ。」(p.37)

  朔也は母の“自由死”を絶対に認めなかったが,ある日,母は亡くなってしまう。“自由死”ではなく事故で。朔也は一人取り残されることになるが,最愛の母が“自由死”を望んだ本心はとうとう理解できなかったのだ。

 朔也がVFの制作を依頼した理由はVFの<母>と仮想空間で対話を続けるうちにVFが母に関するいろいろなことを学習し,母の本心が分かるのではないかと思ったからである。そしてVFの<母>との対話を重ねるうちに朔也には自分が知らなかった生前の母についていろいろなことが分かってくる。母は旅館の下働きをしていたのだが,そこで朔也より少し年上の三好彩花という若い女性ととても親しかったこと,藤原亮治という作家の大ファンで,個人的にも面識があったことなど…。そして,ここから長い物語が始まる。

 

 私たちは自分の最も身近にいて,自分が最も愛している人の本心を本当に知っているのだろうか?それは単なる思い込みではないのか?「裏切られた気がする」というのは,自分が知っていると思い込んでいるその人の姿とは別の姿をもその人が持っているというだけのことではないのか?そもそも,それ以前に自分自身の本心がどこにあるかということを私たちは確信しているのであろうか?朔也にとって母は“自由死”などを望むような人ではないはずなのだ。しかも,「もう十分生きたから」などという理由で。朔也は高校生の時,ちょっとした「事件」で高校を中退し,大学にも行かず不安定な派遣労働者として働いている。ひょっとしたら,母はそのような息子のことを恥じていたのではないだろうか?それを知りたくて<母>との対話を重ねるが,<母>は学習した以上のことは教えてはくれない。人の本心など語れるはずはないのだ。彼は藤原亮治の小説も読んでみる。

「そして,僕はようやく,こう考えたのだった。― 母について。つまり,母は僕を,欺したまま,死んだのではないか,と。…」(p.156)

 結局,朔也は母の本心にたどり着くことができたのだろうか?ネタバレを避けるために物語の詳細は避けるが,朔也が経験したことを一つだけ紹介しておこう。それは朔也がSNSでとても正義感の強い人としてネット民の間で大きな賞賛の的になったことだ。しかし,実際のところ,それは朔也の意図とは全くかけ離れたことであった。人はある人物が行った一つの振る舞いを見て「あの人はこういう人だ」と思い込み,それをその人の本質だと決め込む。おそらく朔也は戸惑っただろうが,それは自分自身が母に対して持っている思い込みと同じではないか…。その「事件」は彼がそのことに気づくきっかけになったのであろう。

 

 藤原亮治が朔也に送ったメールの最後の言葉。「最愛の人の他者性と向き合うあなたの人間としての誠実さを,僕は信じます。」(p.417)

「藤原を通じて,僕は母の人生を,一人の女性として見つめ直していた。その心の色合いは,僕がずっと見定めたいと願っていたよりも,遙かに複雑に混ざり合っていた。」(p.427)

「すっかりわかったなどと言うのは,死んでもう,声を発することが出来なくなってしまった母の口を,二度,塞ぐのと同じだった。僕は,母が今も生きているのと同様に,いつでもその反論を待ちながら,問い続けるより他はないのだった。わからないからこそ,わかろうとし続けるのであり,その限りに於いて,母は僕の中に存在し続けるだろう。」(p.439)

 最愛の人について私たちは「このようであって欲しい」と思うが,それはそのイメージをその人に強要することではないのか?おそらく朔也はその疑問に辿りついたのであろう。愛する人が望むこと,それをそのまま受け入れるのが愛ではないのか,と。この想いにたどり着くまでの朔也の大きな揺らぎとその優しさ…,それを思って私は彼のその想いに感動したのだった。

 

 平野啓一郎が提唱している「分人主義」が色濃く出ている小説であるが,それだけではなく,この作品には朔也をめぐるいろいろな人たち ― 三好彩花,事故で車いす生活になった青年実業家のイフィ,コンビニの店員のティリなど― を通じて貧困,社会的格差,自由死,仮想空間,ネットワーク社会といった問題も描かれており,読み応えのある作品であるが,ここでは,その中の「自由死」に関する記述を取り上げておきたい。

 「死の自己決定権」に関して登場人物たちはいろいろな言葉を発する。朔也の母は一人で死ぬことの恐怖を口にする。「お母さん,万が一,あなたがいない時に死ぬと思うと,恐いのよ。わかるでしょう,それは?」(p.39)。これは藤原亮治も共有している思いだ。「自分が死ぬ時には,誰かに手を握ってもらい,やはり死を分かち合ってもらう。さもなくば,死はあまりに恐怖です。」(p.409) イフィーは社会的な観点からこの問題を口にする。「勿論,(“自由死”には)反対です。好き好んで“自由死”する人なんていないんだし,一旦認めてしまったら,今みたいに,弱い立場の人たちへのプレッシャーになるでしょう?…貧しい人たちは,足ることを知って,“自由死”を受け容れるべきなんですか?恐ろしい考えです。人間には,ただ“自然死”があるだけです。」(p.334)

 高齢になった今,私も自分はどんな状況で死ぬのだろうかと想像することはたしかにあるが,一人で死ぬことは想像していなかった。ひょっとしたら,その恐怖を無意識的に避けていたのかもしれない。おそらく想像力の欠如なのだろう。ただ,この小説が想定しているような「自由死」が合法化された社会が到来したとすれば,それは世代間の断絶の問題ではなく,イフィが言うように貧困の問題であることはたしかであろう。

 

平野啓一郎『私とは何か』(講談社現代新書)

 

 本書の冒頭で著者の平野啓一郎は「本書の目的は,人間の基本単位を考え直すことである」(p.3)と述べている。ひと言で言うと,本書のサブタイトルである「『個人』から『分人』へ」ということである。「分人」とは平野による造語であるが,要するに,人間の基本単位は「個人」なのか「分人」なのかということが本書のテーマなのである。平野によれば,「個人」とは英語のindividualの翻訳で「(もうこれ以上)分けられない」が原義であるが,これを人間の基本単位とする考え方は,人間はいろんな「キャラ」を演じ分けているが,人間にはその核となる「本当の自分」,つまり,ただ一つの自我が存在するのだという観念に基づいているということになる。これに対し,平野は「たった一つの『本当の自分』など存在しない。裏返して言うならば,対人関係ごとに見せる複数の顔が,すべて『本当の自分』」(p.7)であり,それを平野は「分人」(dividual)と名付ける。つまり,「私という人間は,対人関係ごとのいくつかの分人によって構成されており」(p.8),「個性」とは「その複数の分人の構成比率によって決定される」(p.8)のである。以上が本書の「まえがき」の内容であるが,ここに本書のエッセンスがほぼ語られていると言ってもよい。では,なぜ平野は「分人」という概念にこだわるのか?その目的とは?その点に関して平野は次のように述べている。

 「私たちは現在,どういう世界をどんなふうに生きていて,その現実をどう整理すれば,より生きやすくなるのか?分人という用語はその分析のための道具に過ぎない。」(p.8)

 例えば,唯一無二の「本当の自分」という言葉とセットになっている「個性」ということについて,教育現場などでは「個性の尊重」ということが叫ばれるが,それは将来的に個性と職業を結びつけなさいということである。しかし,私などもそうであったが,平野が自分の経験をも踏まえて言うように「自分のしたいことが,そんなに簡単に分かるはずがない」(p.41)のであって,それがアイデンティティ・クライシスを引きおこし,「引きこもり」や「自分探しの旅」などにつながる場合があるのである。ずいぶんと息苦しい生き方ではないだろうか。それに対し,上に紹介したように,自分の中には対人関係ごとにいろいろな「分人」が存在し,そのそれぞれが「本当の自分」であり,「個性」とは「その複数の分人の構成比率によって決定される」のであると考えれば,はるかに気が楽になるように思われるのだ。例えば,学校などにおける「いじめ」は深刻な問題であるが,「学校でいじめられている人は,自分が本質的にいじめられる人間だなどと考える必要はない」(p.94)のであって,他の人間関係において快活で楽しい自分になれるのであれば「その分人こそを足場として,生きる道を考えるべきである」(p.94)し,「新しく出会う人間は,決して過去に出会った人間と同じではない。彼らとはまったく新たに分人化」(p.95)すればよいのである。いじめられ,愛されないことを「本当の自分」などと自己規定する必要はないのである。

 以上のように,「分人」とは他者との関係において「人格同士がリンクされ,ネットワーク化されている」(p.68)存在なのであるが,このように言った場合,「八方美人と同じではないか」という疑問が生まれるであろう。しかし,それに関して平野は次のように述べている。「八方美人とは,分人化の巧みな人ではない。むしろ,誰に対しても,同じ調子のイイ態度で通じると高を括って,相手ごとに分人化しようとしない人である。」(p.81)したがって,そういう人の相手になった場合,私たちは十把一絡げに扱われたと思ってムカつくのである。八方美人とは違って,「分人化は相手との相互作用の中で自然に生じる現象」(p.81)なのである。

 以上,本書の「第1章 『本当の自分』はどこにあるか」,「第2章 分人とは何か」を中心として,そのエッセンスとなる部分を紹介したが,これは,私たちが従来日常の生活の中で漠然と感じてきたことではないだろうか。本書の意義はそれを「分人」という言葉で言語化し,その根拠を明確に理論化しているところにあると言えるだろう。

 もちろん,本書の内容は以上に尽きるものではなく,「第3章 自分と他者を見つめ直す」,「第4章 愛すること.死ぬこと」,「第5章 分断を超えて」と題された諸章においては「分人」という概念を中心としていろいろな問題が論じられているのであるが,それだけではなく,巻末においては「個人」という概念がヨーロッパでどのように成立し,それが日本に輸入された明治以降,日本においてどのように扱われてきたかということについての興味深い論考も掲載されており,ぜひ一読をオススメしたい書物である。

  ドしろうとではあるが,「ダービー」の予想をしてみた。

 現在(28日13時)の単勝オッズを人気5位まで見ると,以下のようである。

1. ⑤ソールオリエンス(1.9)    

2. ②スキルヴィング(4.6)   

3. ⑭ファントムシーフ(6.2)   

4. ⑫タスティエーラ(8.7)     

5. ⑩シャザーン(23.0)

 

 当然のことであるが,出走馬18頭のうち11頭が前走「皐月賞」出走馬であり,上の上位人気馬でも②を除いて4頭が「皐月賞」に出走している。そこで,まずJRA提供のレースビデオを見ながら「皐月賞」を検討してみた。「皐月賞」上位入線馬は以下の通りである。

   馬名        通過順位

1. ソールオリエンス  15-15-17

2. タスティエーラ         6-6-4

3. ファントムシーフ  10-10-10

4. メタルスピード        9-8-8

5. ショウナンバシット  13-10-4

 レースは5F通過が58.5秒というハイペースで,通過順位を見ると分かるように後方待機馬が上位入線を果たしている。例外は2着のタスティエーラで,最後の直線で抜け出したところをほぼ最後位からソールオリエンスが上がり35.5秒の末脚で差しきって勝ったレースである。重馬場であったことを考えるとソールオリエンスの瞬発力は抜けていると思われる。ただ,5F 58.5秒というペースを考えた場合,前方で競馬をして2着に粘ったタスティエーラの能力は侮ることができないであろう。3着のファントムシーフは右後肢が落鉄していたらしく,また「共同通信杯」でタスティエーラに先着しているというところから3番人気になっているものと思われる。もう1点考慮しなければならないのは5着のショウナンバシットである。「皐月賞」当日は馬場状態が非常に悪く,上位5頭のうち4頭は外を通ったのに対してショウナンバシットは内を通っており,それが直線の伸びを欠いたとも考えられるのである。

 次に検討しなければならないレースは単勝人気2番のスキルヴィングが出走した「青葉賞」である。このレースに関して憶えているのは,創設当時「ダービー」と同距離,同競馬場で行われるということでこのレースの勝ち馬が「ダービー」でも人気になったのだが,ことごとく敗れ去ったということである。ネットでチェックしたところ,現在に至るまでも2着はあるが優勝馬は出ていないということが分かった。よく考えれば,「ダービー」までのステップで王道を歩む馬は「皐月賞」に出走するはずなので,「青葉賞」に出走するということは仕上がりが遅れているということであり,「ダービー」出走の権利狙いで目一杯仕上げているはずなので,「ダービー」ではもう余力は残っていないと考えられるのではないだろうか。そこで,今年の「青葉賞」であるが,5F通過が60.4秒というスローペースで,後方から伸びてきたスキルヴィングが34.1秒という末脚で差しきったというレースである。たしかに直線で伸びる足はあるが,ペースと馬場状態(良)を考えると評価が難しい気がする馬である。

 その他のステップレースも見たが,結論としてはこの2つのレースの出走馬から優勝馬は出るのではないかと思われる。

 ★レース展開

 ペースを作るのは③ホウオウビスケッツ,⑯パクスオトマニカ,⑰ドゥラエレーナの3頭だろうが5F60秒ぐらいの平均ペースになるのではないだろうか。有力馬の位置取りとしてはタスティエーラが先頭集団の直後辺りに着け,そのやや後ろにファントムシーフ,中団~やや後方にソールオリエンス,最後方の集団にスキルヴィングが着けるのではないかと思われる。先頭集団の馬がどこまで粘るのかによるが,直線ではタスティエーラが一旦先頭に立ち粘り込みを図るところにソールオリエンスがものすごい脚で伸びてきたところがゴールという結末になるのではないだろうか。スキルヴィングには競馬が難しいレースになると思われる。瞬発力ではソールオリエンスに劣るのでこの馬よりも前で競馬をしたいところだが,あまり前に行くこともできない馬だからである。

 馬券は連勝複式で買うが,軸はタスティエーラの粘り込みに賭けてこの馬にしたい。ソールオリエンスの瞬発力は中山でこそという気がして,直線の長い東京競馬場であの脚が使えるのかという不安があるからである。ただ,タスティエーラにも不安があって,1頭になると少し気を抜く傾向があるらしいし,松山騎手がこの馬ではなくハーツコンチェルトを選んだこと,テン乗りのレーン騎手がどういう競馬をするかという点である。特に直線での仕掛けどころを間違えないようにお願いしたい。ソールオリエンスではなくタスティエーラを選んだ決めては単勝オッズが1.9倍には馬券的にあまりうま味がないということである。(結局そこかい?!笑)

 

馬券は馬連で,

⑤ソールオリエンス―⑫タスティエーラ 

⑥ショウナンバシット―⑫タスティエーラ

⑫タスティエーラ―⑭ファントムシーフ

 

的中してもハズレても,今日一日をゆっくり楽しみたい。

 週末の土・日曜日になると毎週のようにウインズ,競馬場,ネット投票で馬券を買っていた生活から足を洗って(?)15年ほどになり,馬券を少額買うのも「ダービー」と「有馬記念」だけになってしまった。TVで競馬中継を見ても馬はもちろん,騎手の名前も半分ほどは馴染みがないのだが,それでもレースが始まるとやはり競馬は楽しい遊びだということを実感させられるのだ。

 今年も来る5月28日に東京競馬場で「日本ダービー」が行われる。これからネットで情報収集に精を出すつもりであるが,現在のところ「皐月賞」の勝ち馬の名前しか知らない状態である。

 初めて「日本ダービー」を見たのは1988年の第55回ダービーで,優勝したサクラチオノオーの小島太騎手が2度目のダービー制覇を果たしたのだった。もちろん,当時はそんな知識はなく,当時付き合いのあった2人の友人に競馬に関することをいろいろ教えてもらいながらの東京競馬場であった。(今は彼らとの付き合いもなくなったのだが,どうしているのだろうか…?)その後20年間ほど私はすっかり競馬の魅力に取り憑かれて完全に嵌まってしまい,毎週末に馬券を買うようになっただけではなく,ネット上で知った競馬の達人の競馬理論に心酔してその人を私淑するようになったり,また競走馬を所有するクラブ法人の会員になったりもして,数十万円のお金で馬主気分を味わったりもするようになったのだが,だんだん予想をする行為が予習・復習という受験勉強のような気分になってきて,結局競馬から離れてしまったのである。

 しかし,「鉄火場」という言葉があるように,競馬場には日常空間では味わえない「祝祭空間」という雰囲気があり,一度は行ってみるのも悪くはないのではないだろうか。まあ,それはともかく,今年のダービーを制する馬は…?う~ん,今知りたい。(笑)

 

 

 

 

監督:片山慎三

キャスト

 佐藤二朗(原田智)

 伊東蒼(原田楓)

 清水尋也(山内照巳)

 森田望智(ムクドリ)

 

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「岬の兄妹」の片山慎三監督が佐藤二朗を主演に迎え,姿を消した父親と,必死に父を捜す娘の姿を描いたヒューマンサスペンス。大阪の下町に暮らす原田智と中学生の娘・楓。「指名手配中の連続殺人犯見たんや。捕まえたら300万もらえるで」と言う智の言葉を,楓はいつもの冗談だと聞き流していた。しかし,その翌朝,智が忽然と姿を消す。警察からも「大人の失踪は結末が決まっている」と相手にされない中,必死に父親の行方を捜す楓。やがて,とある日雇い現場の作業員に父の名前を見つけた楓だったが,その人物は父とは違う,まったく知らない若い男だった。失意に沈む中,無造作に貼りだされていた連続殺人犯の指名手配チラシが目に入った楓。そこには,日雇い現場で出会った,あの若い男の顔があった。智役を佐藤が,「湯を沸かすほどの熱い愛」「空白」の伊東蒼が楓役を演じるほか,清水尋也,森田望智らが顔をそろえる。(「映画.com」より)

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 Wikiによると,片山慎三はポン・ジュノの助監督を務めていたことがあるとのことで,この映画にも随所にその影響が伺われるのだが,ポン・ジュノのファンにはお気に入りの作品ではないだろうか。

 社会派サスペンスというジャンルに属する作品だが,「映画.com」で紹介されているように,女子中学生が突然失踪した父親の行方を探す物語で,彼女が探し当てた父親とは…,という話である。今世紀において起こった幾つかの事件をベースとして組み立てられた物語なのだが,「社会派」の部分としては素材の扱い方がとても難しく,それを犯人側の視点から描くことによってなんとかその難しさを回避している印象である。したがって,今回は「サスペンス」としての視点に絞ってこの映画を論じることにする。

 最大の疑問は最初の殺人であるが,殺害の方法がかなり杜撰で,どう考えても,この「事件」に警察が介入しないはずがないと思われるのだが,そこはスルーなのだ。もっとも,この時点で警察が介入する展開になると,その後の話が続かないのであえて妥協することにしよう。ただし,この部分は「死」についてのかなりセンシティブな問題を含んでいるので,このテーマだけを取り上げた作品として提示する場合には制作者側の見識が問われるであろう。

 さて,その後の展開は,楓が父親を探す姿と,彼の失踪後の姿を時系列を前後させながら進んでいくのだが,このあたりはなかなか興味深く観ることができたし,佐藤二朗,伊東蒼,清水尋也はそれぞれの役柄をうまく演じていたように思う。特に佐藤二朗は,気が弱いくせにだらしなく,無責任なオヤジ像がピッタリとはまっていた。

 サスペンスとしては,事件が一旦「解決」した後での展開の仕方が出色であった。この映画ではピンポン球がそれぞれのシーンを象徴するものとしてじつにうまく使われているのだが,ラストで父親が娘と卓球でラリーをしながら交わす会話が徐々に緊張感を帯びていき,ついにはピンポン球は見えなくなりながらも,二人がラリーをする姿と卓球台に当たる球の音だけが響いてきて,楓が自分が探していたものの真実を確信するという構成はお見事でした。