監督:早川千絵

キャスト

 倍賞千恵子(角谷ミチ)

 磯村勇斗(岡部ヒロム)

 たかお鷹(岡部幸夫)

 河合優実(成宮瑶子)

 マリア(ステファニー・アリアン)

 

(ネタバレです)

 少子高齢化が進んだ近未来の日本。超高齢化社会の問題解決策として「PLAN75」が多くの反対を押し切って国会で可決される。この法律は満75歳以上の高齢者が安楽死をする権利を与えられる制度であり,国がその希望者を募り,それに応募した人には安楽死の処置が施されるまでの支度金として10万円が支給される。

 

 「生産年齢人口」という言葉がある。生産活動の中心にいる人口層のことで,15歳以上65歳未満の人口のことだ。また,「労働力人口」という言葉もある。労働の意志と労働可能な能力を持った15歳以上の人口のことだ。いずれも統計用語だが,「PLAN75」を可決した国会は「生産年齢人口」に該当せず,「労働力人口」の規定にある「労働の意志と労働可能な能力」を持たないと社会が判断した人たちを社会はどのように処遇するべきかということから導き出された法律であり,年齢による命の線引きなのである。しかし,問題はそれだけなのか?

 78歳の角谷ミチはホテルの客室清掃員として働いているが,ある日突然,他の高齢の女性たちとともに,高齢を理由に解雇されてしまう。生活の糧を得る術を閉ざされた彼女は新たな働き口を探さなければならない。しかし,彼女は労働の意志と労働可能な能力を持っているにもかかわらず,高齢であることを理由に誰も雇ってはくれない。八方塞がりになった彼女は「PLAN75」に応募する決心をする。しかし,なぜそんなことになってしまったのか?

 高齢であることを理由に仕事を解雇され,もはやどこにも働き口がない。年齢による差別ではあるが,じつは問題はそれ以前のところにある。彼女はなぜ78歳になっても働かなくてはならないのか?そう,問題は貧困であるということなのだ。そして,それは彼女の責任なのだろうか?

 彼女がどのような人生を送ってきたのかということは具体的に描かれてはいない。分かるのは,死を選んだ高齢者にその日が来るまでサポートするコールセンタースタッフの瑶子に彼女がチラッと漏らした言葉から,若い頃見合い結婚をしたが嫁ぎ先で労働力としてこき使われたことに耐えられず離婚,二度目の結婚もしたが夫と死別して以来78歳になるまで一人暮らしを続けてきたということぐらいである。しかし,彼女の物静かな話し方や人との接し方から彼女はつましく,出しゃばらず,他人に迷惑をかけることなく暮らしてきたことが想像されるのである。何気なく描かれているが,彼女の人となりを伺わせるシーンがある。いよいよ「その日」がやってきた日の朝,彼女は支給された10万円の支度金で前日に食べた出前の特上寿司の入れ物を洗ってそれを布巾で拭くのだ。翌日には彼女はもうこの世にはいない。穏やかな気持ちでいるはずがない。それでもなお他人への気遣いをするような人物なのだ。そんな人物がもう世の中の役に立たないからという理由で死を選ばざるをえない社会って何なのだ?早川監督の静かではあるが激しい怒りが感じられるシーンである。

 この映画にはもう一人,「PLAN75」に応募する人物が登場する。若い頃から全国各地の工事現場を渡り歩いて仕事をしてきた岡部幸夫だ。彼は日本の高度成長を縁の下で支えてきた人物だろう。しかし,もはや社会にとっては無用な人間なのだ。「PLAN75」は老人を排除する法律ではない。「貧困な老人」を排除する法律なのだ。

 もちろん,映画はフィクションであり,近未来の日本がこの映画で描かれているような姿になっているとは思わないが,現在の我が国の社会が「生産性」という基準を最も重視し,そこからこぼれ落ちる人間が貧困に転落していくような社会であることに疑いはないであろう。もちろん,社会が全体として豊かになるためには生産性を上げることが必要であることは言うまでもない。しかし,「生産性至上主義社会」は「生産性」という言葉を人間に適用するのだ。その意味では,映画『PLAN75』で描かれている社会の姿は「貧困な老人」だけではなく,「貧困な老人」予備軍である若者にも無縁ではないのだ。

 ミチは安楽死の処置を施されている途中で気が変わり,生きる決心をする。ラスト。施設を抜け出した彼女は空を見上げる。まぶしいほどの夕日が出ている。彼女の前途には相変わらず厳しい現実が待ち受けているだろう。それでも彼女は「合法的な死」ではなく,夕日が沈むのが自然な現象であるように,いずれ訪れる「自然死」を選んだのだ。それが「PLAN75」とそれを可決した国に対して彼女にできる精一杯の抵抗なのだ

監督:オリオル・パウロ

キャスト

 バーバラ・レニー(アリス)

 エドゥアルド・フェルナンデス(アルバ)

 

 オリオル・パウロ監督のサスペンス映画は以前『嵐の中で』を観たことがあるが,それよりも今回鑑賞した『神が描くは曲線で』のほうが圧倒的に面白かった。サイコサスペンスの範疇に入るのだろうが,物語の大ざっぱな筋は以下の通りである。

 

 裕福で聡明な人妻アリスは夫を毒殺しようとしたということで精神科病院に入院させられるが,それは夫がアリスの財産目当てででっち上げたウソだと主張する。ところが,じつは彼女は精神病ではなく,この病院で一年前に起きた刺殺事件の真相を暴くために患者を装って潜入した私立探偵なのである。彼女は主治医のドナディオと精神病院の院長アルバの協力によって潜入したはずなのだが,アルバ院長はアリスが言うことは全部ウソで、彼女をパラノイアだと言いだす。これは夫の陰謀なのか,それとも彼女は本当のパラノイアなのか…。

 

 観客をミスリードする描写が仕掛けられており,また映画の後半になって時系列が物語の進行通りではないことが判明するのだが,それも観客をミスリードする仕掛けなのである。しかし,一方で注意深く観ていればアリスが正常なのかパラノイアなのかは分かるような仕掛けもあり,とにかく観察力が求められる作品である。

 

 アリスが一人の初老の男に付き添われて精神科病院に向かうところから物語が始まる。二人は病院の門の前で立ち止まり,その先はアリスが一人で病院内に入っていくことを告げる。初老の男が言う。「君なら大丈夫だ。勇気に感謝する。」この何気ないシーン。あとで観客は「あ~,そうだったのか」ということになるのだが…。

 アリスはまずルイペレス医師の診断を受ける。病院の係の者が彼女に入院を勧めた医師からの手紙をルイペレス医師に渡す。それには以下のことが書いてある。

「患者は常に答えを用意します。嘘であれ必ず答えます。発言に統合性を欠くこともあります。しかしすぐに説明を返します。以前の話は嘘で、今回の話こそ本当だと。彼女は愚直な人間や経験不足の精神科医を簡単に惑わせます。」

 ルイペレス医師は彼女にいろいろな質問をして最終的な診断を下す。医師が診断書に書き込んだ病名は…「完全なパラノイア」。

 その後,彼女はいろいろな手順を経て,副院長のモンセに案内されて病室に入る。一人になったアリスは一冊だけ持ち込みを許可された『パラノイア症候群』というタイトルの本を開き,その中に隠しておいた一枚の手紙とメモと新聞の切り抜き記事を取り出す。手紙には「私でなくお前が殺した」,メモには「何かがあったはずだ。だが,警察は動かない。助けてくれ,アリス。頼む。」と書かれており,新聞記事の見出しは「デルオルモ家の悲劇」となっている。

 突然,病院が火事で大騒ぎになっているシーンに切り替わり,一人の男性患者が病室で血まみれで死亡しているのが見つかる。殺人事件らしい。アリスはどうやらこの殺人事件の真相を探るために潜入したようなのだ。

 この映画の尺は155分なのだが,以上紹介した部分は冒頭から15分ぐらいまでの展開であり,このあと物語は二転三転し,やっと解決したのかと思った途端,ラストの1分で大ドンデン返しが待っているのだ…。

 精神科病院を舞台にしたサイコサスペンスという点ではスペイン版「シャッターアイランド」と言っている人もいるようだが,『シャッターアイランド』のように突然「エ~!!」となる内容ではなく,主人公がパラノイアなのか夫や病院長の陰謀にはめられた女性なのかということを巡って物語が展開する点でまったく異なったテイストの作品であると言える。

 

 サスペンス映画としてとても面白い作品であるが,映画の展開のポイントについて考えてみると,私たちはある一つの現象を判断する際に何を頼りにしているのだろうかという問題が浮き上がってくるように思われる。科学なのか,論理的に整合性のある説明なのか,勘なのか,人々の風評なのか…。この映画は科学なのだと言っているのだが…。

今月は次のような映画を観ました。

 

1.イワン雷帝(1946年 ソ連)

監督:セルゲイ・エイゼンシュテイン

 エイゼンシュテイン監督の映画『イワン雷帝』を観た。実はエイゼンシュテインの映画は若い頃に『戦艦ポチョムキン』を観ただけで,これが2本目の鑑賞になる。映画は第1部と第2部から構成されており,ウィキペディアの記述によると,この映画を観たスターリンは第1部は高く評価したものの,第2部については,これを上映禁止にしたそうだ。ウィキペディアにはこれ以上の記述はないが,エイゼンシュテインは第2部が上映禁止になったのを受けて制作中だった第3部を廃棄処分にしたとも言われている。そのために私たちは第1部と第2部しか観ることができないのだが,そこで描かれているのは主にイワンと貴族たちとの権力闘争である。私の推測では第3部ではおそらく些細なことでイワンが皇太子と親子喧嘩をし,その挙げ句自分の息子を殺害してしまったという「凶王」ぶりなどが描かれることになっていたのではないだろうかと思われる。もしそのような映画を制作していたら,スターリンの逆鱗に触れていたであろうが,映画作品としてはとても興味深いものになっていたのではないだろうか。

 

*この映画については再鑑賞して内容に即したレビューを書きたいと思っています。

 

2.イニシェリン島の精霊(2022年 イギリス)

監督:マーティン・マクドナー

この映画については8月20日に当ブログで感想を書きました。

 

3.ヒトラーのための虐殺会議(2022年 ドイツ)

監督:マッティ・ゲショネック

 1942年1月,ナチスの国家保安部代表ラインハルト・ハイドリヒがベルリン郊外のヴァンゼー湖畔にある大邸宅にナチス親衛隊と各省の事務次官を集めて「ユダヤ人問題の最終的解決」,つまりヨーロッパにいるユダヤ人の計画的な抹殺を議題とする「ヴァンゼー会議」が開かれたのだが,本作はその様子を描いた映画である。

120分弱の映画の90パーセントぐらいが会議の様子を描いており,観客はまるでその会議に参加しているかのような錯覚に陥るのだが,その点がこの映画のユニークなところだろう。話し合われている議題はユダヤ人の移送,強制収容,強制労働,計画的殺害などの方策であり,実におぞましい内容なのだが,まるでどこかの企業の会議のように進行するのである。しかもほとんど異論も出ることなく議決されていくところに恐怖を感じるのだが,他方で,もし自分がその場に居合わせたなら異議を差し挟むことなどおそらくできなかっただろうと考えると自分とは無関係な映画として観ることはできない作品である。内務省のシュトゥッカート次官と,クリツィンガー官房局長は搦め手からの議論をしていたが,「ユダヤ人問題の最終的解決」についてどのように考えていたのかは明確ではなかった。アイヒマンはこの会議の書記として参加していたが,おそらくこの映画で演じられたような振る舞いをしたのであろう。

 

*以下の3本はサスペンスタッチの映画です。

 

サスペンス&ミステリー映画・6

 

4.危険なUターン(2016年 インド)

 監督:パワン・クマー

 Uターン禁止場所で交通違反をした者を調査していた女性ジャーナリストがその場所の近くで住んでいるホームレスに報酬を渡して違反車両のナンバーを手に入れ,取材のために違反者の家を訪ねたところ殺人事件に遭遇する。しかし,彼女は容疑者として警察に疑われて拘留されるのだが,その後も同じ場所でUターンした交通違反者が不自然な死を遂げていく。果たしてどんな陰謀が隠されているのだろうか?

 

 たしかに掴みはOKで興味をかき立てられるのだが,結局そういうこと…!?典型的な竜頭蛇尾作品。

 

5.美に魅せられて(2021年 インド)

 監督:ヴィニル・マシュー

 ある日,自宅が爆破されラニの夫リシュが殺害される。ラニは家の外にいたので難を逃れたのだが,リシュ殺害の嫌疑をかけられる。ラニはリシュの従兄弟のニールと不倫関係にあったのだ。

 

 サスペンス映画として伏線は回収されており,ストーリー展開に破綻はないし,ラストではどんでん返しもある。しかし,伏線の回収の仕方にほとんどリアリティーがないので,イマイチ乗り切れなかった。

 

6.キャラクター(2021年  日本)

 監督:永井聡

 漫画家として売れることを夢見て,アシスタント生活を送る山城圭吾。ある日,一家殺人事件とその犯人を目撃してしまった山城は,警察の取り調べに「犯人の顔は見ていない」と嘘をつき,自分だけが知っている犯人をキャラクターにしたサスペンス漫画「34」を描き始める。お人好しな性格の山城に欠けていた本物の悪を描いた漫画は大ヒットし,山城は一躍売れっ子漫画家の道を歩んでいく。そんな中,「34」で描かれた物語を模した事件が次々と発生する。主人公・山城役を菅田将暉,殺人鬼・両角役を「SEKAI NO OWARI」のボーカルFukaseがそれぞれ演じる。(「映画.com」より)

 

 サスペンスとかミステリーというより,売れっ子漫画家と彼が描く漫画と同じ状況の殺人を繰り返していく快楽殺人犯との関わりを描いた作品。好き嫌いが分かれる映画だと思うが,私はイマイチ面白さを感じなかった。殺人犯はなぜか4人家族の殺人にこだわるのだが,その理由もチョットねという感じだった。

 

監督:マーティン・マクドナー

キャスト

 コリン・ファレル(パードリック・スーラウォーン)

 ブレンダン・グリーソン(コルム・ドハティ)

 ケリー・コンドン(シボーン・スーラウォーン)

 

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「スリー・ビルボード」のマーティン・マクドナー監督が,人の死を予告するというアイルランドの精霊・バンシーをモチーフに描いた人間ドラマ。

 

1923年,アイルランドの小さな孤島イニシェリン島。住民全員が顔見知りのこの島で暮らすパードリックは,長年の友人コルムから絶縁を言い渡されてしまう。理由もわからないまま,妹や風変わりな隣人の力を借りて事態を解決しようとするが,コルムは頑なに彼を拒絶。ついには,これ以上関わろうとするなら自分の指を切り落とすと宣言する。

 

「ヒットマンズ・レクイエム」でもマクドナー監督と組んだコリン・ファレルとブレンダン・グリーソンが主人公パードリックと友人コルムをそれぞれ演じる。共演は「エターナルズ」のバリー・コーガン,「スリー・ビルボード」のケリー・コンドン。2022年・第79回ベネチア国際映画祭のコンペティション部門でマーティン・マクドナーが脚本賞を,コリン・ファレルがポルピ杯(最優秀男優賞)をそれぞれ受賞。第95回アカデミー賞でも作品,監督,主演男優(コリン・ファレル),助演男優(ブレンダン・グリーソン&バリー・コーガン),助演女優(ケリー・コンドン)ほか8部門9ノミネートを果たした。(「映画.com」より)

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(ネタバレ)

 とてもシンプルな物語。ひと言で言えば,初老になったある男(コルム)がある日,「このまま意味のあることを何もしないで人生を終えていいものだろうか?」という疑問を持ち始め,長年親友だった男(パードリック)に絶交を言い渡すという話である。「これ以上お前のくだらない話に付き合って一生を終えるなんてまっぴらだ」ということだ。突然絶交を言い渡されたパードリックはわけが分からず,なんとかコルムとの関係を取り戻そうとするが,そのために二人の関係はさらに悪化し取り返しのつかないところまで行ってしまうのである。

 

 実に単純な物語ではあるが,この映画は様々な角度から見ることができる。私はこの映画に「近代」という補助線を引いてみたのだが,その観点から見たときにコルムとパードリックの間に起こっていることは「近代」が抱える様々な問題を浮かび上がらせるように思われるのである。

 「近代」とは何か?この問いは実に難しく様々なテーマを含んでいるが,それは人々が自分たちを拘束していた前時代的な束縛から解放され,人々が自分の自由意志で自分の人生を選択することができるようになった時代である。それはまた人々が「自己」とか「自我」,「個人」といったものを意識するようになった時代でもある。そして,そこから人々は自分の内面を見つめ,自分の人生の意味について考えることを余儀なくされ,「自己実現」ということが人生において大きな価値を持つようになったのである。近代以前の社会においてはそんなことはなかった。人々は自分の人生の意味など考えることもなかったし,そんなものは外部から与えられるものであった。人々は集団の中に溶け込み,集団の意志に従って生活することに満足して一生を終えたのである。

 以上のような補助線を引いて本作を見たとき,私にはパードリックとコルムの関係は近代以前の価値観で生きている人間と近代の価値観に目覚めた人間との確執のように見えてしまうのだ。二人が暮らしているイニシェリン島は現実には存在しない架空の島だが,アイルランドの孤島で周囲から隔絶されたまったくの閉鎖社会である。時代は1923年,つまりアイルランドの内戦が続いている年であり,時々本島から砲弾の音が聞こえてきたりするが,島の住民はそんなことにはほとんど関心を示さず,島に一軒しかないバーで昼間から酒を飲んだり人の噂話に興じるだけである。そんな島民たちと同じくコルムも初老の歳になるまで自分の人生の意味など考えもせずに暮らしていたのだろうが,ある時そんな人生に疑問を持つようになったのだ。そのきっかけは何だったのだろうか?映画ではそれは明示的には描かれてはいないが,おそらく島の外からやってきた音楽学校の生徒たちとの触れ合いであろう。コルムは彼らと触れ合うことによって趣味の作曲こそが自分の人生を豊かにしてくれるものだということに気づいたのだ。作曲こそがコルムにとっての「自己実現」であり,自分の「承認欲求」を満たしてくれるものだったのだ。しかし,それは厄介な問題を引きおこす。

 「自由」,「自己実現」,「他者からの承認」…,近代の価値観に取り憑かれたコルムはパードリックを徹底的に軽蔑し,自分に話しかけることさえ拒絶する。ここに私たちは近代以前の価値観を完全に否定した上で成立した「近代」の姿を見ることができるであろう。しかし,果たしてコルムは幸せなのだろうか?飼っているロバや馬に愛情を注ぎ,牛乳を売って生活の糧にし,午後の2時から親友とバーで酒を飲みながら楽しいひとときを過ごすうちに一日が過ぎていく。その繰り返しの日々に大した疑問も持たずに生涯を終えるパードリックの人生より幸せなのだろうか?う~ん,私にはそうは見えなかった。「近代」は私たちに「意味のある人生を生きなくてはならない」という価値観を押しつけてくる。そして,その強迫観念の中で押しつぶされそうになっているのが私たちであり,コルムはそういった近代人の苦悩を象徴している人間にしか見えなかったのだ。もちろん,近代が実現した価値観のすべてが否定されるわけではないが,逆にそれが抱える問題を全く無視してはコルムが自分の指を切り落としたことの深刻さは理解できないであろう。

 この物語にはもう一人重要な人物が登場する。パードリックの妹のシボーンだ。彼女は読書家でおそらくイニシェリン島で唯一のインテリだ。彼女は人の噂話ぐらいにしか関心を示さない島の人々とその閉鎖性に辟易しており,本島で自分に相応しい仕事を見つけて島を離れる。彼女が島の人々を見る視線には近代の人々が近代以前の社会を見る視線が重なる。「近代=知性,前近代=無知蒙昧」という視線だ。もっとも,マーティン・マクドナー監督がその価値観を肯定しているのか否定しているのかは私には分からなかったが,久しぶりに素晴らしい作品に出会えたことは確かである。

監督:白石和彌

キャスト

 阿部サダヲ(榛村大和)

 岡田健史(筧井雅也)

 岩田剛典(金山一輝) 

 宮崎優(加納灯里)

 中山美穂(筧井衿子)

 

 

白石和彌監督の『死刑にいたる病』を観た。白石監督の作品と言えば『凶悪』で衝撃を受け,その後『彼女がその名を知らない鳥たち』,『孤狼の血』,『ひとよ』を観たので本作が5本目になる。過去に観たどの映画も濃淡の差はあれ人間の暗部にこだわった作品であるという感想を持っている。今作はどうだろうか…。

 

 シリアルキラーを扱った作品。Wikipediaによると,シリアルキラーとは「一般的に異常な心理的欲求のもと,1か月以上にわたって一定の冷却期間をおきながら複数の殺人を繰り返す連続殺人犯に対して使われる言葉」である。本作の主人公・榛村大和はまさにこの定義にピタリと当てはまるのだが,映画は獄中の榛村から大学生の雅也の元に一通の手紙が届くところから始まる。手紙の内容は,自分は24件の連続殺人容疑で逮捕されて獄中におり,立件された9件の事件で死刑判決を受けていて,そのうち8件は自身の罪であることを認めるが,最後の一件は自分の犯行ではないので真犯人を捜して欲しいというものである。榛村は犯行当時,雅也の地元でパン屋を営んでおり,中学生で辛い日々を過ごしていた雅也もその店の顔なじみで,榛村は当時の雅也に対し親切に接し彼を励ましたりしていたのである。現在,大学生になったものの鬱屈した日々を送っている雅也は榛村の依頼を引き受ける。

 映画は刑務所の面会室での榛村と雅也の遣り取りを中心に,逮捕される前の榛村の人物像が描かれていく。榛村は人当たりがよく,魅力的でカリスマ性を兼ね備えており,おそらくIQの高い人物であろう。もちろん,それは彼が「獲物」を捉えるのに必要な属性であるが,「獲物」や殺害方法にも異常なこだわりを持っているのである。彼の「獲物」の対象は17~18歳の健康で素直で礼儀正しい高校生である。殺害方法にも異常なこだわりがある。彼は「獲物」をかなり酷い拷問でいたぶり,必ず指のツメを剥がしてから殺害し,それをコレクションとして保管しておくのである。ツメへのこだわり。これは映画の後半になってその理由が判明するのだが…。要するに,自分で決めたルールで殺人をする秩序型殺人犯なのである。そして,これが9件目の殺人が自分の犯行ではないという主張の理由になっているのだ。殺害されたのは,24歳の潔癖症で拒食症の女性だったからである。

 榛村が犯した連続殺人事件の根底にあるのは彼の他者への支配欲である。それは人をいたぶり殺害するという暴力的な形でも満たされるが,精神的に他者を支配するという形でも現れる。それは刑務所の面会室での榛村と雅也の遣り取りを通じて描かれるのだが,阿部サダヲの演技は見事である。時には淡々とした語り口で,時には大仰に相手を賞賛し,時にはいらだちや興奮を抑制しながらの語り口で…。そして,あの目つき。あれは日常生活ではめったに出会うことのない異常人格者のものである。秀逸なシーンがある。榛村側から撮った映像で,雅也の顔の横に榛村と雅也を隔てているガラスに榛村の顔が映り,雅也と榛村がまるで一体になったかと思わせるシーンである。快楽殺人と他者への支配欲。これが榛村の人生のすべてなのだ。おぞましい人生としか言いようがないであろう。しかし,これを雅也の側から見たとき,状況は別の側面を呈する。雅也はなぜ榛村の依頼を引き受けたのだろうか。雅也は子供の頃から学業が優秀であったにもかかわらず,大学受験に失敗し,Fランと言われる大学に入学する。彼の父親はそれを恥だと思い,親戚の集まりにも雅也を同席させない。他方で,雅也は同じ大学の他の学生達を軽蔑しており,彼らとも良い関係を築くことができず孤立している。そんな日々を送っていたある日に榛村からの手紙が届くのだ。雅也にとって榛村はとても頭がよくて魅力的な人物なのだ。話の内容にも説得力がある。彼の鬱屈した人生において見つけた「やりがい」。日常の中に待ち受けている闇。映画を観ているほとんどの観客にとって榛村は別世界の人間だ。しかし,雅也はどうなんだ…。

 この映画には榛村と雅也以外にも様々な人物が登場する。謎の人物,金山。雅也の母,衿子。雅也の中学時代の同級生で雅也と同じ大学に通う灯里。ストーリー展開上は彼らも榛村や雅也とつながっていき,そこにサスペンスとしての盛り上がりがあるのだが,それは観てのお楽しみ。

 雅也は榛村に取り込まれてしまうのだろうか。ネタバレ的に言えば,雅也は取り込まれて戻ってくるのである。そしてエンディング。榛村に取り込まれそうになった雅也にも小さな幸せが訪れる。しかし,白石和彌監督にはそんなエンディングは相応しくない。「エッ!!!」と驚くとともにゾッとなってしまうのだ。