監督:エドガー・ライト

キャスト

アニヤ・テイラー=ジョイ(サンディ)

トーマシン・マッケンジー(エロイーズ)

マット・スミス(ジャック)

ダイアナ・リグ(ミス・コリンズ)

 

 先日,宇野維正『ハリウッド映画の終焉』(集英社新書)という本を読んだ。2020年代に公開された16本の映画を4つのテーマに分けてハリウッド映画の終焉について論じており,とても興味深い本なので「新書を読もう」として書評を書こうかと思ったのだが,実は私はその本で扱われている映画のうちで鑑賞したことのある作品は『パワー・オブ・ザ・ドッグ』と『TENET テネット』の2本だけなので,まず扱われている映画を可能な限り観てみようと思った次第である。『ラストナイト・イン・ソーホー』はそのうちの1本である。

 

 1960年代のポップなファッションや音楽にあこがれるエロイーズはロンドンの服飾専門学校に合格して寮に入るものの他の寮生に馴染めず,一人暮らしの老女の家の2階の部屋を借りて暮らすようになる。その頃から,エロイーズは1960年代にソーホーで歌手を目指すサンディという女性が出てくる夢をよく見るようになる。夢の中のサンディに触発されたエロイーズは,髪をブロンドに染め,サンディと同じようなファッションの服を着るようになり,パブで働き始める。しかし,サンディは次第に恋人のジャックの指示でストリップまがいのショーの踊り子や売春を強要されるようになり,とうとうジャックに殺されてしまう。エロイーズは夢の中でそれを目撃するのだが,その辺りから彼女はサンディとシンクロするようになり,夢と現実の区別がつかなくなって精神を病んでいき,顔のない男たちの亡霊に悩まされるようになる。いつの間にか映画のテイストはホラー系の内容になっていくのだが,終盤で大ドンデン返しがあって,エンタメ作品としてなかなか楽しめる内容になっているのである。

 

 私に音楽やファッションに対する造詣があれば前半のポップな雰囲気を楽しむこともできたと思われるのだが,残念ながら私にはそのセンスがないのでその話はスキップすることにして,この物語を貫いている監督のメッセージ,つまり男性による女性に対する性搾取という観点からこの映画を考えてみたい。

 物語のキモは50年以上の時を経てサンディの無念な気持ちがエロイーズに乗り移るところにある。しかし,これは復讐劇ではない。50年以上前にサンディを性的に搾取していた男たちが顔のない亡霊となってエロイーズを苦しめるのだ。その意味ではエロイーズも男たちによる性被害の対象者と言えるだろう。たしかに社会は1960年代と比べてセクシズムを解消する方向に向かっているようには見えるが,ひょっとしたらそれは表層に過ぎないのかもしれない。社会の深層部分における人々の意識はそれほど変化していないのではないだろうか。エンタメ的手法を通じてエドガー・ライト監督はそのようなメッセージを発しているように私には思えるのだ。では,このメッセージをエドガー・ライト監督はどのように展開していくのだろうか?

 映画は終盤に向かって意外な展開を見せる。実はサンディは一方的な被害者ではなく自分なりのやり方で男たちに復讐をしていたのである。この部分はネタバレになるので書かないが,エンタメ映画としては巧みな構成であり,私はアッと驚くとともにナルホドと納得してしまったのである。しかし,同時にそれはエンタメ性を前面に出しながらこのような問題を扱う際の難しさをも残すものになっているようにも感じられるのである。たしかにサンディは復讐を果たした。しかし,それはこの問題を解決する方向に向かうものではないし,50年後のエロイーズが継承できるものでもない。その結果,「カタルシス依存症」とでも言うべき違和感の残るエンディングへとつながってしまったのだろう。映画は基本的にはエンタメであることに異論はないが,その中に芸術性を合わせ持ってこそ優れた作品と言えるのではないだろうか。「90パーセントのエンタメ性と10パーセントの芸術性」という点で,この映画はやはり優れた作品であることは否定できないが,この映画が「単なるエンタメ」として「消費」されていくことを回避するにはあのエンディングは不要だったと強く感じたのである。

 2017年に実施が告知されていた文科省の新学習指導要領に基づき,2020年から小学校の英語教育が本格的に始まった。小学校3・4年生では英語に慣れ親しむことを目的に「外国語活動」として実施され,小学校5年生からは英語が「外国語」として正式科目として実施されるようになった。ずいぶん以前のことになるが,小学校への英語教育の導入について,テレビで推進派の中嶋嶺雄と反対派の鳥飼玖美子の議論を聴いたことがある。その議論を聞いていて私は鳥飼の主張のほうが正鵠を得ていると思ったのだが,その点についてはいずれ機会があれば取り上げてみたい。英語に"To know is one thing and to teach quite another."「知っていることと教えることとは全く別物である」という言い回しがあるが,物事を知っているだけでは他者に教えることはできないのである。

 

鳥飼玖美子『本物の英語力』(講談社現代新書 2016年)

 

 

 鳥飼玖美子は非常に英語のできる人であることは言うまでもなく,英語教育についても高い見識の持ち主であり,実にたくさんの英語関連の書物も書いているが,今回取り上げる『本物の英語力』は英語の学習法について書かれた書物である。本書の「はじめに」で鳥飼は様々な理由によって英語学習で苦労している人たちに対し,「英語学習の新たな視点を紹介し,英語を楽しみながら学んでいただきたいと考えて書いています」(p.9)と述べ,「基本原則」として次の2点を挙げる。(1) ネイティブ・スピーカーを目指すのではなく,自分が主体的に使える英語―「私の英語」を目指す。(2) 英語を覚えようとするのではなく,知りたい内容,興味のある内容を英語で学ぶ。

 

 本書によると,平成26年度に文部科学省が全国の高校3年生7万人(国公立約480校)を対象に行った英語力調査では,CEFR(注)のレベルにおいて,「読むこと」に関しては,A1レベルが72パーセント,「聞くこと」に関してもA1レベルが76パーセント,「書くこと」,「話すこと」に関してはA1レベルが87パーセントという結果であり,4技能とも大半が基礎段階にあったということである。(pp.13-14)

 この数字を見る限り,文科省がグローバル人材養成という名目のもとで推進している英語教育改革が,本当に学習者の英語力向上に役立っているのかという疑問は残ると言わざるをえないであろう。むしろ英語嫌いを大量に生み出しているのではないかという気がしなくもないのだが…。

 本書で紹介されている英語学習法は実にバランスのとれた方法であり,その意味で,多くの中・高生だけではなく,彼らを指導している英語教師にもオススメの書物である。すべてを紹介するわけにはいかないが,発音,語彙,コンテクスト,文法を英語の基礎としてとらえ,これらの基礎力を身につける方法を非常に説得的に紹介している。たとえば発音については,「ハチャメチャ英語」と「完璧主義」の中間を目指すのがよいとか,語彙にしても,無理やり詰め込むのではなく,英文をたくさん読むことを通して,ゆっくり着実に取り込むのがよいといった具合である。そして,著者は,多くの学習者が毛嫌いする英文法の重要性を強調し,少しでも文法に興味を持つために,次のような提案をする。

「英文法というのは実は,英語文化の特徴が表れているものなのです。なるほど,これが英語の文化なのか,と異文化理解のつもりで学んでみたらどうでしょう。」(p.73)

 その他,本書には,多種多様な英語検定試験の相違や留学についても参考になることが述べられており,大学生や社会人にも役立つ書物である。

 

 著者の立場を一言で言うと,「たかが英語,されど英語」という実にバランスのとれたスタンスである。英語ができないぐらいで自信をなくさないで欲しいというメッセージとともに,でも,「こうやってみたら,できるようになるかも」という英語学習法の提示であり,大いに共感できたるところがある一書である。

 

(注) CEFRの読み方は「セファール」でCommon European Framework of Reference  for  Languages (欧州言語共通参照枠)の略。CEFRは,外国語の4技能(読む,聞く,書く,話す)の習熟度および運用能力を「A1」「A2」「B1」「B2」「C1」「C2」の6段階で評価する国際基準で,A1が最も基礎レベルで,C2が最も高いレベルになっている。

CEFRについては以下を参照。

 

https://prontest.co.jp/blog/what-is-cefr/

 

 

1.ドント・ブリーズ2016年 アメリカ)

監督:フェア・アルバレス

キャスト

 ジェーン・レビ(ロッキー)

 ディラン・ミネットア(レックス)

 ダニエル・ゾバット(マニー)

 スティーブン・ラング(盲目の老人)

 

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サム・ライミ製作,リメイク版「死霊のはらわた」のフェデ・アルバレス監督による,全米でスマッシュヒットを記録したショッキングスリラー。強盗を企てた若者3人が,裕福な盲目の老人の家に押し入ったことから,思いがけない恐怖に陥る様を描く。親元を離れ,街から逃げ出すための資金が必要なロッキーは,恋人のマニーと友人のアレックスとともに,地下に大金を隠し持っていると噂される盲目の老人の家に強盗に入る。しかし,その老人は目が見えないかわりに,どんな音も聴き逃さない超人的な聴覚をもち,さらには想像を絶する異常な本性を隠し持つ人物だった。暗闇に包まれた家の中で追い詰められたロッキーたちは,地下室にたどり着くが,そこで恐るべき光景を目の当たりにする。(「映画.com」より)

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 「映画.com」で紹介されている通りのストーリーなのだが,「思いがけない恐怖」,「想像を絶する異常な本性を隠し持つ人物」…。ウ~ン,たしかにその通りではあるが,より的を射た言葉で感想を言うと,「何を見せられているのだろう?」ということだ。ただ,「全米でスマッシュヒットを記録した」とのことなので,私の映画を観る感覚が大方の人たちのそれとはかなりズレがあるのだろう。PART2も作られたようだし…。

 

総合評価 ★☆

*★1つが1点。☆は0.5点。5点満点。

 

2.  シドニー・ホールの失踪(2017年 アメリカ)

監督:ショーン・クリステンセン

キャスト

 ローガン・ラーマン(シドニー・ホール)

 エル・ファニング(メロディー)

 カイル・チャンドラー(追跡者)

 ブルイク・ジェンナー(ブレット・ニューポート)

 

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「ウォールフラワー」のローガン・ラーマンと「ネオン・デーモン」のエル・ファニングが共演したサスペンスドラマ。シドニー・ホールは高校時代に執筆した小説が思わぬヒットを飛ばし,戸惑いながらも人気作家の仲間入りを果たす。しかし賛否両論を呼んだその内容は,読者のみならずシドニー自身の人生も狂わせていき,やがて彼は失踪してしまう。5年後,アメリカ各地の書店でシドニーの著作が燃やされる連続放火事件が発生し…。共演に「ミッション:インポッシブル」シリーズのミシェル・モナハン,「マンチェスター・バイ・ザ・シー」のカイル・チャンドラー。(「映画.com」より)

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 サスペンス映画の中でも失踪モノは特に好きなジャンルだ。原題もThe Vanishing of Sidney Hall。したがって,邦題は原題のほぼ直訳。どうしてもタイトルの「失踪」の文字に目がいってしまう。これは観ない手はない。ということで,アマプラのレンタルをポチッ。映画は高校時代に書いた小説がヒットするシドニー,人気作家になったシドニー,失踪後のシドニー,という三つの姿を交互に描いていくが混乱はしない。映画の最大の焦点はなぜシドニーが失踪したのかということだが,それに高校生の頃に友人のブレットから預かった箱の中身だ。まあ,メロディーとの恋もあるが…。で,見終わった感想。エッ?! 失踪の原因ってそんなことなの?サスペンスというより愛情物語ではないか。ちょっと肩すかし。それに,ブレットから預かった箱の中身は分かったが,それと愛情物語はどのようにつながるの?それぞれが一つの物語としては成立しているが,ちょっと掘り下げが浅い感じでイマイチ迫ってはこなかったな~。

 

総合評価 ★★★

*★1つが1点。☆は0.5点。5点満点。

 先日,当ブログで「新書大賞」についての記事を書きましたが,その後自分の書棚を見ていて,買ったけどツンドクになっている新書も結構多いことに気づき,時事的な問題を扱っている本を除くと今でも読める内容の本も比較的あることが分かり,この際,再読を含めて読了した新書について感想文を書くことにしました。そこで,「新書を読もう」と題して不定期に記事を書くことにしていきたいと思います。記事はできるだけコンパクトにまとめたいのですが,書き出すとダラダラと書くクセが治っていないので,A4で最長2枚という制約を設けたいと思っています。(と言いながら,早速2枚と4分の1ほどになってしまいました。(^_^;))第1回は再読になりますが,私が今までに読んだ新書の中ではベスト50に入る本で『教養主義の没落』です。

 

竹内洋『教養主義の没落』(中公新書 2003年)

 

 

 

 現在ではなかなか信じがたいことではあるが,この国の近・現代史の中で「教養」なるものに敬意が払われた時代があったことは疑いのないところである。著者の竹内洋は本書執筆の問題意識について次のように述べる。「大正時代の旧制高校を発祥地として,1970年ころまでの日本の大学キャンパスに見られた教養と教養主義の輝きとその後の没落過程をあらためて問題として考えてみたい」(p.25)。 要するに,本書は我が国の近・現代史の中で「教養主義」がどのように発生し,それがどのような経過を辿り,最終的になぜ没落したのかを考察した書物なのである。

 上に述べたような本書の対象から考えて本書の記述方法は年代的記述形式をとっていると思われがちであるが,竹内はそのような形式をとらない。それについて竹内は「教養主義が戦前と戦後で連続していること,それ以上に戦後日本でこそ,教養主義は大衆化した」(pp.247-248)からであると述べている。ただ,最初に断っておくと,本書は教養主義の「生成,展開,没落」を扱っているということを考慮して,ここでは竹内の記述を年代記的に組み替えて記事を書くことにする。

 竹内によれば,我が国の「教養主義」は旧制高等学校,さらにそれの延長上にある東京帝大文学部を主な舞台に大正教養主義として定着したとされる。それは阿部次郎や和辻哲郎などを伝達者として「哲学・歴史・文学など人文学の読書を中心にした人格の完成を目指す態度」(p.40)として開花したのであるが,西欧文化志向でありながら,刻苦勉励型の農村的エートスに支えられたものであるという点に特徴があった。いわば「田舎式ハイカラ文化とでもいうべきもの」(p.172)であり,「農村的なエートスを前提にしながらの飛翔感であった」(p.170)のである。このような特徴を持つ「教養主義」は西欧文化志向という点で,上流階級の華族や新中流階級(山の手階級)との共通点を持ちながら,刻苦勉励型の農村的エートスに依っているという点でそれらとは相容れないものでもあった。つまり,「教養主義」とは「西欧文化の刻苦勉励的な習得」(p.187)であり,「学校的教養そのもの」(p.187)であったと言える。したがって,それは万巻の書物を読んで教養を詰め込み,より学識を積んだ者が優位に立つ「象徴的暴力空間」(p.53)として機能することになる。

 このような象徴的暴力空間としての教養主義を転覆する戦略として登場するのがマルクス主義である。それは「教養主義を観想的であり,ブルジョア的であり,プロレタリア革命の敵対的分子であると決めつけ,象徴的暴力関係の逆転をもたらしてくれるもの」(p.55)として登場したのであり,したがって,「都市中流階級のハイカラ文化」(p.172)に対する対抗戦略ともなり得たのである。しかし,一方で,竹内は「マルクス主義が読書人的教養主義であるかぎり」(p.55)という限定を付した上で,それを「教養主義空間内部での反目抗争」(p.55)と位置づけ,「従来の教養は『古い教養』で,マルクス主義こそ『新しい教養』ともみなされたのである」(p.55)と言うのである。いわば「教養主義の鬼子」(p.55)とも言うべき存在としてそれを位置づけるのであるが,マルクス主義に対する弾圧が厳しくなった1930年代後半にはほぼ完全に姿を消し,その空白を埋める形で大正教養主義が昭和教養主義として復活する。ただし,大正教養主義が人格的教養主義であったのと比べて昭和教養主義は社会(科学)的教養主義であるという点に違いが見られた。

 戦後,旧制高校的教養主義は丸山真男や大塚久雄たちの主体性論として「マルクス主義と同伴しながら」(p.62)マルクス主義的教養主義(教養主義的マルクス主義)として復活するが,それはまず「『正統』マルクス主義者である共産党知識人」(p.63)からの批判に晒される。つまり,「実践におもむけない『小ブル・インテリ』の遁辞」(p.63)というわけである。さらに1950年代になると,旧制高校的教養主義であるマルクス主義的教養主義は別の方面からの批判にも晒される。石原慎太郎による知的なものに対する徹底した侮蔑である。しかし,それは三島由起夫が「知性の内乱」と評したように,「戦前の軍部独裁時代のように,知的ならざる勢力が,知的なものを侮蔑しているのではない」(p.81)のであって,竹内は石原のこのような反乱にこそ「近代日本の教養主義とはなんであったかを考えるための大いなる手がかりがある」(p.82)と述べる。

 いずれにせよ,戦後復活した教養主義は1960年代半ばまで存続するが,竹内によれば,それは「庶民やインテリが明確な階層文化をともなって実体的に存在していた」(p.200)からである。つまり,高等教育とホワイトカラーや専門職である新中間層が一つの階層として拡大することによって,それは大衆教養主義としての輝きを持ったのである。しかし,1960年代後半になると教養主義は没落に向かっていく。その大きな要因として竹内が挙げるのは次の二点である。一つは都市と農村の格差が縮小したことによって教養主義を支えた刻苦勉励的エートスが崩壊したことである。もう一つは大学進学率が高くなったことである。もはや大学生であることはただのサラリーマン予備軍でしかなく,「ただのサラリーマンという人生行路からみると,教養など無用な文化である。教養はもはや身分文化ではない」(p.210)のである。竹内によれば,当時の全共闘運動が丸山真男のような教養エリートの「欺瞞」を糾弾し,「『大衆の原像』という『民衆的経験』から論を組み立てる吉本隆明の言明に共鳴した」(p.212)原因は,ただのサラリーマン予備軍になってしまった彼らの不安とルサンチマンにあったということになる。このようにして,「教養エリートを中核とする大学文化」(p.214)は解体していき,その後大学のレジャーランド化が進行するのであるが,それとともに,教養知の無用化と技術知への転換も進むのである。

 以上,教養主義の「生成,展開,没落」の過程を本書の記述を年代記的に組み替えて概観してきたが,本書は戦前,戦後の大学生に対して行われた読書傾向などについてのアンケート結果を一次資料としながら,その時々に書かれた小説などを傍証として論を進めており,論拠の確実な信頼に足る内容の書であると言えるだろう。

 ただ,本書はそのサブタイトルが「変わりゆくエリート学生文化」とあり,本文中にも「近代日本社会を後景にしながら,教養主義(者)の軌跡を辿ることで,エリート学生文化のうつりゆく風景を描き,教養主義への鎮魂曲としたいのである」(p.26)と述べられているように,1970年頃に解体してしまったエリート学生たちによる教養主義の没落を惜しむ書物である。たしかに「エリート学生文化」としての教養主義は1970年頃に解体し,大学の学問が教養知から技術知への転換が進行していることは事実であるが,もう少し広い観点から見たときに,それが「教養」そのものの解体を意味することになるのであろうかという疑問も残る。本書が刊行されたのは2003年であり,その当時から数えても20年の年月が経過している。その間,私たちを取り巻く社会環境はずいぶん変化した。最も大きな変化はデジタルネットワークとAI技術の発達である。今やSNSによって誰もが自分の意見や主張を発信でき,ChatGPTがいろいろな問題について解答したり,さらには物語まで書く時代である。もちろん,その「意見や主張」なるものも玉石混淆ではあるし,ChatGPTが独自なクリエイティビティを発揮するまでに進化しているわけでもない。しかし,このような時代の変化は「教養」のあらたな姿を生み出しているようにも思われるのであり,今後それがどのようなものであるかについての斬新な考察が待たれるところではある。

 先日ある本を読んでいたら,岩波書店の創業者である岩波茂雄についての記述があり,古本屋岩波書店が出版業として成功する契機となったのが夏目漱石の『こゝろ』を自費出版したことであるなどといった興味深いことがいろいろと書かれていたのだが,その中で,イギリスのペリカン・ブックスをモデルにした岩波新書が刊行されたのが1938年で,これが最初の新書であるという記述があった。そこで,ネットで新書の歴史について検索していると,「新書大賞」という言葉に出会った。「本屋大賞」はよく話題になるので知っていたが,「新書大賞? ん…?」と思って「新書大賞」を検索すると,中央公論社が2008年から始めた賞らしく,Wikiによると「各年1年間に発行された新書の中から,書店員,書評家,各社新書編集部,新聞記者にオススメの新書を挙げてもらい(1番いい新書を10点,2位が9点…5位が6点),全員の得点を合計して,1位から20位までの順位を決め,1位の作品がその年の大賞となる」そうである。毎年『中央公論』3月号で発表されるそうだが,世の中に結構浸透しているのだろうか。ひょっとして知らなかったのは私だけ?(^_^; まあ,『中央公論』は読まないしな~。

 どんな本が選ばれたのかという好奇心で歴代の「新書大賞」を調べてみたら,以下のようであった。

2008年 福岡伸一『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)

2009年 堤美果『ルポ 貧困大国アメリカ』(岩波新書)

2010年 内田樹『日本辺境論』(新潮新書)

2011年 村山斉『宇宙は何でできているのか』(幻冬舎新書)

2012年 橋爪大三郎 大澤真幸『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書)

2013年 小熊英二『社会を変えるには』(講談社現代新書)

2014年 藻谷浩介 NHK広島放送局取材班『里山資本主義』(角川oneテーマ21)

2015年 増田寛也『地方消滅-東京一極集中が招く人口急減』(中公新書)

2016年 井上章一『京都ぎらい』(朝日新書)

2017年 橘玲『言ってはいけない』(新潮新書)

2018年 前野ウルド浩太郎『バッタを倒しにアフリカへ』(光文社新書)

2019年 吉田裕『日本軍兵士』(中公新書)

2020年 大木毅『独ソ戦』(岩波新書)

2021年 斎藤幸平『人新世の「資本論」』(集英社新書)

2022年 小島康平『サラ金の歴史』(中公新書)

2023年 千葉雅也『現代思想入門』(講談社現代新書)

 

 以上,16冊を「読んだ本」,「ツンドクになっている本」,「存在を知らなかった本」に分類すると以下のようになった。

1.読んだ本(8冊)

 『生物と無生物のあいだ』,『ルポ 貧困大国アメリカ』,『日本辺境論』,『ふしぎなキリスト教』,『里山資本主義』,『言ってはいけない』,『独ソ戦』,『人新世の「資本論」』

2.ツンドクになっている本(3冊)

 『社会を変えるには』,『京都ぎらい』,『日本軍兵士』

3.存在を知らなかった本(5冊)

 『宇宙は何でできているのか』,『地方消滅-東京一極集中が招く人口急減』,『バッタを倒しにアフリカへ』,『サラ金の歴史』,『現代思想入門』

 

 「読んだ本」の中で圧倒的に面白かったのは『生物と無生物のあいだ』と『独ソ戦』だ。『生物と無生物のあいだ』に関しては,福岡氏の「動的平衡」という考え方がとても興味深かったということもあるが,文学的な文体にも惹きつけられた。因みに,あまり話題にはならなかったが,この本とそっくりの装丁で2016年に同じ講談社現代新書として出版された中屋敷均『ウイルスは生きている』もとても興味深い本である。『独ソ戦』のほうは,「独ソ戦」について,その戦史・軍事史はもちろん,ナチズム,戦時外交史,戦時経済にも触れながら,その戦争の性格をも明らかにした通史であり,新書とは言え,たいへん読み応えのある本である。反対に,内容に疑問が残ったのが『人新世の「資本論」』だ。著者の気候変動に対する警告については理解はできるが,それにしても「なんで『資本論』?」と言うのが率直な感想だ。著者は『資本論』第1巻刊行後のマルクスは唯物史観を捨てて地球環境問題に関心が移っていったと述べ,それはMEGAを読めばよく分かると言うのだが,MEGAからの引用が全くなくて,『資本論』の牽強付会な解釈で自説を裏付けようとするのは全く理解ができない。例えば,Erdeは引用されている『資本論』の文脈では「地球」ではなくて「土地」と訳さなければ無理がありますよ。