監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
キャスト
ジャンヌ・モロー(リディア)
マルチェロ・マストロヤンニ(ジョヴァンニ)
モニカ・ビッティ(ヴァレンティーナ)
ベルンハルト・ビッキ(トマーゾ)
アントニオーニの『夜』を観た。この映画を観るのは2度目だが,実は私はアントニオーニの映画はこれしか観ていない。前回観たときには「退屈な映画だな~」と思ったのだが,今回見直してみて,かなりスムーズに理解できたような気がしたので,そのあたりを感想文として書いてみる。
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結婚して十年になる作家とその妻が,病床にある夫の友人を見舞った。彼の姿を見て,作家の妻は心が傾いていくのを感じる。それは同時に,夫婦の絆が失われていくことを意味していた…。平穏な夫婦生活に潜む危機を描いた作品。(allcinemaより)
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ある日の午後から翌日の朝までのリディアとジョヴァンニ夫妻の一日の出来事を描いた映画であるが,その出来事を通じて描かれているのは倦怠期を迎えた中年夫婦の心情である。ジョヴァンニはリディアに対する性的な関心をほとんど失っており,リディアはそのことに気づいていて,ある種の虚無感に陥っているのだが,アントニオーニが捉える映像はそれを見事に掬い取っているのである。
リディアを傷つけるのはジョヴァンニが女性そのものに対する関心を失っているのではなく,自分に対する関心を失っているということだ。それは,例えば,彼らが出席したある富豪が主催するパーティーでジョヴァンニは主催者の富豪の娘ヴァレンティーナをしつこく追い回し口説こうとするのだが,ジョヴァンニとヴァレンティーナがキスをしているところを上の階から見ているリディアの後ろ姿などに描かれている。映画の終盤,リディアはジョヴァンニに「もうあなたを愛してないの。死にたいわ」と漏らす。お互いに愛を感じることのできない2人がその後何十年も一緒に暮らしていくなどということはリディアにとって耐えられないことなのだ。
映画の冒頭,リディアとジョヴァンニは末期のガンを患っている共通の友人トマーゾを見舞う。映画の終盤でリディアはトマーゾが亡くなったことを知るのだが,実は現在のリディアはトマーゾを愛しているのである。この心理はかなり微妙だ。トマーゾが亡くなったことをジョヴァンニに告げたとき,リディアは彼のことについて次のように話す。
「いい人だった。私の知性を誉めてくれた。“君は磨けば光る”と。…なぜ彼は私に執着したのか。…でも,私は結局,何も分かっていなかった。…あなたは彼とは正反対よ。すごく新鮮で楽しかったわ。…だから,彼じゃなくあなたを選んだの。」
若き日のジョヴァンニは情熱的にリディアの愛を得ようとしたのに対し,ただ「いい人」でしかなかったトマーゾはリディアの愛を勝ち取ることができなかった。しかし,時の経過は残酷である。もはやジョヴァンニはリディアへの関心を失い,そのことで虚無感に陥ったリディアの心の隙間にトマーゾの献身的な愛が入り込んだのだろう。それを告げられたジョヴァンニは「再スタートしよう」と言って,リディアを抱き締める。
リディア:愛してないと言って。
ジョヴァンニ:言わない。言うものか。
映画は抱き合う二人のロングショットで終わるが,それはこれから二人が過ごすことになるであろう長い「夜」を示唆しているかのようであった。
男女の愛というのは実に厄介なものだ。『マディソン郡の橋』で描かれた「愛」が「新鮮なまま冷凍保存された<愛>」であるとすれば,この映画が描いている「愛」は「冷凍保存が溶けた<愛>」の姿であろう。
この映画に関してアントニオーニは次のようなコメントを残している。
「この映画で裕福な階級をあつかったのは,彼らの人間感情は貧しい階級におけるように物質的,現実的要因によって左右されないからだ。」
この指摘は大変興味深い。この映画の主人公であるジョヴァンニは売れっ子の作家であり,その妻リディアは資産家の娘である。つまり,アントニオーニが言う「裕福な階級」に属しており,その感情が「物質的,現実的要因によって左右されない」人たちなのである。つまり,彼らにとって愛情とは相手のために身を粉にして働いて相手を支えることによって示されるものではないのである。生活の心配がなくなった人たちにとって「恋愛」は唯一と言ってよいほど生きていることの実感を与えてくれるものであろう。リディアの空虚感はその実感を得られなくなったところから来ているように思われるのだが,そうだとすれば,それは,この映画が撮られた頃より裕福になった世界に生きている現代の先進国の多くの人間が共有しているものと言えなくもないだろう。そして,それは近代人に特有な病理かもしれないと言ったら言い過ぎだろうか。
例えば,小谷野敦は『退屈論』(弘文堂)の中で,近代人の不幸について次のように述べている。
「近代人に不幸があるとすれば,人生への期待度があまりに高くなってしまったことからくる不満だろう。親の決めた結婚とか,一時の勢いでの結婚に比べて,真剣に考えた恋愛結婚なら幸せになれるだろう,と思ったあたりが,近代人の大きな間違いである。」(p.16)
アントニオーニの映画は難解だと言われ,『情事(1960年)』,『夜(1961年)』,『太陽はひとりぼっち(1962年)』は「愛の不毛三部作」と呼ばれているそうだが,『夜』を観るかぎり,「愛の不毛」とは要するに小谷野敦が上の言説で述べている意味での「近代人の不幸」だと考えれば,アントニオーニは映像を通じてそれを見事に表現していると言えるだろう。