横浜山下町のレストラン ホフブロウ再オープンのお知らせ
(貼付けはじめ)
はげまるのぶら~り日記 異国情 緒あふれる港町横浜
そうそうひとつだけ明るいお話があります
「ホフブロウ」ファンの皆さん、半年ぶりに開店しましたよ~
外から見たら昔と同じ感じでした(ルンルン)今度行ってこょ~。
(貼付け終わり)
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上記のブログを見て「はげまる」さんより早く行ってブログに書くことにしました。
もしかしたら同じ日に書いているかもしれません。彼のブログの切り口は
(張付け)
横浜、関内の山下公園や県民ホール近くにあるレストラン「ホフブロウ」。
創業は戦後まもない1951年(昭和26年)、ドイツ系ハンガリー人のオーナーが開業し、
昔は外国船の船乗りたちで大いに賑わった店だそうで、
年季の入ったレジスターが置かれているなど、
霧笛の音でも聞こえてきそうな、舶来風の雰囲気がよく残っている。
カウンターは大人びているが、テーブル席は大衆的で家族連れも多く入っている。
(貼り付け終わり)
半年間、閉店していてどうなるか分かりませんでしたが、初代の欧米人オーナー
からビルのオーナーに代替わりしているので家賃の問題はないはずでした。
今年3月5日再オープンしました。家内は早速、メニューを見ながら
財布と相談していました。
初代はハンガリー人オーナーとブログに書かれていましたがドイツ系でしょう。
店はヨーロッパの設計者でレストラン室内にはBARカウンターもあります。
北欧料理、大桟橋のスカンデアにもバーカウンターがあり一人で食べたり
飲んだりするときには、外国に行った時の気分で飲み食いできます。
BARカウンターは再オープンしても当時の樫板のままで気分満点。
但し、場所がら日本酒、焼酎、紹興酒は置いてないのが気に入りました。
夫婦で昼食するときにはカウンターに限ります。樫板の感覚は
日本人ならば鮨屋の板前を相手に食べる感覚です。
家内は「黒オリーブとアンチョビを使ったスパゲティ アーリオーリオの
大葉風味」と書かれた当店名物「スパピザ」を1100円注文しました。
ランチメニューに書かれた、当店名物を少し横取りして食べましたが旨い!
オーソドックスなハンバーグデミグラスソース1360円
横浜の洋食屋はどこで食べても満足できます。
生ビールはドイツ式陶器ジョッキーですがキリンビールでした。
場所柄料理の値段は安くはないですが雰囲気料金もあるのでしょう。
次回頼むときの夕食は「スパピザ」は100円高くても大盛りにしてもらい
ビール、ウイスキーのつまみにして残りは家内に食べさせて、チビチビ
飲んで安く済ませて宵闇せまる港町を楽しみます。
翌日近くのBARで飲んだ帰りに半年ぶりのネオン看板は久しぶりに見る名店です。
米軍横須賀基地一般公開に行ってきました。
3月24日は友人に府中CCでゴルフ予約をしてもらっていました。
北京滞在中に家内が横須賀米海軍一般公開日を予約していました。
ゴルフ予約をキャンセルし一年一回しか公開しない横須賀行きを決めました。
天気予報では曇り、雨の印でしたが少し冷えこんでいましたが
予報が外れて快晴でした。
申し込みは産経新聞の募集で大型バス40名の観光気分です。
年に一度のチャンスで入ることの出来ない米海軍基地です。
昨年は空母ジョージ・ワシントンの艦船見学で4万人の人出がありました。
「よこすかスプリングフェスタ2013」
今年は迫力ある弾頭ミサイル搭載駆逐艦「スマティン」の甲板で見学をしました。
甲板には大砲はMK45 5インチ砲は、対空、対艦、対地用多目的兵器、
発射弾丸数、毎分20発初めての駆逐艦乗船は迫力がありました。
甲板上は大勢の見学で賑わっていました。艦長との記念撮影会などあり
家内も艦長と記念写真を撮りましたがブログ公開は嫌がりましたのでカット。
皆様も海兵隊との記念撮影も喜んで写していましたが重そうな機関銃他の装備は
相当の重量でしょう。彼らの腕の太さは並みの日本人の足のふくらはぎほどあります。
写真パネルに艦長、士官、下士官の記念サインと左下に私宛の記念サインをもらいました。
米海軍基地に入ってから、先ず最初にアメリカンフッドボール試合を観ました。
米海軍、海兵隊チーム、シーホークス対防衛大学校チームですが始まった途端に
13対0で防衛大が負けていました。
観ていてもルールが分からないのでステージを移動したとたんにぶつかり合いで
負傷者が出てタンカーで運ばれていました。観ていてもこのスポーツは怪我人は
つき物と初めて分かりました。
真じかで見た、走っている集団の足音、ぶつかり合いの、鈍い衝撃音など
審判所付近ですが至る所に海兵隊の警備がされていました。
タイヤの太い芝生専用?か分かりませんが戦地で使用するのか・・分かりません。
小型ジープもどき多目的自動車は日本製でないことだけは分かりました。
艦船見学・USS マスティン(DDG89)の入場までは長い、長い、長い列で
甲板まで行くのにクタクタになってしまいましたが、行って良かった、と感激!
並んで待っている間の艦船マスティンの一部です。飛び出している鉄砲は
機関銃に見えましたが、私には説明できません。
駆逐艦をはじめ数隻の軍艦がありましたが内容は分かりません。
駆逐艦の横腹ですが外観から見ていると製造工場にしか見えません。
艦上の駆逐艦シンボルマークだと思います。
駆逐艦装備内容は説明書きは以上ですが軍事用偵察ヘリコプター2機搭載可能。
艦船からステージ移動する近くにロゴマークの入ったビールジョッキー Tシャツ
米軍横須賀基地内の消防団のハンマー、切り口の鋭い刃物は日本の
ハッキリしたことは分かりませんが回りにゴム製品が巻かれている船は
タグボート?だと思いますが・・日本製船ではありません。
要所、要所に海兵隊が警備していますがカメラを向けるとVの字をしたり
笑顔で返礼してくれます。陽気なアメリカ人ならではの仕草です。
この辺の仕草は中国をはじめ共産党政権ではあり得ない事です。
数年前に訪問したロシアにおいても軍関係、軍人に写真を向けたら
デジカメの確認検査間違いなしです。
今回の横須賀米海軍基地内の広大な敷地には驚きました。
以前、群馬県の東善寺にお祭りされている江戸時代、
現在の近代国家「製造業」を今日の繁栄に築い勘定奉行の小栗上野介
が作らせた横須賀造船所は今でも米海軍基地内に
一部利用されているはずですが基地内が広くて確認できません。
小栗上野介 がアメリカ公式訪問した時に造船所からもらった金属ネジ釘から
日本の工作機械、精密機械を世界一工業国にの仕上げたのです。
しかし薩長 明治新政府は幕府側の勘定奉行の為に河原で打ち首にされました。
本来ならば教科書に紹介される日本を工業国にした大人物です。
横須賀港祭典には小栗上野介の菩提樹 東善寺、住職が毎年招待されています。
1920年代にあった日本、中国ハニートラップについて
昨日の産経新聞「産経抄」にハニートラップのことが書かれていました。
手嶋龍一氏のインテリジェンス小説にも似たような箇所があった記憶が
あります。この手の話題は私にとってとても興味があります。
亡くなった元総理大臣橋本龍太郎も中国公式訪問でその手の
ハニートラップにかかり情報流失は無いと思いますがベットでの
数十枚の写真を撮られたという噂を聞いたことがあります。
北朝鮮では公式訪問で政界のドン金丸信が当時ホテル部屋で撮られた
と聞いたことがありましが、彼の年齢からしてアチラノ方は歳が年で
出来ないが、裸で小便中の写真など撮られたと聞いています。
他の議員ももしかしたらベットでの写真を撮られているかもしれません。
私ならベットの中でも舞台の上でも堂々と公開できますが(笑)
今回の視察団で上海での租界時代の「ジェスフィールド通りの76番地」
この場所に行ってみたいと思っていましたが時間がたりなくて断念。
日中のはざまで鄭蘋如(テンピンルー) の悲劇を小説で読んだことがあります。
香港映画?「色戒」ラスト・コーション題名で日本でも公開されましたが
観る機会がありませんでした。
テンビンルーは日中混血で絶世の美人スパイで戦時中
近衛文麿首相の息子で、父の秘書官を勤めたプレーボーイ近衛文隆を
夢中にさせたいい女でした。
李香蘭(山口淑子)川島芳子、鄭蘋如(テンピンルー)の三人は
それぞれ立場は違いますが上海でお互いどこかで会っています。
三人の運命は波乱万丈一冊のノンフィクション小説になります。
テンビンルーは二重スパイといわれて最後はジェスフィールド72号の
ボス丁黙邨に銃殺されたのです。しかし最近テンビンルーの名誉回復
漢奸の汚名回復が出来て記念塔が出来たと産経新聞に書かれていました。
下記のアドレスは日中のはざまで苦しんだ鄭蘋如(テンピンルー)の
生き方実態がわかります。
http://uetoayarikoran.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_8b67.html
http://uetoayarikoran.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/1_bad2.html
今年6月就労ビザ更新申請期間中に再度上海のフランス租界
ジェスフィールド76号の場所と日本人居留民団10万人が暮らしていた
虹口(ホンキュー)地区をくまなく探索し内山書店跡 にも寄る予定です。
今回、虹口地区の表通りはバス中で走りながら見てきましたが次回は
くまなく歩いて二日がかりで探索、横浜橋、本願寺が保存されている内に
今年6月に訪問を致します。現在も再開発で日本瓦の古い建物が
壊されかけていました。
横浜関内山下公園付近でお花見しました。
春分の日のお墓参りは中国出張前にして来ましたので横浜関内付近の
近場でお花見をすることにしました。
理由としては、家内が旨い寿司を食いたい、と言い出して会社の近くで
待ち合わせしましたが、毎週木曜日定休を連休で休んでいました。
Facebookで山下公園の桜が満開になった写真が掲載されていましたので
早速、関内付近でお花見を兼ねた昼食に切り替えました。
山下公園の中心にあるホテル・ニューグランド本館前の桜は見事でした。
桜の後ろの建物は昔からアルファベットで書かれたホテル・ニューグランド本館
同じく後ろの建物は新館のホテル・ニューグランドです。新館内部は
どこにでもある建築物で見るところはありませんが旧館は85年前の
雰囲気を残した素晴らしい場所です。
山下公園 大桟橋よりから写した氷川丸
ベイブリッチをバックに遊覧船が埠頭に向かって運航中、昔一度乗ったことが
ありましたが、もう一度快晴を狙って孫でも連れて乗ってみたいです。
開港当時イギリス総領事館跡の横浜歴史資料館広場と教会をはさんで
教会よりの満開になった桜は印象に残りました。
大桟橋からレストランスカンデア前の最初の公園です。
昼食は最近再オープンしたレストランHOF BRAUで食べました。この店の
歴史は古く後日ブログで紹介いたします。
山下町を散策していましたらバーニーズ・ニューヨークに家内が入りたいと
言いだし仕方なしにイヤイヤ付合うことにしました。
20年前にオープンした当時は数回物見胡散で入ったことがありますが
私の趣味に合わないので今まで一度も買った物はありません。
7階建てビル丸ごとすべてバーニーズ・ニューヨークでしたが窓越しに中を
見ていてもお客がパラパラで何時かは閉店・廃業するのも
時間の問題とタカをくぐっていました。
当日は春分の日で祭日の事もあり店内はそこそこのお客が入っていました。
3/16から東横線が埼玉県まで延びた事もあり、その影響も間違いなく
あると店員も話していました。
客種を見ているとキザな男女多くあまりいい趣味だと感じません。
ワイシャツ一枚3万円以上スーツ15万円以上、上限は見ませんでしたが
30万円ちかくまでするでしょう。私の衣服は家内がデパートの
バーゲンセールで買ってきた衣服で十分満足しています。
ズボンの股上、股下の長さも72cmと分かっています。
今年に入ってからアベノミクスの影響で世の中が明るくなり
会社、個人の金融財産である持株も数十%も値上がりしだしました。
そのせいか家内がゴルフ用に使える値段の高いボストンバックと
なにを入れるのか分からない手提げバックを買うと言い出しました。
香港か北京の女人街でブランドさえこだわらなければ
安くて、丈夫で、長持ちする品物を買ってやるから、それまで待てば、と
言っても聞き入れないで即決即断、結局私が支払うことになりました。
衣服、持ち物は死ぬまでなんでも有り、タンスの肥やしになるほどですが
墓場に行く年齢が近くても金が掛かるのには参ってしまいます。
春分の日にちなんでのあれこれ
昨日の春分の日はご先祖様のお墓参りが恒例になっています。
当家では気まぐれで気が向いたとき年に2~3回行けば良いほうです。
親父が亡くなった昭和59年の一年前にあわてて購入した柿生霊園でした。
死んだ親父も一様、仏教徒でしたが満州ハルビンから引揚者で
内地に帰ってから栄養失調で次男を5歳の時に病気で亡くしてしまいました。
その後数年たった昭和26年、次男の為に近くのお寺でお墓を建てました。
普段は宗教心の無い親父でしたが癌の手術をしてから騒ぎ出しました。
当家は天台宗でしたが近くのお寺は真言宗のお寺でオヤジの
死期がちかくなると「これはまずいから墓地を探せ」と言い出しました。
私は当時ゴルフで毎週のように府中カントリークラブ又は多摩CCに
ゴルフプレーに出かけていました。毎回通り道筋に柿生霊園を右手に
見ながら通っていたので、墓参りはゴルフの帰りに
「ついでの墓参り」が出来るとチュウチョなく決定しました。
近くのお寺の真言宗の坊主に頼んで「閉眼式」をして柿生霊園で
天台宗の坊主をよんで「開眼式」を致しました。
いまだに悔やんでいるのは墓の一坪は一般でいう一坪よりも小さく
縁石、墓石、永代料がバカ高く値切ることもできず今でも悔やんでいます。
その金があれば外車の高級車が一台買える値段でした。
私自身は散骨しても、しなくても死んだあとは天国、地獄でも
どちらでもかまいません。これから生きている年数、月日、時間が大事で
好きなことが出来る事だけが、今の生きがいです。
今回参加した視察団の方で長野県で特別養護老人ホームの予約も
取り付けました。松本市にも近く世界的に有名なバーテンダーが経営している
「MAIN BAR COAT 」のオーナーバーテンダー林幸一さんの店も近く便利です。
↑
林幸一氏のホーム・ページ
柿生霊園は小田急多摩センター行きの「くりひら駅」近くの小高い丘にあり
見晴らしの良い環境にあります。
今なら霊園にしないで閑静な一戸建て住宅を建てれば建てる前から
完売すること間違いなし。
周りは小田急電鉄の一戸建高級にちかい住宅で閑静な地区になっています。
滅多に行かない霊園ですがいつも綺麗に整備されていますが
今回は中国に長期出張を兼ねて北京パン工場に行き視察団と合流する為に
お彼岸前に線香を上げてきました。柿生霊園売店のお花は線香を含めて
2500円も取られるので東急スーパーの花屋で安く買え、と言って持参。
もちろん線香も持参させてお参り清掃を含めてハイ!10分で終わり。
お参りが終って好きなウイスキーをチビチビ飲んだ時間は寝るまで・・
信心深くない私を罵倒する家内の小言など、聞きもしませんし
眼中にありまっせん。バカバカしいですが地獄に落ちても後悔なし!
お正月は横浜中華街の関帝廟、お彼岸は仏式、7月は恒例の箱根神社、
12月はキリスト様に乾杯、困ったときには神頼み、要するになんでもありです!
上海アメリカ租界のアスターハウスホテルの内部パートー2
上海はガーデンブリッジを渡りブロードウエーマンションまで
は外灘(バンド)といいますが、それから右手にロシア領事館
方面はアメリカ租界地区に入ってしまいます。
したがってアスターハウスホテルは米国とのつながりが強く
アメリカンクラブもありました。米国は上海アメリカ租界地区で
中国のあらゆる情報基地として利用したのです。
アメリカの歴史は浅いので今回のアスターハウスホテルは
知っていても訪問することがありません。
自分の思い込みと現場を見た時には開きの大きさに驚きました。
真実だと思われる噂話を昔し聞いたことがあります。
中華料理で有名な「銀座アスター」が都内を含めて十数件あります。
銀座アスター初代オーナーが上海で泊まったのか、
中華を食べたのか、料理人か知りませんが
気に入った「アスター」の文字を間違えて使った話。
上海のアスターハウスホテルの「アスター」英文では「ASTOR」
銀座アスターの中華料理店の「アスター」英文では「ASTER」と
命名したそうです。アルファベットのOとEと間違えたそうです。
真実、事実は分かりませんがよくある話です。
しかしホテル内部は120年前からの雰囲気を保っていて
クラッシクホテルとしては各所に見る値打ちがありました。
下記の動画ではホテル内のダンスホール、100年前の板の廊下
Yuo Tubeで見てください。
歴史を感じる、博物館にでも来たのではないか、
思われる素敵なホテルでした。
昔の作りが生かされているので、しばしば映画の撮影等に
使われていると聞いてましたがつまり映画のセットの中に
いるかのような雰囲気なのです。
バーもノスタルジーな雰囲気で、ちょっと一杯やるだけでも
タイムスリップした雰囲気が味わえるでしょう。
上海外灘近くのアスターハウスホテルの歴史的な建築
上海外灘のガーデンブリッジを渡ってブロードウエーマンション前
上海市黄浦路15号に アスターハウスホテル浦江飯店が営業しています。
19世紀後半に建てられた6階建ての上海市歴史的建造物
米国大統領になったグラント将軍、チャップリン、エドガースノー、
周恩来等が宿泊したそうです。
190年代当時にはにはアメリカンクラブがあり米国人の情報交換場所でした。
上下の写真は周恩来の若き日の写真です。上の写真は新婚旅行で
上海に滞在した記念写真だそうです。
晩年の顔には記憶に残っていますが若いときの軍服姿は男前です。
3階までの階段は板でできたクラッシクな作りは今でも保存されています。
二階の板の間は当時のままで補強しながら歴史的なダンスホールを
廊下の板張りは当時のままで補修は常にしているそうです。
廊下は板張りで歴史を感じさせる。部屋の中はリニューアルされている。
チャーリー・チャップリンの若いときの写真は当時宿泊していたのでしょう。
アインシュタインは長期滞在していたのでしょう。
歴史が好きな人にはお勧めだが、古さを嫌がる人にはお勧めしません。
上海租界時代の外灘、虹口付近の状況
無錫から常州を経て上海に入ると街の様子は都会の雰囲気が出てきます。
上海の視察団は花園ガーデンホテル(ホテル・オークラ)が定宿になっています。
夕食が終わってから21:00頃からタクシーで必ず立ち寄るロングバーです。
現在はウォルドルフ・アストリア上海インザ・バンドというホテルです。
120年前の外灘はイギリス人オーナーが作った会員制倶楽部「上海倶楽部」です。
HSBC創設者サッスーン、ジャーデン、マジソン、スワイヤー、マクベイン、等々
など上海のイギリス人大物が女性会員拒否、入れない工部局(経団連)の運営。
1900~1945年はロンドン、パリ、ニューヨーク、上海、世界で4番目の大都会です。
シンガポールのラッフルズ・ホテルのロングバーは有名ですが、それよりも古くて
格式がありましたが、当時は会員同伴以外は飲めないので仕方がないです
ホテルのBARは36mの「ロングバー」といわれていますが現在は33mになっています。
イギリスのエレビーターはオーチス製で、現在もエレベーターガールが手動で
動かしてくれますが黄浦江リバーサイド側の部屋は一泊20万円以上の
お客様だけの使用になっています。
110年前のオーチス・ロゴマークは現在は使われていないでしょう。
中々味のある立派なロゴマークです。
外灘(バンド)に出来た日本で初めての横浜金銀行は貿易、為替業務を中心と
していました。行内の建築は当時のHSBC行内と比べても大幅な見劣りしません。
当時の玄関口上段の菩薩の鼻、口付近は文化大革命で壊されていました。
サッスーンハウスといわれる和平ホテル二階にあるサッスーン財閥歴史室
階段両壁の絵画一枚一枚は歴史を感じさせます。
1912年当時のマンションがいまだに使われています。
デック・ミネの「上海ブルース 」に唄われているガーデンブリッジです。
ガーデンブリッジを渡ると虹口(ホンキュー)にたどりつきます。
宇崎竜童が歌っている夜霧のブルース は動画 you tubeで
https://www.youtube.com/watch?v=SkWPN26hX8c
一番のお気に入りの曲です。
この曲をウイスキーを飲みながらPC,FBをいじりながら聴いていると
人生最後は自分一人になる覚悟をせよ!と言い聞かせる様に聞こえます。
数十回いや百回以上聴いています。
私のお通夜の晩には後輩に手配させ身内だけで坊主、戒名、葬儀屋はいらない。
ヨコハマを舞台にした曲と宇崎竜童の夜霧のブルースで閉めてください。
ガーデンブリッジを渡る度に結婚写真を写しているカップルがいます。
遠くに見える赤いドレスを含めて4組いましたがこの組みの女が一番
色気のあるいい女でした。
蘇州河の向こうに見える建物はブロードウエイ・マンションです。
ガーデンブリッジを渡って左側が児玉誉士夫が日本海軍、軍事調達部門を任された
児玉特務機関が入っていたブロードウエィーマンション
ブロードウエイ・マンションを右手に入った右手にロシア大使館があります。
時間がないので中に入ることができませんでしたが、次回は探索してきます。
ロシア大使館を右手に入って8分近く行くと日本人街の虹口になります。
上記の写真を見ても段階的に取り壊されてきています。
取り壊されていく運命にあるエレベーター無しの古いマンションには
香港でも見られたが、いまは少なくなりました。
南京→華西→無錫までの記録写真集
昨日、無錫で泊まった「インターコンチネンタルホテル」は最高!
設備、サービス内容すべて充実していました。
昨晩は夕食後一杯飲みながらの「一人酒」でパソコンをたたきながら
一夜を過ごしました。中国式カラオケに誘われましたが今回は高齢者の
私にはやくにたたないのでお断りしました。ゆっくり酒でも飲んでいたいのです。
一人で時間を過ごすときには少々の「つまみ」と美味い酒があれば孤独にはなりません。
北京から新幹線で南京に到着しましたらバスから見える街路樹の桜の花は満開
南京で初めての総督府記念館を見てきました。。孫文臨時大統領の応接間
蒋介石の執務部屋は大物にしては小さいスペースでした。
当時としては珍しくドアー方面から廊下まで見える、確認出来る様に
机を斜め方向に設定していた。と説明を聞きました。
華西村地区はけたはずれの豊かな村というより地区でした。
広大な地区は金にあかしてバカでかいホテル、建築部とがいたるところにあって
成金趣味にみえました。
写真には国家主席、首相などが共産党成功者として、わざわざ村長に
会いに来ていました。
アメリカ、ハワイの中産階級の雰囲気もある一戸建て住宅は村民全員タダで
もらえる、とのことでした。パスから見た庭の手入れはそれなりですが
成功者の住まいには見えません。しかし村民全員タダでもらえて住めるのは
一瞬、ドイツのミューヘンにあるBMW本社と勘違いする村民がオーナーの
ホテルでした。どんな方々が泊まりに来るかは分かりませんが中国中の
村長、町長、市長、首相、国家主席など次々と間違いなく現地視察目的でしょう。
そうでなければ田舎の一軒家になってしまいます。
昔はただの田畑を耕していた村でしたが商才のある村長のリーダーシップで
中国一の有名な地区になったそうです。
政治家、都知事、県知事、市長、事業経営者なんにでも当てはまりますが
トップの能力次第で良くも、悪くもなるのでしょう。
今回の民主党政権の三代にわたる総理大臣をみてもお解りの通りです。
無錫に30年近く前に泊まった時代とは、様変わりした経済発展をしていました。
当時の運河は水墨画にでてくる風情がありましたが、今はごらんの通り
イルミネーションで飾られ現代風になっていました。
海、運河、湖のある景色は心が落ち着く憩いの場所です。
横浜、関内山下町の元あった別宅から見えた横浜港、船の汽笛、霧笛が懐かしいです。
南京大虐殺資料館に行く
南京には少なくとも4回は来ているはずです。
初めて来た時には鄧 小平が三回目の失脚から現役に復帰した時だと
思います。当時東京パン連盟協同組合で初めて中国視察に行った時と
思っています。
家内同伴でしたがスカートを履いている女性がめづらしくて、現地女性達に
何回もジロジロ見られた記憶があります。
当時はホテル予約は現地についてから現地ガイドが案内してくれる時代でした。
新しいホテルには周りに中国人がホテルの建物見物に集まってくる時代です。
もちろん人民服がほとんどでした。人民元は外国人用の兌換券でした。
話が飛びますが当時、自由市場と称して夜店、屋台が公認されて
薄暗いハダカ電球が立ち並んでいました。そこで5元で ゆで玉子を
買ったら新聞紙にくるんで10個近くくれました。
薄暗い夜道を歩きながらゆで玉子を食べたら中から手羽、軟骨、頭らしき
半熟、黄身が出てきました。夜道を歩きながら食べたのが、いわゆる
カテキンが驚いて泣き出すホピロンという代物でした。
話が飛びましたので元に戻します。
そんな事を思い出しながらその後江沢民政権になってから大規模な
日本軍南京大虐殺避難民同胞記念館を建設しました。
今回は予定に入っていませんでしたが、昨日のブログにも書きましたが
ガイドさんに「考察団で今回で3回目になっても見たことがないから是非」と
お願いしました。
担当者、ガイドさんも、顔ではニコニコしていても心では困った事だなあ、
と思っていたでしょう。日本人と分かって現地民に暴力を振るわれて
殴る、蹴るになると大変だと思っている節がアリアリ見えました。
まして尖閣列島問題で対日感情の悪化している時期ですので。
入館して確かにデタラメに近い粘土細工、蝋人形どこの死体か分からない写真、
これでもか、これでもか、とどこまで歩いても侵略写真の連続でした。
館内の広さは、とてつもなく広く後戻り出来ないシステムで万歩計で8000歩と
記録されていました。
8000歩はホテル出発カラですから差し引いても入口、出口、バス駐車場まで
約3Kmは歩いています。真夏でしたら高齢者には負担が多く倒れる人のでます。
江沢民もよくここまでやらせたと、不快感だけ残りました。反日義務教育、
朝から晩まで日本軍侵略映画用テレビ、こんな状態で中国人民を洗脳していれば
親日には絶対なれないと、自信をもっていえます。
虐殺30万人が最近の報道では60万人に訂正したという噂を聞きました
下記の写真は説明はいたしませんので、勝手に想像してください。
ブログを書いている時刻は23:00になりました。白州もそろそろ二本目、
帰国までにもたない。
誤字脱字があれば適当に解釈してください。おやすみなさい、ダウン!













































































