生きる@人身事故から奇跡的な生還 電車に轢かれ左脚を失い、半年で職場に復帰した青年02 | 堺 だいすき ブログ(blog)

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■リハビリ病院、そして帰る場所


2月末にリハビリ病院に転院した。

目的は義足で生活できるレベルになること。義足のリハビリは歩行訓練と調整。
義足を扱うためには筋力が必要。義足ができるまでの間、そして義足ができてからも筋トレは続ける。
そして健足(右脚)は一度バラバラになって繋ぎ合わせた、というぐらいの大怪我を負っているので機能回復のためのリハビリも並行して行う。

入院生活は時間はたっぷりあって、リハビリ室が開いてる朝から夕方までずっと筋トレ。
リハビリ室で腕立て、腹筋、背筋、懸垂など本気の筋トレをやっている自分は明らかに異質だった。
前の病院の先生の勧めでプロテインも飲んでいて、ずっと筋肉痛で全身パンパン。

もはや何を目指してるのかわからないぐらいだったが黙々と続けた。元より、この病院に転院したのはリハビリが目的。できることはそれしかなかった。

この頃からかも知れない。
現状は変えられない。その中で、今何をするべきかを強く意識するようになったのは。

義足ができるまでの時間はもどかしかったが、リハビリ、義足の情報収集とできることをやっていた。
看護師さんが言うには、「自分を追い込んで、鬼気迫る感じだった」らしい。余裕がなかったのかも知れない。

病院のベッドで、世界が自分と自分以外に分かれてしまった感覚に襲われたこともあった。 
でも、自分には「ただいま」と言える場所があって、「おかえり」と迎えてくれる仲間がいる。そのことが、どれほど力を与えてくれただろう。 

■初めての義足


型取りから2週間、義足ができあがってきた。初めて見た義足を見た印象は、「でかい」。
履いてみると、どう歩いていいのかまったくわからない。

脚を着く位置を少しでも間違えると、膝からがくっと力が抜ける「膝折れ」を起こして転倒しそうになった。
さらに義足に接する部分の皮膚が擦れて、慣れていない弱い皮膚はすぐに傷ができてしまった。
初めて履いた義足は思った以上に難しかった。

日付は3月になっていた。当初目標にしていた4月復帰は難しいことがわかってきた。
しかし、今自分にできることは地道に歩行訓練を続けること。

慣れない義足に悪戦苦闘しながら「絶対歩けるようになる。歩く。」と毎日歩行訓練を続けた。

■鉄道弘済会との出会い


義足リハビリを始めて数週間。
何十、何百回と平行棒の中でひたすら往復する日々が続いたが、どう歩けばいいのかわからなかった。

そんな中気付いた。この病院に来た理由は義足の歩行訓練。ということは、歩けるようになれば退院。
日々のリハビリは、確かに目標に繋がっていると。全力でやってやろうと決めた。

それから「その日一日全力を尽くしたか」、自問自答するようになっていた。

次第に平行棒から離れ、片手に杖で歩くようにもなっていた。
しかし、まだ杖を離すと全く歩けず、屋外では杖をついていても歩くことは難しかった。

そんな中、東京に行く機会があった。東京では行ってみたいところがあった。
同じ股関節離断の方に紹介してもらった鉄道弘済会義肢装具サポートセンター。

多くのユーザーがいて、義足に関して多くの症例を診ている施設。そして、初めて訪れたその施設で目にしたものは衝撃だった。

リハビリ室で目にしたのは、患者は全員義足。自転車の練習をしている大腿義足の女の子。ホットパンツ、ハイヒールで歩いている大腿義足の女の子。

リハビリの概念を覆された。
そしてここでは、義足であることは特別なことじゃない。想像していなかったほど、明るい光景だった。

理学療法士さんは股義足で杖無しで歩いているユーザーの動画を見せられ、「これぐらいにはなって欲しい」と話してくれた。
どう歩けばいいのか、どこが目標なのかわかっていなかった自分にとって、初めて目標となる形を示してくれた。

■ほんまに歩いてきたね


リハビリだけでなく外に出ることも社会復帰に向けて必要と思っていたので、毎週末外出許可を取って外に出ていた。
鉄道弘済会で目標となる形を見せてもらい、試行錯誤でリハビリする日々が続いた。まだ義足で外には出れなかったので、松葉杖で。

そんな姿を見て、看護師さんから言われた。「怖くないんですか?」

無理していると心配してくれていたのだろう。

「怖いですよ。でも怖いことを怖いままにしておくのが嫌なんです。」

外に出ることは怖かった。でも、やってみないと怖いことは怖いままになる。
できればそれは自信になるし、ダメならできる方法を考えればいいと思っていた。

そうして外に出てみると、それなりに苦労はあったが、本当にどうしようもない事態に陥ったことはなく、それが一つ一つの自信に繋がり、不安を克服していったのだと思う。

リハビリはさらに進み、日常生活できるレベルに近付いていた。
通常なら、退院を考える段階にきていた。しかしここで、壁に突き当たった。

どうしても杖無しで歩くことができない。

リハビリ科の部長さんにそのことを相談した。
「症例が少ないし、あなたが目指すレベルまで指導できる自信がない」と言われた。

人によってはこの言葉は無責任と感じるものかも知れない。
しかしその部長さんの言葉は、患者のことを考えた誠実なものだと思った。

病院としてのプライドもあるだろう。それを差し置いて、提供できる自信がないと率直に答えてくれた。
部長さんには、別の選択肢を考えるきっかけを頂いたと感謝している。

このやり取りを経て、症例を多く見ている鉄道弘済会への転院を考え始めた。
一方、早く復帰したいという思いもあった。転院してリハビリを続けるか、早く復帰することを優先するか。

この2つの選択肢の中で迷った。

人に相談することはほとんどないが、この時は社会人として、人間として尊敬している兄に相談した。
「一生を査収することだから、リハビリを続けたほうがいい」この言葉で決心した。鉄道弘済会に移ってリハビリを続けると。

病院にも「多くの症例を診ているところで診てもらいたい」と説明して送り出してもらった。義足も急いで仕上げて頂いた。

東京に転院するにあたり、前の病院の診察も受けにいった。2ヶ月前、退院する時に予告したとおりに義足で歩いて。
命を救ってくれ、最も苦しい時期を支えてくれた方々に、歩く姿を見て欲しかった。

主治医の先生は、「ほんまに歩いてきたね。東京行っておいで。」と喜んでくれ、送り出して頂いた。
その他スタッフの方々も義足で歩く姿を見て驚き、喜んでくれた。

また新しい環境に飛び込み、さらに高いレベルで歩けるようになる期待でいっぱいだった。

■弘済会初日、二本の脚で歩く。


鉄道弘済会義肢装具サポートセンターに入所した。目標は杖無しで日常生活できるレベルになること。
PTさんに「筋肉質で細身。義足履くには理想的な体型」と言われた。

義足は臼井二美男さんに担当して頂けることになった。大阪で作った義足はよくできていて、調整はほとんど必要なかった。

リハビリ開始初日。

歩きを診た理学療法士さんは、問題をすぐに見抜いていた。能力的には杖無しで歩けるレベルに達しているが、杖に頼ってしまっていて、杖無しになると恐怖心が起こってしまうことが問題だと。

そして、持ってきたのは園芸用の支柱。全く体重を支えることなどできない細い棒。
杖を棒に持ち替え歩いてみると、棒は地面に触れる程度。それでもバランスを崩すことなく歩けた。

それから棒を離して、何も持たずに歩いてみると。

・・・・・・歩けた。

あんなに悪戦苦闘していた杖無し歩行。それがリハビリ開始初日にできるようになった。

自分の脚と義足、2本の脚だけで歩けたことが嬉しかった。それから全く杖は要らなくなった。

さらに頂いたアドバイス。「義足を信じて乗れ」
今では、これは義足歩行の極意だと思っている。

入院生活はここで終わり、復帰に向けて、残りの期間何をするべきか考えるようになった。

■精神の時の部屋のように


日常生活に戻るために重要で、かつ難しいことは長時間義足を履き続けること。
朝家を出て夜かえってくる時間を考えると、16時間くらいは義足を履き続けることになる。

そのためにやったことは単純。義足を履き続けた。精神と時の部屋で悟空と悟飯がずっと超サイヤ人でいたように。

鉄道弘済会のリハビリでは屋外に出ることが多く、長い時には数キロも歩く。
体力的にまだそこまでの距離を歩くのは負担が大きかったし、屋外を歩くのは神経を使って精神的にも疲れた。

日常生活に戻れば日々色々な状況に遭遇する。リハビリ中に屋外を歩く経験を積み重ねられたことは大きかった。

また、トラブルがあった時に自分である程度対応できるようになる必要もあった。
義足の調整の仕方を教えてもらい、多少の調整であれば自分でできるようになっていった。

義足を履き続け、屋外を長い距離歩き続ける持久力。様々な場面に遭遇した時の対応力。義足の知識。
限られたリハビリの期間中、必要な多くのことを身に付けていった。

■走ってみなよ


鉄道弘済会でリハビリの日々。そんな中、臼井さんから臼井さんが主宰する切断者スポーツクラブ、ヘルスエンジェルスの練習会に誘われた。その時は走れるとも思っていなかったし、走りたいとも思っていなかった。

参加者は義足暦数十年のベテランから、自分のように切断間もない初心者まで、幅広いメンバー。
思い思いに走ったり喋ったり。数十人の義足ユーザーが陸上競技場で走るのは圧巻の光景だった。

そんな中、臼井さんが声を掛けてきた。自然で、何気ない雰囲気の一言だった。走れるかどうかなんてわからない。
しかし、臼井さんになんでもないことのように言われ、不思議とやってみる気になっていた。 

今までやったことのない勢いで地面を蹴り、跳んだ。健足で跳び、義足で着地する。
着地した時には経験したことがない衝撃が返ってきた。走っていると言えるのかわからないぐらい、それも数メートル程度。

転んだ。しかし、その時直感的に感じた。「走れる」と。
走ることは、決して物理的に不可能なことではないと確信した。

そして期待どおり、たくさんの義足仲間に出会うことができた。それまで、自分以外に切断者がおらず、とても自分が「普通」とは思えなかった。しかし、鉄道弘済会やヘルスエンジェルスでたくさんの義足仲間と出会い、触れ合ううちに感じたことは、「脚がないだけで普通の人」だった。

また、義足について自然に語れる場が新鮮だった。

自分は友達に切断や義足のことについて話すことは嫌ではなかったが、 どこか触れてはいけないことのように遠慮されている雰囲気を感じ、居心地の悪さを感じることもあった。しかし、ここでは切断や義足は、ニュースやテレビ、音楽などと変わらない、ただの共通の話題の一つだった。

障害について話すことがタブーではない、そんな雰囲気をとても居心地良く感じた。
ヘルスエンジェルスの練習会は、自分自身の価値観が変わるほどの衝撃で、多くのことを感じることができた。

走ることは不可能ではない。脚がないのは不便だが、それ以上でもそれ以下でもない。自分も含め切断者は「脚がないだけの普通の人。まだ入院中にそう感じられたのは、復帰して障害者として社会に出た時に自分を支えてくれたものであったと思う。

■入院生活終了


鉄道弘済会でのリハビリも後半になると、歩くことの不安はほとんどなくなっていた。
残りのリハビリ期間は、日常生活を想定して、一つ一つ不安を取り除いていく作業だった。

スーツ着て革靴履いてカバンと傘を持って歩く練習をしたり、体力をつけるために長い距離を歩いてみたり。

鉄道弘済会に入所中は、ずっと楽しかった。

リハビリは順調。理学療法士さんや義肢装具士さん、義足仲間でもある患者さんと話している時間が楽しかった。考えてみれば、それまで他の患者さんと話をすることはほとんどなかった。

ようやく、気持ちに余裕ができていたのかも知れない。復帰してからの生活も現実感を持って考えられるようになってきた。
きっと仕事や日常生活でできないことはほとんどなく、ほぼ変わらない生活ができる、という自信も持てるようになっていた。

しかし、リハビリだけでは限界があって、職場復帰前には日常生活で慣らす期間も必要だと思っていた。退院から復帰まで、慣らす期間を2週間作ろうと決めた。義足も最終調整を終えて完成した。

そして、鉄道弘済会を退所した。3週間という短い間だったが、刺激に満ち、密度の濃い時間だった。

こうして、およそ半年間の入院生活が終了した。できることはやった。入院生活でやり残したことはなかった。

入院生活を通じて自分を支えてくれた家族、職場の方々、友達、病院のスタッフの方々には感謝の気持ちでいっぱいだった。
この方々の支えがなければ、入院生活を乗り切ることは間違いなくできなかった。素晴らしい方々に出会えて自分は本当に運が良いな、と改めて感じた。ここから復帰への道は自分との戦い。

あと少しで戻れる、もうひと踏ん張り、と感じていた。

■復帰


大阪に戻ってきた。それから復帰に向けて一つ一つ、復帰してからの生活を想定して確認する作業をしていった。
朝起きてスーツを着て徒歩、電車で通勤ルートを辿って職場まで行ってみた。街に出掛けてみたりもした。

よく行っていた店で買い物をしていると、前から好きなものは変わっていないことに気付いた。

変わらないんだな、と思った。

事故後に行ったことのないところに行ったり、経験していないことをやる時はいつも不安だった。それでも、やってみてできないことはなかった。前と全く同じ、というわけにはいかない。

でもやってみて、考えて工夫すれば本当に不可能なことはほとんどない、という自信がついてきた。

そして、復帰に向けて上司と話をすることになった。久し振りの会社。会う人はみんな驚き、喜んでくれた。

事故前のプロジェクトのマネージャーからは人づてに伝えられていた。

「"前のプロジェクトに戻りたい"と言え」

いきなり入院でいなくなり多大な迷惑を掛けた自分に、そんな言葉を掛けてくれることが嬉しかったし、それは自分自身望んでいたことだった。

「もし受け入れてもらえるのであれば、前のプロジェクトに戻りたいです」と話した。

上司との面談を終え、復帰が決まった。

やっとここまできたと清々しい気持ちだった。同時に、ここがスタートだと思った。

冬の日の事故。左脚を失い、障害者としての人生が始まった。
夏の日に戻ってきた。「生きててよかった」と思えた。事故からちょうど半年の日だった。

■人身事故の裏にあるストーリー


誰にでも起こり得る、でもどこか他人事な電車の事故。
人身事故で遅延する電車に舌打ちをしたことがある人も少なくないかもしれません。
その事故の裏に、先に、どんなストーリーがあるのかも知らずに。