人身事故から奇跡的な生還 電車に轢かれ左脚を失い、半年で職場に復帰した青年
現代の日本では、多くの人が毎日のように電車通勤・通学をしています。
満員の電車に揺られながら職場や学校に向かい、疲れや課題を持ち帰り、ときにはお酒に飲まれ、再び電車で帰宅する生活。
身近にある便利な乗り物、電車。
しかし、ときにそれは、人の命や人生を奪う凶器にもなります。
人生の実体験を語るWebサイト『STORYS.JP』に、電車に轢かれ左脚を失いながらも、半年で職場に復帰した青年のストーリーが投稿されています。生死の境目をさまよい、片脚を失った彼は、どのようにして立ち上がってきたのでしょうか。
■電車に轢かれ脚を失った半年後に職場復帰するまでのストーリー
海外出張の機会も多く充実した仕事。仲間と遊びまわる日々。
タイやカンボジア、インドへの一人旅。
ダイビングやソフトボール、ビーチバレー、スノボなどのスポーツ。
そんな公私ともに充実した日々の中、人生を一変させる出来事が起こるなんて想像もしていなかった。
■事故、そして入院
仕事終わりに友達とご飯に行き、一人で駅に向かったところが最後の記憶。
そこから先の記憶はない。
次の記憶は知らない天井、身体中の激痛、ベッドの周りで自分を見つめる家族。
どこにいるのか、どれだけ時間が経ったのかもわからない。家族全員に囲まれている理由がわからなかった。
父親に事情を聞き、電車事故に遭い集中治療室にいること、身体中の痛みの理由は把握した。
身体の違和感にも気付き始めていた。
右脚はギブスをはめられ、全く動かせない状態。右脚は車輪に巻き込まれ、膝上から足首までズタズタになっていた。
頭は丸刈りにされていた。外傷性くも膜下出血で、開頭手術をされていた。顔はパンパンに腫れあがり、ひどい見た目だったらしい。
そして左脚。ほんの少し、付け根あたりの感覚はあるが、その先の感覚がない。
家族も医者もまだ何も言わないが、気付いていた。
左脚はないと。
あえて確認はしなかった。聞くまでもないと思っていた。数日経って、左脚は大腿から切断したことを告げられた。
「ああ、やっぱり」というのが感想だった。
意識が戻っていない間、左脚切断&右脚再建、くも膜下出血と2度の手術を受けていた。
それでも、まだ事態の深刻さを理解していなかった。「早く家に帰りたい。仕事に行きたい」と言っていた。
しかし、次第に今でも自分は生死に関わる状況で、仕事に行くどころかベッドから一歩も動けないことを理解し始めた。
その時自分は30歳。残り50年続く人生を、この身体で生きていくしかないのだと思った。
同時に思ったのは、脚を失っても、自分には面会時間いっぱい一緒にいてくれる家族がいる。
職場の人たちもみんな来て頂いたとも聞いた。
その時家族に言った言葉。「事故に遭ったことは不運っだけど、不幸じゃないよ」本心だったし、今でもそう思っている。
そしてこれからの人生、どう生きていきたいか考えた。
不安がないと言えば嘘になるが、脚一本なくなったぐらいで縮こまって生きていくなんて納得できなかった。
■脚一本程度で人生は終わらない。
仕事はデスクワークで這ってでも職場にいければ仕事はできる。
たくさんの友達がいる。まだ独身だし、きっとそのうち結婚もする。
絶対戻る。職場にも、みんなのところにも。
ベッドの上から一歩も動けず、身体中の激痛、発熱も続き思考もはっきりしていなかった。それでも、そう決めた。
■集中治療室での日々
一週間ほど経った頃、初めて集中治療室から外に出た。冬の冷たい空気が気持ちよく、懐かしく感じた。
やっと集中治療室から出て、一番にあの夜一緒にいた友達に連絡した。父親から事故に遭ったことは伝わっていた。
きっと深く心を痛めている。自分を責めているかも知れない。心配かけてしまったことを謝りたかった。
「ごめん!心配かけて!」と電話した。
安心してもらいたかったし、同じように心配してる友達にも伝えて欲しかった。
職場のメンバーにも連絡した。途中になってしまった仕事のことも気がかりだった。
その頃の状態は、右脚は毎日のように感染して壊死した組織を削り取る厳しい処置。
そのたび強烈な麻酔を打たれていた。左脚も感染が治まらず、時折激しい痙攣に襲われていた。
外傷と感染症からくる高熱、強力な麻酔で現実感がない状態が続いていた。幻肢痛も感じ始め、正体のわからない痛みに悩まされた。痛みと時間の感覚が狂っていたため、眠れない夜が続いた。
退院後、看護師さんに「あの頃夜泣いてたよ」と聞いた。肉体的にも精神的にもギリギリの時期だったのだと思う。
そんな中、障害者手帳の申請について説明があった。それまで障害者になった自覚がなく、
「障害者か。そりゃそうか。脚ないんやもん。」と思った。
障害者になったことについては、特にプラスの感情もマイナスの感情も起こらなかった。
退院後の生活にも、もちろん不安はあった。しかし、どこまで回復するかでその形は全く違うものになる。
今は治療に集中することしかできない、と思っていた。
年末が近づいていた。しかし、感染の程度を示す数値は高いまま下がらなくなっていた。
それが原因となり、大きな決断を迫られることになる。
■脚を落とす、という選択
主治医から治療方針の説明を受けた。
現状では感染症のリスクが高いこと、左脚の残った断端は短く、表面は植皮で義足を履く条件としては厳しいこと。
一方、残った左脚を落とし股関節離断にした場合、断端を強い皮膚で覆うことができるが、義足を実用的に使いこなすのは難しいこと。
左脚を残すか、落とすかという選択だった。
どちらも厳しい条件だが、先生は股関節離断にした方がよいと判断しているように感じた。しかし、どちらがいいとは言わず、本人に選ばせようとしていると思った。
股関節離断の場合、義足を実用的に使いこなすのは難しいということだが、「難しい」であって「不可能」ではない。
当時義足の知識はなかったが履ける義足がある以上、なんとかしてやると思った。
迷いはなかった。先生の判断を信じようと思い、即答していた。「落としてください。」
こうして、残った大腿を切断し、股関節離断にすることが決まった。自分で選んだこととして、納得していた。
また、右脚について。
背中から皮膚を採り、右脚に植皮する手術をする。そして術後10日程度、全く動けなくなる。
取りうるベストな治療法と納得していたが、耐える自信がなかった。
それでも耐えるしかないと、受け容れた。これも、自分で選んだこととして、納得していた。
こうして年内に左脚の股関節離断と右脚の植皮、2度の手術をすることが決まった。
股関節離断の手術の日。
意識がある状態で手術を迎えるのは初めて。見送る家族にストレッチャーで運ばれながら拳を突き上げて、手術室に向かった。
精一杯の強がりだった。
手術台に寝かされ、測った体重は44kg。事故に遭う前は55kg。10kg以上体重が落ちていた。脚一本分の重み。
年末の忙しい合間を縫って、職場の部長3人がお見舞いにきてくれた。
熱が40℃近くあって体調は最悪。またどんな形で戻れるかはわからなかったが、「現場に戻りたい」と告げた。
現場で働くことにやりがいを感じていたからだが、焦りもあった。
その時の上司の言葉が忘れられない。
「これから何十年も続くエンジニア人生からしたら、大した時間じゃない。ちゃんと治して元気に戻ってきてください。」
泣いた。この言葉にどれだけ救われたか。
そして、右脚植皮の手術を受けた。術後は想像を遥かに超える背中の痛みだった。全く動けなかった。
迎えた年の終わり。
例年は友達のバーでカウントダウンが恒例。しかし、集中治療室のベッドで全く動けず、新年を迎えた。
来年は必ずみんなのところに戻って、一緒に新年を迎えると心に決めた。
■一般病棟へ、仲間との再会
年が明けた。植皮のための皮膚を採った背中の痛みで全く動けない状態。
人生で一番長い10日間だった。この頃の記憶は痛み以外ほとんどない。
中でも背中のガーゼ交換の処置では過呼吸を起こすほどの痛みだった。
苦しい時期だったが、股関節離断にした左脚、皮膚を移植したの右脚の状態は落ち着いてきて、手術から10日ほど経った頃、一般病棟に移れることになった。集中治療室で過ごした時間はちょうど一ヶ月。
入院以来、離れて暮らしていた母親と妹は大阪の自分の部屋に移り、毎日面会時間いっぱい一緒にいてくれた。
父親と兄も仕事の合間を縫ってきてくれた。一番厳しく、苦しかった時期を支えてくれたのは家族だった。
そして、一般病棟に移った。
多少動けるようにはなっていたが背中の痛みは引かないまま。この頃は毎日朝早く目が覚め、気分が落ち込んでいた。
世の中が自分と自分以外に分かれてしまったような感覚。テレビを見ても自分には関係ない、別の世界の話のように感じていた。
一般病棟に移ってから、義足のことを調べ始めた。
しかし、股関節離断が使う股義足は義足の中でも極端に数が少ないため情報がほとんどなく、どんな生活を送っているか想像もつか
なかった。ただ、股義足というものが存在する以上、歩けないことはないだろう、と思っていた。
この頃からかも知れない。
「自分で自分の限界を作ることはしない」「物理的に不可能なこと以外あきらめない」と決めたのは。
面会ができるようになり、友達が面会に来てくれた。この時が来ることが苦しい時間を乗り越える力になっていた。
会ってなかった時間は一ヶ月半程度。それでも、久しぶりに感じた。
その時の自分の状態は、左脚はなくなり、右脚のギプスは着けたままで車椅子。一ヶ月半前からは想像もつかない、変わってしまった姿。それでも、みんな変わらず接してくれた。
病院一階の喫茶店で、めちゃくちゃ笑い、騒いでいた。
毎朝の気分の落ち込みは続いていたが、この時間は現実と繋がっていると感じることができた。
■生きることと向き合った瞬間
一般病棟に移って数週間。このころの状態は、
・左脚:傷口が塞がらず、毎日洗浄の処置。
・右脚:植皮した皮膚が生着するのを待つ。絶対安静でギプスで固定。
・背中:全面から採皮されていて、皮膚が再生するのを待つ。
脚に痛みはなかったが、背中はひどい痛みだった。右脚に移植した皮膚が生着しなければまた植皮する必要があり、さらに採皮の痛みに耐えなければならなかった。
そして右脚のギプスを外す時が来た。先生が生着の様子を見る時は祈るような気持ちだった。
「パーフェクト。」
楽観的なことをほとんど言わない先生がここまで言い切るのは珍しいこと。本当にほっとした。
一ヶ月半ぶりに解放された右脚。運び込まれた時は「骨から腱からフルオープンな状態」だったそうで、そこからここまで整復してくれた先生に感謝した。
そして右脚のリハビリが始まった。おそるおそる体重を右脚に乗せ、一ヶ月半振りに立った。
平行棒で支えて立つのがやっとで、すぐに膝からガクンと力が抜けてしまう状態だったがそれでも、自分の脚で立てた。
家族はここまで回復したことに涙を浮かべていた。
それから毎日少しずつ、自分の脚で立つリハビリが進められた。
リハビリの時間は限られていたので、病室では片脚で立ち続ける自主トレ。
恐れていたの背中のガーゼ交換。耐えられないほどの激痛。ガーゼ交換がある日は本当に憂鬱だった。
気持ちの落ち込みも続いていた。
「なぜ生き残った?なぜちゃんと死ななかった?」という考えが毎日頭をよぎっていた。
しかし、「生き残ったんだからジタバタしてもしょうがない。生きよう」と気持ちを揺れながらも思うことができたのは、支えてくれる家族、友達がいてくれたから。
そしてこうして、生きることと向き合った時間が、与えられた命がある限り前に進もうという意思をより強くしてくれたのだと思
う。
リハビリは立つことから始まり、少しずつ距離を延ばして平行棒の中を歩く訓練、さらに松葉杖の歩行訓練も始まった。
義足使いこなすには筋力が必要、ということで筋トレも始まった。先生の勧めでプロテインも飲み始め、ラグビー部出身のPTの先生と一緒に筋トレの毎日。今思えば、このリハビリは本当に正しかった。
後に義足を履き始めた時、入院前よりも筋力はついていたぐらいで義足を履く体は出来上がっていて、義足を使いこなすための訓練に集中することができた。
一方、左脚の傷口はなかなか塞がらず、洗浄の処置が続いていた。
職場復帰の目標は4月と決めていた。義足のリハビリは2ヶ月はかかると思っていたので、時間がないと焦りもあったが、治るのを待つことしかできなかった。
■転院、リハビリ病院へ
入院して2ヵ月近くが経ち、念願の外出許可が出た。ずっと、家に帰りたい、自分のベッドで寝たいと思っていた。
久々に自宅で過ごす時間。やっとここまで戻ってきたんだ、と感慨深かった。
脚がなくなってから、病院以外では何もかもが初めて。一時帰宅は日常生活でどこまで前と同じようにできるのか、できないのか確認する意味もあった。結果、ほとんどのことは松葉杖でなんとかなった。変えなくていいんだな、と思った。
それからは毎週末、外泊許可をとって自宅に帰るようになった。この頃から、左脚の傷口も塞がり始め、背中の傷も回復に向かっていた。傷の具合が落ち着きを見せ始めたことで、治療の段階は終わりが見えてきた。義足のリハビリは別の病院で行うため、2月中に転院ということになった。少し前まで処置の痛みに苦しんでいて、転院なんて先の話のように感じていたので、この展開に自分自身ついていけなかった。
ソーシャルワーカーさんが関西中の病院をあたってくれて、股義足で歩くリハビリに対応できる病院を2つ見つけてくれた。
関西中探して2つだけ。少ないが、対応できる病院があるということは歩けるということ。
退院後は義足で歩いて生活する以外、想像しなくなった。
■義足仲間との出会い、一人じゃない
傷は問題ないぐらいにまで回復し、義足のリハビリをする転院先の病院探しが始まった。
そのうちの一つ、大阪市内にある病院への診察には「電車で行きたい」と言った。
事故に遭ってからまだ一度も電車には乗っていない。ひょっとしたら記憶の奥底にある事故の記憶が蘇り、恐怖を感じるかも知れない。そう思ったが、電車に乗ることは日常生活では不可欠。乗り越えなくてはならないことなので、早く確認したかった。
結局、その不安は取り越し苦労だった。何も感じなかった。
自分にとって、電車には乗れると確認できたことは大きな収穫だった。診察では先生は「歩ける」という感触を持っているように感じた。もう一つの病院は治療が終わっていないと判断され、受け容れることはできないとのことだった。
結局選択肢はなく、2月末に大阪市内の病院への転院が決まった。
今思えば、結果的にこの病院に決まったことは自分にとって最良の道だったように思う。
この頃あった大きな出来事。
友人の友人が自分と全く同じ、左股関節離断で会ってもらえることになった。股義足は義足の中でも極端に数が少なく、滅多にいない存在。こんな偶然があるなんて、つくづく運がいいな、と思った。
初めて見る股義足ユーザーの彼女の動きは想像していたよりずっと自然だった。
また、彼女はスポーツ義足の第一人者として有名な義肢装具士の臼井二美男さんに担当してもらっていて、臼井さんが所属する鉄道
弘済会義肢装具サポートセンター、切断者スポーツクラブ、ヘルス・エンジェルスには数多くの義足仲間がいた。
彼女から、活き活きと人生を送っている義足仲間の話を聞いた。
当時周りには切断者が誰もおらず、自分一人。彼女は切断間もない自分に、この先の人生決して暗くはない、自分次第で明るいものにもできる、そして何より「一人じゃない」と教えてくれた。
この出会いが今後、新しい世界に脚を踏み出す勇気ときっかけを与えてくれた。
そして、退院の日。お世話になった先生、PTさん、看護師さん、ソーシャルワーカーの皆さんに
「次は歩いて戻ってきます」と宣言した。
この病院は命を救われた場所であり、左脚を失った場所。最も辛い時間を過ごし、新しい希望を見つけ、第二の人生がスタートした場所。様々な感情が入り交じったが、ここで過ごした二か月半のことは一生忘れない。
「ありがとう」感謝の気持ちを胸に、次の病院へと移った。
新しい脚に出会えること、そして自分の脚で歩けるようになること。その期待と希望でいっぱいだった。