「我ときて遊べや親のない雀」
この俳句を知らない人はいないやろ。
一茶が作った句は22000句とも言われていて、芭蕉の1000句、蕪村の3000句に比べると圧倒的に多い。
辛うじて正岡子規が24000句で一茶を上回る。
しかし、俳諧師とはそもそもどんな職業か?
案外、当時(1770年から1800年くらい)は胡散臭い職業やった。
今でいうところの小説家みたいなものか。
一茶が父との死に際を書いた「父と終焉日記」は私小説の先駆けと言われてる。
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正岡子規は一茶をこう評している。
「俳句の実質に於ける一茶の特色は、主として滑稽、諷刺、慈愛の三点にあり」
一茶というのはあんまり恵まれた環境では育っておらず、自虐的な俳句が多かったりする。
その辺が「滑稽、諷刺」であり、家族愛にも飢えていたので「慈愛」という側面がある。
3歳の時に一茶は実母を亡くしており、継母との仲が悪かった。
継母が子供を産むと益々一茶は継母との仲が悪化し、仲を取り持ってくれていた祖母がなくなると一茶の父は見るに見かねて一茶を江戸に奉公に出す(一茶14歳)。
しかし、一茶は奉公に耐えれんくて職を転々とする。
そうした事情もあって、一茶が故郷に帰ったのは29歳の時。
実に15年もの間、一茶は故郷に帰らんかったんやね。
その間、一茶はどうやって暮らしていたのか?
俳句で競ってお金を得るという当時の幕府が禁止していた賭け事で生計を立てていたらしい。
やがて一茶は小林竹阿に師事して俳諧を本格的に学ぶ。
実に一茶25歳。
14歳から数えて11年もの間、一茶は日雇いのような仕事で食いつないていた。
やがて多少は名が売れて故郷に一旦帰る。
29歳。
その時、四国・九州を歴遊する直前やったから、父親にお金を無心した。
散々遊び呆けていた一茶に対して継母はそれを快く思わず、冷たく一茶に当たったらしい。
それによって一茶は後に父親の遺言を巡って継母と12年も遺産相続で争うことになる。
一茶はその時、既に十分に食えるほど俳諧の宗匠として名が売れてたんやけど。
傷寒(今でいうチフスの一種)に倒れた父親を継母は冷たくあしらったことに腹を立ててたんやね。
だから、しつこいほど遺産相続でやりあった。
全ての問題は一茶が51歳になった時、ようやく解決する。
この時、はじめて結婚する。
相手は28歳で20歳以上も歳が違った。
一茶の人生においてこの時期が最も充実している。
妻きくとの間に4人の子供を授かる。
しかし、全員夭折する。
やがてきくも痛風のため37歳で昇天。
62歳で再婚するが、一茶はその時脳卒中で半身不随になっていたため、二か月も新婚生活は続かず。
二番目の妻とも離縁する。
ここで一茶の生涯が終わっていれば、まさに不幸の塊とも言える人生やけども。
ここからの一茶が凄い。
一茶は64歳で再再婚するんやね。
そして、半身不随で言語障害があったにも関わらず、毎夜励んで何と子供を授かる。
この子供だけが大人に成長するも、一茶はその誕生を知らず64歳でこの世を去る。
同年一茶の家は火事に見舞われ、土蔵で生活していた。
一茶はこの土蔵の中で死ぬことになる。
最後の最後まで報われん人生やった。
一茶の俳句は泥臭いものが多く、蕪村の天明調に対して化政調と呼ばれる。
風土と共に生きる百姓的な視点と平易かつ素朴な語の運びに基づく句作が、そう言わしめるんやね。
「やせ蛙負けるな一茶ここにあり」
「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」
どれも単調な言葉の羅列やけど、そこに一茶の良さがあるんやろね。
いや、俳句って全然知識がないから適当なことを言うてみた。
俳句って好きな人は好きなんやろけど、そこにどんな意味が?と思うと何となく敬遠してしまう。
あんたら、小林一茶って好き?
ただ名前を知ってるだけ?
ああ、そう。
うちと一緒やね。
ほなな。
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