フェーン現象の記事で、邪馬台国について触れてしまいましたので、科学とは直接関わりがありませんが、私なりの考察を述べたいと思います。考古学も科学的要素が大ですよね。
中国の歴史書「三国志」の中の、魏志倭人伝(略称)に、邪馬台国についての記述があり、邪馬台国への道程が詳しく書かれています。
道程が詳しく書いてあるならば、邪馬台国が何処にあったのか直ぐに解りそうなのに、邪馬台国論争なるものが存在しているのです。それも、江戸時代から・・・。
現在では、東京大学系が「九州説」、京都大学系が「畿内説」を唱えていると言われます。例外もあるかも知れませんが、大きく分けると二流派と言ったところですね。
私に言わせると権威主義の代表例と言えましょうか。研究者は恩師から学んだ説が正しいと思うのは当然としても、もし異説を唱えようものなら秒で排除されかねない事も問題ですね。
もっと、お互いに協力して真相を解明して欲しいところです。そこで、それを解き明かしてやろうなんて、若い頃は粋がっていたんですが・・・。これがまた難解なんですね。
簡単に言うと、記述通りだとすると距離が全く合わない、距離を合わせ様とすると方向が合わない。挙句の果てに、記述が間違っているなんて無茶な事を言ったり、わやです。
どちらの説も、自分に都合の良い場所に邪馬台国が収まる様に、あの手この手の言い分を考え、こじつけているとしか思えないのです。
気持ちは分かります。それを生業にしてるのですから、分かりませんなんて言えないですよね。私は早くから諦めてしまいましたけどね。
ただ。原料調査や工場管理の目的で、30年以上前の中国の糞田舎に長期出張や駐在を経験した私には、「あ、そういう事か」と、合点がいったのです。
当時に比べると、それでも恵まれていたと思いますが、凸凹道を車で長時間の移動、何kmも歩かされ、ゲロまず料理食わされて、ヌルヌルのビールをがぶ飲みさせられたり・・・。
私の場合は喜んで行きましたが、段々疲れてくると記録が疎かになったり、適当に済ませたくなってくるのです(それは怠け者のおまえだけじゃ)。
いやいや、そんな適当な私の報告書でも社内の信頼度は高かったのよ。写真と地図を張り付けとけば、分かり易い報告書だと褒められる事も良くあったのです。
読む側だって興味がある訳ではないのです。
魏の国の使者達は、どんな気持ちで倭国へと旅立ったのか・・・。非文明世界に行かされるのです。帰って来られるか如何かも分かりません。
まともな報告なんて出来る訳ないのです。そんな余裕なんてなかったと思いますよ。でも記録は残さなくてはなりません。下手をすると死罪になるかも知れません。
御上はどんな事に興味があるのか、誰も行った事のない場所へ行くのですから、何を書いても検証のし様がないですからね。かと言って、全くの嘘も気が引けますから・・・。
倭人は好戦的か非好戦的か(中国の歴史は異民族の侵入に悩まされました)。どれ位の距離にあるのか。国力は如何程か。どんな生活をしているのか。国王の様子は如何。等々。
要は正確性より、嘘があったとしても、分かりやすい方が、御上には喜ばれると言う事です。御上の知りたい事が羅列されていれば問題ないのです。
果たして本当に彼らは邪馬台国へ行ったのか、そして、卑弥呼に会ったのか。私は疑わしいと思いますよ。行って会った事にしたのかも知れません。
何故なら、魏志倭人伝の記述には重大な欠陥が至る所にあるからです。でも、これが正史として存在している理由は、皇帝を含め、誰も倭国について興味が無かった。
「ほ~、そんな国か・・・」なんて思った位で、矛盾点を追求する事が無かったのでしょう。皆、坊ちゃん育ちですから、使者の苦労なんて解らないのです。
私だったら、「これ、おかしくないかい」、「もう少し上手く胡麻化せよ」と助言したでしょうけどね。司馬仲達(後述)がどう思ったのか・・・。
とは言っても、九州上陸までの記述には、使者が、その目で見たと思われる情景が、僅かではありますが、記述されています。これは少なくともそこには行ったのでしょう。
・対馬国 : 険しい山、深い森が多く、道路はけもの道の様。良田無し。
・一大国(壱岐) : 竹や木のしげみが多い。田畑少し。
・末盧国(松浦) : 山海に沿って居住、草木が生い茂り、前を歩く人が見えない。
伊都国(糸島付近) からは、目で見たと思われる記述が全くありません。但し、伊都国には一大率があり、帯方郡からの使者が留まるところとあるので、ここまでは来たのか・・・。
でも解せませんよね。初めて魏に朝貢した邪馬台国に何故、帯方郡の使者が留まるところがあるのか。これが初めての訪問じゃないの・・・。
実を言うと三国志は魏・呉・蜀だけではなく、半独立国が他にもありました。帯方郡(現ソウル)が置かれた朝鮮半島の北部から遼東半島は公孫氏が実権を握っていたのです。
邪馬台国は公孫氏と交誼があったと言う事でしょう。公孫氏と呉は連携して魏を抑えようと企んでいたと言われています。でも、両国の間には魏があり、陸路は使えません。
公孫氏も呉も外洋船を持っていませんでした。そこで邪馬台国の出番です。あまり知られていませんが、当時の倭国の海洋技術の実力は大したものだったんですよ。
その当時の状況を考慮すると、三国同盟が結ばれていたか、邪馬台国が両国の仲介役だったんだと思います。親書のやり取りを邪馬台国が担っていたんでしょう。
最終的に公孫氏は呉を裏切る事になったのですが、魏に滅ぼされるにあたり呉に助けを求めました。呉は皮肉を言いつつも、援軍を出す事にしたのですが間に合いませんでした。
卑弥呼が帯方郡の太守に魏への朝貢を願い出たとされるのは、A.C.238年の6月と言われていますが、公孫氏が滅んだのが、その年の8月末です。
帯方郡を支配していたのは公孫氏ですのであり得ません。魏の帯方郡太守は公孫氏が滅んだ後でないと存在しません。そこで、238年ではなく239年の誤りなんて言うじゃな~い。
だけど、使者の選定、返礼品の調達及び輸送には時間がかかりますので、何方にしても辻褄が合いませんから~、残念~。
公孫氏の旗色が悪くなり、早々と魏に乗り換えた事で、貧弱な供物に対しても、破格の待遇を得たと言う解釈もある様ですが、いくら何でも貧弱すぎですから~、残念~(こら~)。
公孫氏討伐の総大将は、魏の実力者である司馬懿(仲達)です。蜀の諸葛亮(孔明)のライバルと言われ、後に晋帝国の実質創始者となる人物です。
魏帝国内の実権を確たるものにするためには何でも利用する人物です。時の皇帝である明帝を喜ばせるには絶好の機会に成功(公孫氏討伐)したわけですね。
そこに更に、邪馬台国の朝貢を斡旋したとなると皇帝の覚え目出度しと言う事になりますよね。それが大国であればあるほど都合がいい筈です。
邪馬台国は、まんまと、その計略に乗せられたと言うことです。
ちょっと長くなりますので、3回に分けさせていただきます。
(「邪馬台国(その2)」へ続く)
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