(「邪馬台国(その1)」からの続き)
ここからは私の推測ですが、邪馬台国の使者は、魏に朝貢するつもりだったのではなく、公孫氏に挨拶程度の土産を持って行ったのでしょう(呉の密書を携えていたのかも)。
ところが、公孫氏と魏の戦いに巻き込まれてしまい、取っつかまって、朝貢を強要されたのではないでしょうか。破格の返礼付きですので悪い話ではないのですけど・・・。
司馬仲達は倭国の朝貢を斡旋(実際は強制)する事で、2倍の手柄を立てる事が出来ると言う寸法です。諸葛孔明が敵わなかった訳ですよね(「猫かぶりの仲達」)。
但し、卑弥呼の決済なく強制的に進められた訳ですから、邪馬台国の使者は生きた心地がしなかったでしょう。当然、邪馬台国の使者は魏に留め置きです。
そして、二年後に魏の使者を伴い帰国したと思われます。その道中が魏志倭人伝です。
では、地図を参考に、その道程を見ていきましょう。
対馬国、一大国(壱岐)、末廬国(東松浦半島)、伊都国(糸島市付近)、奴国(志賀島付近)、ここまでは間違いないだろうと言われていますが、そうだとすると大きな疑問が生じます。
北九州に御住まいの方ならば、おかしいと思いませんか・・・。壱岐から近いので、東松浦半島に上陸したのは仕方ないとして、なぜ糸島への道程に陸路を選んだのかです。
前を歩く人が見えないほどの草木に覆われた道なき道、これは港(停泊地)から末廬国の集落までの道のりの光景であろうと思いますが、この港は整備されていないと言う事ですね。
集落までの道がこのありさまでは、使われていなかったのでしょう。後半に再度出て来る伊都国の一大卒の任務に、帯方郡からの使者や帯方郡への使者の港での検察とあります。
伊都国には港がある、いや、正規の港は伊都国にあると言う事でしょう。大国である魏の使者を連れているのですよ。何故、伊都国に上陸しなかったのか。いや、出来なかったのです。
朝鮮半島から九州まで、日本海を渡ってきた船を、海岸沿いに走らせるだけです。わざわざ末廬国に上陸し、伊都国に行くために何で陸行したのか・・・。
これは、間違いなく時間稼ぎですね。松浦に上陸し、邪馬台国側の使者の一人が船で一足先に邪馬台国へ報告に行ったのではないでしょうか。
と同時に、伊都国に上陸できなかったと言う事は、邪馬台国が伊都国またはその近くであると言う傍証でもあります。ずっと遠くならば、末廬でも伊都でもいい訳でしょ。
卑弥呼の意思とは違う結果になってしまったのですから、下手をすれば死罪にあたるかも知れません。経緯を説明し、魏の使者を如何扱えばよいのかを協議する時間が要ります。
伊都国までの行程で、魏の使者達はうんざりしている事でしょう。食べ物も口に合わないでしょうし、北方人には倭国の気候も馴染めない筈です。
その証拠が、末廬国(東松浦半島)から伊都国(糸島市付近)へは東南500里となっていますが、始めは南東ですが途中から北東方向になります。正確に言うと東とするべきですよね。
「牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)はいない」と書かれていますので、自らの足で歩いた事になります。その距離約50kmです。伊都国に着いた時にはクタクタだった筈です。
50kmを歩こうとすれば、2日はかかります。悪路であったと思われますし、答礼の荷物もある訳ですから、最低3日は要したと思われます。何で船で行かないのと思いませんか・・・。
もしかすると、末廬国に留まっていたのかも知れません。一大卒に港がある事を知っていれば、当然水行を要求した筈です。後から知ったのかもね。
伊都国に先回りした使者は、魏の使者を適当にあしらう様に言われたと思います。答礼の土産を持参したとは言え、間接的に敵対していた魏国の使者です。
邪馬台国まで案内すれば、都の場所が知られてしまい、後々攻められてしまうかも知れませんし、殺してしまう訳にもいきません。魏の実力は公孫氏から聞かされていた筈です。
伊都国を内陸と見せて、海を見せず、公孫氏の使者は、ここに留まり連絡を取っていたと吹き込み、邪馬台国に行くには更に陸行・水行・・・。
「まだまだ、2・3ヶ月かかりますぜ・・・、どないします」と、諦めさせ様としたのではないでしょうか。どうしても行くと言われれば、その辺をウロウロして、途中で船に乗せたり・・・。
そもそも、今回の使者の目的は、司馬仲達の地位固めの様なものであり、形式的要素が大です。使者はどうしても行かなくてはならない様なものでもないと判断したかも知れません。
「それじゃここで失礼します・・・、でも上司に報告しないといけないから、邪馬台国への道程と、卑弥呼はんの様子など、詳しく教えてぇ~な」って事になったんではないでしょうか。
魏志倭人伝を読むと、誰かに聞いたと思われる邪馬台国や卑弥呼の様子が書かれていますが、使者が見た情景が書かれていません。「美しいとか、妖艶だとか、醜いとか・・・」。
私だったら、それが一番の関心事です(スケベだからな)。やかましい
。
もし、邪馬台国に到着していたのなら、魏の使者は卑弥呼に謁見した筈です。予期せぬ魏の使者の訪問だったとしても礼儀は礼儀ですからね。
それなのに、謁見したと書いてないし、それを思わせる記述がないのです。こんなに苦労して邪馬台国に来たにも拘らず、何をしに来たのでしょうか。行ってないんじゃない・・・。
しかし少なくとも、卑弥呼からの答礼の親書を貰わなければなりませんので、伊都国に、2・3ヶ月滞在していたのでしょう。その間に倭人の風習なんかを見聞したと思われます。
そして、倭国が巨大な連合国であり、邪馬台国へ行くのには時間がかかる事を強調したのかも知れません。だって、その方が邪馬台国を朝貢させた功績が光まっしゃろ。
それに、公孫氏と呉と誼を通じていた訳ですから、道程だって信用できませんよ。もしかしたら敵対国として攻められるかも知れないのに、詳しい道程なんか教えないよね。
だから、伊都国を含め、以降の道程についてはいい加減な情報だと思った方が賢明だと思います。伊都国までの里程を見れば分かりますよ。
当時の中国の1里は、400~500mですから、500里は、200~250kmとなりますが、実際は50km程度です。4~5倍はサバを読んでます。何方が読んだかは分かりませんが・・・。
両方がサバを読んで、サバサバとサバが広がったとも考えられますよね。500里を50kmと仮定すると、奴国まで10km、不弥国まで10kmとなります。
人口を見ると(5人家族として)、奴国は10万人(2万戸)、伊都国及び不弥国は5千人(1千戸)となっています。伊都国と不弥国は国としては小さ過ぎます。
ましてや、伊都国は代々王が居たと言うのに、「小さ過ぎるやろー」。
私の感覚では、かなりの違和感があります。わざわざ小さな国を巡った上で、また水行するなんて、余程の馬鹿か、何か魂胆があったとしか思えません。
(「邪馬台国(その3)へ続く)
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