昨日の続きです。

ちょっとわかり辛かったかもしれないのですが

とりあえず今、「安政六年二月日」兼「同年山田浅右衛門の試斬銘」のある「元興」が三振りある、ということはご理解頂けたかと思います。

ひとまずそれはちょっと横に置いておいて (笑)

兼定と元興のことについて、お話したいと思います。

 

新選組土方歳三の愛刀として伝わっている刀に、「和泉守兼定」と「大和守秀國」があります。

以前にも書きましたが、「和泉守兼定」は二人おりまして、「関二代兼定(ノサダ)」と、「会津十一代兼定」です。

現在土方歳三資料館に残されている刀は、会津十一代兼定です。

しかし、土方が所有していたと史料に書かれる「和泉守兼定」は、十一代ではなく「関二代兼定」です。

簡単に述べますと、文久3年10月の近藤書状

 

土方氏も無事罷りあり候。 ことに刀は和泉守兼定二尺八寸。

脇差一尺九寸五分堀川国広…

 

この時点で会津十一代兼定は「和泉守」ではありません。

 (十一代の和泉守受領は、文久3年12月)

つまり近藤書状に書かれる土方の差料「和泉守兼定」は、当然関二代(ノサダ)であったという事です。

ちなみにノサダは、生没年不詳ながら室町時代後期に関で作刀していた人で、同時代の有名刀には「孫六兼元(関の孫六)」がいます。

 

さて話を幕末に戻しますね。

当時京都守護職を拝命し京都に上洛した容保さまに従っていった刀匠に、十一代兼定と二代元興がいました。

この二代元興(松軒元興)が、慶応2年7月に「大和守」を受領して、「大和守秀國」を名乗ることになります ナイフ

この二人が、当時の会津藩における優秀な鍛治であったことは、慶応元年6月に容保さまが家茂公に「御礼」として「献上」していることからもわかります。

 その時の記事 下矢印

 

 

で、京都に随行してきた二人なのですが、実は兼定さんは慶応元年2月に自ら願い出て会津に帰ってしまいました。

もちろん故郷の会津で刀を作っていました。

そこで京都での注文の取り次ぎを、門人である「大隅守廣光」さんがとり行っていました。

実際にこの取次帳である「刀剣注文簿」が刀剣博物館にございます。

「新選組」や「島田魁」での名前で、注文されていますね。

 

 「新セン組」による注文の記事 下矢印

 

 

 

 

一方の秀國(元興)さん。

京都に残って、一生懸命刀を作っています。

ご存知のように京都は不穏な情勢になってきて、刀の消耗もきっと激しかったことでしょうね。

新選組も、池田屋事件・三条制札事件などに代表されるような白兵戦で刀の損傷も多々あったと思います。

それら会津藩士や新選組への刀の供給は、やはりお抱え鍛治である秀國さんも多いと思うんですよね。

実際に新選組の「金銀出入帳」に記載される「大和守身三本」などというのも、秀國の刀でしょう。

 (「大和守」だけですと、例えば「安定」などもあります)

日野には、「近藤土産」と言われる秀國も残っております。

 

 

 

そして何と言っても、秀國は土方愛刀として現存していますしね おねがい

 

☆ 秀國、ざっとおさらい
 
表銘 大和守源秀國 秋月種明懇望帯之
 裏銘  幕府侍土方義豊戦刀
    慶応二年八月日  秋月君譲請高橋忠守帯之

 

歳様が秋月種明(宇都宮で一緒だった、秋月登之助)さんに譲り、この方から高橋忠守さんという方に譲られました。

それが、どういう経路か、松村弁治郎さんという方が所有。

土方義豊氏戦刀寄贈之記」の書とともに、吉野泰之助さんに贈られました。

その後、個人所有となり、権先生が譲り受け、30年以上所有。

2016年に京都霊山歴史館に譲渡されたものです 刀

 

ただね、この秀國さん、「元興」時代の刀と「秀國」時代の刀の「出来」が全然違うらしい。

それはどういうことなのか、そして昨日ブログにあげた元興がどう新選組と絡んでくるのか、また次の記事にしたいと思います。

 

 

   2021年2月12日  汐海 珠里