今朝、目を覚ました途端、
夕べ寝る時に炊飯器のスイッチを入れてなかった事に気が付いた珠里です
。。。
こんな時こそ、非常食
朝ごはんは、防災用レトルト五目ご飯を
お弁当は私用の十五穀米を冷凍してあったのを、2食分チンして
(自分用ご飯は、まとめて炊いて1食分ずつ小分けして冷凍してます)
先日、こまめが結婚以来初めて寝坊したと言っていましたが、
たまには(?)あるさ、こういう事
ね
ブロ友の男性の皆さま、こんな時は怒らないで下さいね
一番ショック受けているのは、当の本人です
さてさて、幕末です
150年前の本日は、慶応3年2月19日。
この日、新選組隊士・島田魁さんが、大隅守廣光さんに脇差を注文しました
一、脇差壱本 壱尺六寸
二月十九日
新選組
嶋田魁
(刀剣注文簿)
これね、実物のコピーが、こちら。
これは確かに大隅守廣光さんの注文帳なのですが、
実は、この方の師 (一説によると実兄) の「十一代和泉守兼定」への取次帳なのです
(現在所蔵の「刀剣博物館」にも、そう伝わっているようです)
この廣光さん、元治から慶応という短い期間の刀工さんらしいです。
明治維新後は、姿を消して手がかりはないとか。
(霊山歴史館紀要より)
この注文帳は、美濃半紙二枚折りの綴じ込みで
たくさんの注文が書かれています
表見返しに、上の写真のような和歌が書かれていました。
先月8日の記事で、新選組名での刀剣の注文があった事を書きました。
(その時の記事は こちら☆)
この時には、まだこの注文帳をきちんと確認できていなかったので
兼定さんへの注文なのか、廣光さんへの注文なのか、疑問形で書いていました
でもね、やはり「兼定」さんへの取次帳であるようです
先の記事にも書きましたように、十一代和泉守兼定さんは
前年2月に、自ら願い出て会津に帰っていたのです。
そこで京にいる廣光さんを通して、いろんな藩の方が、発注していたという事です。
薩摩藩の中村半次郎さんではないかという、注文もあります
で、
全部が兼定さんへの注文かというと、所々に廣光さんへの注文も。
ね
だからたぶん「廣光造之」と書かれていないという事は、
やはり、兼定さんへの注文ですね
が、
ややこしいのは、新選組が正月に注文した刀。
ちょうど同じ長さの「廣光」作のが、残っているのですねぇ
それがこちら
※ 画像はお借りしています
この写真の一番上のものが、
新選組からの、正月4日付けの注文と同じ長さの廣光作の刀。
「慶応三卯年二月日」となっています。
※ 画像はお借りしています
これは一昨年京都で公開されたものなのですが
「新選組注文刀」となっていて、
さらに、島田さんが注文したという事になっているみたい
(島田さんが注文したのは脇差)
ですので、
二重の意味で違ったものになっていますよね
「絶対に」とは断言できないかもしれませんが
おそらくは、
たまたま同じ長さの廣光さんの刀が残されていたという事だろうと思います
と、いう事は・・・
島田さんは、ご自分で発注なさった刀をちゃんと受け取っていたならば
十一代兼定の脇差を持っていた
という事じゃないですか
「新選組大好き」「副長大好き」の彼が
密かに?「和泉守兼定」の脇差を。。。
やっぱり、島田さん、好きだなぁ
2017年弥生23日 汐海 珠里
※ 土方所有の「和泉守兼定」は、近藤書状より「関二代兼定(ノサダ)」
現存の会津十一代は、史料的裏付がなく来歴も不明