幕末です
150年前の本日は、慶応2年7月19日。
この日、容保さまの使者・北原采女さんが
家茂さまにお見舞いの品物をお贈りしました。
一 ギヤマン類品々 一台
右は御容態に付、松平肥後守下坂致し御様子可奉伺之処、
不快にも有之候に付、以使者御様子奉伺候。
(続徳川実紀より)
この日より、
家茂さまは危篤状態になっておりました
前日には朝廷が、漢方医の権威の方々を下坂させており、
懸命の治療をなさっておりました。
しかし家茂さまの状態は良くなく
下坂して登城した松平春さんは
家茂さまの御容態を、
次の間の障子の穴から(!)伺う
事が許されました
蚊帳の中に明かりがなく、暗くて様子はよくわからなかったけれど
苦しそうなお声が聞えてきて、切なく思った。
(登坂心覚より意訳)
と、書いております。
すでに幕閣内では次の後継者のことが協議され
永井尚志さんは、
慶喜さんに後継となることを、説いております。
慶喜さんは
予は不才非力、天下を治平に帰せしむへき見据なし
(続再夢紀事より)
と、おっしゃったらしいですけど
その慶喜さんは、この日はすでに京都に戻りました。
おそらく容保さまにも、
御容態の報告をなさっているのでしょうね。
ところで、
この時はお見舞い品として、ギヤマンの品をお贈りしていますが
無論、将軍家にはたくさんの方たちから、様々な品物が贈られます。
拝謁した時だけでなく、
年末年始のご挨拶や病気見舞い、その他にも、ですが
その中で、ちょっと興味深い記録があります
慶応元年6月2日です。
一 御白鞘
元興入道源秀國作 御刀
一 同
和泉守兼定作 御刀
但御箱入
右は松平肥後守。
去る春中不快の節、度々御尋等戴…
(続徳川実紀)
つまり、
慶応元年の春くらいに、容保さまが体調が悪かった折
度々家茂さまからお見舞いのお言葉があったので
そのお礼として、
秀國と兼定の白鞘の刀を献上したのですね
むろん献上品といえば、
お二人の作の中でも、最高級の出来のものでありましょう
でも、新選組とも関わりの深い秀國・兼定の刀を
家茂さまが、もしかしたらお手に取ってご覧になったかも…
と思うと、なんかドキドキしません
そしてこの2日後
御座所で御目見した家茂さまは
御手自御三所物被下有之。
(同)
と、自ら簾乗作の御三所物を、下されています
簾乗(れんじょう)さんというのは、
室町時代の足利義政公から、信長さん、秀吉さん、徳川家に召抱えられた
刀装具の家彫り本家、後藤家十代目の方です。
三所物というのは、目貫、小柄、笄の事。
これらの刀装具は、持ち主のステータスになっていたのですね。
150年前の今日この日、
容保さまはどんな想いで
家茂さまの御容態を聞かれたのでしょう
ちょうど1年前程に手渡されたそれらを
眺めていたかも、しれませんね…
なお、刀の献上、返礼品の事など
ご指導いただきましたK先生に、心より御礼申し上げます m(_ _ )m
2016年秋風月28日 汐海 珠里