核兵器について考える
戦後の我が国は、アメリカの被占領国の立場からスタートした。
1952年にアメリカからの独立を果たしたが、国の守りはアメリカに頼ったままで自分の国を自分で守る体制が出来ずに現在に至っている。政治の目標の第一は国家の独立であるが、それは自分の国を自分で守るということである。我が国は、いまなお完全な独立国家とは言えないのである。
しかし、一方では我が国は戦後類まれなる経済発展をしたために、今のまままでいいのではないかと思う国民が、逐次増加していった。これは、冷戦構造という我が国の経済発展にとっては極めて恵まれた国際情勢があったためである。アメリカは、ソ連を封じ込めるために我が国を必要とし、我が国もアメリカにくっ付いているだけで、我が国の安全を保障できた。その結果、現在では政治家も官僚も財界のリーダーなども国の守りを考えない人が多くなってしまった。しかし、我が国は今こそ国の守りを考えないと危険な状況になってきているのである。
我が国においては、国家安全保障について政治家がまともに議論することもない。従って軍事力を持つ意義、その役割などについて国民の理解が一向に進まない。マスコミも、これをまともに取り上げることはない。軍事についてはこれを言い出すことが「危険だ!」とか「右翼だ!」とか言われることになってしまっている。我が国には、非核三原則という国の方針がある。核兵器を造らず、持たず、持ち込ませずというものである。そして、これに関しては議論することさえはばかられるような状況である。核武装は、端から悪なのである。核武装が必要だというと、「とんでもない!」「危険人物だ!」とか言われてしまうが、議論も出来ないようでは自由民主主義の国家とは言えないのではないか。
さて、核兵器の特質を二つほど挙げてみよう。第一に、核兵器は先制攻撃用の兵器ではなく防御用の兵器である。核戦争には勝者がいない。核兵器は、通常兵器の10万倍とか100万倍の破壊力を持つので、その一発の攻撃で大きな町が一つ吹っ飛んでしまう。一発の被害にさえ耐えることが出来る国家はないのである。核戦争が始まって一発のミサイルも命中しないということはあり得ないから、如何なる国家も核戦争は絶対に避けようとする。少なくとも、核保有国に対しては反撃を恐れ、使用を思いとどまるであろう。そういう意味で核兵器は先制攻撃用の兵器ではなく極めて防御用の兵器なのである。インドとパキスタンの戦争、中国とロシアの戦争、インドと中国の戦争が停止したのは、核兵器の戦争抑止効果なのだ。核兵器保有国同志は戦争が出来ないのである。核兵器こそ究極の戦争抑止兵器なのである。
第二には、核兵器は戦力の均衡を必要としない兵器である。通常戦力であれば1対10の戦力比では、戦力1の国家が戦力10の国家の戦争意思を抑止することは出来ない。それは戦えば戦力10の国家が勝つということが予め判ってしまうからである。しかし、核戦争には勝者はいない。その破壊力があまりにも大きいために核兵器一発の被害にさえ耐えることは無理であるから、核の撃ち合いになれば両者負けである。アメリカやロシアなどが何千発もの核兵器を持つ中で「北朝鮮が一発や二発の核兵器を持つ意味があるのか?」と思う人がいるかもしれない。これで十分意味があるのである。戦争がエスカレートして、やがて核の撃ち合いになることを恐れ、核保有国に対する軍事攻撃には、如何なる国も慎重になる。それをわかっていて北朝鮮は核武装の努力をしている。アメリカなどの軍事攻撃を避けるためには、北朝鮮のような貧乏な国にとって核武装は大変に安上がりの兵器なのである。核武装をした途端にアメリカの軍事攻撃を抑止できるのである。
核兵器は、今後使われる可能性はほとんどないといってよい。自らの国やグループが滅亡しても良いという覚悟がなければ使えない兵器である。しかし、多くの国の政治リーダーがこれを持ちたいと考える。それは核兵器が外交交渉の背後にあって国際政治を動かす発言力を担保するからである。核を持つ国と核を持たない国との間には、国際政治を動かす発言力に天と地ほどの開きがあると考えてよい。核武装をしなければ世界の一流国にはなれないのである。少なくとも核保有の意思がなければ外交交渉の場で適当にあしらわれるだけである。
そして、世界の核保有国は、核を持っていない国に対して絶対に持たせまいとして、反核運動などの情報戦争を仕掛けてくる。日本はこれに負けている。