道徳教育という言葉があります。一方で人権教育という言葉もあります。みなさんはこの2つの言葉にどんな印象をもちますか? 

 

なんとなく似ているように感じると思いますし、実際に重なる部分も多いとは思いますが、この2つは似て非なるものだと認識する必要があります。

 

道徳とは「こういう場合にはこうふるまうべきだ」というような、ある文化において経験的に得られた、人間関係をなめらかにする集合知のようなものです。似た意味をもつ言葉に倫理がありますが一般的に、道徳は個人の良心に関わるニュアンスを感じさせ、倫理は社会規範的ニュアンスを感じさせる言葉です。

 

一方「人権」は近代以降に発見された概念です。すべてのひとが人権をもっている。基本的人権と表現してもいいでしょう。

 

道徳や倫理が文化依存的だったり相対的だったりするのに対し、人権は文化的背景にも人種にも国籍にも障害の有無にももちろん性別にも影響されない絶対的な価値です。

 

たとえば、全体のために個人を犠牲にすることが〝道徳的に正しい〟とされる可能性があります。一方、全体のために個人に犠牲を強し いることは、人権の立場からは原則的に認められません。何が主体か、どこに視点を置くかによって、道徳から導き出される正解は変わりますが、人権は普遍です。それが道徳と人権の違いです。結果的に似ている部分も多いですが、根本的な発想が違います。

 

いじめ、虐待、経済格差などの問題も、道徳的な観点から見るとそれぞれの立場での〝言い訳〟が成り立ってしまいます。しかし人権の観点から見れば、どんな立場からでも目指すべき共通のゴールが見えてくるはずです。

 

教育虐待の取材を重ねるうちに、私はひとつの気づきに達しました。虐待と聞くと「なぜわが子にそんなことができるのか?」と心が痛みますが、教育熱心な親御さんたちは「あなたのため」という極めて道徳的な判断から子供に過度な教育を強いていました。彼らに足りないのは道徳心ではなく、人権意識だったのです。いじめの構造も同様です。自分たちの道徳心に照らし合わせれば〝冗談程度〟のつもりが、実は相手の人権を傷つけていることに気づけていないのです。女性差別にも似たような構造があると思います。

 

日本では近年、道徳が教科化されました。いまの政府は意図的に人権教育を避け、道徳教育や主権者教育という言葉で置き換えているように私には感じられます。しかしこの混迷する時代に必要なのは、道徳教育よりも人権教育だろうと私は強く感じています。

 

社会全体の人権意識が低ければ、虐待・差別・不平等が見逃されやすくなる。一部の人の人権が侵害されていても、「だってそのほうが社会全体としたら合理的だから」みたいな理屈も成り立ってしまう。

 

最近では、Black lives matterの運動もありました。日本のジェンダーギャップを縮小するにはやはり人権意識の涵養が不可欠でしょう。性的マイノリティーや難民の問題も関係します。これらの問題はかわいそうだとかいう感情論ではなく、何が道徳的かとか、何が合理的かという相対的な評価でもなく、シンプルに、人権が守られているかという観点で議論されるべきだと私は思います。

 

では、人権とは何かということを本気で定義しようと思ったら非常に難しい話になってしまいます。有名なものに「世界人権宣言」があります。

 

国際的な人権団体アムネスティのホームページから引用します。

 

第2次世界大戦が終わると、その反省から国際連合がつくられました。そこで、各国の代表者たちは、人権侵害を各国の国内問題として放置することが虐殺や戦争につながったことを認めました。そして、世界の平和を実現するためには、世界各国が協力して人権を守る努力をしなければならないということが、 世界人権宣言によって明らかに示されたのです。

 

この宣言の中には、「自由権」と「社会権」がともにうたわれています。「自由権」として、身体の自由、拷問・奴隷の禁止、思想や表現の自由、参政権など、「社会権」として、教育を受ける権利や労働者が団結する権利、人間らしい生活をする権利などがふくまれています。

 

実のところ私も人権という概念を本当に理解しているかどうかと言われると自信がありません。でも、自分は大丈夫だからと議論や思考を怠れば、いつか自分の人権も危うくなるかもしれません。人権とは社会全体の財産であり、ゆえにみんなで守っていくものであって、自分の人権さえ守れればいいというような部分的な概念ではないということだけは確かだと思います。