先日幼稚園受験のためのセミナーに講師として登壇させてもらいました。

幼稚園受験の世界についてはまったくの素人なんですが、幼稚園受験をする大前提として、幼児期の子育てについて短い講演をさせてもらいました。

 

幼児期は人類が原始人だったころの追体験をする時期だから、文字とか計算とか焦って教えなくていいんですよ、むしろそんなことは後まわしにして、泥をこねたり、石を割ったり、棒を振り回したり、火を使ったりする経験をたくさんしておかないと、あとから古代人になったときに、世の中の不思議に疑問をもてない人になってしまいますよという話をしました。

 

古代人の時代にこの宇宙にいろいろな神秘に「なんでだろ?」って疑問を感じて、心の中にたくさんの「?」をため込んでおくと、中世人や近代人になったときに、それを論理や科学の力で解き明かしたくなる欲求が高まるんですよね。古代人というのはだいたい小学校の時期で、中世・近代人は中高生の時期に当たります。人類の知的進化をそこまで追体験してようやく現代人のスタート地点に立てるわけです。

 

特に乳幼児期は、自分のそのとき発達に必要なトレーニングを遊びという形で実行します。大人からは無意味に見えることでも、何度も何度も一生懸命やってみることで、自分の脳なり、神経なり、筋肉なりを育てているわけです。そのときどきで自分が何を学ぶべきかを、子どもは知っているわけです。

 

それをイタリアの教育家モンテッソーリは自己教育力と呼びました。ゲーテは「学びにはときがある」と言いました。そのときがやってこないことには自発的な学びは生じないということなんですね。

 

なんて話をしたのですが、質疑応答の時間に、「そうはいっても、受験には期日がありますよね。そこに間に合わなかったらどうすればいいんですか?」という質問がありました。これは幼稚園受験に限らず、受験一般に関してよくある質問です。

 

それが受験の恐いところなんです。つい子どもの発達を無視して、試験に間に合うように子どもを仕上げたくなっちゃうんです。子どもの自然で健やかな成長よりも、試験までに必要な知識を詰め込むことを優先したくなる欲求にかられてしまうのです。

 

子どもの成長のペースを認めてやれず、テストでいい点を取るための能力を詰め込むことを優先してしまうと、子どもの自己像が傷つきます。「いまのままのあなたではダメ。早く成長しなさい!」と急かされるわけですから、しかも大好きな親から。傷つくのは当然です。幼いときに親に傷つけられた自己像は、なかなか癒やせません。受験という制度の構造的な恐ろしさです。

 

「間に合わないんじゃないか」と焦って子どもをいじるより、「間に合わなかったらしょうがない」と構えているくらいのほうが、子どもも安心して、結果的にその子なりの最善のパフォーマンスを発揮してくれるものです。

 

ですから、そういう欲求にかられたときには親は、見栄だの世間体だのを気にせずに、わが子の自己像を守ってやれる親かどうかをいままさに試されているのだと考えてみればいいのではないかと思います。