直江家を作った港町へ | 風来坊家「とし」の写真集ー「一日一写」

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あのスキー遺跡の山の街から、あのNHKの「天地人」の「愛」の男の港町へ 




直江兼続の物語「天地人」











「直江津」と言う「地名」が先か、「直江家」と言う「氏名」が先か、調べてみる限りでは、

「直江津」の地名が先だそうです。

直江家と言うのは、元々、「魚沼郡」一帯を、「上杉家」から賜った人々で、この魚沼を流れる「関川」が、海に「直角」で流れ込むことが、「直江津」の由来だそうだ。

直江家と直江津には、直接の関係は無いそうだが、、、

越後・上杉家の家臣であった「直江家」は、「南魚沼」(越後湯沢周辺)の統治をまかされていたようです。

そして、関ケ原の戦いの際には、山形県の最上川での戦いによって、伊達政宗と戦っており、関ケ原の戦いには、はせ参ずることが出来なかった。

この関ケ原の戦いに参戦、出来なかったことによって、「上杉謙信」と、家臣の「直江兼続」は、江戸徳川家に謝罪に行った際に、山形県「米沢」への「移封」(厳封)が言い渡され、移動している。

山形県米沢と言うのは、当然、最上川の上流域の盆地であり、元々の広大な稲作地帯であった 越後「直江津」から移封されたのだが、知っての通り、上杉家もその家臣である直江家も、「真言宗」の僧侶として、立ち振る舞っていた関係で、米沢における「米作」では無い作物の植え付けなどによって、凌ぐと言う価値観を作ったそうだ。




土曜日の旅は、、、、

「上越妙高駅」まで着かないと、終わりが無い。

昨日は、仕事場の呑み会で、書けなかった関係で、
本日、やたらめったら、3回、UPしましたが、まだまだ、続きます。

明日も、3回ほど、UPしますので、ご理解ください。




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