この国は、「陸奥国」との国境であった、、、 | 風来坊家「とし」の写真集ー「一日一写」

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今でこそ、「陸奥」と名乗っているのは、「青森県」なのだが、、、、

「国府制度」が出来た「奈良時代」は、ここ、「下野国」が、最北端であり、、、

「白河の関」より北は、、、、

誰しも踏み入れない「異国」であったそうだ。

「平安時代」まで、、、









今や、田んぼしか残っていない、、、下野国 国府跡。

今回、






栃木市立 下野国庁跡資料館

https://www.city.tochigi.lg.jp/site/culture/400.html









下野市立 しもつけ風土記の丘 資料館

https://www.city.shimotsuke.lg.jp/0390/info-0000000253-3.html







下野国府のあるのが、「栃木市」で、下野国分寺のあるのが、「下野市」でした。

その間には、「思川」が流れております。



下野市側の「しもつけ風土記の丘 資料館」の方が、新しいかったので、展示資料は、豊富でした。










下野国が、平安時代まで、奈良、京都の「朝廷」の治めることの出来た「最北端」であり、

「白河の関」より、北側は、野蛮なる「陸奥(むつ)の国」であったそうだ。

今でこそ、「岩城国」「会津国」「陸前国」「陸中国」「陸後国」「陸奥国」となのっている、各県は、本来は、「白河の関」より「北側」の「京都」からすれば、「野蛮なるド田舎」で、実際に、侵略などもされていたそうだ。

この「白河の関」以外に、「常陸国」の「勿来の関」、「越後国」の「鼠が関」などが、江戸時代までの「北の国」からの「国境の関所」であり、それを守るために、それぞれの関所の「朝廷側」の地に「関所」が設けられていたそうだ。


「中山道」と群馬、栃木を通り、日光への「例幣使街道」が、「平安時代」まで、「東山道」として、存在しており、「白河の関」から先は、「陸奥国」であったそうだ。

そのために、ここ、「下野国」の一帯は、「大和朝廷の管轄する 最北端」の地であったために、「軍事施設」が多かったそうだ。

なんせ、「奥州街道」も、「例幣使街道」も、この下野国のエリアは、ほぼ、「山が無い」

守るには、かなりの苦労があっただろうと、推測できますね、、、



今まで撮ってきた写真を「PhotoLibrary」にも掲載しています。良かったら、見に来てください!!

(サイズの大きい写真も掲載しています。必要であれば、PhotoLibraryにてダウンロードしてください。)

https://www.photolibrary.jp/profile/artist_13428_1.html








ちょっとだけ、枠外雑記

昨日は、実は、会社部署の新入社員歓迎 呑み会でした。

私は、このコロナ下で、今の会社に転職したのですが、今まで、呑み会が行われていませんでした。

やっと、コロナも落ち着いたので、新入社員の歓迎会をやろうと言う話になって、昨日、参加してきたのですが、、、

同僚の女性の凄い大学時代の体験談を、聞いてしまいました。

その女性は、30代前半ぐらいなんだけども、
大学時代に、シベリア鉄道で、ウラジオストクから、ローマまで、「一人旅」をしてきた って、話になって、驚きを感じました!!!

周りの男性陣は、そんなことは、出来ないなぁ~ 
皆、驚いておりました!

実の所、一昨年の転職で、外資系に勤め始めたのですが、
一応、外資ではあるものの、元は、日本企業なので、日本語でしか会話は無いので、

イメージ的には、そんな外国旅行派も居ないなぁ~
って、思いながら、仕事をこなしていたのですが、、、

昨日の呑み会の話は、少々、驚かされました。