たったの「30年」で、世界遺産になった、、、(*'▽') | 風来坊家「とし」の写真集ー「一日一写」

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通常の世界遺産と言われれば、、、

エジプト・ピラミッドや、中国・万里の長城や、奈良・法隆寺や、広島・原爆ドームなどなど、、、

世界史に名を連ねるものが多い中で、、、

この世界遺産は、たったの「30年間」だけ、生き残ったがために、世界遺産になれたそうだ。





博物館の方に話を伺ったら、、、

明治時代の時点でも、もう「雑草の生い茂る廃墟」だったそうなのだが、、、

一応、地元の農家の厚意と努力で、なんとか、150年間、生き抜くことが出来たことが、重要なキーワードだったそうだ。









今や、日本全国で名が知れているこの煙突



世界遺産 韮山反射炉









今まで、考えてみると、、、

「世界遺産」と言う形になるまで、、、

例えば、「八幡製鉄所」などの明治維新後の「産業遺産」に比べて、
誰も、知らなかった。。。


と言うか、本来なら、色んな意味で、崩れ去っていた可能性を、大いに感じながら眺めてしまいました。


黒船来航で、江戸幕府は、「大砲」の増産を即急にやらないとダメだった。。。

で、日本刀を作る「たたら製鉄」は、強いながらも、、、

「大砲」などを作るための「溶解製鉄」は、全く、知られていなかった。
そのために、時の雄藩の中でも、薩摩藩などが「溶解製鉄所」を試作してみたものの、、、

得てして、うまくいかなかったそうだ。
そこで、幕府は、、、

江戸300年の「眠り」で、、、
溶解製鉄の技術書は、、、、

「300年前」の「オランダ書」しか無く、、、(*'▽')

その時の「溶解製鉄」のやり方でしか、「製鉄所」を作れなかった、、、(*'▽')


でも、、、技術力も、刀を作り「製鉄の在り方」も分かっていたので、
「韮山反射炉」は、「石」と「レンガ」と「角鋼」で作られた。

でも、、、出来た大砲も、、、、当然、300年前のモノでした、、、(*'▽')




見ての通り、、、、
砲身は、短く、、、
そして、「砲弾」は、「丸型」、、、

もう、欧米各国は、「アームストロング砲」であり、砲は、先端がとがった砲を量産し、射程距離を大々的に伸ばしていた時代でした、、、


鎖国が解かれ、明治維新後、日清戦争を戦い、
そして、勝った後で、日本は、ようやく、溶解製鉄の「八幡製鉄所」を作ることが出来、欧米列強からの戦いに屈することなく、

太平洋戦争、そして、高度成長期へ、進んでいったそうです。

今回、世界遺産 韮山反射炉 周辺を歩いて見て、

何がこの「反射炉」を「ここ」に作ったのか?
江戸時代に出来た製鉄所が、なぜ、更新されなかったのか?
この地震大国・日本において、この韮山反射炉が、なぜ、崩れていないのか?

に疑問符を感じてしまい、訪れてきました。


まず、ここ、韮山に反射炉が作られたのは、現在もお近くに、伊豆長岡の名士「江川家」が、温泉開発などで得た富を、国に貢献したいと言うことで、「土地」と「資金」を、「江戸幕府の製鉄所計画」に賛同して、出資、提供をしたそうだ。

私の個人的な思いとしては、近くに「鉄鉱山」があったのかも???
なんて、思っていたのですが、どうも、下田港で荷上げられた「鉄鉱石」を持ってきて、この韮山で製鉄されていたそうだ。

本来は、「下田」に作る予定が、、、「ペリー来航」で、「下田港」から、海に近い下田市に作る予定が米兵が下田の建設地を、襲撃され、、、

急遽、内陸の「韮山」へ、建設地を移動したそうだ。

そして、明治維新後、八幡製鉄所を始め、多くの新しい形の「製鉄所」の完成と、「鉄鉱石」の輸入の在り方などから、「海岸地帯」に製鉄所が作られていき、今や、こんな山の中に「製鉄所」があるところは、ほぼ無いと言って良いと思う。


この伊豆半島や、相模湾、駿河湾と言うのは、大昔から「地震地帯」で、例えば、「大正関東大震災」で、「熱海」などが、全棟倒壊するほどの大惨事になった歴史を思うと、、、
地震で、倒壊しなかったことに疑問を抱いていたら、確かに、地震で、一部の損壊は、あったそうだが、、、
全倒壊は免れ、この地の名士「江川さん」の出資と、地元民の賛同によって、修復が行われていたそうです。


今回、この韮山反射炉の博物館の学芸員の方に、色々とお伺いした所、、、
「明治維新後」は、韮山一帯は、「田んぼ」に戻ってしまい、、、
「明治」から、「令和」まで、本当に周りは、田んぼだけの地で、「反射炉」の存在も「忘れられていたそうです」

でも、韮山反射炉の地を保有していた近くの豪農「江川さん」によって、「歴史的建造物」として、何とか、保護し続け、、、
現在に至るそうです。


実の所、明治維新後、今まで、いつでも、「崩されていた」
あるいは、「崩れていた」可能性も、かなり、あったそうで、
博物館の学芸員の方も、「江川さん」が、残そうとしていなければ、残っていなかっただろう、、、
との事でした。

また、地震だけでなく、様々な自然災害で、現在、「レンガ」と周りの「鉄骨支柱」で支えられているものの、、、

出来た当時の状況は、周りの鉄骨は無く、また、当初は、「レンガ」の上に「白漆喰」を塗られた「白い建物」であったそうなのだが、歴史的に様々な天候被害によって、「白漆喰」については、全て、流れてしまったそうです。


黒船来航で、「300年」の「眠り」から覚めさせられて、、、
何とか、新しく「製鉄所」を作ったものの、、、
明治維新において、洋式溶解製鉄の技術が入ってきて、、、

たったの「30年」ほどで、使用されなくなり、、、
周りを「雑草」と「田んぼ」だけになってしまったがために、、、
残っていた可能性も、感じ取ってしまいました。

ただまぁ、今回の韮山反射炉の話を聴いていて、
一番に感じたのは、お隣 中国「清」の国が、欧米列強に侵害されたことが、江戸幕府を様々な意味で、即急なる対応を迫られていた現実も知りました。



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