仕事で大分県に行って来ました。
帰路、新門司発大阪南港行き名門大洋フェリー出航待ちのスキマ時間を使った”九州プチ観光”をご紹介したいと思います。
1984年(昭和59年)に聖徳太子1万円札より福沢諭吉に図柄が切り替わり、今年で20年が経過しました。一つ前の聖徳太子1万円札もギリ知っている世代ではありますが、現代人にとって長年慣れ親しんだのはやはり福沢諭吉1万円札なのではないでしょうか?
※ 画像は、日本銀行HPより引用。
そして、今年2024年(令和6年)7月3日発行にて、「日本の資本主義の父」と称される渋沢栄一に図柄が変わります。
※ 画像は、国立印刷局HPより引用。
今はまだ現役で使用されている福沢諭吉1万円札ですが、旧紙幣となり数年後には見かけなくなることだと思います。
別府タワー(別府市北浜)、宇佐平和資料館(宇佐市閤)を見学
国道10号、国道213号と進み、大分県北西部に位置する中津市に入りました。
県内では県庁所在地の大分市、2位別府市に次いで人口が3番目に多い中津市。
人口3番目といっても、80,000人程度で面積の大半は山間部、平野部においても農業が盛んな地域となっています。
そんな中津市出身の著名人といえば、我々日本人が”愛してやまない”福沢諭吉先生。
金欲的に正しくは、福沢諭吉1万円札なのですが(;^_^A
福沢諭吉旧居
この木造かやぶきの平屋は、諭吉1歳半より19歳までを過ごした母於順(おじゅん)の実家を忠実に復元したものなのです。
1835年(天保5年)現在の大阪市北区堂島新地にあった中津藩蔵屋敷(父百助の出向先)にて5人兄弟末っ子として諭吉は産声を上げられました。
諭吉1歳6ヶ月の時父百助が亡くなり、母於順は子供5人を連れて実家がある中津市に帰郷されました。
つまり、「福澤諭吉旧居」で間違いではないが、正確には母於順の旧姓「橋本」家となります。
それから、間もなくして叔父中村術平の養子となって「中村諭吉」と名乗っていたとのことですが、生活はここだったそうです。
というのも五人兄弟の末っ子・次男だったこともあり、当時の時代背景だと家督を継ぐのは長男「長子相続」だったことで、次男である諭吉が遠戚の養子になるのもごく自然なことであったと想像できます。
1853年(嘉永6年) 諭吉18歳、ペリー来航
1854年(安政元年) 諭吉19歳、長崎にて蘭学修業
1856年(安政3年) 諭吉21歳、兄三之助が亡くなり、変わって家督を継ぎ「福澤姓」に戻る
以降故郷を離れ、大坂で適塾で学び江戸で蘭学塾(慶応義塾大学創立)の講師となった。
旧居玄関よりお邪魔すると等身大パネルの諭吉先生。
身長173cm、体重70kgと当時としては大柄だったそう。
私と全く同じ身長体重だったのですぐに覚えました(笑)
土間には炊事場、6畳程度が4間ある素朴なご自宅。
決して裕福な暮らしではなかったのだそうです。父百助の早すぎる死が要因なのかもしれません。。。
渡り廊下続きで、トイレがありました。
男性用はドアがなくても良いとして、女性用もドアは無かったのでしょうか?
忠実に再現されているでしょうから、無いのでしょうね(;^_^A
離れにある瓦ぶき2階建ての土蔵。
この2階の格子窓あたりで諭吉少年は勉学に励んだのでしょうね。
中庭奥に、胸から上の大きな銅像が安置されています。
写真では伝わりにくいかもしれませんが、人間サイズの5、6倍くらい大きな銅像でかなり細部までリアルに彫刻されています。
銅像の前には藤棚。
なぜに藤なのか?由縁等は案内がなかったのでわかりかねますが、立派な樹木で4月末~GW頃が見頃なのではないでしょうか。
旧居の東隣に「福澤記念館」が隣接しています。
写真撮影はNG!
『学問のすすめ』初版本、渡米する際乗船した「咸臨丸」模型、直筆の書物など貴重な資料が展示されていました。
フェリー出航待ちのスキマ時間を使った”九州プチ観光”なので、時間に限りがあります。
ここ中津市よりフェリーターミナルまでおおよそ50km、所要1時間半くらいかかるので逆算するとあと30分程度しか観光する時間がありません。
これより急ぎ足でもう少し中津市を観光することにします。
福澤諭吉旧居より徒歩9分 600mのところある中津城に向かいます。
西に福岡県との県境でもある中津川が流れ、北は周防灘、東に二重、南に三重の堀と四方水に囲まれていることで、高松城、今治城とともに日本三大水城の一つに数えられています。
武家屋敷跡近くの北門跡より二ノ丸公園を歩いていると、右奥に中津城天守が見えてきました。
中津城
中津市二ノ丁本丸1273-2 <Googleマップ>
営業時間: 9:00~17:00
定休日: 年中無休
石垣は築城当時、安土桃山時代のもの。
安土桃山1588年(天正16年)黒田孝高(通称黒田官兵衛、のちの黒田如水)による築城
主な城主は、細川忠興、小笠原長次、奥平昌成
江戸末期には中津支庁舎に使用され、1869年(明治2年)版籍奉還によって中津藩庁が置かれる。
1877年(明治10年)西南戦争によって焼失。
1964年(昭和39年)鉄筋コンクリート構造の天守閣を復元
2007年(平成19年)奥平家子孫の奥平政幸が所有していたが、赤字経営により売却一般公募開始
2010年(平成22年)老人ホームやグループホームなど福祉事業を営む㈱千雅(ちが)が買収
つまり、国内で唯一の法人会社が保有運営する城郭となっているのです。
時間に限りがあり、外観をさらっと歩いて見学しただけになってしまいました。
JR中津駅方面に向かって南下していくと、中津城大手門跡の石垣が現存していました。
福沢通りを進み、駅前にある日の出町商店街を抜けるとJR日豊本線・中津駅
大分県最北端の駅で、すぐ先の中津川を渡ると福岡県豊前市となります。
北口正面には、2019年(令和元年)一万円札発行35周年記念に製作された肖像。
南口正面のビルには、巨大な諭吉先生の看板。
それにしてもいたるところに諭吉様がいらっしゃいまして、街を上げてのリスペクトぶりが伺えます。
せっかく「中津からあげ」の本場に訪れたので、からあげ定食をランチに食べたかったのですが、限られた時間内で観光していたため腹が減るのも忘れてしまい、あえなく昼食は抜きとなってしまいました(◎_◎;)
ラムー小倉沼店で買ったチキン南蛮弁当@298円を昼夜兼用で美味しくいただきました。
翌朝、大阪市内の仕事があるので、遅番2便目には乗船せずに、
新門司港 17:00出航フェリー1便目に乗船しました。
名門大洋フェリー、赤地に白い円のなかにアルファベットの「M」と「T」をあしらった青色のマークのファンネル。
かつては「名古屋」と「門司」を結ぶその名の通り「名門」だったのに、1976年(昭和51年)名古屋~新門司間の航路が廃止されました。